夏侯覇、動く
それからニ十日後、呉に潜入していた魏の偵察兵が、知らせを携えて長安に戻って来た。
「父上。呉の水軍が動きましたぞ。既に船隊を整えて、長江を遡上しております。船隊の兵数は約一万。蜀領内に向かっております。」
司馬昭からの報告に、司馬懿は苦虫を噛んだような表情を見せた。
「本当に水軍を動かしたのか‼︎ 小癪な真似を。今の長江の流れは、未だ緩やかだが、雪解け時期ともなれば増水して急流となるので遡上に支障が出る。今しかないという事だな。」
怒りを含んだ司馬懿の言葉の裏を探るように、司馬昭が言った。
「それにしても、呉は早く決断しましたな。このような速断、今の呉の者共には無理と思っておりましたが...」
「孫皓という男、意外にやるではないか。今の今、どのようにして水軍を動かしたかも含めて、今後の呉を観る時、この者には注意せねばならぬな。ともあれ、直ぐに長江沿いで、呉戦隊を襲撃出来る地点の洗い出しにかかれ。」
「もうやっております。蜀の国境に近い場所に、湖碧という狭い渓谷を見つけてあります。」
司馬昭は、湖碧峡谷についての報告を始めた。
「湖碧は、両岸から川に向かって岩壁が迫り出しており、両岸の崖上から呉戦隊を攻撃するには格好の場所です。弩弓ならば、甲板を蜂の巣に出来ますし、投石機も射程内です。」
「よし。蜀に派遣している軍の一部を割き、湖碧に派遣せよ。呉戦隊が我が軍を見ても引き返さぬようなら、攻撃の命令を出せ。」
「承知しました。蜀国境の後詰の軍の一部を、湖碧へと向かわせて待ち伏せさせるようにします。」
魏軍の動きは、直ぐに蜀の前線本部にも、偵察兵によって知らされて来た。
「宰相。魏が動きましたぞ。後詰の兵のうち四個小隊が南下して長江に向かいました。」
王平からの報告に、姜維は予測通りという表情で頷いた。
「よし。我が軍の工兵隊は、既に作業を開始しておろうな? 南下してくる魏軍に工兵隊の動きを察知されぬように、十分に注意を払えと伝えよ。」
姜維の横にいた王平が、力強く己の胸を叩いた。
「呉水軍の到達まで五日。いよいよ勝負の時が、やってきましたね。」
そして五日後。
魏の前線にいる夏侯覇の元に、斥候兵からの報告が入った。
「何? 南の荊州の街道を、大規模な荷馬車隊が行進して、蜀に向かって来ているだと....。其奴らが何者かは、分かっておるのか?」
将軍からの直直の問いに、斥候兵は緊張した声音で答えた。
「判りません...。しかし馬車の荷は、干米のようです。軍糧と思われます。恐らく食糧が不足している蜀軍に補給に来たのではないでしょうか….。」
それを聞いた夏侯覇の眼が光った。
「そうか...呉は、水軍を送っただけでなく、同時に糧食も運んで来たのだな。このままでは、兵糧が蜀の手元に入ってしまう。直ぐに出陣だ。その荷馬車隊を襲い、荷を奪うのだ。」
勇んで立ち上がった夏侯覇の前に、司馬炎が立ちはだかった。
「お待ち下さい。総大将がそちらに向かえば、前線の指揮を執るものがいなくなりますぞ。」
そう言った司馬炎に向かって、夏侯覇が吠えた。
「あの荷が蜀の手に入らぬ限り、蜀軍の今後の動きは封じられる。ならば、荷馬車隊の襲撃に我々が向かったと知れば蜀軍はそれを止めに追撃してくる。だからこそ、此処は俺でなくては駄目なのだ。言ったろう。戦には臨機応変が必要だと。貴様、此処で俺が、みすみす兵糧が蜀に届くのを、指を咥えて見ていると思うのか!!」
そう言うと、夏侯覇は立ち上がって出陣を命じた。
足早に場を立ち去る夏侯覇の後を、慌てて司馬炎が追った。
「お待ち下さい、将軍!! 状況把握が未だ不十分です。敵の罠があるやもしれません!!」
夏侯覇は、司馬炎を振り返ると、せせら笑うように吐き捨てた。
「言った筈だ。動くべき時を見つけたら、俺は躊躇なく動くと….。優柔不断なお前は、後方で見物を決め込んでいると良かろう。それが、お前には似合っている!!」
夏侯覇は数百騎の騎馬隊を直ぐに整えると、自ら先頭に立って馬を走らせ始めた。
夏侯覇の騎馬隊は、馬を駆って走りに走り、やがて街道を下に望む丘陵の上に達した。眼下には、長い隊列を組んで行進してくる荷馬車の群れが見えた。
「よし、逆落としの攻撃で、一気に蹴散らすぞ!!」
その時、横に立つ副将が叫んだ。
「将軍、お待ちください。あれは...」
副将が指差す先に眼をやった夏侯覇が見たのは、丘陵の麓にある灌木の茂みから沸き立つように現れた数百の軍勢だった。




