華真と夏侯覇
蜀軍の宿営の一室で、華真は縄を解かれた夏侯覇と、二人だけで向き合っていた。
「何故、俺の縛めを解いた? しかもお前は丸腰ではないか。俺がお前を人質にして、此処を逃げ出すとは思わないのか?」
不思議そうに華真を見詰める夏侯覇に対して、華真が微笑んだ。
「貴方は、武器を持たぬ人間を襲うような真似はしませんよ。」
「何故そのような事が判る? お前、人相見でもやるのか?」
興味深げに尋ねる夏侯覇に、華真はゆったりと答えた。
「将軍は、真の武人ですからね。真の武人が剣を振るうのは戦場のみ。その戦場で敗れた貴方は、もう死を覚悟していらっしゃる。見苦しい抵抗などしないでしょう。」
華真の言葉を受けて、夏侯覇の表情が動いた。
「その通りだ。そこまで分かっているなら、何故早く俺の首を刎ねないのだ?」
「殺すなど惜しい方だからです。ところで、魏では捕らえられた貴方様を、どのように思っているのでしょうね?」
華真にそう言われて、夏侯覇は一瞬言葉に詰まった。
「ち、長安の司馬懿達は、俺を嘲笑っておろう。何と無様な奴と...。彼奴等に笑われて迄、生きている積りはない。」
それを聞いた華真は、そうではないとばかりに首を横に振った。
「司馬懿殿や司馬昭殿がどう思っているかなど、どうでもよい事です。しかし帝の曹叡様なら、今回どう考えるべきでしょうか?」
「どう言う意味だ?」
「もし初代帝の曹操様であれば、直ぐに蜀に取引の使者を寄越したでしょう。貴方様を解放する為の交渉を行う為に..」
華真の言葉に対し、夏侯覇は口を閉ざしたままぴくりと眉を挙げた。
「しかし曹叡様は違うようです。実は蜀からは、すぐに魏に向けて使者を出しました。貴方様を引き渡す見返りに何か考えているのか?....と。曹叡様は交渉を拒絶されました。」
「当然だ。無様に負けた俺を、何故救わねばならんのだ?」
苦しげな夏侯覇の言葉に、華真は眼を伏せた。
「曹操帝は、有能な部下を大切にする方でした。あの方なら、多少の政治的な妥協には目を瞑って、貴方様を生きて取り戻す事を考えたでしょう。」
その言葉に、夏侯覇が怒りの表情を見せた。
「お前、何が言いたいのだ? このようなやり取りは無駄だ!! さっさと俺を殺してくれ!!」
怒鳴り声を挙げた夏侯覇を鎮めるように、華真が語りかけた。
「曹操様が、三国の中で魏を最も強大な国へと導けたのは、周囲に優秀な側近を集めて、しかもその者達を大切に扱ったからです。天地人と言う言葉をご存知ですか? 天の時に恵まれ、地の利を得たとしても、人の和が欠けた政治に人は付いては参りませぬ。」
その言葉が、夏侯覇の逆鱗に触れた。
「貴様...!曹叡陛下に、帝の資質が足りぬと言うのか!」
怒り狂う夏侯覇に向かって、華真ははっきりと首を縦に振った。
「今の曹叡様の頭の中では、司馬一族や夏侯一族の力を弱め、曹氏の力を増す事だけが優先しているようですね。呉の状況を見て、そう思うようになったのでしょうか? 呉では、諸葛格の乱以降、政治的混乱が続いていますから...。しかし権力というものは、奪い取るものではなく、与えられるものです。それを与えるのは天の意思であり、天の意思を得る為には、付き従う者達への敬意と恩情が不可欠なのです。」
華真の言葉は、夏侯覇の怒りをさらに煽った。
「それでは、今の蜀帝である劉禅には、その天の意思が味方しているとでも言うのか?」
それに対して華真は一瞬口を噤み、その後夏侯覇の眼を真っ直ぐに見据えながらきっぱりと答えた。
「いえ、劉禅陛下にも、天の意思は味方しては居りませぬ。残念ながら、あの方には帝たる資質は御座いません。」
それを聞いた夏侯覇は絶句した。
「お、お前は、蜀の臣下であろう。それなのにそのような言葉を口にするなど....」
「事実を歪める事は出来ませぬ。また事実に眼を背けてもなりませぬ。我等が為すべき事とは、劉備様、曹操様、孫権様のような英邁さを持つ、真に帝に相応しい方を探し出し、それを支える事なのです。」
「お前、自分が何を言ってるか、分かっているのか? また世の中を戦乱に戻す気なのか?」
口角に泡を立てて怒鳴る夏侯覇に対して、華真は諭すように言った。
「逆です。真の平和を得る為に、為さねばならぬ事を申し上げております。」
真剣な華真の眼を前にして、夏侯覇は口を噤んだ。
そして長く沈黙し、その後ようやく口を開いた。
「何故、俺にこんな話をした? お前、一体俺をどうしようと言うのだ?」
「夏侯覇殿のような方には、今私の申し上げた事について、是非とも熟考を願いたいのです。今の三国を建立した各々の初代帝の方々には、世に真の平和を齎そうとする確たる志が有りました。それを埋もれさせてはなりません。この事を、良くお考え下さいますように...」




