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Bloody Cross

江戸より前から現在まで変わらず受け継がれている剣術『地影流対人抜刀術』。その地影流を継承してきた神代家に生まれた次男、それが神代大希だった。

本家の敷地内にある剣道場は精神や剣術を学びに来た生徒で溢れ、稽古が終わればいつも賑やかだ。大希も四歳離れた長男と共に小さい頃から稽古に参加し、鍛練を続けてきた。まさに充実した日々。


───だが大希はその日常が嫌いだった。


古くからのしきたりで、家も剣術の全ても継承するのは長男だと決まっている。それは物心ついた頃から理解していた。自分は次男だからその資格はない、と。だからそんなことはどうでも良かったし興味もなかった。ただ剣術が好きで楽しい、だから鍛練する。大希にとってはそれだけだった。


───でも大希はその日常が嫌いだった。


師範であり現継承者である父、神代然來(かみしろぜんらい)は大希を全く見ようとしなかった。どんなに基礎を磨いても、模擬戦で他の生徒に勝っても、長男である神代剛希(かみしろごうき)に勝っても。

大希は父に褒められた記憶はない。褒められるも叱られるも、いつも長男や手合わせした相手の生徒だけ。

しかし母と姉の振る舞いだけは何故か違った。稽古の外では兄の剛希に対しては厳しく、大希に対してはとても優しかった。その差は異常な程に。

自分だけが甘やかされているとも言えるその環境が不快でしかなかった。


───だから大希はその日常が嫌いだった。


小学六年の二月、冷たい雨が降る放課後の帰り道。独りで歩くその足は自宅ではなく通学路の途中にある古びた神社の境内へと向かう。

雨の日は決まって訪れるお気に入りの場所は、今日は相席のようだった。洋風な装飾の首輪が特徴的な黒猫。しっとり濡れて冷えきった体で膝の上に乗って来た。

濡れた体をダッフルコートの中で包むように抱いてやる。


「お前も雨宿りか?」

「……ニャア」


頭を撫でる手とお腹で体温を感じながら雨の降り頻る境内を何も考えず眺めた。

別に傘を忘れたわけではない。ただ真っ直ぐ家に帰るのが嫌なだけ。だから雨宿りを言い訳にできる日だけはこうしてこの場所に来る。


「……痛っ!」


一瞬だけピリッとした痛みが手首に走る。少し構いすぎたか…。

少しだけ滴った血を噛んだ猫自身が舐める。


「まったく……ヤンチャだなお前」


粗方舐められた部分に傷は見当たらなかった。その後は夕方五時を知らせる鐘が鳴るまで一人と一匹で変わらない景色を眺めていた。



中学に入ってからも父の大希に対する態度は変わらず、より顕著なものとなっていった。

全体稽古でも模擬戦でも、大希だけが称賛も叱責も無い。

母と姉の優しさもその異常さを強めていった。さらには剣術の稽古と重なる時間に求めてもいない華道や茶道、料理といった技術を熱心に指導してきた。

それらは意図的に大希から剣術鍛練の意欲を削ぐように。

剣術以外の分野でやりがいを見出ださせようとするように。

だが既に第二次反抗期に突入していた大希にとっては逆効果だった。だから母や姉の指導をサボって可能な限り稽古には参加した。変わらず父からは空気のように扱われるが、居ても居なくても同じなら居てやろうと思ったからだ。誰譲りか知らない図太さを持っているのは自覚していた。


中学一年の夏休み、稽古が終わり誰も居なくなった道場。オレンジ色の夕陽だけで照らされる稽古場で、大希はいつも通り独りで自主稽古をこなす。手には鞘付きの模造刀。ここ何日か稽古で扱っていた居合術の練習だ。

相変わらず大希にだけ指導はない。だから他の生徒達への指導を記憶して、みんなが帰った後に自主連で補填する。それが最近のいつも通りの流れだった。


「……うーん…………ん?」


腰の高さ、足の運び、抜刀後の刃の流れや角度。答え合わせは出来ないが昼間の稽古で剛希や他の生徒が指導されていたものに近いであろう型は再現できた。と同時に妙な既視感を覚える。


―――この技、前にどこかで……


見た。確かに見た。その当時の記憶はすぐに思い出せた。見たのは小学三年の冬、トイレに起きた朝方に偶然少しだけ覗き見ることが出来た、前当主である神代皇然の早朝鍛練だ。

当時覗きはバレてすぐに部屋へ戻された。だが皇然の動きは確かに記憶している。

そしてそれは今しがた何度も練習を繰り返していた居合の型と同じだった。


―――いや、違う。


似ているがやはり少し違う気がする。

変わらず濃い夕陽の差し込む一人きりの道場。目線の真っ正面の十メートル程離れた所には抜刀術の稽古で使う打ち込み用の大きな藁の的が隅に数体まとめて片付けられている。


模造刀を鞘に納めて眼を閉じ、深く息を吸って、そして吐いた。型に入る直前の精神集中。


「たしか……



構えながら記憶と重ねる。腰の高さ、足の運び、抜刀までの身体の流れを。

模造刀の柄を握る右手に力を込めた。

そして皇然が抜刀する直前に小さく発した言葉。居合の型の名称かは解らないが雑音の一切無い道場の空気を小さく揺らしたそれは、覗いていた大希の耳にもたしかに聴こえた。


───たしか名前は……


………ソウジン…」


庭に繋がる開け放たれたままの扉から風が入ってきて道場内の空間を緩やかに揺らす。

その風を一閃するように、一気に抜刀した。

ただ何の気無しに、理由もなく、記憶の中の祖父の動きをなぞってみただけだった。


バチッ!!


「っ!?」


抜刀の直後、いやそれと同時に電気が弾けるような鋭い音と閃光。

目の前でカメラのフラッシュを焚かれたような、というより目の前で小さな稲妻が弾けた感じ。全く予想だにしていなかった出来事に驚いて尻餅をつく。


「はぁ、はぁ……何……?」


道場の中央、尻餅をついた腰を上げ立ち上がる。

体は何ともない。夕陽の差し込む道場内もさっきまでと変わっていない。

だが、右手に持ったままの模造刀を見ると刀身が真っ黒になっていた。それと鼻をつく焦げたような臭い。その臭いの元を辿るように正面に目をやった。


「どうなってんだよ……」


広い道場の端に置かれていた数体の藁の的。離れた位置にあるその一番手前の的の中段辺りがザックリと裂けている。切れ味の悪い刃で無理矢理切り裂いたように。激しい切り口の周囲はうっすら黒く色が変わり、少しだけ煙を上げていた。


「何だ、今のは」

「っ!?」


背後の入口から落ち着き払った声が大希だけの道場に響く。振り向かなくても誰かはすぐ分かった。


「父さん……」

「…………。」


父、神代然來は厳格なオーラを纏いながらゆっくりと近付いてくる。やがて目の前で止まった父の眼は大希の握る焦げた模造刀を見下ろし、その後首だけを動かして破損した藁の的に目を向けた。


