表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/48

陸遜の糾弾

()健業(けんぎょう)では、(みかど)孫休(そんきゅう)が、僕陽興(ぼくようこう)張布(ちょうふ)を宮廷の一室に呼び出していた。

()が、(しょく)に向けた布陣(ふじん)()いて撤退した。その上で、我国に対して、魏呉の国境にいる兵団、及び蜀に入った水軍を(すみ)やかに撤収(てっしゅう)するように求めて来ておる。」

うんざりした顔付きの孫休に向かい、僕陽興が口を開いた。


「当然でしょう。特に蜀に入った水軍は、長江一帯の全てに(にら)みを()かせられる位置におります。()れは、魏にとっては相当の脅威(きょうい)となっている筈ですからな。」

それに続けて、張布が言葉を(つな)げた。

「今迄と異なり、呉水軍は川下に向かって進撃出来る位置におります。しかも雪解(ゆきど)け水によって、長江の水嵩(みずかさ)が増している今、水軍の機動力は倍増しております。何かあれば、地上の軍の何倍もの速度で移動出来ます。魏としては早くこの水軍を撤収(てっしゅう)して貰いたいので御座いましょう。」


「水軍が蜀領内にまで(もぐ)り込んだ事で、情勢は一変しておると言う事だな。それでどうすれば良い?」

回答を()かすように、椅子の肘掛(ひじか)けを指で細かく(たた)く孫休に、僕陽興が(さと)す姿勢で向き直った。

国境(くにざかい)の軍については、(すみ)やかに撤収しても何の問題も御座いません。元々は、魏が最初に国境に向けて兵を出して来たのですから。しかし水軍については、簡単に魏の申し入れを受諾(じゅだく)するのは如何(いかが)なものかと....。あの水軍が蜀に(とど)まる限り、魏は、蜀にも呉にも迂闊(むやみ)に手出しは出来ぬ状態にあります。このような有利をみすみす手放(てばな)す事はあり()ませぬ。」


「しかし....(あたま)から申し入れを(こば)めば、我国と魏の関係が悪化するぞ。確かに直ぐに魏が攻めて来る状況ではないが....。それに水軍は蜀領内にいるのだぞ。万が一、水軍に何かがあれば、魏が我らへの侵攻を決断する事もあり得るではないか….」

僕陽興は、孫休の覇気(はき)のない言動に、次第に苛立(いらだ)ちを感じ始めていた。

もっと(みかど)らしく、どっしり(かま)えていただきたいものだが…。人任せの優柔不断(ゆうじゅうふだん)さには困ったものだ…。


そう思いながら、隣の張布に視線を向けると、張布も同じように感じていたのか、孫休からの視界の陰で小さく肩を(すく)めるのが見えた。

張布は気を取り直すと、顔を挙げて口を開いた。

「蜀にいる水軍に何かあった場合...? それについては、孫皓(そんこく)様が蜀と折衝(せっしょう)をされましょう。蜀としても、みすみす強力な手札を(つぶ)す事はあり()ませぬ。」

「しかし、それは孫皓の存在感が俄然(がぜん)強まるという事ではないか。()の周囲には、只でさえ厄介(やっかい)な奴らがいるのだぞ。宰相の孫淋(そんりん)、前帝の孫亮(そんりょう)が、常に暗躍(あんやく)しておる。この上、更に孫皓という厄介な存在を抱え込む事になるのか。」

そう言って、孫休は頭を抱えた。


孫休の前から退出した僕陽興と張布は、王宮を出ると、ずっと無言のまま建業の街並みを並んで歩いた。

そしてある料理屋に辿(たど)り着くと、(すで)に僕陽興が予約していた個室に入った。

僕陽興が先に着座(ちゃくざ)したのを確認した張布が、卓を(はさ)んだ向かい側に座ろうとすると、僕陽興はそれを押しとどめ、自分の隣の席を指差(ゆびさ)した。

「他に誰かが来るのですか?」

怪訝(けげん)な顔で尋ねる張布に、僕陽興が(うなづ)いた。

「うむ...実は…。今後の我らがどう動くべきかを相談するのに格好(かっこう)の人物を招いた。もう(しばら)くするとお見えになる筈だ。」

それを聞いた張布は、僕陽興の隣に席を移すと、勢いよく腰を下ろした。


「悩ましい事になったな。孫皓様の此度(こたび)の働き、我々の期待以上ではあったが、ちと派手(はで)過ぎたと言う事になるか…..。あれほどまでに(みかど)警戒心(けいかいしん)(あら)わにされるとは….」

