Disorder
あと十日もすれば21歳の誕生日。昨夜と同じくコートがないと寒さが厳しくなってきた、そんな11月末の夕暮れ時。普段歩き慣れている駅からの道を全力で走り抜ける。
夕焼けとは明らかに違う赤黒い空、半壊した家屋、かつて人だったように見える肉塊、漫画やアニメでしか見たことのないような異形の怪物。横を流れていく景色の全てが平和だった日常の終わりを一方的に伝えてくるが、今はそれらをゆっくりと受け入れている場合ではない。
「っはぁ…っはぁ……っ!?くそっ、またかよ!」
「ガルルゥ…」と低い唸り声で前方の路地から出てきたのは一匹の犬。いや、犬だったと言うべきか。血や泥で汚れた胴体、妙に発達した長く鋭い牙が覗く口からは涎が垂れ流れ、生気の感じられない瞳を夕闇の中で赤く光らせている。これの類いと遭遇するのは逃げ始めてから二匹目だ。
飛びかかるチャンスを窺うように前を低くしてこちらを睨みながらゆっくり距離を詰めてくる目の前の魔物に合わせるように一歩、また一歩と慎重に下がって間合いを維持し、逃げる途中に拾った木製のバットを握りしめて構える。
…パリンッ
さらに一歩後ろにずれた時、靴の裏で音を立てて何かが割れた。ガラスか何かを踏んでしまったらしい。瞬間、その音を合図にするように一気に魔物が距離を詰めてくる。
「くっ…!」
反射的な動揺を抑えて集中する。さっき遭遇したヤツと同じ初動、獲物を前にして本能のままに動いているのだろう。数歩の助走から牙を剥き出しにしながら首の高さへの飛びかかり。動きは速いが単純、助走を終え強く地面を蹴って宙に浮くタイミングと同時に横に一歩ずれながらテイクバックしたバットに力を込める。
一瞬前まで標的の首筋が在ったその空間に鋭い牙が食い込むその瞬間、水平に思い切りバットを振り切った。
ゴシャッ…!!
「はぁ…はぁ……はぁ…」
頬についた返り血を袖で拭う。足元に横たわったそれは動く気配もなく、一撃で仕留めることが出来たらしい。
「……ごめんな」
ネームタグ付きの首輪が目に入り、思わず口から零れる。やはり元々は普通の飼い犬だったのだろう。
だが罪悪感に浸る時間は既に無い。魔物と遭遇してからまだ一分も経っていないはずだが、この足止めはかなりまずい。
────早く逃げないと…
だが、脚を動かす前に背後の方から凄まじい爆発音が響き、熱風と瓦礫が襲う。顔をガードした腕の脇から見えた光景は、何とか抑えていた恐怖心を一瞬で沸き上がらせた。
爆発の余波で崩壊した周囲を燃やす炎、それに照された巨大なシルエットがゆっくりとこちらへ近づいてくる。手には大きな斧のような得物、やたら筋肉質な全身はどす黒く、山羊を思わせる頭部から生える二本の角は熱を帯びた鉄のように紅い。
「ははっ、こりゃあ詰んだかな…」
田舎の名家を飛び出して独りで生きていくと決めてからもうすぐ三年。住み慣れた地区、歩き慣れた路地、平和だった日常が終わってしまったばかりの東京23区の隅っこで、神代大希は黒い山羊の怪物に追い詰められた。
───────────
約2時間前
2023/11/30 14:16
池袋西口公園の端っこのベンチ、震えた感触が新しい胸元のポケットからスマホを取り出してメッセージアプリを開く。
from:胡桃
──────
やっほ~!今日は残念だったね…
お仕事がんばるのはいいけど
無理しちゃダメだからね~!
今度遊ぶときは大ちゃんから誘ってくれると嬉しいなぁ
それじゃ、また連絡するね~!
