司馬会議
魏の都、長安では、急ぎ戻って来た司馬炎に向かって、司馬昭が声を荒げていた。
「どうなっておるのだ。蜀の領内に、大量の糧食が輸送され、しかもそれを奪う為に出陣した夏侯覇が蜀軍に捕縛されたなどと...。それだけではない‼︎ 長江を遡上した呉の船団に対して、火攻めの装備を整えた攻撃隊を差し向けたのに、難なくすり抜けられてしまうとは...。もはや夏侯覇だけの失態だけで収めるには説明がつかぬ結果ではないか。これでは、帝に釈明のしようもない….。」
司馬昭に向かって深く頭を下げた司馬炎は、その後に強い目線で父の顔を見た。
「面目次第も御座いませぬ。しかし...父上。此度の蜀の打った奇策の数々、これらは尋常ではありませぬ。確かに姜維も優秀な男では御座いましょうが、あのような策、姜維だけの発案とはとても思えませぬ。」
「何を言い出すかと思えば....。姜維でなければ、誰が此度の軍略を仕組んだと言うのだ!! 」
「私の知る限り、あのような策、諸葛亮孔明にしか産めぬかと...」
それを聞いた司馬昭の顔が更に紅く染まった。
「何を戯けた事を...。孔明だと...あの者は、とうの昔に死んでおるわ。」
するとそれまで黙って二人のやり取りを見守っていた司馬懿が、だしぬけに口を挟んだ。
「待て。司馬炎の申す事、戯言と切っては捨てられぬ。確かに、これらの策は、姜維だけでは無理であろう。となれば...。実は孔明がまだ生きているか、或いは、蜀に孔明に匹敵する異才が新たに現れたと疑わねばならぬ。」
「父上。孔明がまだ生きていると言うのは、流石にちょっと….。」
呆れたように声を出した司馬昭に対して、司馬懿は鋭い視線を向けた。
「現実に起こった事と冷静に向き合えば、その可能性も捨ててはならぬと言っておるのだ。だからこそ、すぐに調べねばならぬ。蜀に忍ばせる間諜の数を倍に増やせ。追加の者共は、何より姜維の周辺に貼り付けるのだ。それと、気になる事がある。蜀に運び込まれた大量の糧食だが....。此れは呉から運ばれた物とは到底思えぬ。その出所を確かめよ。其処に謎解きの鍵が潜んでいるやも知れぬ。」
「承知しました。速やかに...」
そう返答をしながら司馬昭が後方に下がると、今度は司馬炎が進み出た。
「ところで、祖父上。前線の軍は如何致しましょう? 事、此処に至っては...」
司馬炎の言葉に、司馬懿は眉間の皺を深くすると、一つ嘆息した。
「うむ...その事については....。一旦兵は退かざるを得まいな。総大将の夏侯覇が捕らえられ、兵達の士気が下がっている上に、呉水軍が蜀に入ってしまっておる。状況は極めて魏にとって不利だ。此度の失態は、帝から強く叱責される事は避けられぬが、止むを得ぬ。この事は儂から、直接に帝に上奏する事とする。」
司馬懿から今回の戦についての報告を受けた曹叡は、暫く考え込む仕草を見せた後、厳しい眼差しで、司馬懿を見据えた。
「分かった。前線の兵は退却させろ。しかし此度の不始末。お主と司馬昭の責任は免れぬぞ。今回のような戦の結果、何と呼ぶ? 智慧の廻るお前なら、分かるであろうな?」
そう聞かれた司馬懿は、曹叡の前に跪き、額を床に擦りつけた。
「‥‥惨敗……そう申し上げるしか御座いません。」
曹叡は、床に平伏す司馬懿を見ながら、幾度も眉を痙攣させた。
「分かっているではないか。それならば、相応の処分は覚悟しているな?当面の間、余の前に姿を見せる事は許さぬ。親子共々、自宅にて謹慎致せ。その後については、追って沙汰する。」
曹叡の下知に、司馬懿は額を床に擦り付けたまま、後ずさって退出した。
宮廷の外で待っていた司馬昭が、司馬懿の姿を見かけるとすぐに駆け寄って来た。
口を開こうとした司馬昭の口元に掌を押しつけ、司馬懿はぼそりと小声で命じた。
「此処では、何も話せぬ。すぐに館に戻るぞ。戻ったら、司馬炎も一緒するように伝えておけ。」
そして、司馬館の一室で、司馬懿を囲んで司馬昭と司馬炎が車座で座した。
「そうですか。我らは謹慎ですか...。それもやむを得ませんな。」
司馬昭が、既に覚悟していた表情で嘆息した。
その横で司馬炎は、何時も以上に暗い司馬懿の表情から、謹慎などよりもっと重大な何かを感じ取っていた。
暫くの沈黙の後、司馬懿が重い口を開いた。
「蜀に捕らえられた夏侯覇だが….。蜀からすぐに使者が派遣されて来た。夏侯覇を魏に引き渡す見返りについての交渉の為だ…。」
その言葉に、司馬昭は軽く眉を上げ、司馬炎は無表情のまま司馬懿を見つめた。
「曹叡様は、使者に会う事を拒否された。意味は分かるな。夏侯覇など、もう魏には不要であるので、煮るなり焼くなり好きにせよ…。そう蜀に通告したのだ。」
それを聞いた司馬昭が、軽く唇を舐めた。
「これで夏侯一族の没落は決定という事ですな。大黒柱の夏侯覇がいなくなったとなれば、もはや夏侯一族の復権は困難でありましょう。司馬最大の政敵が消える事となりまする。」
司馬昭の言葉を受けた司馬懿は、次に司馬炎に視線を向けた。
「お前は、今回の曹叡様の措置について、どのように思う?」
司馬炎は、司馬懿の視線が鋭くなったのを感じながら、一度頭を下げた後に口を開いた。
「単に政敵が減ったと喜んでばかりは居られぬと思います。今回、帝が使者を門前払いとした事、祖父上様に事前に相談はあったのでしょうか?」
司馬懿が首を横に振るのを確認してから、司馬炎は言葉を続けた。
「そうであれば、曹叡様はご自身と周囲の側近達だけで、今回の決定を下したという事です。それは、今の曹叡様が司馬を信頼していない….という事を意味しませんか?」
司馬懿は、大きく頷いた。
「その通りだ。此度の戦いで夏侯覇が蜀に捕らえられるなどとは全く予測していなかった。しかしそれが起こった事で、曹叡様が持つとんでもない一面が炙り出されてしまった…..」
二人のやり取りを聞いて、司馬昭も顔色を変えた。
「では我らも、今後の動き方を考え直さねばなりませぬな。しかし、謹慎を申し付けられた今、おおっぴらに出歩く訳には行きませぬ…」
そう言う司馬昭にちらりと眼を向けた後、司馬懿は再び司馬炎を見据えた。
「確かに暫くは大人しくしておらねばならぬが、閉じ籠もっているだけでは何も進まぬ。幸い今回、司馬炎は処分の対象からは外れておる。お前に一働きして貰わねばならぬ。」
「かしこまりました。何なりとお命じ下さい。」
「司馬炎。我ら一族に仕える忍びの者達の里へ、早急に赴け。そして今使える者共を全て動かせ。屋敷にいる者達の多くは、蜀へと放ってしまっているので、今や手が足りぬ。やるべき事は、お前が里へと出立するまでに纏めておく。」




