劉禅逃亡
半月後、北方の前線に滞在したままの姜維の元に、驚くべき情報が齎された。
「何だと...、劉禅陛下が成都を出られただと...。何処に向かわれたのだ? しかも何故、このような時期に、このような事を...」
危急の知らせを携えて来たのは、成都で姜維の館を預かる執事だった。
「それが...有ろう事か、魏に向かわれております。国境沿いで魏の兵達に迎えられて...。帝は魏に降伏されたのです...」
「何と....帝自らが、蜀を魏に差し出したと言うのか...何故そのような真似をされるのだ...」
天を仰いで嘆き叫ぶ姜維の横で、華真が言った。
「帝は、我等も民も見捨てたと言うことです。恐らく魏の曹叡帝から、条件を示されたのでしょう。魏に降伏すれば、安定した身分と暮らしを保証すると...。その申し出を受諾するように帝に迫ったのは、恐らく黄皓でしょうな。」
「黄皓‼︎ あの奸賊め。己の私欲の為に、帝を誑かし、国を売るとは....許せん。いつか必ず彼奴の首を撥ねてやる‼︎」
そう言って憤る姜維に対して、華真は冷徹な表情で向き合った。
「姜維殿。お気持ちは判りますが、最終決定を下されたのは、帝である劉禅様ご自身である事から眼を背けてはなりません。黄皓が何を言おうが、帝の受諾が無ければ、このような事態は無かったのです。」
「そ、それは...。もしや貴方の言いたい事は、畏れ多くも...」
動揺する姜維に対して、華真は宣告を下すように言った。
「姜維殿。我々は、真実を直視しなくてはなりません。劉禅帝は、この国と民を棄てたのです。しかも己の意思で。我々は、この事の意味を噛み締めなくてはなりません。あの方には、帝の資格など無かったのだと...」
華真の言葉に、姜維の動揺は更に増した。
「そんな....ではこの国は、蜀はどうなるのだ? 帝を失った蜀は今後どうなる?我等はどうすれば...」
狼狽える姜維を前にしても、華真の冷静な口調は変わらない。
「姜維殿、此処で狼狽えてはなりません。為すべき事は、この国を統べるに足る次のお方を、一刻も早く帝に擁立し、混乱を抑える事です。」
華真の言葉に、姜維は直ぐに顔を挙げた。
「そうであった。まだ他にも劉備帝の皇子がいる...。劉永様と劉理様は、今どうされている?」
尋ねられた執事は、眼を伏せた。
「其れが....お二人とも劉禅陛下が、共に連れて行かれてしまっております。」
「な、何だと...」
華真は、やはりそうかという表情を見せると、執事に尋ねた。
「抜け目のない黄皓らしい動きですな。我等が劉禅帝の後継を立てる事を阻止する為でしょうな。其れで、劉永様と劉理様が成都を去られた際のご様子は...?」
華真の問いに対して、執事は眼を伏せたまま嗚咽した。
「お二人共に輿に乗り、劉禅陛下と共に出て行かれました….」
執事の言葉を受けた華真が、姜維を振り返った。
「残念ながら、これで劉永様と劉理様も、自ら魏に行く事を望まれたのは明らかです。そうなれば、お二人共に、次の帝たる資格は御座いません。」
それを聞いた姜維は思わず天を仰いだ。
「何と軟弱な...。仮にも劉備帝の血筋である帝と二人の皇子が、揃って父君の建てた国を棄ててしまうなどど...。これで我等が推戴出来るお人は、誰も居なくなってしまったと言う事か...」
がっくりと首を垂れる姜維に向かって、華真が強い視線を向けた。
「まだ諦めてはなりませぬ。まだ劉備帝の血筋は、この世に残されておりますぞ。」
華真の言葉を聞いた姜維は、縋るような眼を華真に向けた。
「なんと言われた、華真殿。そのお方とは….一体どなたです?」
「残念ながら、そのお方は今は蜀にはおられませぬ。しかし我々は、先ず国の混乱を収拾し、そのお方をお迎えする準備をせねばなりません。魏のこの度の動き、恐らく標的となったのは蜀だけでは有りますまい。呉でも同じ事が起こっていると推察します。」
その時、孫皓が血相を変えて、二人の元に飛び込んで来た。