くるみより
──────
相手は数少ない友人、というか幼馴染みの香月胡桃だった。
江戸より前の時代から続く剣術─地影流─を継承する名家である神代家とは自宅が隣同士であり、幼い頃はよく遊んだ仲だ。地元に近い所で進学する予定だったが、大希が東京で独り暮らしを始めると知ってから何故か東京の大学に進路を変えた。肩甲骨辺りまで伸びた綺麗なストレートヘアーで、性格は天然強めのおっとりさんである。
昼過ぎまで行動を共にしていたその幼馴染みに簡単に返信を返す。既読のマークが付いてすぐに動くスタンプが送られてきたが、そのままアプリを閉じた。
「こちら神代。対象の退社を確認。調査始めます」
先程から通話状態を続けていた片耳イヤホン越しの相手に事務的な言葉を放ち、小一時間暖めていた公園のベンチから重たい腰を上げ歩き始める。だいぶ距離を開けた先には20代後半の女性。グレー基調のオフィスカジュアルにストレートの黒髪から清楚さを窺えるが、ショルダーバッグやチラッと見えるアクセサリーはやたら高級感を漂わせているように感じる。その姿をスマートフォンで一枚撮影し、通話相手に送信した。
『ごくろーさま!引き続き頼むわね~』
すぐにオネェが混じった口調の野太い男の声が返ってきた。大希にとってはこの2年で聴き慣れた声、現在の雇い主である。名前は天王洲暮人。髭の似合う屈強で大柄な大男だが、中身は濃いオネェである。
「つーかおっさん、休日手当ては出してくれんだろうな?」
『緊急でお願いしたのは私だからそこは安心してちょうだい。っていうかおっさんはやめてぇ~!まだ37よ私は』
「十分おっさんじゃねーか。つーか急って言っても情報少なすぎだろ…」
『…ねぇ神代ちゃん、今年の夏辺りから関東で続いてる猟奇殺人事件は知ってる?』
変わらずのオネェ口調に真剣さが混じる。
「あぁ、死体がいろんな所で発見されてるやつ?」
『そう!それ~』
「新聞やらニュースやらで結構取り上げられてたからな。…ってあれ、どの記事にも殺人なんて書いてなかったけど?」
『警察の方では殺人で捜査を進めてるみたいよ。マスコミには情報は殆ど伏せてるけど』
「ちょっと待った。もしかして今日の案件って…」
『も・ち・ろ・ん、例の事件関係よ』
「………はぁ」
思わずため息が出た。
「おっさん、またか…」
大希の雇い主、天王洲暮人は警察や政府機関の関係者と繋がりがあるらしく、度々その方面から依頼をとってくる。そして、そういう仕事はなぜかだいたい危険を伴う。いや、意図的と言えるほど何度もスリリングな仕事を通話相手のおっさんに押し付けられてきたのだ。
『んもう!そんな風に言わないでよぅ神代ちゃん』
「今回は殺人犯でも捕まえさせるつもり?」
『あら、私はデキる子にしか仕事をお願いしない主義なのよ?』
「そういう問題じゃなくてだな」
そう言われて悪い気はしないが、必要以上の面倒事を押し付けられるのは心外である。
『とにかく!今回の案件はそういうのじゃないの』
十数メートル先を歩く女性が路地を曲がったので、少しだけペースを速めて路地の先を窺うと、美容室らしいお店に入るのが見えた。おそらく一時間弱はここで待機になりそうだ。本人が建物内に居るのを確認し、入り口が遠目に見える位置に着いたところでおっさんに返事を返す。
「んで、結局何なの?さすがに殺人犯を相手にするのは―」
『だから今回はそんなことさせないってば!』
少し前と会話がデジャブった。だがこちらも冗談でそんなことを言っているわけじゃない。実際に先月はストーカー案件で何だかんだ犯人を取り抑え、先々月は強盗グループの追跡及び一部制圧など、それ以前にも探偵の業務を越えたイレギュラーな案件に巻き込まれているのだ。そのせいで良くも悪くも一部の警察官には顔まで覚えられている。とはいえ勘繰ってばかりだと話が進まないのでそろそろおっさんの話を聞くことにする。
『例の事件の被害者全員にある共通点が見付かったらしいの。身に付けていたアクセサリーなんだけどね』
「アクセサリー?」
『トリプルクロスっていう名前に心当たりはあるかしら?』
「半透明の黄色がかった鉱石のことか?たしか去年話題になったな。たしか天然のものは稀少で、安価で出回ってるのは殆ど人工鉱石のレプリカだって噂だったっけ」
『さすがよく知ってるわね。その稀少な鉱石の、それも天然物があしらわれたアクセサリーを被害者全員が所持していたとしたら、気になると思わない?』
「すごい偶然だな」
『偶然かどうかは今日分かるわ』
