逃亡の果て
姜維達のいる場に駆け込んで来た孫皓は、血相を変え息を切らしながら、その場にいた面々(めんめん)を見回した。
「呉で....大変な事が起きた...。帝の孫休が....宮中から行方を眩ました。しかも....近衛兵少数と近臣を引き連れて....。有ろう事か、向かったのは魏だ。」
怒りを隠せない表情の孫皓に向き合った華真は、全く顔色を崩さなかった。
「やはり...呉でも同じような動きがありましたな。」
「呉も同じ...? それは、一体どう言う意味だ?」
劉禅が魏へ逃亡した事を知らされた孫皓は、呆れ果てたように言葉を吐き捨てた。
「劉禅帝が成都から逃げ出したと言うのか...。呆れたお方だ。国も臣下も共にあっさりと棄てるなど...。いや…。他人事のように蜀を詰っている場合ではないな。こうなれば私は、我が水軍と共に、蜀より退くこととする。もう蜀にいる意味はない。今の呉では、次の帝の座を巡って孫亮と孫淋が早速動いておろう。急ぎ呉に戻り、私も側近を束ねねばならぬ。」
そう云い捨てると、孫皓は身を翻して場を去って行った。
「宰相殿。このまま孫皓殿と水軍を呉に戻してしまって良いのですか?」
おろおろとしながら、立ち去る孫皓の背を見送る王平に対して、姜維は首を振った。
「仕方あるまい。混乱した蜀に留まっても、孫皓殿に利はない。そもそも孫皓殿が此処に来られたのは、呉の次帝の座を狙う為に蜀の力を借りようと考えての事だ。このような状況になれば、一刻も早く帰ろうと考えるのは当然であろう。」
その横で、華真が呟いた。
「しかし…..孫皓様では混乱は収拾出来ますまい。あの方は剛勇ですが、事を急ぎ過ぎます。恐らく...自滅されますな….」
姜維達は、今後何を為すべきかについての協議を始めた。
「しかし、魏も思い切った手を打って来ましたな。まさか蜀と呉の帝を、揃って魏に引き込むなど...」
王平がそう言って嘆息すると、ようやく華真が思案を纏めた様子で口を開いた。
「昨日、今日に思いついた策ではありませんね。前々から蜀と呉の国情を探っていたのでしょう。劉禅帝の厭戦気分や、孫休帝の手詰まりな状況も察知した上で、仕掛けて来たのでしょうね。」
「このような策。やはり思い付けるのは司馬懿しかないかと思いますが...」
そう問いかける姜維に、華真は首を横に振った。
「違うと思います。司馬懿は、目先の利益だけで動く人物では有りません。今回の謀略、先々を考えれば魏はとんでもなく厄介な問題を抱える事になります。劉禅帝は、自分の処遇について我儘を言い始めるでしょう。それを全て聴いていては、魏の諸侯達は承知しないでしょう。孫休帝は、呉の地から孫淋と孫亮を除く事を主張する筈。そうなれば、魏は呉の政争に巻き込れる事になります。」
「それでは...この策を考え出したのは...?」
姜維の疑問に、華真は即答した。
「魏帝の曹叡様ご自身の考えでしょうね。蜀と呉の今上帝を二人共々屈服させる事で、自身の威信を周囲に示したかったのでしょう。司馬懿や司馬昭が国政を取り仕切る状況が、曹叡様には不快だったのでしょうね。先般の蜀遠征の失敗で、司馬懿と司馬昭は、恐らく蟄居の処罰を受けているでしょう。その隙を狙ったのでしょうね。」
「華真殿の言われた、先々の厄介な問題ですが....」
横から王平が言葉を挟んだ。
「蜀と呉の二人の帝を魏に引き込んだ上で、すぐさま亡き者にしてしまえば問題は起きないと、曹叡帝が考える事は...?」
華真は。それを直ぐに否定した。
「あり得ませんね。自ら呼び寄せておいて、直ぐに殺すような真似をすれば、曹叡様の威信は、それこそ逆に地に堕ちます。諸侯は曹叡亭に対して疑心暗鬼となり、民衆達の間には、卑怯な帝という評価が定着するでしょう。流石にそんな事は考えないでしょう。」
その後、華真は自分の考えを確認するように言葉を継いだ。
「曹叡様は、己の威信に自信があるのでしょう。蜀と呉の帝など、自分なら思うがままに、言う事を聞かせられると...。しかし、相手は帝だけではありませんからね。劉禅帝の側には黄皓がおりますし、孫休帝の側には、僕陽興と張布がいるでしょう。彼らがいつまでも、曹叡様に頭を下げたままで居るとは思えません。曹叡様は、ご自身を過信されていますね。」
華真の言葉に、姜維が腕組みをし、王平は途方に暮れた顔になった。
「それで、これから我々はどのように...?」
「魏がすぐに蜀や呉に侵攻する事はありません。曹叡様は、呼び寄せた二人の帝とじっくり話をせねばなりませんからね。帝が出奔して混乱している蜀と呉が、すぐに魏に攻めて来るとも、当然思わない筈です。先ずは、我々は国の混乱を収めましょう。姜維宰相殿の名の下、蜀内あちこちに高札を掲げましょう。『帝が譲位され、新しい帝が、もうじき成都に入城される』と...」
