陸遜の糾弾
呉の健業では、帝の孫休が、僕陽興と張布を宮廷の一室に呼び出していた。
「魏が、蜀に向けた布陣を解いて撤退した。その上で、我国に対して、魏呉の国境にいる兵団、及び蜀に入った水軍を速やかに撤収するように求めて来ておる。」
うんざりした顔付きの孫休に向かい、僕陽興が口を開いた。
「当然でしょう。特に蜀に入った水軍は、長江一帯の全てに睨みを効かせられる位置におります。此れは、魏にとっては相当の脅威となっている筈ですからな。」
それに続けて、張布が言葉を繋げた。
「今迄と異なり、呉水軍は川下に向かって進撃出来る位置におります。しかも雪解け水によって、長江の水嵩が増している今、水軍の機動力は倍増しております。何かあれば、地上の軍の何倍もの速度で移動出来ます。魏としては早くこの水軍を撤収して貰いたいので御座いましょう。」
「水軍が蜀領内にまで潜り込んだ事で、情勢は一変しておると言う事だな。それでどうすれば良い?」
回答を急かすように、椅子の肘掛けを指で細かく叩く孫休に、僕陽興が諭す姿勢で向き直った。
「国境の軍については、速やかに撤収しても何の問題も御座いません。元々は、魏が最初に国境に向けて兵を出して来たのですから。しかし水軍については、簡単に魏の申し入れを受諾するのは如何なものかと....。あの水軍が蜀に留まる限り、魏は、蜀にも呉にも迂闊に手出しは出来ぬ状態にあります。このような有利をみすみす手放す事はあり得ませぬ。」
「しかし....頭から申し入れを拒めば、我国と魏の関係が悪化するぞ。確かに直ぐに魏が攻めて来る状況ではないが....。それに水軍は蜀領内にいるのだぞ。万が一、水軍に何かがあれば、魏が我らへの侵攻を決断する事もあり得るではないか….」
僕陽興は、孫休の覇気のない言動に、次第に苛立ちを感じ始めていた。
もっと帝らしく、どっしり構えていただきたいものだが…。人任せの優柔不断さには困ったものだ…。
そう思いながら、隣の張布に視線を向けると、張布も同じように感じていたのか、孫休からの視界の陰で小さく肩を竦めるのが見えた。
張布は気を取り直すと、顔を挙げて口を開いた。
「蜀にいる水軍に何かあった場合...? それについては、孫皓様が蜀と折衝をされましょう。蜀としても、みすみす強力な手札を潰す事はあり得ませぬ。」
「しかし、それは孫皓の存在感が俄然強まるという事ではないか。余の周囲には、只でさえ厄介な奴らがいるのだぞ。宰相の孫淋、前帝の孫亮が、常に暗躍しておる。この上、更に孫皓という厄介な存在を抱え込む事になるのか。」
そう言って、孫休は頭を抱えた。
孫休の前から退出した僕陽興と張布は、王宮を出ると、ずっと無言のまま建業の街並みを並んで歩いた。
そしてある料理屋に辿り着くと、既に僕陽興が予約していた個室に入った。
僕陽興が先に着座したのを確認した張布が、卓を挟んだ向かい側に座ろうとすると、僕陽興はそれを押しとどめ、自分の隣の席を指差した。
「他に誰かが来るのですか?」
怪訝な顔で尋ねる張布に、僕陽興が頷いた。
「うむ...実は…。今後の我らがどう動くべきかを相談するのに格好の人物を招いた。もう暫くするとお見えになる筈だ。」
それを聞いた張布は、僕陽興の隣に席を移すと、勢いよく腰を下ろした。
「悩ましい事になったな。孫皓様の此度の働き、我々の期待以上ではあったが、ちと派手過ぎたと言う事になるか…..。あれほどまでに帝が警戒心を露わにされるとは….」
僕陽興が嘆息すると、張布も横で疲れたように首を振った。
「帝は焦っておられますな。しかしもっと帝らしく毅然として頂きたいものだ。お相手をしていても疲れるばかりというのは困ったものだ。」
その時、料理屋の女将が、部屋の外から声をかけて来た。
「お連れの方がお見えです。」
部屋の扉が開かれ、一人の壮年の人物が部屋の中へと入って来た。
その人物の顔を見た張布に、驚きの表情が浮かんだ。
「貴方様は....陸遜様....。まさか貴方様にお越し頂けるとは....。どうぞ上座にお座り下さい。」
二人の前に姿を現したのは、元宰相の陸遜だった。
陸遜は、孫権帝末期に呉の宰相を務め、次期帝を巡る皇室の紛争に巻き込まれた人物だった。
陸遜は、皇族達を廻り、懸命に説得を繰り返して紛争の収拾に努めた。
しかし遂に果たせず、自ら宰相の座を降りた。
事前の許可なく突然辞職した事に怒った孫権は、陸遜の財産全てを没収した。
陸遜はその処置に絶望して、憤死したとされていた。
「陸遜様。いつ建業に戻られたのです? 貴方様は宮中で自死したとも、山奥に隠遁されたとも、様々な噂が御座いましたが..」
着座するなり、張布からせっつくような口調で質問を受け、陸遜は苦笑した。
「僕陽興殿が、隠遁していた私の元に、先日書簡を寄越した。また皇室内の諍いが酷くなる危険があるので、力を貸して欲しいと...。今さら私を担ぎ出すなどよほど策に窮していると感じたが、放って置く訳にもいかぬと思った。そこで山を降り、都に戻って来たという訳だ。」