今の返事でだんだん察してきた。久しぶりの休日を急に返上させられたと思えば、被害者候補の尾行調査の依頼をこのおっさんはとってきたようだ。続けて暮人から声が届く。
『何よりこの事件、殺人かどうかも怪しいんだから』
「………ん?さっき殺人事件って」
『それは警察がその線で捜査を進めてるからよ。でも私には人が殺したとは思えない…だからこれから調査するの。この案件は私の個人的な調査ってこと』
「個人的?利益無視して個人で首突っ込む案件なのか?まさか部下に内緒でヤバい組織とかからの案件なんじゃ」
『そ、そういうんじゃないって言ってるでしょ!本当に私が調べたいことなの!とにかく今は仕事に集中してちょうだい』
今回は暮人自身が依頼人らしい。このパターンは二年やってきて初めてだった。すぐにスマホが振動する。
『情報元から貰った写真を送ったからあとで確認してもらえる?貴方も『殺人』だとは思わないでしょうから』
色々聞きたいことはあるが写真を見れば何かしら分かるようなので「りょーかい」とだけ返す。
『今日は貴方以外にも私のお気に入り五人に同じ案件で動いてもらってるから他の子のサポートもしないと。依頼主から改めて言わせてもらうわ。この案件は不確定要素がかなり多いからただ状況を見るだけでいい。身の危険を少しでも感じたら即離脱!いいわね?』
「はいはーい。他の奴によろしくな」
通話が切れる。通話時間を見ると、思ったより長く話していたらしく少しビックリした。対象が再び動く前に先程送られてきた写真を開く。
全部で7枚。それに目を通していく。
「…!?……なんだ…これ…」
目にした写真、被害者7人の遺体だとは知っていたのだが、それら全てのあまりの凄惨さに思わず声を漏らす。パーツが所々無い写真、そもそも原形をとどめていない写真。背中や腹部に残る大きく異質な傷。先程暮人が言っていたことをここで理解する。
「確かに『人が殺した』とは思えないな」
身の危険がどうとか言っていたが、それも大袈裟な話ではないように思えてくる。昔から猟奇殺人事件は何度も歴史に残っているが、それらを軽く凌駕するほどに残虐で生々しい光景が7枚全てに写し出されていた。
自殺や事故では説明のつかない、明らかな外傷。獣害の線もあるが現場は全て都心。現実的に考えて捜査当局としてはやはり殺人の線が一番妥当なのだろう。
警察やらが既に一線で捜査をしている大きな事案をわざわざ自分の依頼としてまで調査することに多少の疑問は感じたが、大して気には留めなかった。きっと普段の仕事のぶっ飛び具合に慣れてしまっているせいかもしれない。と、大希は自嘲気味に笑った。
チリリン、と音がして目線だけをそちらに向けると美容室の扉から彼女が出てきたところだった。開いた扉から店内に流れ込んだ風で少しだけ髪が揺れ、ピアスが一瞬見える。細かな装飾は解らないが黄色く光る物は確かに見えた。やはり彼女も何者かに狙われる一人なのだろうか。
疑問はもう一つ。トリプルクロスも含め財布などの金品は全て手付かずで遺体に残されていたらしい。単なる快楽殺人ともなれば危険度は一気に増す。気を引き締め直して大希は尾行を再開した。
「……見つけた」
同じ頃、池袋の劇場通り付近のタワーマンション屋上。
新月の深い夜を表現しているような漆黒のロングコートを纏った人物が、強いビル風に膝まで覆う程長い裾を揺らしながら女性の声でそう呟いた。フードを深々と被っていて顔は見えない。右手で銀色に光る西洋風で鍔に薔薇の装飾を施した細身の剣は赤黒い血の筋で汚れていて、刃先を伝って屋上の地面にポタポタと滴り落ちていく。
地上を暫く見下ろした後で血振りした刃を鞘に納めて右手を横の空間にかざすと、何もないはずのその場所に大きな亀裂が走る。そこから溢れる闇の霧に包まれるようにしてその人物は姿を消した。
屋上に残ったのは激しく飛び散った血の中で転がる異形の怪物の残骸だけ。
美容室を出てからは洋服を買ったりアクセサリーを見たりカフェで一息ついたりと特に変わった様子もなく、今は池袋駅の東武東上線ホームに来ている。おっさんの情報によれば彼女の自宅は板橋区の成増らしく、大希の自宅と偶然にも近かった。後から来ていたメッセージに『終わったら直帰して大丈夫よ☆』とあったので気を遣ってくれたのか偶然か分からないが、休日出勤の身としてはどちらにしても好都合である。
もう一通メッセージアプリを開く。二時間程前に届いていた友人からのものにはまだ目を通していなかった。
From:アキ
──────
おつー!そして休日出勤どんまい!
