連環の計
湖碧を目指す孫皓の一行は、川筋の崖上で歩みを進めていた。
長江が蜀領内に達する手前にある湖碧が視界に入ると、一行は歩みを止めて前方に広がる景色に眼を遣った。
湖碧...。それは長江の流れが、此処だけは流れが淀み、水面が湖のような緑色を湛える事から名付けられた地名だった。
湖碧の地は、狭く窄まった川幅が、両側を切り立った絶壁に挟まれていた。
「なるほど。此れは魏が待ち伏せるには格好の地形だな。しかし姜維殿の言う策にも、確かに格好だな。」
そう言って孫皓は、改めて眼下に見える湖碧の川面に眼を落とした。
水面は一面濃い緑色に沈み、崖上から見ると水の流れを全く感じさせなかった。
これがあの広大な長江か?….と疑う程に、湖碧の川幅は狭かった。
孫皓達の立つ崖上からは、対岸に聳り立つ岩壁に群生する蔦の一本一本まで、はっきりと視界に捉える事が出来た。
確かに、この狭い両岸の崖上に投石器を設置すれば、此処を通過しようとする船は、全て射程に捉える事が出来るだろうと、孫皓は思った。
「孫皓様、あと一刻ほどで我が水軍が到達します。迎え撃つ魏の兵達の到着は、その前になると思いますが....」
従者の声に、孫皓は殊更落ち着きを装った声音で答えた。
「分かっておる。早々に川下の峡谷に人を出して、我が水軍、そして蜀の工作隊との連絡を取れ。」
孫皓に従っていた二人の従者が、直ぐに駆け出した。
向かったのは、此処から半里ほど先の湖碧への入り口。
長江の流れが、そこで一時停滞する直前の場所だった。
連絡に向かわせた従者達が一行を離れた後、暫く待つと川上方面から軍靴の音が、孫皓達の耳に届いて来た。
それを認めた孫皓達は、峡谷の上の林に身を潜めた。
やがて姿を現した二百名余の魏軍兵達は、湖碧の崖上に布陣し、それに遅れて何頭もの馬に引かれた荷馬車隊が到着した。
荷馬車隊に積まれていたのは、十台ほどの巨大な投石機だった。
「孫皓様。対岸にも、同じように魏軍がやって来ました。」
孫皓達が林の中から見守る中、湖碧の両岸の崖上に到着した魏兵達は、投石機を次々と荷台から降ろすと、それらを峡谷の崖端に次々と設置して行った。
その後、設置された投石機の側には油の壺と、篝火が準備された。
「やはり魏も、この地に眼を付けたか。姜維殿の見込み通りと言う事だな。さて此処からが勝負だな。本当に姜維殿の言う通りに上手く行くかどうか?...。なんと言っても常識外の策だからな...」
そう呟く孫皓の耳に、魏軍将校が発する命令の声が聞こえた。
「呉水軍が、そろそろ来るぞ‼︎ 大石に油を塗れ。火矢の準備も開始せよ‼︎」
魏軍将校の言葉通り、呉水軍はその時には既に川下の峡谷を抜け、湖碧峡谷の手前へと達していた。
呉水軍の船上では、指揮官の大史享が見張りの兵からの報告に、眼を丸くしていた。
「何だと…。次の湖碧峡谷に差し掛かる前に、全ての船を鎖で繋げと、孫皓大提督が伝えて来ただと...。何かの間違いではないのか?」
大史恭の問いに、副官が戸惑ったように答えを返した。
「いえ、確かです。先程通り過ぎた場所で、孫皓大提督の使いの兵が、崖上から鏡を使って知らせて来ました。確認の合言葉も一致しておりました。孫皓様からの指示に間違い御座いません。」
大史享は、嘗て呉の英雄と呼ばれた大史慈の息子だった。
父の亡き後、水軍将校となり、今は参謀にまで出世していた。
そして今回の遠征では、遠征軍の指揮官を拝命していた。
剛勇だった父とは正反対の知性派で、各種の軍略にも通じていた大史享は、その命令が意味するものを直ぐに読み取った。
「此れは、連環の計ではないか...。嘗て赤壁の戦いの折に、周瑜大提督が、魏軍に仕掛けた策だ。全ての船を鎖で繋ぎ、一枚岩にするという...」
大史恭は、腕組みをした。
「赤壁の戦いの時には、連環の計に嵌った魏の船団に我が軍が火計を仕掛けて、魏水軍を壊滅させている。今度は我々自身がその連環を行えと言うのか? この先の峡谷では、魏軍が待ち構えている公算が大きい。そこで攻めて来るなら火攻めだろう。それが分かっていながら、何故連環の計などを命じて来たのだ?....」
大史享は、船上で暫し考え込んだ。
『連環の計』。それは、嘗て魏が大水軍を擁して呉に攻め入って来た時に、呉の大提督だった周瑜が用いた奇策だった。
水上で魏と呉の船団が長期の睨み合いに入った時、周瑜は水上生活に不慣れな魏軍兵達が船酔いに苦しんでいる事に気付いた。
そこで、魏陣に潜入させた間諜に手引きをさせて、全ての船を鎖と渡板で繋がせたのである。
これによって、魏船団は巨大な一つの島のようになった。
そうなる事で船の揺れは収まり、魏軍兵の船酔いも収まったが、周瑜の狙いは別にあった。
蜀から来ていた諸葛孔明が、季節風の変わり目を読み解き、大河に強い東風が吹き始めた夜に、大量の藁を積んだ無人船団を仕立てて、それに火を放って魏船団へと突入させたのである。