「…………。」


然來は何も話さない。

これはマズい状況になったと大希の中に焦りが生じる。普段の一切指導してもらえないことへの腹いせだと思われたかもしれない。現に今の状況だけを見て言えば、大希の持つ模造刀と藁の的の破損周辺の具合が焦げているという点で一致しているくらいだ。

とはいえ先程の現象は伝えようがない。当の大希でさえ理解できていないのだから当然言い訳には使えるはずもない。だから現状だけを見て判断されようものなら大希に弁解の余地はない。日頃の不満から起こした悪戯だと思われても仕方ないが、実際大希は何もしていないのだ。自主稽古の合間に、特に理由もなくただ記憶していた居合の型をなぞってみただけ。本当にそれだけだったのだ。


「あの!……俺は……何も……」

「言い訳は必要ない。全て見ていた」


どうやら誤解を解く必要はないらしい。それよりも父が自主連を見ていたという事実が先行して嬉しさが込み上げる。だがそれは一瞬で消え去った。


「大希」

「は、はい」

「今後一切、お前のこの場所への出入りを禁ずる」


時間が止まったような気がした。感情の揺れのない落ち着いた声で然來は続ける。


「次男であるお前にこの道場で学ぶことは何もないのだ。神代に生まれた身として、そろそろ立場をわきまえろ。お前の鍛練など必要のない事。全て無意味だ」

「なっ、なんで……!?」

「今までは好きにさせていたが、それも今日で終わりだ。これ以上道場内を掻き乱すな。分かったら出ていけ」


一方的に紡がれた全否定の言葉。納得できるはずもない。怒りと一緒に涙が溢れてくる。



「なんだよ……なんだよそれ!!!稽古の邪魔なんかしてないじゃん!!今だって皆が習ってた技を練習してたんだ!!父さんが教えてくれないから!!!」

「当然だ。お前は生徒ではないからな。それにさっきの技など、私は誰にも教えていない」


たしかにそうだ。さっきの意味不明な現象が起きた時だけは、普段の稽古でやっていたものじゃない。古い記憶の中の祖父を真似たのだから。


「勉強だってしてる!家の手伝いだってしてる!誰にも迷惑かけてない!!空いた時間に俺が好きなことやって何が悪いんだよ!?」

「お前の鍛練そのものが迷惑なのだ!」

「っ!?」

「良いか。求められていない者が余計な事をすればする程、真に結果を出さねばならない者の成長を妨げる。神代の『地影流』を、剣術の全てを継ぐのはお前ではない」

「…………。」

「この家の誰も、お前に剣術を学ぶことなど求めてはいない。分かったら家に戻りなさい」


そう言って父は破損した藁の的を外の物置へと運んでいった。さっきの現象には一切触れず、ただ一方的に大希を全否定する言葉を紡いだ然來の背中が離れていく。

久しぶりにした父との会話は、大希から剣術の向上心を刈り取り、空いたスペースを虚無感が埋め尽くした。



それから数日。まだ夏休みの真っ只中。強めの雨が地面を叩くのを神社の境内のお気に入りの場所からぼーっと眺める。

あの日から、より一層日常が嫌いになってしまった。


『必要ない』『求められていない』『迷惑』


そんな言葉ばかりがずっと脳内を駆け巡って、さらに虚しさを加速させる。


「……ンニャア~」

「…………。」


その日も相席だった。いつか会った黒猫だ。また馴れ馴れしく膝の上に乗って来て、こちらの心境などお構い無しに寛いでいる。


「図々しいヤツめ……」


懐で丸くなっている猫を見下ろし、頭を撫でてやりながら独り言のようにそう呟いた。


「そういうお前は酷く辛気臭い顔をしとるのう?」

「っ!?」


ビクッと体が反応して顔を上げる。境内の敷地には玉砂利が敷かれているので、雨が降っていようと誰かが近くに来れば音で気付くはずだった。


「じ、爺ちゃん……?」

「久しぶりじゃな、可愛い孫よ」

「可愛いは止めてくれ!俺は男だ!」

「ほっほ~、何を言っとる!孫はいつまでも可愛い存在なんじゃよ」


目の前に現れたのは神代家前代当主である神代皇然だった。当主の座を引き継ぎ隠居している祖父と直接会って話すのは約二年ぶりだろうか。


「じゃが今のお前は可愛いだけでつまらんのう。ワシ譲りの図太さもどっかへやってしまったお前は非常につまらん」

「なんだよそれ」

「たった一度己を否定されたくらいでメソメソするな。ワシをガッカリさせるでない」

「!?……父さんに聞いたの?」

「さ~て、どうじゃろうなぁ~。そんなことより、ここで何をしておる?風情溢れる景色を嗜むには、まだお前は若すぎるぞ」


傘をたたむと、皇然は隣に腰を下ろしてきた。こちらの質問は適当に流して能天気な口調でそんなことを言ってくる。


「家にいてもつまんねぇんだもん」

「宿題は?」

「終わってる」

「家の手伝いは?」

「片付けてきたよ」

「そういうところはさすがじゃな」


昔から面倒事は先に片付けるタイプだ。全ては剣術の鍛練に集中するためにしてきた習慣。もう意味のない習慣だが。


「……のう、孫よ。悔しいか?」


変わらない口調で訊いてくる。やはり皇然は全部知っているようだ。

たしかに悔しい。しかしそれだけじゃない。

悲しさ、虚しさ、色んな感情がずっと胸の中で渦を巻いている。一言ではすぐに返せなかった。でもそれら全部を纏めるなら、やはり『悔しい』のだろう。


「…………。」

「お前が抱いておる感情は神代に生まれたが故の宿命みたいなもんじゃ。だがワシは寧ろ良かったと思っておるがな」

「何が?」

「お前があの形だけの下らん道場剣術を、辞める良いきっかけになった」

「下らないって……」

「だって事実じゃから仕方あるまい。あんなもの実戦では何の役にも立たん。いくら鍛えたところで無意味。時間と才能の無駄遣いじゃ」


前当主とは思えない言葉が飛び出す。まさに暴言だ。


「良いの?前当主がそんなこと言って」

「構わん。もう隠居の身じゃしな。でも念のため内緒じゃぞ?」


悪戯っ子のようにそう言うと、さらに皇然は続ける。


「大希、まだ剣術は好きか?」

「……?、当たり前だろ」

「ほっほ~!そうかそうか!それだけ聞ければ十分じゃ」

「な、なんだよ?」

「受け取れ」


大希の前に何かを差し出してきた。細長い布袋。握った掌に伝わるズシッとした重量と硬い質感。両手で持ち直したそれは中身を見るまでもなく刀だと分かる。

「よし」と立ち上がると、皇然は傘を広げて雨を受け止めていた屋根の下から出た。


「ちょっ、ちょっと爺ちゃん、なにこれ?」

