蜀宮廷を握る者
「なに...姜維が、前線から戻って来ただと...。なんと明日に出仕してくるというのか? 鬱陶しい奴が帰って来たな...。あの者の顔など、出来れば見たくないのだが。」
帝座に深々と腰掛けた劉禅は、そう言うと顔を顰めた。
その時、劉禅の前に、つと歩み寄り言葉を発した者がいた。
「帝、あのような者など適当にあしらっておれば良いのです。元はと言えば魏国に仕えていた者。それが偉そうに陛下にあれこれ進言して来るなど、身の程知らずとは正にこの事です。」
劉禅の前にひれ伏し、上目遣いにそう言葉を発したのは黄皓だった。
黄皓は、元々は帝である劉禅の身の回りの世話をする為に、宮中に置かれた宦官だった。
劉禅はこの黄皓を大層気に入り、いつの頃から、常に自分の側から離さなくなっていった。
それは、黄皓が極めて口達者で、劉禅のご機嫌取りに常に努めたからだ。
人の顔色を読む事に聡い黄皓は、直ぐに劉禅が姜維を嫌っている事に気付いた。
劉禅は、姜維だけでなく、諸葛孔明も疎ましく思っていた。
何かと言えば、亡き父である前帝の劉備の行動を引き合いに出して、自分を嗜める孔明を、劉禅はいつも煙たく感じていた。
良き国を築いて行く為には、民の手本となり、己を律しなければなりません...と説く孔明に、劉禅は何時も心の中で反発していた。
自分は帝なのだ...何故臣下に説教ばかりされなくてはならないのか....と。
そもそも劉禅は、生前の父劉備にも、大いに不満を持っていた。
劉備は、とっくの昔に滅び去った漢王朝の再興を、最期まで志していた。
その為、その志の障害となる魏に対抗する為の戦費の調達に、常に頭を悩ませていた。
民への増税を嫌った劉備は、宮中には常に質素倹約を求めた。
それが劉禅には大いに不満だった。民など支配者である帝の奴隷に過ぎないと、劉禅は思っていた。
何故奴隷の為に、自分が贅沢を我慢しなければならないのだ...と。
劉禅に説教するのは、父劉備だけではなかった。
宰相である諸葛孔明、そして五虎大将軍と呼ばれた関羽、張飛、趙雲、黄忠、馬超の何もが同じだった。
馬超以外の将軍達が世を去り、馬超も職を辞して隠遁し、さらに孔明が病で亡き人となった時、劉禅は密かに心の中で喝采した。
これでうるさい奴らがいなくなった...と。
そこに新たに現れたのが姜維だったのだ。
劉禅にとっては、姜維は煩さにおいては孔明と瓜二つだった。
それも当然で、姜維は生前の孔明から、帝である劉禅を民から敬われ、愛される存在とする為に、厳しく教育するようにと孔明から使命を託さていた。
姜維は、劉禅の取り巻きである黄皓を始めとする者達が、劉禅を甘やかし、我儘放題に放置している事にも気が付いていた。
だからこそ、一層厳しく劉禅に接したのだ。
しかし、黄皓を出来の悪い家庭教師程度にしか看做していなかったのが、姜維の誤算だった。
黄皓は、姜維が思っていた以上に、悪賢く周到な男だったのだ。
黄皓は、最初は帝の話相手に徹して、劉禅が臣下の誰を好み、誰を嫌っているかを巧みに聞き出して行った。
その上で、帝と臣下の会見を取り仕切る取継役として、劉禅が嫌う臣下達を徐々に劉禅から遠ざけて行った。
最初に標的に上がったのが姜維、そして蜀軍大将軍の蒋琬、王平だった。
蒋琬は、派手さはないながらも兵達の掌握に優れた手腕を発揮して、孔明の厚い信頼を勝ち得ていた。
王平は、あの街亭の戦いの際に、南山に登った馬謖の策に真っ向から異論を唱え、自分の麾下の部下達を平野に留めて、蜀軍の壊滅を防いだ将軍だった。
蒋琬と王平は、共に孔明の信奉者であり、それ故に劉禅からは嫌われていた。
黄皓は、姜維達を帝から遠ざける為、彼らを魏軍との緩衝地帯となっている蜀の北方へと追いやった。
この頃の蜀では、宿敵である魏への対応について、主戦派と厭戦派が真っ向から対立していた。
主戦派の中心にいたのが、姜維の他、北伐へ最後まで執念を見せていた孔明派の蒋琬や王平らの将軍だった。
彼らは、同じ主戦派ながら孔明とは対立していた魏延を討って、軍の統一を果たしていた。
これに対して、厭戦派は宮中にいた文官族で、戦を嫌う劉禅を後ろ盾として、戦線縮小と内政重視を主張していた。
この空気の中で、劉禅の最も近くにいた黄皓は、厭戦派の臣下達を巧みに取り込み、主戦派の将軍達を、蜀領土の防衛の為と称して、北方前線に追いやったのである。
最初は抵抗した姜維達だったが、黄皓から帝の勅命を突きつけられ、更には怖気づくなど軍人の風上にも置けないと挑発された事で、止む無く出陣したのである。
主戦派の中心が居なくなった宮中では、徐々に黄皓が実権を握り始めた。