プロローグ
ある夏の日曜日。
「ねえ。どこか遠くに行ってみたくないかしら?」
夕食の後、そう言って、アリサが悪戯っぽく笑った。
「どうしたの姉さま、またそんな急に……」
頬杖をついて、またか……とでも言いたげな様子でナオは返事をする。
実際、アリサが突然このようなことを言うのは珍しいことではなかった。
以前、ファッションショーをしてみたくない?と言い、屋敷内でショーをするためにメイド達にあらゆる服とその準備をさせたこともある。彼女は大変満足そうにしていたが、周りからしてみれば大迷惑である。
ナオは準備などで駆り出されたりはしなかったが、姉のファッションショーなんかを見たところでさほど面白くないのが本音であった。
しかし、ナオの専属メイドが、ここぞとばかりに手を挙げ主張する。
「あたし!行ってみたいです!ねぇナオちゃん?」
「いや別に……」
マイがきらきらした目で見つめてくるのを、ナオは目を逸らして溜め息を吐いた。
マイはナオの幼馴染である。
とある事情から、彼女は現在住み込みでナオの専属メイドをしている。
専属メイドと言っても、彼女はあまりメイドらしい言動はしないし、さながら同居人のようである。
「そうよね、行きたいわよねマイ。カレンはどうなの?」
アリサが満足そうに微笑み、後ろに立つ自分のメイドにも同じように問う。
アリサの専属メイドであるカレンは、困ったように笑ってから、小さめのスケッチブックにペンを走らせた。
『興味はあります』
カレンは失声症であり、現在はスケッチブックを手放せずにいる。
彼女も住み込みのメイドとして働いているが、しっかりと自分の仕事を責任を持って遂行している。マイとは大違いである。
「そうよね」
アリサがますます悪戯っぽく笑う。
彼女は現在この屋敷の長である。両親が急死してからもうそろそろ一年が経つ。
大学に通いながら、両親が行っていた事業なども受け持ち、彼女はかなり忙しい日々を過ごしていた。
ずっとここで仕事ばかりするのもうんざり、冒険したいじゃない?とアリサは言う。
突拍子もないことを言って楽しんでいることの方が多い気がする、とナオは思ったが口にはしなかった。
「というか、どこかってどこに行く気なの?姉さまも課題とかあるんでしょ」
現在は夏季休暇、いわゆる夏休みであるが、その分課題も多く渡されている。
同じ大学に通うナオは、アリサの課題の量も何となくは分かる。どこか遠くに行けるほどの余裕はないだろう。
「そうねえ……例えば、ハワイ、とか?」
アリサは笑顔を崩さないまま、そう言ってチケットを取り出し、テーブルに並べた。
「は、ハワイ……!?えっ本物ですか!?」
マイが身を乗り出してチケットを眺める。ハワイ行きの航空券付き宿泊券が、ちょうど四人分。間違いなく本物だった。
「海外でバカンスも、たまにはいいでしょう?」
嫌なことは忘れて楽しみましょうとアリサは笑う。
マイは依然チケットを見つめていて、ナオは呆れたように問いかけた。
「わざわざチケット買ってきたの?行くって言うかもわからないのに」
「いいえ、家庭教師に頂いたの。福引で当たったんだけれど、彼は旅行には興味がないらしくって」
アリサがそう答えると、ナオは興味なさげにふぅん、とだけ返す。
「……で、いつなの?」
たった一言、それを聞いて、アリサは興味あるんじゃないと笑った。
「来週の日曜日よ。ちょうど一週間後ね」
ナオはふぅん、と未だ興味がなさそうにしていた。しかし少しだけ、ほんの少しだけ口角が緩んでいる。
「やったー!楽しみすぎてもう明日から寢らんないかも」
「マイ、楽しみなのはいいけれど、ちゃんと仕事はして頂戴ね?」
くるくると回ってはしゃぐマイに、微笑みながら注意をするアリサ。
マイは分かってますよぅ、と焦ったように零して、後回しにしていた仕事に取り掛かるため駆け足で部屋を出て行った。
アリサもその後を追うように、満足気に自分の部屋へと戻っていく。
『楽しみですね』
カレンがそう書いたスケッチブックを持って、アリサの後ろを着いていった。
「まぁ、ね」
一人残されたナオは、そう呟いて、少し笑った。
どうやら、わくわくする一週間になりそうだ。