「これからのお前に必要な物じゃ。今日みたいに退屈な日があれば、それを持って神代の別宅まで来い」

「待ってよ!俺に何させる気なの!?」


神社の出口へ歩いていく自由な祖父の背中に声をぶつけると、歩みは止めず顔を少しだけこちらに向けて口を開いた。


「決まっておるじゃろ。ワシの暇潰しの相手じゃ」


とても楽しそうな口調。それを最後に、皇然は神社を後にした。




夏休みということもあり、暇つぶしの相手はすぐに始まった。

基礎鍛練の後はひたすら皇然との手合わせ。勿論手加減はされている。が、それはただの暇潰しの相手なんて優しい表現で収まるものではなかった。


「何をビビっておる?もっと向かってこんか!」

「し、仕方ねぇじゃん!真剣なんて使い慣れてないんだから!」

「心配せんでもお前の刀なぞ当たらんから遠慮せず来い。これではワシがつまらん」

「そんなこと言ったって……」

「度胸が足りんのぅ。……ならばワシからいくぞ?」


皇然はそう言うと右足でタンッと地面を踏み、重心を低くして真剣を構える。

そしてその直後、一瞬で大希の間合いに入ってきた。


「……くっ!!」


老人とは思えない速さの剣撃。それらを何とか受けて凌ぐ。いや、こちらがギリギリのタイミングで防御出来る段階まで手加減されているということだろう。それでも大希は受けるだけで手一杯だ。

四撃目の強烈な一振りを受け切って一旦後ろに飛び大幅に距離をとる。


「無駄じゃ」


流れるように皇然が刀を鞘に納めた。居合術の構え。


「んなっ!まさか!?」


見覚えのある構えに本能が警鐘を鳴らしている。既に皇然の間合いの外だが、本能に従ってもう一度全力で後ろに飛んだ。


「……蒼迅(そうじん)


抜いたのかすら分からない程のあまりに速い一瞬の抜刀。

強烈な閃光と共に同時にバチィィイっ!! と大希の目の前の空間で蒼白い稲妻が大きく弾け、生まれた衝撃波で体が吹き飛ぶ。


「っ!痛ってぇ」


つーっと液体が頬を伝う感覚。触れた手には少量だが血が付いている。他に流血は無いが上着はズタボロになっていた。


「さらに一歩下がったのは良い判断じゃ。でなければ今の一撃で服でなく体が弾けとったわい」

「いやいや!孫を殺す気!?」

「スリルがあって良いじゃろ?」

「本気で死ぬって!!」

「ほっほ~!死にたくなければ向かってこい。無意味な後退はせっかくのチャンスを殺し、勝ちの芽を潰すだけじゃ。それにワシの蒼迅は刀の間合いなど関係ない」

「…………。」

「さぁ立て、孫よ。ワシにとっては暇潰しじゃが、お前がこれを剣術の稽古と捉えたいなら好きにするがよい。ワシからは何も教えんがな」


悪戯っ子のような顔で皇然はまた楽しそうに言う。


「なんだよそれ」

「暇潰しじゃからのう、何も教えん。だから見て覚えろ。今までずっとそうしてきた器用な孫には簡単なことじゃろ?手本は真正面におる。遠慮せず吸収してワシを楽しませてみせぃ」




皇然の暇潰しという名の稽古は高校に入ってからも続いた。

その時間を作るために宿題も家の手伝いも今までよりも手早く終わらせ、母や姉との様々な稽古もしっかりとこなした。変な横槍を入れられて邪魔をされたくないから先手を打ったのだ。

学校、皇然との鍛練、それ以外の時間はアルバイトに費やした。

卒業したらすぐに家を出ると、一人で生きると決めていたから。

そんな高校生活はあっという間に過ぎていった。


「ふむ、なかなかやるようになってきたのぅ」

「当たり前でしょ。何年暇潰しに付き合ってると思ってんの」

「何年も付き合っておきながら、未だワシに傷一つ負わせられんくせに」

「爺ちゃんが強すぎなんだよ……」


卒業式を終えた数日後。この日も皇然宅の裏庭でいつも通りの稽古を終える。


「いつ出発するんじゃ?」

「明後日。だから暇潰しも今日で最後」

「寂しくなるのぅ……。そういえば、香月のところの娘も進学で東京だそうじゃな」

「ん?あぁ、そうみたいだな」

「ちゃんと守ってやれ。好きなんじゃろ?」

「んな!?別にそんなんじゃねぇって!だいたい俺は大学行くわけじゃねぇし」

「ほっほ~!照れる孫も可愛いのぅ!」


皇然は年甲斐もなく大希を弄るのが大好きだ。今日がこうして会える最後の日だとしても、それは変わらなかった。


「うっせーな……。まぁとりあえず今日までありがとうな、爺ちゃん。これは返すよ」

「もうワシのではない。持っていけ」

「いや、でも」

「覚えておけ孫よ。結局人間は誰かの為にしか強くはなれん。じゃから愛でも恋でも友情でもこれからは一層大切にせい」


皇然の真面目な声は久しぶりに聞いた。さらに続く。


「世界が終った時、日常が日常でなくなった時、好きな娘を、友人を、お前自身を守る為にその刀とワシの技がある」

「はは、何言ってんの爺ちゃん」

「何れ解るわい。孫よ」


気がつけばもう夕方で、綺麗なオレンジの西陽が庭全体を染め始めていた。


「じゃあ、そろそろ行くわ」

「次に会う時はお土産を忘れるでないぞ」

「はいはい。それじゃ」




だんだんと小さくなる孫の背中を、皇然はしばらく見つめる。


「これで良いの?」

「寧ろ最善じゃろ」

「貴方がお気に入りの孫を巻き込むとはね」


一人になった裏庭に聞こえる女性の声。皇然は表情を変えることもなく言葉を返す。


「どのみち全人類が巻き込まれることになる。三年後の未来は確定しておるからの。その時が来れば弱い人間は皆死ぬ」

「可愛いお孫さんも死ぬかもしれないわよ?」

「だからワシの剣を託した。何れにしても、あの孫はしぶといから大丈夫じゃ。だが、いざという時は頼むぞ。」

「…………。」

「ワシもそろそろ行かねばならぬ。では、またな……―――」





「ヴォォオオオ!!!」


幾度となく地面から襲ってくる火柱。どんどん精度を増している。


―――思い出せ!爺ちゃんとの稽古を!!


無意味な後退はしない。長期戦にメリットはない。

連続して立ち上る火柱を避けながら、今度は大希の方から間合いに入っていく。

振り下ろされる斧の一撃。それよりも早く足下に滑り込んだ。


「くらえっ!!!」


皇然がよく使っていた、居合抜きから始まる四連続の斬撃。黒山羊の完全な隙を突いて放ったその全てが奴の脚の肉を深く切り裂く。ここで再び黒山羊が膝をついた。刃が届く位置まで首が下がる。

またとないチャンス。その喉元に向け全力で刀を振るった。


ガキィィン!!!!


