2話 不安げな火曜日
ナオは、家の中をウロウロと歩き回っていた。
朝起きて、朝食を食べてから、ずっとそうしている。
キョロキョロと辺りを見回しながら、ゆっくりと歩く。まるで何かを探しているかのように。
マイは彼女の一歩後ろを着いて回りながら、どこか不安を覚えていた。
「ねえ、ナオちゃん、」
「なに?」
マイが呼びかけるが、ナオは立ち止まることも振り向くこともない。ただ二文字だけ返して、彼女はそのまま歩く。
マイの不安は、一段と大きくなった。
昨日、ナオが手首を切ろうとしたり、ナイフを喉元に向けたりするのを目の前で見ているマイは、今日はずっとナオと一緒にいる。
いわば監視。彼女が死のうとするのを阻止するために。
「あ」
突然、ナオが声を上げた。そしていきなり走り出す。
マイは驚き、また走りにくいメイド服を着ていることもあって、少し出遅れてしまった。
その隙に、ナオは突き当たりにあった棚からロープを取る。
そして一切の躊躇なく、首に巻き付ける。
「ナオちゃん!」
首にロープを巻いたまままた走り出すナオを、追いかけるマイ。
早く。早く追いつかなければ。
しかし、マイの気持ちとは裏腹に、その距離はどんどんと離れていく。
ナオはキョロキョロと周りを見渡しながら走る。
ロープの片側をかけるものを探しているのだ。首を吊るために。
やがて彼女はドアを見つける。
このドアは内側から鍵がかけられることを、ナオは知っていた。
この部屋は、確か倉庫だ。ロープを引っ掛ける場所なんて、いくらでもありそうである。
後ろを振り返る。マイはもうかなり離れていて、追いつくことはできなそうだ。
彼女は少し笑って、そのドアの方へ駆けていく。
と、突然ドアが開いて、誰かにぶつかった。
「あら」
中から出てきたのはアリサだった。
「何してるの?」
微笑み首を傾げるアリサ。ナオは返事を返さなかった。
「アリサ様っ!その、ロープが、」
やがて追いついてきたマイは、息を切らしながらアリサに言う。
アリサはようやく合点が言ったような顔をして、ああ、とだけ零した。
「駄目でしょうナオ。マイに迷惑をかけちゃあ」
薄く微笑み、アリサはナオの首からするするとロープを外した。
安堵の表情を見せるマイとは裏腹に、ナオは無表情のままだ。
少しの無言の後、ナオは表情を変えずに零した。
「……じゃあ姉さまが殺してくれる?」
アリサもまた、表情を変えることなく答える。
「絶対に嫌よ。どうしてあなたのために殺人犯にならなければいけないの?」
微笑むアリサ。無表情のナオ。目を合わせたまま、二人は動かない。
マイはそんな二人を交互に見ながら、不安そうな顔を浮かべていた。
少しして、ナオがふっと目を逸らした。それが合図のように、二人は背を向けてそれぞれ逆方向へと歩き出す。
マイも少し早足でナオの後ろを追った。
「ナオちゃん、」
「なに」
少し歩いて、マイが立ち止まる。
呼び掛けると、ナオも足を止め振り返った。
「……。今日、ナオちゃんの部屋で、一緒に寝てもいい?」
マイは口角を上げて、そう問いかける。少しだけ震えた声で。
「別にいいけど。」
ナオはそう答えると、また前を向き黙って歩く。
マイは立ち止まったまま、一瞬泣きそうな顔をして、けれどすぐにナオを追いかけた。
それからナオが自室に戻るまで、二人の間に会話はなかった。
*
その日の夜。
どこまで行っても真っ白な、終わりのなさそうな世界。
ナオはそこに一人立っていた。
どこかぼんやりとしている世界。ナオはこれは夢だ、と即座に気が付いたが、だからといって何かをするわけでもなく。
その場でぼうっとしているナオに、後ろから声がかかる。
「えっと、こんばんは~……で、いいのかな」
ナオが振り向くと、そこには桃色の髪をお下げに結った少女が立っていた。
「……誰?」
「あっごめんね、名乗りもせずに……!」
ナオの冷たい声に、少女は少したじろいで、そしてへらりと笑う。
「ワタシはエマ。いわゆる死神……みたいな?」
よろしくね、とエマが片手を差し出す。
ナオは目をぱちぱちさせて、すぐにその手を取って言った。
「なら、私を殺してよ」
今度はエマが目をぱちぱちさせる。
ナオの声色は、心なしか少し明るく、嬉しそうだった。口角も上がり、まるで楽しい未来のことを語るような顔。
エマは少し考える素振りを見せたあと、申し訳なさそうな顔をして答える。
「……ごめんね、それはできないんだ」
途端にナオの顔から表情が消える。
「なんで」
「そういうルールっていうか……ワタシ的にはその……うーん難しいな」
「よく分からないんだけど」
ナオの問いに、エマは困ったように笑う。
納得のいかない様子でそのまま黙ってしまったナオに、エマは少しだけ微笑んだあと、
「……ナオちゃんはどうして死にたいの?」
と問いかけた。
「……」
ナオは依然、黙ったままだ。だが先程までとは違い、何か答えを探しているような、そんな風にエマは思った。
エマはそのまま、ナオの言葉を待つ。
しかし、いくら待っていてもナオからの答えは返っては来なかった。
「ナオちゃん、えっとね、」
痺れを切らしたエマがナオに声をかけたとき、突然真っ白な世界が更に明るく、白くなった。
そろそろ時間か、とエマは溜め息を吐く。
「……また明日の夜もお話しに来てもいいかな?」
エマがそう問うと、ナオはやっと口を開いた。
「……別にいいけど」
どんどん明るく、白くなっていく世界。
お互いの姿ももはや見えなくなっていく。
「じゃあ、また明日ね!おはよう!」
エマの明るい声に返事を返さないまま、ナオはまた、死について考える。
どうして死にたいのかという問いに、答えることができなかった。
だが、死にたいという気持ちだけは、ナオの中に確かにあった。
今日は不安げな火曜日。
明日こそは死ぬのだと、心の中で誓ったあと、ナオの意識は暗闇へと溶けていった。