僕陽興が嘆息(たんそく)すると、張布も横で疲れたように首を振った。

(みかど)(あせ)っておられますな。しかしもっと(みかど)らしく毅然(きぜん)として頂きたいものだ。お相手をしていても疲れるばかりというのは困ったものだ。」


その時、料理屋の女将(おかみ)が、部屋の外から声をかけて来た。

「お連れの方がお見えです。」

部屋の扉が開かれ、一人の壮年の人物が部屋の中へと入って来た。

その人物の顔を見た張布に、驚きの表情が浮かんだ。

貴方様(あなたさま)は....陸遜(りくそん)様....。まさか貴方様にお()し頂けるとは....。どうぞ上座(かみざ)にお座り下さい。」


二人の前に姿を現したのは、元宰相の陸遜だった。

陸遜は、孫権帝末期に呉の宰相を(つと)め、次期帝を(めぐ)る皇室の紛争に巻き込まれた人物だった。

陸遜は、皇族達を(まわ)り、懸命(けんめい)に説得を()り返して紛争の収拾(しゅうしゅう)(つと)めた。

しかし遂に果たせず、自ら宰相の座を降りた。

事前の許可なく突然辞職した事に怒った孫権は、陸遜の財産全てを没収(ぼっしゅう)した。

陸遜はその処置に絶望して、憤死(ふんし)したとされていた。


「陸遜様。いつ建業に戻られたのです? 貴方様(あなたさま)は宮中で自死(じし)したとも、山奥に隠遁(いんとん)されたとも、様々な(うわさ)が御座いましたが..」

着座(ちゃくざ)するなり、張布からせっつくような口調で質問を受け、陸遜は苦笑した。

「僕陽興殿が、隠遁していた私の元に、先日書簡を寄越(よこ)した。また皇室内の(いさか)いが(ひど)くなる危険があるので、力を貸して欲しいと...。今さら私を(かつ)ぎ出すなどよほど策に(きゅう)していると感じたが、放って置く訳にもいかぬと思った。そこで山を降り、都に戻って来たという訳だ。」

「なるほど...左様(さよう)で御座いましたか。」


「早速だが...。先ず貴方達(あなたたち)に言わなくてはならぬ事がある。僕陽興殿も張布殿も、次の(みかど)には孫皓様を()したいとお考えのようだが…..。」

「その通りです。その手順について陸遜様のお知恵が欲しいのですが、何か?」

怪訝(けげん)な顔を見せた僕陽興と張布の顔を見回した陸遜は、居住(いずま)いを正すと、強い口調できっぱり言い放った。

「孫皓様は(みかど)には向かぬ。もっと言うならば、今の宮中に(みかど)(うつわ)()るお方は誰一人も()らぬ。」


突然の陸遜の言葉に、僕陽興と張布は唖然(あぜん)とした。

「な、何を(おっしゃ)るのです。陸遜様は、孫皓様については良くご存じでないのでしょう? だからそう(おっしゃ)るのかもしれません。しかし、今の皇族に(みかど)(うつわ)に足るお方が誰もいないなどと...()()てなりませぬぞ。」

強い口調で抗議した張布に対して、陸遜は(あわ)れむような視線を向けた。

「気を悪くしたのなら申し訳ないが...。事実は事実だ。貴方達は、石ころの中から、玉石(ぎょくせき)を探そうとする徒労(とろう)をやっているのだ。」


益益(ますます)聞き捨てなりませぬ。(そん)の一族は、呉の(いしずえ)を築いた孫堅(そんけん)様、孫策(そんさく)様、孫権(そんけん)様という英雄を続けて産んだ血筋ですぞ。その後継(こうけい)の方々を石ころなどと...。仮にも貴方(あなた)は、呉の宰相まで(つと)めたお方なのに...」

(いきどお)る張布を見た陸遜は、顔の前で片手を振った。

貴方(あなた)の言われるお三方を、ずっと(はい)して来たからこそ言っている。今の呉宮中に、あの方々に並び得る人物など、(ただ)の一人も居らぬ。このままだと、呉は滅ぶしかあるまい。」

更に口を(はさ)もうと身を乗り出した張布を、陸遜は手で制した。


今上帝(こんじょうてい)の孫休様、前帝の孫亮様は、(いず)れも大局(たいきょく)()る眼は持ち合わせては()らぬ。今の宰相の孫淋殿も同様だ。はっきり申し上げて凡庸(ぼんよう)だ。あからさまに言うのは(はばか)られるが、暗愚(あんぐ)と言っても良い。この方々では、いずれ押し寄せる魏の攻勢を押し止める事など無理でしょう。その事は貴方達(あなたたち)も分かっておいででしょう?」