「んなっ!?」

「ヴォウッ!!」


刃は首には入らない。黒山羊が斧の柄で大希の剣撃を阻んだのだ。初めて見せた素早い防御行動。

そのまま圧倒的な力で刀越しに押し飛ばされる。


「ぅぐっ!?くそっ!」



すぐに起き上がって刀を鞘に納める。まだ黒山羊は体勢を整えられていない。今ならまだチャンスはある。


間合いの関係ない神速の一撃。皇然の前では一度もまともに出せたことはないが、型は完璧に覚えている。とにかく今はどんなことでも試すしかない。

座標は黒山羊の首。全神経を集中させ、一気に抜刀した。


「……蒼迅!」


バチィ!という音と共に手元から広がる閃光。だがそれは弱く一瞬で消え去り、黒山羊には何のダメージも与えられていない。皇然に放った時と同じだ。

黒山羊が完全に立ち上がり、状況は振り出しに戻った。


だが大希は絶望していない。こちらの技が効かないなんてのは長いこと皇然を相手にしてきたから慣れている。さらに今の攻防は一つの糸口を見つけた気がした。

引っ掛かったのはやはり首への攻撃を防いだ時のあの動き。今までの動きから見たら、あの瞬間だけは異様に速かった。


弱点を守る為の反射的行動?

確証はない。でもあれはそう感じさせるだけの意味を持っていた。もう一度狙う価値はある。

刀を握る右手に力を込めた。

周囲に轟く咆哮。それを合図に大希も走り出す。敷地全体から乱雑に上がる火柱。足下に集中して周囲に上がる火柱を確実に避けながら三度黒山羊に近付く。

奴の間合いの手前で目の前に上がった火柱に一瞬目を奪われる。だがこのパターンは二回目だ。

火柱ごと縦に切り裂くように襲ってきた斧を間一髪横へかわす。


「んくぅっ!!」


斧の衝撃で弾ける熱風は避けきれない。顔が、手が、切り裂かれて露になった胴体が熱い空気に晒される。

それでも動きは止めない。目の前には地面に刺さった斧とそれを掴む大きな手。

無謀なのは分かりきっている。それでもこのチャンスを前に、本能が体を動かした。

斧を掴んだままの右手に飛び乗り、そこから手首を越え腕を駆け上がる。


「ヴゥウ!!」


視界の端から迫ってくるのが見える奴の爪。そう、左手の攻撃は残っている。承知の上だ。

肘を越えた。もう一歩で刃が届く。

足が重い。もう体力はほとんど残ってはいない。だからこれはギャンブルだ。勝ち方も定かではない、分の悪いギャンブル。しかし勝たなくてはならない。

皇然は言っていた。好きな娘を、友人を、自身を守る為にこの刀と技があると。

文字通り世界は、目の前の日常は壊れている。今ここで自分が死んでしまえば彼らは守れない。


───だから、こんなとこで死ねない!!!


上腕の隆起した筋肉を足場にしてさらに駆ける。刀は耳元までテイクバックした突きの構え。

首は人間や他の生物にとっても致命傷になり得る部位。とはいえ黒山羊の太い首筋に人間の放つ一太刀で致命傷を与えられるかなど、それこそ分の悪い話。だから首より上に存在する最重要器官への攻撃に全てを賭けた。


ブシュッッ!!!


「っ!!??」


飛ぶ直前、こちらを掴もうとした左手の爪が脇腹や背中を深く抉る。だが止まるわけにはいかない。

狙うは真正面に光る紅い右眼。最後の力を振り絞って全力で飛んだ。


「ぅぉぉぁぁあああああ!!!!!!」


ズシュッ!っと完璧に捉えた刃を勢いそのままに奥深くへ突き刺す。頭蓋に守られた『脳』まで届くように。


「ヴゥォォォォォォオオオオ!!!!!!!!」


空気が揺れるほどの強烈な叫びを上げて膝を崩し苦しむ黒山羊。その揺れる体に大希もバランスを崩して投げ出される。直後立ち所に火柱が周囲に乱雑し、激しい熱風が無防備な体を吹き飛ばした。





「ぅ……んく、ッブッゴホッ!」


受け身も取れず転がった体は瓦礫の山を背もたれに止まった。咳き込むと同時に溢れ出す大量の吐血が体のダメージを十分に自覚させる。


───やったか……?


取り返しの付かない重傷だ。もう体に上手く力が入らない。首が下を向くと腹部の異物感を強調するように木片が腹を貫いているのが目に映った。脇腹と背中の傷も深い。ダラダラと血が外へ流れていく。


ズンッ、ズンッ、ズンッ、ズンッ。


霞む視界の遠くからゆっくりと近付いてくる巨大な影。正体は確かめるまでもない。


「……はは、マジかよ……」


本当の絶望がやって来た。こちらはもう動けない。迎え撃つことも、回避すらもうできない。


「ヴゥウ!ヴゥゥァア!!」


黒山羊がもう目の前までやってきた。右眼は潰れたままだが、どうやら脳への一撃は致命傷には至らなかったらしい。

初めから都合良くいくと思っていたわけではない。でも何とかなると思っていた。脱線した電車から脱出し、魔物の徘徊する駅前からもバット片手にここまで来れた自分なら、使い慣れた刀と培った技をもってすれば何とか出来ると思っていた。思い込んでいただけ。

結果この様。いつか父が言ったように、自分の剣は『無意味』だ。

胡桃、アキ、葵。大切な友人の彼らが今どうなっているかも解らないままここで死ぬ。

大切な人達はおろか、己の命さえも守れない。


自分(にんげん)は、どうしようもなく無力だ。


「ごめん、爺ちゃん……」


黒山羊が斧を振り上げた。


ズシャッ!








「…………っ?」


斧は落ちてこなかった。代わりに鈍い音の後で地面を転がってきたのは黒山羊の頭。直後目の前まで迫っていた大きなシルエットが倒れていく。


───な、なんだ……?


