姜維の憂鬱
夜の冷気に包まれた帳の中、姜維は眼を覚まし、寝台から身を起こすと、側の燭台に火を灯した。
成都は比較的温暖な気候とはいえ、真冬ともなれば寒さは厳しい。
姜維は寝間着の胸元を寄せると、思わず身震いをした。
夜中に目覚める事が多くなった。今日も昼間の長旅で疲れている筈なのに熟睡が出来ない。
身体の疲れよりも、心労が強いせいか...と姜維は溜息を漏らした。
そして寝台を立つと、囲炉裏に火を熾した。
最初は埋み火だった囲炉裏の熾し火が、徐々に大きくなり、姜維の顔を照らし始めた。
「この国の諍いも、最初はこの埋み火のように、小さなものだったのだ。それにもっと早く気が付いていれば...」
姜維はそう小さく呟くと、再び溜息を漏らした。
亡き諸葛亮孔明の遺志を受けて宰相の座を引き継いでから、もう五年が過ぎた。
その間の己の行動を頭の中で反芻する度に、姜維は後悔の念を強くする。
やはり、戦に拘りすぎたか...と姜維は思う。
姜維は、諸葛亮孔明の悲願であった北伐を、孔明の死後もずっと継続して来た。
しかし強大化する魏を相手に、年を追うごとに苦戦を強いられるようになった。
それにも関わらず、魏を討つ事ばかりに拘り過ぎたのかもしれない。
戦ばかりに気を取られて、内政への気配りが欠けていたのだろう。
宰相である自分が戦にのめり込む事に、帝の劉禅もその周囲の者達も、冷ややかな視線を送り始めていた事にもっと早く気が付くべきだったのだ。
姜維は、改めてそう思う。
その思いが、囲炉裏の火の暖(あたたjかさを、苦い冷たさへと変えて行く。
その苦さの中、姜維は、諸葛亮孔明から蜀の将来を託された己の不甲斐なさに歯軋りをした。
そもそも、あの孔明すらも果たし得なかった北伐を、自分が成し遂げてみせるなどと意気込んだこと自体が、己の分を弁えていなかったのかもしれない。
北伐は、魏の脅威から国を守るだけでなく、蜀が三国を統一する為には、どうしても必要なものだった。
しかし蜀は、北伐を巡ってはこれまで何度も辛酸を舐めてきた。
諸葛亮孔明が自ら采配を採っていた時期には、勝つ機会もあったのだが...。
そう、機会はあったのだ。
街亭の戦いで、あの馬謖が諸葛亮孔明の命に背いて、馬鹿な事をしなければ...。
街亭の戦いの時、姜維は魏軍の将校として、前線の一角にいた。
蜀軍が正面から来るとばかり思い込んでいた魏軍は、孔明による側面からのの思いがけない奇襲によって軍を分断され、苦戦に陥った。
それは、誰もが予想していなかった奇襲だった。
それなのに、姜維は周囲から蜀への内通を疑われた。
どう考えても濡衣だったが、姜維の所属大隊の上級将校は、己の読み間違いを、姜維の裏切りとして上奏した。
その結果、前線にいた姜維が率いる小隊は、魏蜀の両軍から挟み撃ちにされてしまった。
濡衣を着せられた事を知った姜維は、止む無く蜀に投降した。
孔明は、投降して来た姜維達を、蹂躙する事なく受け入れた。
その後、動揺する魏軍に向けて、孔明は蜀軍本隊を街亭で対峙させた。
その時、蜀軍の指揮を採ったのが馬謖だった。
馬謖は、若くして俊才として知られ、孔明はその才を高く評価していた。
それ故に大軍の指揮に抜擢したのだが...。
「あれが、孔明先生の人生最大の誤算だったかもしれぬな...」
囲炉裏の火に手を差し伸べながら、姜維は呟いた。
あの時の孔明の策は、奇襲で相手を分断した勢いのまま魏軍と正面対峙し、魏軍に圧力をかけ続ける事だった。
ところが、功を焦った馬謖は、あろう事か主力の軍を近郊にあった南山の頂上へと登らせた。
山頂からの逆落としの攻撃で、一気に片を付けようとしたのだ。
その時の魏軍の総大将は、老練な張郃だった。
百戦錬磨の張郃は、蜀軍の動きを察知すると、直ぐに南山の麓にある水路を遮断して、山上の蜀軍への水補給を絶った。
水を絶たれた蜀軍は、戦意を喪失し、魏軍に大敗した。
あの時、馬謖が功を焦らず、孔明の策通りに事を進めていれば、大敗したのは魏軍だっただろう。
ところが、馬謖が戦の潮目を変えてしまったと、姜維は思う。
あの時、奥備えを失っていた魏軍主力は、前線に孤立して動揺していた。
此処ではじっくりと攻めるべきだったのだ。
それなのに、一気に片を付けようとして無謀な作戦に突っ込んだ事で、蜀軍の主力は壊滅した。
軍命に背いた馬謖を、孔明は止む無く処刑した。
そして蜀に投降した姜維は、蜀陣の中で、孔明と初めて会った。
その時姜維は、孔明の聡明さと人柄に、一度で魅せられた。
「俺はあの時、この丞相の為ならば死ねると思った。だから、蜀に骨を埋める事を決意したのだ。」
馬謖を失った孔明は、姜維に馬謖に劣らぬ才能を見出した。
その後、孔明は常に姜維を傍に置いて、己の全てを伝授して後継者に育てて行った。
「孔明先生は、俺の恩人であり、人生の師だ。しかし俺の才など孔明先生の足下にも及ばぬ。その結果が、今だ....」