「そ、それは...」

言葉に詰まる張布の横から、僕陽興が言葉を発した。

「だからこそ我等(われら)は、次の呉帝として、孫皓様に期待を(たく)しているのです。」


陸遜の憐れむような視線が、今度は僕陽興を(とら)えた。

「それは誤りです。貴方達(あなたたち)は、私が孫皓様の事を知らないと(おっしゃ)った。しかし、私が隠遁(いんとん)している場所は、孫皓様が(あず)かる所領(しょりょう)にあるのですよ。民の声は、黙っていても聞こえて来ます。残念ながら、孫皓様の良き(うわさ)を聞いた事はありませぬ。」

陸遜の指摘に、僕陽興と張布は顔を見合わせた。


「お二人は、孫皓様が、所領の(まつりごと)に対して意見を上申(じょうしん)した豪族達に対して、何をしたかご存知ですか?豪族達の棟梁(とうりょう)全てを捕縛(ほばく)し、処刑したのですよ。」

「し、しかし..孫皓様に預けられた地は、昔から山賊共が跋扈(ばっこ)して来た事で有名な地。其れを(たい)らげる為には、多少の荒療治(あらりょうじ)もやむを得ないのでは...」

僕陽興の弁明(べんめい)に、陸遜はふんと鼻を鳴らした。

「そうでしょうか? では孫皓様が、豪族の(かしら)達だけでなく、その一族の(ことごと)くを女子供に至るまで皆殺しにした事もやむを得ないと...? ()れは、単なる恐怖政治ではありませんか?」


答えに詰まる僕陽興に対して、陸遜は(なお)糾弾(きゅうだん)を続けた。

「それだけではない。孫皓様は狩猟(しゅりょう)を趣味とされているが、あの方が狙う獲物は、山の(けもの)や鳥だけではない。山林の部落から、()れはと思った女を全て連れ去っては、自分の屋敷に監禁(かんきん)して(もてあそ)んでいるのですぞ。恐怖政治に加えて、度を過ぎた漁色(りょうしょく)。此れは暴君(ぼうくん)(あかし)以外の何者でもない。貴方達は、見た目の豪胆(ごうたん)さに眼を奪われて、その裏側にある孫皓様の恐ろしさから眼を(そむ)けている。」

容赦(ようしゃ)なく孫皓を弾劾(だんがい)する陸遜を前に、僕陽興と張布は沈黙した。


貴方達(あなたたち)は、誰の為の(まつりごと)を目指しているのです? 孫家(そんけ)の存続さえあれば、それで良いのですか?本来、政治というものは、民に安定した暮らしを与え、平和を保持する為に行われるべきもの。それなのに、貴方達は真逆(まぎゃく)の選択をしようとしている。」

(にら)みつけるような陸遜の視線を受けて、僕陽興と張布は眼を伏せた。

やがて張布が顔を挙げると、声を(しぼ)り出した。

「では、どうしろと(おっしゃ)るのです?」


「孫皓様では駄目(だめ)。孫休様も、孫亮様も、宰相の孫淋殿も...。貴方は、全ての方々を否定された。そして宮中には、(みかど)(うつわ)に見合う人物はいないとまで断言された。孫家一族以外に帝を禅譲(ぜんじょう)せよと(おっしゃ)りたいのですか? それでは人心を(たば)ねる事は不可能です。」

(すが)るような張布の問いを受けて、陸遜は二人を見据(みす)えた。


「確かに私は、今の宮中には(みかど)の座に相応(ふさわ)しい方はいない...と言った。しかし....」

一旦言葉を切った陸遜の視線が更に強くなり、僕陽興と張布は息を呑んだ。

孫家(そんけ)の血筋に、(みかど)相応(ふさわ)しい方が誰も居ない...とは言っておりませぬ。その方は、今の宮中にはいらっしゃらないだけです。」

その言葉に、僕陽興と張布は、思わず腰を浮かした。

「な、なんと...。今なんと(おっしゃ)った? 隠れた孫家の血筋が、宮中以外におられると言うのですか?しかも陸遜殿は、その方が(みかど)相応(ふさわ)しいと....。その方は誰方(どなた)で、何処(どこ)にいらっしゃるのです?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