曹叡の謀略
長安では、帝の曹叡が側近達を集めて、評議を行っていた。
評議に集った面々に司馬懿、司馬昭の姿はなく、更に夏侯一族を始めとする古くからの功臣達も、全て外されていた。
「それで....。情勢はどうなっておる? 成都と建業に向かわせた密使よりの申し入れへに対して、奴らからの返答はあったか?」
曹叡からの問いに対して、側に控える臣下の一人が答えた。
「呉のからは未だ返答は有りませぬ。しかし成都の方からは、極めて前向きな返事が返ってきております。但し…。もう少し良い条件には成らぬかと、虫の良い事を言って来ておりますが....。」
「ふん、大方黄皓あたりが言い出して来た事柄だな。まぁ良いだろう。先ず蜀に話を付けて行動に移させれば、呉も乗り遅れまいと動くだろう。今の呉は、皇族同士が牽制し合っておるからな。」
曹叡の言葉に、宦官の一人が愛想笑いをしながら、殊更に大袈裟な拝礼をした。
「しかし...帝のご発想には、我々一同、誰もが感服しております。まさかこのような策があったとは...」
宦官達の拝礼に対して、曹叡は機嫌良さそうに笑う。
「司馬懿や司馬昭のような連中は、戦の事しか頭にないからな。物事を有利に進める為には、戦だけが能ではない。あの連中が戦に失敗して謹慎中である今こそが好機だ。一気に事を進めるぞ。蜀には、黄皓が求めて来た以上の条件を出してやれ。その代わり、直ぐに動けと伝えるのだ。」
「承知いたしました。しかし今回の策が成れば、蜀に潜り込んだ呉の水軍もどうしようもなくなりますな。尻尾を巻いて呉に戻るしか無くなりましょう。誠に妙策で御座います。」
宦官の追従は更に勢いを増し、それに伴って曹叡の興奮も高まった。
「成れば...ではなく、必ず成し遂げるのだ。しかし我らの動きに、司馬懿達がいつまでも気が付かぬ訳がない。彼奴らが妙な動きを始める前に、決着を付けねばならぬ。それを肝に命じて、事を急げ。」
曹叡が下知を下していた頃、司馬懿の館では、覆面で顔を覆った司馬炎が訪ねて来ていた。
直ぐに司馬炎を奥の部屋に導いた司馬懿は、司馬炎が腰を下ろすと直ぐに報告を促した。
「何があった?」
「帝が何かを画策しております。密かに蜀と呉に密書を送り、何やら交渉している様子です。今回の動きからは、我ら司馬だけでなく、曹操帝、曹丕帝の由来の重臣一族は、全て外されています。全てを動かしているのは、帝である曹叡様と曹氏の一族、そして帝を囲む宦官を中心とした者共だけです。」
「ふむ。呉は兎も角、蜀の姜維が、曹叡様よりの密使に対してどのような返答をしたかが気にかかる。それについては、何か解っておるか?」
司馬懿の問いに、司馬炎が首を横に振った。
「それが...。密使が向かったのは、姜維の元では有りませぬ。向かったのは成都です。」
それを聞いた司馬懿の顔色が、みるみる蒼白に変わった。
「なんだと....!。劉禅の元に密使を送ったと言うのか? 成都に向かった密使が、どのような内容を劉禅に送ったかについては何か掴めておるか?」
「残念ながら、未だそれは分かっておりません。急遽、間諜達の主力を劉禅の側近の周辺に放ちました。何か動きがあり次第、報告が来る筈です。」
「何か分かれば、直ぐに知らせよ。それと….司馬昭に至急こちらに来るように伝えてくれ。謹慎中で動きにくかろうが、何とかして館まで来いと伝えよ。」
司馬炎が立ち去ると、司馬懿は暫くの間、宙を見据えたまま呆然としていた。
「何と言う事だ。儂の悪い想像が当たっていれば、今後数年で魏は混乱の波に飲み込まれる。いや…。魏のみならず、天下全てが争乱の時代となろう。そうなれば曹操様の志も、混沌の中で消え失せる。それだけでは、絶対にあってはならぬ。」
その夜、夜闇に紛れて司馬懿の館を司馬昭が訪れた。
「至急の用件と司馬炎から伝え聞いて伺いましたが、何があったのです?」
すると司馬懿は、いきなり司馬昭の前に両手を突くと、頭を下げた。
「司馬昭….。唐突で済まぬが、今よりお前の命、儂に預けてくれ。」
司馬昭が、慌てたように司馬懿の手を取った。
「父上、何を仰るのです。私の命など、司馬の名誉の為ならば、いつでも捨てる覚悟は出来ております。何を今更のように……..」
司馬昭の言葉に、司馬懿は首を横に振った。
「お前の覚悟は、重々(じゅうじゅう)承知しておる。ただこの度の頼みは、恐らく後世まで残るであろう司馬の不名誉を共に背負って欲しいという事なのだ。今後は儂とともに、悪者になって欲しいのだ…..。我らが今後に得るのは、名誉ではなく悪名だ。」
そう言うと、司馬懿は自分の想いを司馬昭に告げ始めた。
それを聞く司馬昭の顔が、軈て得心した表情に変わっていった。
「そういう事でございましたか。それであれば私は何処までも父上に付いて参ります。我が司馬家は、あの曹操様、曹丕様あってこそ栄えた家です。あのお二人に殉じるのならば、何の悔いも残りません。」
覚悟を決めた司馬昭の眼を、司馬懿はじっと覗き込んだ。
「ならば、もし儂の想像通りの事が起こっている場合だが…。お前は、今後魏に置いて毒を撒き散らすであろう悪しき種子を、早々に取り除くように動くのだ。毒にも薬にもならぬ…という言葉があるが、この種子ばかりは、毒にしかならぬ。芽吹く前に、始末せねばならぬ。絶対に仕損じてはならぬぞ。」
司馬懿の強い言葉に、司馬昭は一度姿勢を正した後、深々と頭を垂れた。
「承知致しました。しかしその場合、元凶に対してはどのように?…」
そう聞かれた司馬懿の眼が、すぅっと細くなった。
「それについては、儂自身の手で決着を付ける。儂が動く迄、お前は手出しはするな。」
司馬昭は、その命令にもう一度頭を下げると、ふと司馬懿を見上げた。
「分かり申した。ただ一つ、お願いが御座います。息子の司馬炎だけは….。我が息子ながら、ここで失うには惜しい男です。」
その言葉に、司馬懿は小さく笑みを漏らした。
「あ奴は、父のお前以上に世が見えておる。もしかすると儂以上かもしれぬ。儂等が何をしようと、あ奴はそれを受け止めて、己の道を探すだろう。儂等が今後背負う不名誉にあ奴も巻き込まれることは避けられぬ。しかし、あ奴ならば何とかする筈だ。必ず己の力で志を求め、それに命を燃やす筈だ。儂は信じている。」
司馬昭を送り出した司馬懿は、居間の椅子に腰を沈めると、長い嘆息を漏らした。
「もしかすると、この世は闇に沈むやもしれぬ。曹操様、申し訳御座いませぬ。それを導いたのは、私なのかもしれません。貴方様の大切な孫の曹叡様を、私の不徳故に闇へと導いてしまったやもしれませぬ。そうであるならば、私自らが不始末を贖わねばなりませぬ。その時には、あの世で貴方様にお詫び申し上げます。」