魏に向かう劉禅の行列は、峠の山道に達していた。
此処まで来れば、明日には長安に到達できる….。
そう思った劉禅は、胸を撫で下ろした。
「此処まで何事もなく辿り着けたな。しかし、姜維はさぞ怒っておろうな。蜀を出る前に、あ奴に止められ、連れ戻されるのではないかと、気が気ではなかったぞ。」
黄皓が、劉禅の乗る輿の横を歩みながら答えた。
「そのような事、出来る筈も御座いません。帝の行く道を塞ぐなど、不敬の極みですぞ。」
「そもそも姜維などの言う通りに戦を続ければ、蜀は干上がってしまいます。先日の魏の侵攻を退けた事で、姜維は増長しております。放っておけば、さらに大きな戦を仕掛けて行った筈。これで良かったので御座います。そもそも戦など、愚で御座います。年貢の大半が軍俵に消え、臣下の者どもの暮らしは一向に上向きません。陛下にも質素なお暮らしを強いる事になります。」
輿の横でそう語りかけて来る黄皓に、劉禅は心の安らぎを覚えた
「しかし、これからは違いまする。既に魏では、陛下の滞在する屋敷、傅く下働きの者共など、全て手配されております。今までのように暮らし向きを我慢などせず、帝らしいお暮らしが出来ますぞ。その後の事も、この黄皓にお任せ頂ければ、一旦去った蜀の地も、また陛下の手に取り戻してご覧に入れます。戦さえなければ、蜀は豊かな実りの地。陛下の先々(さきざき)は順風満帆でございます。」
黄皓の言葉に、劉禅の頬が緩んだ。
「うむ、頼んだぞ。確かにお主に任せておけば、間違いは無かろう。今のお主の言葉を聞き、長安に入るのが楽しみになって来たぞ。」
その時、返答をしようとした黄皓の歩みが突然止まった。
顔が天を仰ぎ、目が白眼になったと思うと、口から血泡を吹き出した。
前のめりに倒れた黄皓の背には、矢が突き立っていた。
それを目の当たりにして、劉禅は慌てふためき絶叫した。
「こ、此れは、なんじゃ。 姜維の追撃か? 余を守る魏兵達は何をしておったのじゃ。兵どもよ、余を護れ‼︎ 不逞の輩から、余を護るのじゃ...」
その声に、警護の魏兵達が、慌てて劉禅の輿を取り巻き、一人の兵が黄皓を抱き起こした。
しかし黄皓は、背中から心臓を射抜かれ、既に絶命していた。
それを見た劉禅の絶叫に、警護の魏軍兵達は騒然となった。
「襲撃だ‼︎ 敵が襲って来たぞ‼︎ 帝をお護りしろ‼︎ 敵を打ち払うのだ‼︎」
一方、呉の孫休の一行もまた、劉禅とは反対側の方向から、長安に至る道筋を急いでいた。
前方で輿に乗る孫休を観ながら、騎馬の上で轡を並べていたのは、僕陽興と張布だった。
「これで良かったのだろうか?いくら帝のご裁断とはいえ、建業を棄てるなどと...」
後悔を引き摺る様子を見せる僕陽興に、張布が声を掛けた。
「良かったと信じるしかありませぬ。孫休陛下自らが、そう決めてしまわれた以上、我等がなにを言ってもどうしようもありません。孫休様は、前帝と宰相殿に加えて、孫皓様まで相手にしなければならない状況に、自信を無くされたのでしょう。それ故に曹叡帝の誘いに乗ってしまわれたのです。」
そう言った張布は、僕陽興を励ますように言葉を重ねた。
「しかし、すぐに孫皓様は水軍を引き連れ、建業に戻られましょう。勝負はそれからです。建業に戻られた孫皓様は、必ず兵を纏めて国を従えます。その時こそ、孫皓様による呉の統一を導く事が出来る筈です。」
「しかし...。あの陸遜様の言葉、気になってならぬ。本当に孫皓様で良いのか、私は迷っているのだ。」
「今更何を言うのです。陸遜様の言葉こそ戯言です。この世に、帝を継ぐ孫家の血筋が他にもいるなどと..。そもそも陸遜様は、その方の名前さえ口にはされなかったではないですか…。今は言えぬ、と言われるだけで……。」
すると馬上で話を交わす二人の前方が、俄かに騒がしくなった。
「曲者の襲撃だ‼︎ 待ち伏せだぞ‼︎」
警護兵達の声に、僕陽興と張布は顔色を変えた。
「騙されたのか、これは….。曹叡の謀略であったのか?」
二人の前方では、警護の魏兵達に囲まれながら、懸命に襲撃を突破しようとする孫休の輿が見えた。
襲撃隊は、一時は孫休を追う素振りを見せたが、直ぐにその矛先を変え、今度は僕陽興と張布を取り囲んだ。
剣を振るい、懸命に襲撃の兵達に応戦した僕陽興と張布だったが、一旦下がった襲撃隊は、二人の周りを槍衾で囲むと、徐々にその円を縮めていった。
「おのれ‼︎ 貴様ら、何者だ‼︎ 何故我らだけを執拗に狙うのだ‼︎」
そう叫んだ僕陽興に突き出された槍が、深々と下腹を抉った。
その横で、張布も槍を浴びて落馬した。
襲撃隊は、地に倒れた二人に向け、一斉に槍を突き立てた。