「魔族の『領域』内で、(あるじ)を相手にここまでやるなんてさすがね」


朦朧とする意識の中、黒山羊に代わって霞む視界に現れたのは小さく黒いシルエット。そいつは透き通るように綺麗な女性の声でそう言うと。握っていた剣を収め目の前にしゃがんで被っていたフードを外す。


「惜しかったわねぇ。でも残念、これが貴方の限界。人間は弱い種族だもの」


至近距離に現れたのは、綺麗に整った女性の顔。長く伸びる金色の髪を両サイドで結んでいて、首から下を隠すような長い漆黒のコートが金髪の輝きを一層際立たせている。


この辺りの生き残り?いや違う。それはすぐに悟った。目の前の女の雰囲気が恐ろしく異質に感じたから。崩壊した日常の中だというのに、あまりに落ち着き払った穏やかな表情でほんのり笑みまで浮かべている。

さらにその真ん中に光る紅い瞳。黒山羊と同じ眼。周囲の炎を写して揺らめかせているそれは真っ直ぐ大希を見つめてきた。

もう体は動かないが、精神が、心が本能的に警戒する。

たった今黒山羊の頭部を飛ばしたのは恐らくこいつ。間違いなくただの人間ではない。


「……ぅ……ぉ、前は……?」

「私?行き場の無い野良の悪魔……かしら」


悪魔、確かにそう言った。つまりこいつは人間の皮を被った化け物。


「あ~ぁ、血がいっぱい……勿体無いわぁ」


そう言って徐おもむろに手を伸ばして流れ出る血に触れ、それを自らの口に運んだ。

味わうように指を舐め、頬を赤らめて恍惚の表情を浮かべている。


「……ぁ、はぁ、はぁ……早…く、殺せ」


こいつが本当に悪魔なら、魂でも食いに降りてきたんだろう。何にせよ大希にもう抗う術はない。自分を殺すのが黒山羊から女の悪魔に代わっただけ。もう目もよく見えない。

だが目の前の女の声はまだ聴こえてくる。


「あら、諦めるの?この壊れた世界に、大切な人達を残したままで」


何を言っているんだ?この悪魔は。


「貴方がここで死んだら、胡桃ちゃん達はあっという間に魔族の餌になっちゃうわね。でも世界に魔族が溢れてもうすぐ二時間だから、無惨に食い散らかされていてもおかしくないかも」  


胡桃、そう聴こえた。黒山羊をどうにかして一刻も早く守りに行きたかったその幼馴染の名前が。

なぜこの悪魔が胡桃のことを?……あぁ、もうダメだ。もうまともに頭が働いてくれない。

意識が遠退いていく。


「胡桃……ア、キ……葵、ぉ前らだ……け……は……


―――絶対に生き延びてくれ。


心で願ったその言葉を最後に、大希の心臓は緩やかにその動きを止めた。







『だらしないわね、大希』


自分の名前を呼ばれた気がして目を覚ます。視界は真っ暗闇で、さっきまでいた炎に囲まれたアパートの庭ではない。

右も左も解らない深い闇の中。気がついたらそんな空間に居た。


「ぅ……俺、死んだのか」



すぐにそう思えたのは直前の記憶を覚えていたから。

感覚的に目は開いているつもりなのに自分の体は見えず、地面に足がついている感触もない。まるで精神だけが暗闇の中に囚われているような感覚。


『自分の手で守りなさい。貴方の刀はその為にあるんでしょ?』


また声が聴こえる。深い暗闇の中で至近距離からそう聴こえる。


「何言ってんだよ」


おかしな言葉に大希は笑う。だってもうどうしようもないのだ。

結局その刀を以てしても黒山羊の前では無意味だった。

人間は弱いから。だから化物には勝てない。

誰も救えず、自分の身すら守れずに散っていく

暗闇に囚われているこの精神も、女の悪魔に魂を喰われれば闇の一部になって消えていくのだろう。

友人達への罪悪感と共に、ただただ完全な死を待つだけの時間。


「ごめんな……胡桃」









その直後、柔らかな感触を感じた。


「んふっ!?」


ゆっくり且つ濃厚に押しつけられる人肌よりも熱い温もり。

暗闇に溶けて何も見えない中で、唇にそれが伝わる。

キス……? その疑問はすぐ確信になっていく。

表面を貪るようなねっとりとした感触と、ぼんやり聴こえてくる吐息。そしてどこか甘い匂い。

やがて閉ざした唇を割るように舌が滑り込んでくる。

歯と歯の間をぬるっと通りすぎ、大希の舌を絡めとるように口内を犯してきた


───なんだ……これ……。


これまで経験したことの無い、あまりに深すぎるキス。

その濃厚な愛撫に、舌使いに、脳と感覚の全てが支配されていく。

意識の中に満ちていく言い様の無い幸福感。

これはあの女の仕業なのか?

だとしたらこのキスは、悪魔にとっての食事行為なのかもしれないと大希は蕩ける脳の片隅で思う。

不思議と絶望は無い。恐怖も感じない。

魂が消える直前まで意識を快楽で満たし、苦痛を感じさせないためのキス。

だとしたら悪魔は意外と慈悲深い存在なのか、と心で笑った。


───悪魔に食われるのも、案外悪くない


そのまま快楽に身を委ねていく。

また舌が入ってくる。混ざり合う唾液は甘く、でもどこか鉄の香りがした。

それがするっと喉の奥に流れていき、余韻を残して唇から温もりが離れる。


―――終わった……? じゃあ、俺はもう…





……トックン。


『さぁ、起きて』


……トクンッ。


『貴方はここでは終われない』


ドックンッ!!


「……ぅぐっ!っはぁ、っはぁ」

「おはよう。いや、おめでとうと言うべきかしら」


暗闇の中で聴こえていたのと同じ女の声が今度は目の前から聴こえる。開いた目にはさっきまでの戦場が広がっていた。が視界を遮るように女の顔が近付いてきて、温かく柔らかいものを感じる。闇の中で感じたのと同じ感触。しかし今回は唇が軽く触れただけで女の悪魔はキスを止めた。


意識が戻った……?視界も霞んではいない。手足の感覚も戻っている。背中の痛みも、瓦礫の木材に貫かれた腹の激痛も感じる。

おかしい。明らかにおかしい。この意識の回復がではない。

全身の痛みとは別に、何かが身体の表面を、内側をズルズルと這いずるような感覚。経験したことの無いおかしなその感覚が大希の中に渦巻いている。強心剤でも打ったようにドックッ、ドックッと激しく脈打つ心臓に合わせて、得体の知れない何かが背中や胸の傷をなぞるようにズズズズッと体内を駆け回る。


「ふふっ、もう修復が始まった。やっぱりすぐ馴染んできたわね」

「くっ、ぉ……俺に、何を……した!?」

「弱い人間(あなた)を少しだけ強くしてあげたの」


胸元を見る。黒山羊に引き裂かれた胸の裂傷が、ズルズルと虫の這うような感覚に合わせて塞がっていく。巻き戻しの映像を見ているようにゆっくりと小さくなり、痕も残らず完全に傷は消えた。

さらに腹部にも集中し始める。腹の中を大量の何かが蠢く。


「ぅぐっ……ぁ、はぁっ……はぁっ……うっ!」

「私の血が傷を再生してるの。貴方の血と交ざりながら」

「な……なん、で」

「あ、これ邪魔ね」


そう言うと女は腹部を貫いている木材を握り、何の躊躇いもなく一気に引き抜いた。ブシュッ!っと吹き出した血が女の愉しそうに笑う顔を汚す。

反動でうつ伏せに倒れそうになる体を、どうにか手で支えた。


「グブッ!ゴブァッ!!!」


ぐちゃぐちゃになった体内から迫り上がってきた血が口からも溢れ、すぐに異様な感覚がぽっかり空いた腹部を埋めるように渦巻いて修復を始める。

同時に感じる恐怖。体が内側から作り変えられていくような、人間でなくなっていくような、修復が進むにつれて恐怖が膨れ上がる。

だが感情を整理する間もなく、たった数秒で痕も残さず完全に再生を終えてしまった。


「はぁ、はぁ、はぁ……俺は……俺は……」


───化物にされたのか……?