全ての船が繋がれた魏船団では、その火が次々と引火し、船団はあっという間に巨大な火の島へと転じた。
その結果、魏軍は大敗北を喫したのである。
この時魏船団が停泊していた峡谷の岩壁は、燃え盛る多くの船の火災によって赤く染まり、それ故にこの地は、その後『赤壁』と呼ばれるようになった。
「あの連環を、今度は我が軍が自らが行え...と言うのか...」
考え込む大史享に、痺れを切らした副将が言葉を発した。
「将軍。何時迄考え込んでいても、埒があきませんぞ...」
その言葉に、大史享はようやく意を決して顔を挙げた。
「孫皓様が敢えて命じて来たとあれば、何か深慮があろう。よし全艦を鎖で繋げ。船同士の接触を防ぐ為に、鉄棒も一緒に渡すのだ。」
こうして、呉の船団は、鎖と鉄棒で繋がれた一つの巨大船へと変貌し、川上に向かって進み始めた。
湖碧の崖上で待ち構える魏の兵達の眼に、呉の船団の姿が見え始めた。
すると呉船団の様子を見た魏の指揮官が、首を捻った。
「何故、船同士が繋がれているのだ? これは何の意味だ?」
その指揮官の声を耳にした副将が、すぐさま応えた。
「好都合ですぞ。あの船団の真ん中に、油に塗れた大石に火を付けて撃ち込めば、呉の船団は瞬く間に火達磨となりましょう。迷う事は有りませぬ。直ぐに攻撃を仕掛けましょう。」
「うむ...。この峡谷を越えれば、蜀領は間近..。此処を越える所作を見せれば、直ぐに攻撃せよと言うのが、上からの指示だ。よし....攻撃体制に入れ‼︎」
やがて船団は湖碧峡谷に差し掛かった。
その直前、湖碧手前にある川下の峡谷では、蜀の工作隊が崖上から呉船団の動きを見守っていた。
「呉船団、もう少しで湖碧峡谷の入口に達するとの連絡がありました。」
偵察兵よりの連絡を受けた工作隊の指揮官は、そこで合図の手を挙げた。
「よし。一斉に堤を切れ‼︎」
号令と共に、峡谷一帯に斧を打ち付ける大音響が響き渡った。
直後、峡谷の崖上のあちこちから、巨大な水柱が立ち登り、凄じい勢いで崖下の川面へと雪崩れ落ちていった。
その轟音を、呉船団の皆は、すぐ側の湖碧入口で耳にした。
「な、何だ、あの音は....?」
その時、一番後方の船から見張兵の悲鳴が伝わって来た。
「お、大波だ...!! 後ろから大波が来る!!」
「馬鹿を言え‼︎ 後方は川下ではないか...何故川下から大波が来るのだ..?」
船上の全てが驚愕と混乱に包まれた直後、船団後方から白い波頭を立てた大波が船団に迫って来るのが,、兵達の眼に映った。
いきなり川下から襲って来た崖下の大波を見て肝を潰したのは、峡谷の上にいた魏軍の兵達も同様だった。
「な、何だ、此れは!! 何が起こったんだ!! 」
川下からいきなり襲って来た大波を呆然と見守る魏軍達の眼下に、その大波に揉まれながら、湖碧に向かって突っ込んで来る呉船団の姿があった。
呉船団を波頭に載せた大波は、狭い湖碧の峡谷に達すると、更に激流へと変貌した。
その激流の中、呉船団は急速にその船足を増した。
「な、何をしている!! 直ぐに攻撃だ‼︎ 投石機を撃て‼︎ 火を撃つのだ!!」
崖上で慌てる魏軍指揮官の声を嘲笑うように、激流に乗った呉船団は、さらにその速度を早め、魏軍が立つ峡谷をあっという間にすり抜けていった。
大急流へと一変した湖碧峡谷を抜けた呉船団は、やがて水の流れが落ち着いた水上で緩やかな船足へと戻った。
そしてその船上では、大史享と副将が、まだ信じられない表情で顔を見合わせていた。
「此れが孫皓様の策か...。しかし幾らなんでも、このような....」
呉の船団が湖碧を抜けて蜀領に達したとの知らせは、夏侯覇を失なって士気が下がった魏軍に追撃を仕掛けていた姜維達の元へと届けられた。
「華真殿、お見事です。まんまと策が的中しましたな!!」
姜維の歓声に、華真はいつも通り静かに笑って応えた。
「あの場所は、川の流れが淀み、流れが逆流する事が起こりやすい所なのです。崖上にあった雪解け水で出来た自然湖から即席の水路を通し、一気に放水する事でそれを増幅させたのですが……。満点の出来でしたね。」
「様子を観ていた者からの知らせでは、津波のような大波であったとか...。船同士を繋いでおかねば、転覆した船も多く出たでしょう。待ち構えていた魏軍は、予想外の事態に、攻撃らしい攻撃をする暇すら無かったそうです。いやはや、見事な策としか言いようが有りません。」
姜維からの賛辞を冷静な表情で受けとめた華真は、何故か気の毒そうな視線を姜維に返した。
その視線を感じた姜維は、不思議そうに華真を見た。
「姜維殿。喜んでばかりはいられませんよ。これから先、孫皓殿が凄まじい勢いで要求を重ねて来るでしょう。それにどう対応するか、よく考えを纏めておいて下さい。大変とは思いますが、これも宰相殿の御役目です。」
それを聞いた姜維は、笑顔から一変して、げんなりとした表情になった。