「なるほど...左様で御座いましたか。」
「早速だが...。先ず貴方達に言わなくてはならぬ事がある。僕陽興殿も張布殿も、次の帝には孫皓様を推したいとお考えのようだが…..。」
「その通りです。その手順について陸遜様のお知恵が欲しいのですが、何か?」
怪訝な顔を見せた僕陽興と張布の顔を見回した陸遜は、居住いを正すと、強い口調できっぱり言い放った。
「孫皓様は帝には向かぬ。もっと言うならば、今の宮中に帝の器に足るお方は誰一人も居らぬ。」
突然の陸遜の言葉に、僕陽興と張布は唖然とした。
「な、何を仰るのです。陸遜様は、孫皓様については良くご存じでないのでしょう? だからそう仰るのかもしれません。しかし、今の皇族に帝の器に足るお方が誰もいないなどと...聞き捨てなりませぬぞ。」
強い口調で抗議した張布に対して、陸遜は憐れむような視線を向けた。
「気を悪くしたのなら申し訳ないが...。事実は事実だ。貴方達は、石ころの中から、玉石を探そうとする徒労をやっているのだ。」
「益益聞き捨てなりませぬ。孫の一族は、呉の礎を築いた孫堅様、孫策様、孫権様という英雄を続けて産んだ血筋ですぞ。その後継の方々を石ころなどと...。仮にも貴方は、呉の宰相まで務めたお方なのに...」
憤る張布を見た陸遜は、顔の前で片手を振った。
「貴方の言われるお三方を、ずっと拝して来たからこそ言っている。今の呉宮中に、あの方々に並び得る人物など、只の一人も居らぬ。このままだと、呉は滅ぶしかあるまい。」
更に口を挟もうと身を乗り出した張布を、陸遜は手で制した。
「今上帝の孫休様、前帝の孫亮様は、何れも大局を観る眼は持ち合わせては居らぬ。今の宰相の孫淋殿も同様だ。はっきり申し上げて凡庸だ。あからさまに言うのは憚られるが、暗愚と言っても良い。この方々では、いずれ押し寄せる魏の攻勢を押し止める事など無理でしょう。その事は貴方達も分かっておいででしょう?」
「そ、それは...」
言葉に詰まる張布の横から、僕陽興が言葉を発した。
「だからこそ我等は、次の呉帝として、孫皓様に期待を託しているのです。」
陸遜の憐れむような視線が、今度は僕陽興を捉えた。
「それは誤りです。貴方達は、私が孫皓様の事を知らないと仰った。しかし、私が隠遁している場所は、孫皓様が預かる所領にあるのですよ。民の声は、黙っていても聞こえて来ます。残念ながら、孫皓様の良き噂を聞いた事はありませぬ。」
陸遜の指摘に、僕陽興と張布は顔を見合わせた。
「お二人は、孫皓様が、所領の政に対して意見を上申した豪族達に対して、何をしたかご存知ですか?豪族達の棟梁全てを捕縛し、処刑したのですよ。」
「し、しかし..孫皓様に預けられた地は、昔から山賊共が跋扈して来た事で有名な地。其れを平らげる為には、多少の荒療治もやむを得ないのでは...」
僕陽興の弁明に、陸遜はふんと鼻を鳴らした。
「そうでしょうか? では孫皓様が、豪族の頭達だけでなく、その一族の悉くを女子供に至るまで皆殺しにした事もやむを得ないと...? 此れは、単なる恐怖政治ではありませんか?」
答えに詰まる僕陽興に対して、陸遜は尚も糾弾を続けた。
「それだけではない。孫皓様は狩猟を趣味とされているが、あの方が狙う獲物は、山の獣や鳥だけではない。山林の部落から、此れはと思った女を全て連れ去っては、自分の屋敷に監禁して弄んでいるのですぞ。恐怖政治に加えて、度を過ぎた漁色。此れは暴君の証以外の何者でもない。貴方達は、見た目の豪胆さに眼を奪われて、その裏側にある孫皓様の恐ろしさから眼を背けている。」
容赦なく孫皓を弾劾する陸遜を前に、僕陽興と張布は沈黙した。
「貴方達は、誰の為の政を目指しているのです? 孫家の存続さえあれば、それで良いのですか?本来、政治というものは、民に安定した暮らしを与え、平和を保持する為に行われるべきもの。それなのに、貴方達は真逆の選択をしようとしている。」
睨みつけるような陸遜の視線を受けて、僕陽興と張布は眼を伏せた。
やがて張布が顔を挙げると、声を絞り出した。
「では、どうしろと仰るのです?」
「孫皓様では駄目。孫休様も、孫亮様も、宰相の孫淋殿も...。貴方は、全ての方々を否定された。そして宮中には、帝の器に見合う人物はいないとまで断言された。孫家一族以外に帝を禅譲せよと仰りたいのですか? それでは人心を束ねる事は不可能です。」
縋るような張布の問いを受けて、陸遜は二人を見据えた。
「確かに私は、今の宮中には帝の座に相応しい方はいない...と言った。しかし....」
一旦言葉を切った陸遜の視線が更に強くなり、僕陽興と張布は息を呑んだ。
「孫家の血筋に、帝に相応しい方が誰も居ない...とは言っておりませぬ。その方は、今の宮中にはいらっしゃらないだけです。」
その言葉に、僕陽興と張布は、思わず腰を浮かした。
「な、なんと...。今なんと仰った? 隠れた孫家の血筋が、宮中以外におられると言うのですか?しかも陸遜殿は、その方が帝に相応しいと....。その方は誰方で、何処にいらっしゃるのです?」