自失した肉体に残る疲労感と空腹。そして異常な程の喉の渇き。


「これは祝福。この壊れた世界で戦う為の力を、貴方はたった今手に入れた」

「しゅく…ふく…だと?」

「そう。死を受け入れた貴方に運命が与えた、まさに祝福」


人間でなくなることが、祝福?


「ふ、ざける…な。そんなの……望んでない……」

「本能は嘘を吐けないの。実際に貴方の血は私の血と魔力に順応してる」

「……黙れ」


お前が勝手にやったくせに。

渇きが、空腹感が強まる。


「欲しかったんでしょ?お友達を守れる力を」

「黙れ!」


否定はしない。確かに欲した。

死を直感して無力を知った瞬間に願った。

自分に力があれば…と。

化物になりたいと願ったわけではない。そんな選択はしていない。

選択すら、できていない。

同時に沸き上がってくる別の感情。

それは爆発的に膨れ上がって心を埋め尽くしていく。

その正体が殺意だと気付くのに時間はかからなかった。


自分を化物に変えた悪魔への怒り?憎しみ?


トリガーは何でもいい。ただなんとなく、この感情を晴らせばこの苦しい渇きをどうにか出来ると思った。


「貴方はもう、魔族相手に見苦しく転げ回ってたさっきまでの人間(ざこ)とは違う」

「黙れぇぇ!!」


手元に転がっていた刀を握り起き上がりながら斬りかかる。


ギィイイイン!!


「っ!?」

「まだ弱いけれど」


一瞬前まで構えてすらいなかったはずの女がいとも簡単に斬撃を止め、凄まじい力で弾き返してきた。

体が押し飛ばされる。加えて胸に広がる熱く濡れた感触。新しい傷が大きくザックリと胸元を引き裂き、だらだらと血を溢す。

しかしまた数秒とかからず、あっという間に傷は修復した。

また渇きが酷くなる。


「フゥー……フゥー……」

「うふふ。渇くでしょ?苦しいでしょ?いっぱい血を流したものね」


細身の剣に滴る血を指で掬って舐め、女はまたうっとりと笑う。

その笑った口がさっきの濃厚なキスを鮮明に思い出させた。


「魔族の食事は欲望を満たすこと。今抱いている殺意は食欲と同じ」


剣を鞘に収めて女は続ける。


「肉体が傷つけば血が修復し、血を消費すればお腹が減って欲望が膨れ上がる。それを満たせば満たす程、魔族は強くなる。……ちょうど貴方の今の殺意を満たしてくれそうな奴等が来たみたいね」


ジャリッと地面を踏む音。

女が言う前から変な気配には気付いていた。自分の体じゃないみたいに、五感が以前より鋭くなっている。

どんどん近付くその気配は大希達を囲むようにバラけ、未だ炎が燻るアパートの敷地にシルエットを現した。

数は十数体、子供のように小さく、角の生えた怪物。


「…駅前にいた…奴等が、何で」

「当然ね。高位魔族の領域が消滅した場所で、人間の匂いがするんだもの。しかも一人は靴の裏から卑猥な香りをここまで撒き散らしてきたわけだし、寧ろ遅いくらいよ」


崩れたアパートの上から二体が敷地に降りてきた。

その眼は真っ直ぐに大希達を見ている。

視線に絡まるようにしてこちらに向けられる殺意。それを受けて大希の殺意も増していく。


俺を化物にした女は許さない。

それを邪魔する小鬼共も殺してやる。


殺す。


ころす。


コロス。


「試してご覧なさい。貴方の力を」


目の前にいたはずの女がいつの間にか背後に回り、耳元でそう囁いてくる。

気配はすぐ消えるが、耳に残る声、吐息、甘い匂い。殺意とは別の欲望が心の奥から這い出てくるのを感じる。


「キシャァァアア!!!」


小鬼が一体高く飛んだ。

棍棒を振り上げ、空中から大希を狙う。


「邪魔だ……」


やけに遅く感じて、迫ってくる小鬼の醜い顔がはっきりと見えた。間合いに落ちてくる。

頭上で棍棒を持つ両手首を狙って大希は刀を振った。

斬撃が小鬼を捉えるが、大希は驚愕した。自身の剣撃の速さに。

体に染み付いている運動能力、瞬発力、刀の速さ。頭に描いていたイメージよりも数段速いスピードで身体が動いた。

速すぎて、両手ではなく小鬼の胴体を捉え、小さな体が胸から真っ二つになり地面に転がる。

大量の赤い飛沫が舞い全身を汚した。

さらに何かが空気中に飛散するのを感じる。見えない靄のようなそれらは空間を流れ、呼吸と共に口から入り込む。


「スゥーッ、ヴゥ……っはぁ、はぁ」


体内に取り込まれたそれは溶け込むように全身を巡り、脳を圧迫している殺意の靄を少しだけ晴らした。

だが足りない。もっと、もっとと体が求めている。

背後から気配を感じる。横からも。残りの小鬼が一気に攻撃を仕掛けてきた。

それらを視界に捉える。やはり遅い。まるでスロー再生。

まず背後の二体が間合いに入った。それを振り返りながらまとめて斬り払う。崩れ落ちていく小鬼の数メートル後ろにさらに三体。今度はこちらから動く。脚に力を込め地面を蹴った。

脳が肉体に指示した一挙手一投足の全てがイメージ以上の速さで動く。自分の体じゃないみたいに。

おかげでワンステップで小鬼達の間合いに飛び込めた。まず正面の一体の首を飛ばす。その流れで黒山羊にも放った四連撃に繋げる。さっきよりも格段に速く正確に再現できたその技でさらに二体を斬り飛ばした。


「グギャャャァアッ!!」


醜い小鬼達がさらに顔を歪め、汚い悲鳴を上げ倒れていく。

その度に何かが体に入り込んで殺意の靄を払う。


「グギュ……ヴゥ……」と唸りながら怯えた顔で後退る残りの小鬼を見据えると、背を向けて走り出した。

遠くなっていく小鬼の背中を大希は追わない。

追わずに刀を鞘に収め、そして構えた。

なんとなく、今なら何でも出来るような気がした。

殺意という名の欲望が渦巻く脳内で、昔の皇然の技をもう一度脳内再生する。

今ならやれる。その根拠のない自信が体を動かし、小さくなっていく小鬼の背中を狙って流れるように抜刀した。


「……蒼迅」


手元に刹那の蒼白い閃光が弾ける。同時に激しい稲妻が逃げる小鬼の側で弾け、空間と共にその小さな体を切り裂いた。


「はぁ……はぁ……はぁ…………」


途端に周囲が静かになる。代わりに、しとしとと降り落ちる雨の音が聴こえ、血で汚れた地面を洗うように次第に強さを増していく。

目の前を落ちていく雨粒一つ一つがやけにハッキリと見えて、それらが足下に転がる小鬼の死骸をまた濡らした。


こんなに視力良かったっけ?

