曹氏滅亡
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その日の長安宮廷の詮議場には、司馬懿の姿があった。
司馬懿は両腕を背後に縛られ、会場の中央に転がるように投げ出されていた。
詮議場の壇の上には、冷たい笑みを顔に貼り付けた曹叡の姿があった。
「司馬懿‼︎ 何故、このような仕打ちを受けるか、判るか? 余が今朝お前に出仕するように命じた時、お前はのこのこと此処にやって来た。しかも昼食への差し入れの酒まで持参してだ。余が何も気付いていないとでも思っていたのか?」
曹叡は、足元に転がされた司馬懿を憎憎しげに見下ろした。
「劉禅と孫休の行列を襲い、黄皓、そして僕陽興と張布を殺したのは、お前の差し金であろう? 馬鹿な真似をしてくれたな。そのような事せずとも、あの者共など、余が程なく屈服させてやったものを。お前の愚行のお陰で、余の威光は地に堕ちておるぞ。蜀と呉から帝達を誘き寄せた上で、重臣を暗殺した卑怯者だと...。此れは、まさしく死罪に値する重罪だ。」
曹叡の言葉に、司馬懿は上半身を起こすと、背筋を伸ばして座り直した。
「私は、この世の将来に起こる禍根を絶ったのです。あの三人は、放っておけば、必ず世を乱す悪臣となったでしょう。自らの国の志を省みる事なく、他国に心を売る者達。そのような者共、生かして置く事など出来ませぬ。ですから殺すように私が命令を出しました。指揮を取ったのは司馬昭で御座います。」
「潔く罪を認めるという事だな。本来なら打ち首であるが、せめてもの慈悲をくれてやる。」
そう言う曹叡の瞳に、残虐な光が宿った。
「たった今、この場で、余の前で、毒杯を仰げ。それが曹操帝と曹丕帝の下で、功労を重ねてきたお前に、余が与えるせめてもの慈悲だ。自宅で謹慎している司馬昭の所にも毒杯を贈ってやる。」
その言葉に、司馬懿は苦笑いを浮かべた。
「慈悲と言われましたが、帝は遠からず、司馬の一族を根絶やしにするお積りだったのでしょう? 私共など、貴方様にとっては、所詮は邪魔な存在だったのでしょう?」
司馬懿の言葉に、曹叡は高笑いした。
「流石に、良く分かっておるではないか。そうだ。お前達など、煩しいだけの存在だった。何かと言えば、余に意見するばかりでなく、自分達だけで政を進めようとするなど...。そもような事、断じて許さぬ。」
そして、司馬懿の前には毒の盃が運ばれて来た。
司馬懿は、その盃を両手で抱くように持つと、それを曹叡に向かって捧げた。
「陛下。最後に申し上げる事が...。世を惑わす獅子身中の虫とは、我らが始末したあの者達だけでは御座いませぬ。」
曹叡の表情に、此奴は一体何を言っているのかという疑念の色が浮かんだ。
「ほう...。最後の遺言か? 何が言いたいのだ?」
「この世を地獄に追いやる者共。それは、貴方様達で御座います。このような愚策に手を染め、しかも曹操帝以来の功臣達を、平気で滅ぼそうとされる。そのような曹一族に、未来は御座いませぬ。」
それを聞いた曹叡は、顔を引き攣らせ、怒りを全身に漲らせた。
「最後に何を言うかと思えば...。往生際の悪い奴め。」
「私は、亡き曹操陛下と曹丕陛下にお詫びせねばなりません。私は、不出来で最低の家庭教師でした。曹叡様…。貴方様に、真の帝として相応しい人格を教えて差し上げる事が出来ませんでした。真の帝とは、仁の心と慈悲の心の二つを併せ持たねばなりません。それなのに、私は貴方様の心の中に、傲慢さばかりを育ててしまったようです。」
「黙れ、無礼者!誰にものを言っておる…。」
怒りに震える曹叡に向かって、司馬懿は構わず言葉を続けた。
「何よりも、貴方様には帝を帝ならしめる『志』がありません。志とは、国を正しい方向に導く為に、最も大切なもの。それをお持ちでないからこそ、愚策に手を染めてしまうのです。それをお教え出来なかった事の不甲斐なさに、ただ恥入るばかりです。」
「ええい!黙れ!黙れ!誰か、此奴を黙らせろ!自分で盃を口に出来ぬなら、口をこじ開けて流し込んでやれ!」
曹叡の怒鳴り声を聞いた数人の宦官が、司馬懿の側に駆け寄った。
「儂に手を触れるな!おまえ達のような者共の手など借りずとも、己の後始末くらいは、自分の手で出来る!」
凄まじい形相の司馬懿に睨みつけられた宦官達は、その場で硬直して後ずさった。
司馬懿は、毒杯を口元に運びながら、不敵な笑みを浮かべた。
「曹叡様。私が昼食に差し入れた酒の味、如何で御座いましたか?昼餉の後で、憎き私を始末する前となれば、一族の皆様と、さぞ盃も進まれたでしょう。」
曹叡の顔に怪訝な表情が浮かんだ。
「どう言う意味だ?お前からの差し入れの酒なら、卓に上げる前に周到に毒味は済ませてあるぞ。そうだな…。確かに上等な酒であった。お前が毒杯を煽る姿を肴に出来なかったのが惜しいくらいにな。」
すると司馬懿の唇の端が、にぃっと上がった。
「あの酒には、特殊な毒が仕込んで御座いました。たとえ事前に誰かが毒味しても、直ぐには判らぬ遅効性の毒で御座います。心配ありませぬ。苦しむ事などありませぬ。今夜眠っている間に安らかに往生出来ましょう。」
曹叡の愕然とした表情を眼にしながら、司馬懿は最後の言葉を口にした。
「これで、やっとあの世にいらっしゃる曹操陛下に、お目にかかる事が出来ます。御怒りは買うでしょうが、其れも私の不徳故で御座います。この世の行く末は、新たな真の英傑が生まれると信じ、その方に託します。」
そう言うと、司馬懿は手に持った盃を、一気に煽った。
やがて口元から一筋の血が流れ、司馬懿は前のめりに蹲った。
その手から盃が転がり、蒼白な顔で立ち尽くす曹叡の前で止まった。
こうして、曹操、劉備、孫権らの英傑達が築いた三国の歴史は、幕を閉じた。
魏では、曹氏一族が、司馬懿の盛った毒酒によって悉く死に絶え、司馬一族も全てが自害した。
呉では、建業に戻った孫皓が、次帝を選ぶ議場で激昂の挙句剣を振るって、前帝の孫亮と宰相の孫淋を惨殺し、自らも警護兵によって殺された。
魏に下った劉禅と孫休は、時をおかず僻地で客死した。




