迷宮鉄鎖
丘陵の麓に現れた軍勢に向かって、夏侯覇は手を翳した。
「荷馬車隊を迎えに来た蜀の軍勢だな。何処の麾下だ?」
その夏侯覇の呟きに応えるように、麓に現れた軍勢の先頭に、騎馬に乗った指揮官が姿を見せた。
そしてその横で、従者が軍旗を掲げた。
それを見た副将が絶句した。
「あの旗印は....。まさか…馬超...」
それを聞いた夏侯覇が顔色を変えた。
「何故馬超がこんな所にいる...。あ奴は、とっくに将軍の職を辞して、隠遁した筈...。そうか、蜀の危機と知って出て来たのだな。面白い…;。馬超には積年の恨みがある。」
夏侯覇は、過去の蜀との戦の際に、幾度も馬超と戦場で顔を合わせていた。
そして、いつも馬超に翻弄され、都度敗北して来た苦い経験があった。
「老いぼれの分際で、また俺の前に姿を現したか。今度こそは、俺が恨みを晴らす番だ。一気に片を付けてやる。全軍、逆落としで下にいる軍勢を蹴散らせ‼︎」
「将軍、お待ちを...!此れは罠かも….」
再びそう叫んだ司馬炎に、夏侯覇は怒りに満ちた眼を向けた。
「ふざけた事を言うな!! 我らが位置するのは丘の上。敵は丘の下で這いつくばっているのだぞ。この有利な体制で攻撃を仕掛けなくてどうするのだ。臆病風に吹かれたのなら、お前は此処で待っていろ!!」
その声と共に、夏侯覇は騎乗した馬の腹を蹴った。
そして騎馬隊の先頭に立ったまま、全速力で坂を駆け下りて行った。
夏侯覇達が一気呵成に坂を駆け降りるのを認めた麓の馬超隊は、一糸乱れぬ動きで左右に隊列を開き、鶴翼の陣形を取った。
それを見た夏侯覇は、馬上で嘲笑った。
「ふん….俺達を包み込もうと言うのか。鶴翼というのは、大軍が少数の軍を粉砕する時にこそ有効なのだ。ほぼ同数の相手、しかも騎馬相手に、歩兵隊がこんな手を使うとは…。馬超も衰えたな。」
夏侯覇は後方に合図を送ると、騎馬達をほぼ三列縦隊に揃えて、馬超陣の真ん中を目掛けて突っ込んで行った。
その時、前方を走る夏侯覇隊の騎馬が脚を取られて転倒し、馬上にいた兵達が次々と地に投げ出された。
【何が起こった?】
剣を手にして振り返った夏侯覇に向かって、副将が叫んだ。
【地の草が、あちこちで輪に結ばれております!!。これに脚を引っ掛けた馬達が転倒したんです。】
それを聞いた夏侯覇の頭に血が昇った。
「おのれ、小賢しい真似を。構わん、一気に突っ切って敵陣を乱すのだ。」
すると馬超軍の歩兵達は、夏侯覇隊が突っ込んで来る直前に、蛇のように畝る陣形に変化し、魏の騎馬達の周辺に取り付いた。
それを丘陵の上から見た司馬炎は、思わず唸った。
「此れは...単なる鶴翼ではない….。かつて諸葛孔明が編み出したとされる幻の陣だ。」
その言葉に、司馬炎の横で馬上に並ぶ将校が振り向いた。
「幻の陣?何です、それは...?」
「『迷宮鉄鎖の陣』。騎馬の列を分断して包み込み、周囲を蛇のように巡る事で、騎馬の方向感覚を失わせ、機動力を奪う陣だ。迷宮鉄鎖に巻き込まれた騎馬隊は、隊列を分断され、馬は立ち往生する。馬の機動力を奪われれば、騎馬隊の戦力は激減する。立ち往生した馬上に乗る騎兵は、歩兵の槍の格好の的となる。そうは言っても、これは並の部隊で出来る陣ではない。流石に馬超隊だ。相当に調練されている…..」
司馬炎達が丘から見守る中、夏侯覇の率いる魏の騎馬隊は、次々と動きを封じられて立ち往生へと追い込まれて行った。
そして、馬超軍の蛇のような陣形に翻弄されたまま、次々と陣の内側に呑み込まれて行った。
「拙い….。夏侯覇将軍が、蜀軍の中に孤立したぞ!! 将軍が討たれる....」
司馬炎の叫びの中、夏侯覇は馬上で剣を振るい、次々と打ちかかる歩兵達に懸命に応戦していた。
その時、夏侯覇を取り囲む歩兵達が一斉に動き、夏侯覇の目の前に一筋の走路が生まれた。
それを目にした夏侯覇が、馬の腹を蹴り、疾駆で包囲を抜けようとしたその時....。
一本の綱が、夏侯覇の乗る馬の前方に張られ、それに脚を取られた馬が転倒した。
そして起き上がろうとした夏侯覇の頭上からは、麻縄の網が覆いかぶさった。
網に動きを絡め取られた夏侯覇に、周囲の兵達が一斉に群がった。
剣を奪われ、地面に組み伏せられた夏侯覇の目の前に、大きな黒馬に乗った男が駆け寄り、夏侯覇を見下ろした。
「まだまだ未熟だな。こんな事ではいつまで経っても俺には勝てんぞ‼︎」
その声に眼を上げた夏侯覇の前に立ったのは、白い顎髭の精悍な老将だった。
「馬超‼︎ おのれ....!!」
「夏侯覇。そんな姿で怒鳴り散らして何になる。大将が捕らえられた今、もう勝負は決しておるぞ。」
「そうか。魏の騎馬隊を打ち破ったか。しかも総大将の夏侯覇を捕縛するとは...。予想外の戦果だ!」
馬超隊からの伝令の知らせを受けて、陣営にいた姜維は思わず喝采した。
その横で、華真が、冷静な表情を崩さないまま姜維に話しかけた。
「宰相殿。まだもう一つの山場が残っておりますぞ。」
華真の声に、姜維は表情を引き締めた。
「そうでした...。呉水軍にも、手柄を立てて貰わねば。孫皓殿は、もう呉水軍の近くに到達している頃ですね。」
「ところで、捕縛した夏侯覇殿は、今はどのように...?」
華真からの問いに、直ぐに後ろにいた王平が答えた。
「虜囚の辱めは受けたくない、早く殺せ‼︎...と叫び続け、自ら舌を噛もうとしたので、猿口輪を噛ませ、馬超将軍が自ら此方へと連行している最中ですが...」
「それで結構です。此処に到着したら、夏侯覇殿と話がしたいのですが...宜しいですか?」
突然の華真からの申し出に、姜維は驚きながらもすぐに了承した。
「それは宜しいのですが....一体どうされようと....?」