壊れた世界を、異様な程美しく鮮やかに映す視界に疑問を抱き、実感した。

もう辺りには化物はいない。周囲を確認するまでもなく当たり前のようにそれが分かって、実感した。

肉塊の散らばる血の海の真ん中で、それをやった自分の身体を見下ろす。ズタズタになって胴が露になった上着。血で真っ赤の全身。なのに、何処にも傷の見当たらない肉体。体の一部であるかのように手に馴染む刀。恐ろしいくらいの身体能力の向上。そして実感した。


「完全に化物じゃん……」


絶望も喪失ももう大して感じない。それどころか、薄れた殺意の奥で高揚している自分に気付く。

その理由はすぐに分かった。自覚したからだ。力を。

壊れた世界を生き抜く為に必要な力を。皇然がくれた刀と技、それらを使いこなせる力を。


「あはっ、すっごい!想像以上ねぇ」


離れたところから女の声がする。自分を化物に変えた女。血で汚れた剣をぶら下げて、ゆっくりとこちらに歩いてくる。その背後には小鬼達の死骸が転がっている。


「どう?初めての魂の味は」


距離がだんだんと近付く。彼女の甘い匂いをどんどん強く感じる。

大希は顔を剃らして返した。


「お前の目的はなんだ。……どうして俺を」

「貴方が必要なの。だから貴方が必要なものを先にあげた。シンプルでしょ?ふふっ」


薄暗い闇に包まれた静かな広場の空気を女の声が揺らす。その声が耳を通る度に欲望が刺激される。

渇きは収まった。しかしまた別の欲望がここに来て膨れ上がっていくのを自覚する。


「……俺に何をさせるつもりだ」


もう暗くても顔がはっきり見える距離。そちらを見ずに大希は返した。

目が合えば欲望が抑えられなくなりそうだから。


「付き合ってほしいの、」


妙な言い回し、しかも甘えるような声で。

それがさらに欲を掻き立てる。

聴いて脳が勝手に女の唇を想像する。化物に変わる直前のあのキスの感触が脳内に再生される。

今目が合えば、唇を見れば、簡単に欲望は暴走してしまう。だから顔を剃らした。

人間だった頃の本能が、理由もなく欲望を自制している。

だが欲望を促すように、女の手が頬に伸びて無理矢理顔の向きを変えられてしまう。


「私の暇潰しに」

「暇……つぶし……」


こちらを見上げる紅い瞳と目が合ってしまった。

ここにきて初めて女の姿をしっかり認識した。

大希より頭一つ分小さい背丈。ツインテールにした金髪はやはり綺麗で、それが映える白い肌を漆黒のロングコートが際立たせている。

全てを見透かしたように真っ直ぐ見つめてくる紅蓮の瞳。

その下で光る薄いピンク色の唇。さっきキスをした唇。


あぁ、キスがしたい。今すぐ奪いたい。

さっき味わったような深い深いキスで犯したい。


そんな欲が一気に脳内を埋め尽くしていく。もう、抑えられない。

しかし、欲望のトリガーを引いたのは女の方だった。


「それから……性欲処理の相手としても、かしらね」


頬を撫で、耳を触りながら、誘うように妖艶に笑うその唇を、大希は強引に奪った。


「んふ!……んっ、ふぅ……ん」


貪るような力任せのキスを、女はすんなり受け入れ、調子を合わせてくる。

胸の奥底から身体全体を支配するように快感が広がっていく。

唾液が交ざり、舌が絡み合う。

キスが進む度に脳を侵す靄が少し晴れ、もっともっとと身体が欲しがり、また欲望が膨らむ。

性欲という欲望の、止まらない矛盾螺旋。

だが靄が一瞬晴れる度に、ある顔がぼんやりと脳裏に浮かぶ。

小さい頃からずっと見てきた顔。

大切な幼馴染の顔。

小さな口が動く。


───大ちゃんっ!!!


「……っ!胡桃!!」


欲望に埋もれて忘れていた大事な幼馴染の名前を、大希は今更思い出した。

その瞬間に一気にキスへの熱が冷めていく。


「……ぷはぁ。あら、もう収まっちゃった?早い男はつまらないわよ?」

「こんなことをしてる場合じゃない。行かないと!」


あれからどれくらい経った?すぐにスマホに目をやる。

ディスプレイに表示された時刻は17:52。

今の今まで下らない欲に浸っていた自分に嫌悪する。


「もうすぐ二時間。とっくに死んじゃってるかもしれないわね」

「黙れっ!」


そうだ。もう手遅れかもしれない。自分がもたもたしていたから。

弱いせいで負けて、諦めて死んだから。

でも状況は変わった。

一度死を受け入れたはずの体は動いている。

助かるはずのない致命傷が全て跡形もなく再生し、何だかよく分からない力まで手に入れてしまっている。

それらを受け入れたわけじゃない。すんなり受け入れられる程、化物にされたこの身体を大希はまだ知らない。

だが、今すべき事を、当初の目的を果たす為に必要な『力』を得たことは事実。

これが運命なのか、悪魔の言う祝福なのかはどうでもいい。

とにかく、体は動く。力は手に入れた。

胡桃達を助けに行けるなら、今はそれだけ理解できれば十分だ。


「ふふ、また欲望を感じる。それは友情?それとも愛?どっちにしても、やっぱり貴方は面白い。でも酷いわぁ。その気にさせた女を放り出して別の女のとこに行くなんて、意外にチャラいのね」


自分から仕掛けてきたくせにと大希は思うが、それには返さない。


「交渉だ」


自称悪魔の女に言う。


「暇潰しには付き合ってやる。だから先に俺の急用に協力しろ」

「いいわ。その代わり、お友達が助かったらキスの続き、して?」


思わず唇を見てしまう。柔らかい感触を思い出してしまう。

だがさっきのように性欲はもう沸いてこない。


今大希の中を別の欲望が圧迫しているから。

幼馴染を助けたい。

友達を助けたい。

一刻も早く胡桃のもとへ行きたい。

それ以外は後回しだ。


「好きにしろ」

「交渉成立ね。楽しみにしてるわ」


潤った唇を指で触れ、大希を真っ直ぐ見つめながら女が返す。

敵か味方かははっきり分からない。目的も分からない。

だがキスだけを条件に交渉を承諾してきたこの悪魔への敵意は、不思議ともうない。

キスのせいのか、小鬼で晴らした殺意と共に薄れてしまったのか。

何にせよそれも後回しだ。胡桃達を助けたあとで聞き出せばいい。


「待って」


急ぎ足で歩みを始めた大希の腕を女が掴む。


「なんだ」

「その格好で行くつもり?」

「着替えてる暇なんかねぇよ」

「人間離れした身体能力。しかも全身血塗れで服もズタズタの貴方が刀を持って助けに現れたら、お友達ビックリしちゃうんじゃないかしら」

「助けた後で説明すればいいだろ」

「脱いで」

「……はぁ?」

「コート」

「だからそんな暇」

「脱いで。早くして」

「…………。」


訳も分からず、とりあえず血が染みて重くなったボロボロのコートを脱いで女に渡す。中に着ていたシャツも、やはり血に汚れて前もズタボロで意味のない布切れになってしまっていたので、それも脱いで捨てた。

露になった上半身。十一月の外気を漂う風や変わらず降り続ける雨を肌で感じる。しかし不思議と寒さは感じなかった。


「どうすんだよ?」


女は答えず歩き出すがすぐに止まった。足下には大きな塊。黒山羊の頭部。その横には弱い人間だった大希が作った血溜まり。そこに被せるようにコート広げると、女は剣で手首を切って少なくない量の血をその上に垂らした。


「シェスカ…ナギ…ルーナ、血脈の意に従い、力を貸しなさい……」


直後、コートを囲むように魔法陣のようなものが地面に浮かび上がる。その上を赤い火花がバチッバチッと何度も生まれ、陣の中央の空間が混ざり合うように歪んでいく。その光景は正にファンタジーで言うところの魔術そのものだ。何が起こるのか分からず、大希はただそれを見つめる。


「…………。」

「……錬成残録(レコード)


ジジジッと火花が周囲に閃光を散らしたのを最後にスゥッと陣は消え、コートだけがそこに残った。


「はい、これ」

「……直ってる……」


広げてみると、さっきまでの殆ど原型を留めていなかった布ではない、立派なコートがそこにあった。


「貴方の血と黒山羊ルークレプリカの角を足して錬成し直したの」

「何でもありだな」


もう大希の中に驚きの感情はない。

だがよく見たら元通りではなかった。丈も長くなり、元々付いていないはずのフードまで付けられている。色は体全体を闇で覆い隠すような漆黒。

袖を通すと、オーダーメイドかと思う程ぴったりな着心地で逆に気持ち悪い。


「それは真実を隠す為の黒装束ブラックコート。纏っていれば、神代大希(あなた)としての顔を隠したまま力を奮える。今後の為にも、正体は伏せておきなさい」

「……分かった」


その言葉には賛成だ。成り行きとはいえ、化物になってしまった自分を胡桃やアキ達に知られたくはない。


「さぁ、そろそろ行きましょ。居場所は分かってるの?」

「移動してなければ、川口駅北のショッピングモールにいるはずだ」


予定通りなら、夕方までショッピングモールに併設しているシアターで映画を観ていたはず。


「そう、意外と近くで助かったわ」


女が手をかざす。正面の空間が歪み、ズズズッと割れ目が生まれる。それは徐々に広がり扉くらいの大きさになった。


「待ってくれ」

「何?」


その扉の中へ一歩踏み出していた女を呼び止める。


「まだ名前を聞いてない」

「あら、そういえばまだ名乗ってなかったわね」


こちらへと向き直り、彼女は笑みを浮かべて言った。


「アリアよ」

「アリア……とりあえず礼を言う。ありがとう」


化物にされたことは許していない。

だが死ぬ運命を変えたのも、怪物と戦える力をくれたのもアリアだ。だからこうして胡桃達を助けに行ける。そのことには礼をしなくてはならないと大希は思った。


「うふふ、意外と素直なのね。可愛い」

「うるせぇ」


アリアに続いて、空間にできた扉に足を踏み入れる。二人分の体を飲み込んだ歪みは黒い霧となって消え、誰も居なくなったアパートの広場にまた静けさが戻った。







ほぼ同時刻。東京都千代田区、皇居。

その地下深くに広がるドーム型の部屋に、軍服を纏った男が一人入ってくる。

そのまま歩みながら口を開いた。


「都心部は我々の部隊がなんとか混乱を抑えています。あとは術式の展開が済めば、少なくともこの皇居周辺は日本唯一の安全エリアとなるでしょう」


床に大きく描かれている巨体な魔法陣。その中央にいる人物に向かってそう言う。


「うぅ、すまない……ワシにもっと力があれば」


「何を仰いますか。貴方のおかげで都市部が守られるのです。あとは我々が魔族共を殲滅し、日本を取り戻すだけです」


それを聞いて少しだけ安堵の表情を浮かべる人物の腕や足には壁や天井から伸びる無数の鎖が巻かれ、立っている、というより陣の中央に固定されていると言った方が正しい。


再び扉が開いた。

同じく軍服を着た若い女。


「失礼致します!総隊長!各所に術式の展開、連結が完了致しました!いつでも発動できます!」

「時がきたようじゃの……」

「御許しください。陛下……」

「構わん。これも天皇としての勤めじゃ」


陣の中央で、国民なら誰もが知っている日本のトップが目を伏せ、悲しげに笑う。

男が腰の刀に手をかけ、ゆっくりと刀身を抜いた。


「では、参ります」

「うむ」


刀を構えても、男は落ち着き払った表情を変えない。そして躊躇うこと無く、その刃で天皇陛下の胸を貫いた。


「ゴブゥッ!ぁ……がっ……。重荷を……背負わ……せて、すまん…然來…」

「構いません。これが……私の勤めですから」


返したその声は心なしか震えていた。

すぐに刀は抜かれ、血飛沫が男の軍服を汚し、止めどなく溢れる血が陣の中心を赤く染め上げていく。


その血に反応するかのように、魔法陣が、鎖が光り始めた。

それらを見届けながら、やはり表情は変えずに背後の部下へ向けて声を張る。



「彩美花!全隊に伝えろ!これより作戦を開始する!」

「はっ!!」


キレのある返事を返し、上官であるその男に敬礼をする。

端正な顔立ちによく似合う栗色のポニーテールを揺らしながら、水嶋彩美花(みずしまあみか)は凛とした顔で部屋から退出していく。

重い扉が閉まる。鉄の匂いが漂うその部屋で独り、ゆっくりと男は敬礼した。光る陣の真ん中で力無く佇む天皇陛下に向かって。


「日本は、世界は我々が救います。安心してお眠り下さい、陛下」


やはり表情は変えないまま、男も背を向ける。

扉に手をかけた瞬間に落ちた数滴の雫を最後に、神代然來は重い扉をゆっくりと閉ざした。





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