女の子2人引き連れながら買い物と映画でも満喫してくるからせいぜい羨ましがれ~(笑)
また予定合ったら今度こそ遊ぼーぜー
んじゃ、仕事がんばー!
──────
アキ、本名は二ノ瀬明久。高校の頃からよくつるむ悪友の一人だ。良い意味でのお調子者。中々のお人好しで、困ってる『女子』はほっとけない。加えて勝負事には熱い元剣道部主将であり、大希の数少ない友人の一人だ。
本来なら自分と明久、同じく高校の同級生で明久に片想い中の桜木葵、大希の幼馴染である胡桃の四人で一日出かける予定だった。
もっとも、急な呼び出しにより約一名が見事にお預けを食らったわけだが。今頃アキ達はは川口のショッピングモールで映画を見終わった頃だろう。大希としては四人で出かけるのは約一年ぶりで、観る予定だった映画も好きな小説の実写版で今日が最後の公開日、それだけに相当楽しみにしていたのだ。今日だけは休日出勤を呪わずにはいられない。
5分程遅れてホームに入ってきた16時ちょうど発の折り返し電車に乗り込む。同じ車両だが彼女から遠い位置のドアの側に陣取ると、あまり待たずしてドアが閉まり電車が動き出した。
急行電車のため次は成増駅に着くまで停まらない。流れる景色に目をやると遠くの空に綺麗な夕焼けが広がっていて、いつもと変わらない週末の街並みを赤く薄く染めている。
窓枠を横に過ぎていくそんな日常と同じ世界で見るに耐えない凄惨な事件が身近に起こっているなど、普通に生きていたら想像もつかないだろう。先程の写真すらフィクションに思いたくなってくる。
だが駅を数個通り過ぎた頃、人も疎らでいつも通りの電車内に異変は突然やってきた。
グンッ!! っと急激なGが加わり、扉にもたれていた体が進行方向と逆にもっていかれた。
「…っ!?」
咄嗟に近くの手摺を掴んで転倒は避けたが、周りには衝撃で床や壁に体を打ち付けた人達。悲鳴や呻き声で車内が一気に騒然とする。
窓の外の景色が高速で横にスクロールしていき更に速度を増していく。この異常事態にアナウンス一つ無い。
「っおい!?なんなんだよ…!」
直後、轟音とともに車両が傾く。線路沿いの建造物を削り民家を薙ぎ倒しながら、脱線した鉄の箱は惰性でさらに突き進んでいく。その中で窓から見えた外の景色が、一瞬だけ強烈な光で包まれた気がしたが、激しく暴れる電車内では当然気にもしていられない。
やがて線路上のの石を撒き散らしながら、下赤塚駅のホームを程よく破壊して暴走を止めた。
「…っ、はぁ……停まった…」
最後尾の車両、歪んだドア付近にもたれて座りながら大希は呟く。激しく揺れた際に手を放してしまい壁に打ち付けられたが、運良く軽い打撲程度で済んだようだ。割れた強化ガラスが散らばる車両内は二十名程、意識がある者もいるが殆どは床で踞っている。と、このタイミングで左耳から脳内にポップな音楽が流れてきた。聴き慣れた着信音。暮人からだ。
「おっさん!電車の事故で--」
『ザー…神代ちゃ…ん!?聞……こ…える!?』
こちらに被せながら暮人の声が帰ってきた。
「あぁ、なんとか大丈--」
『も…し…ザー…聞こえ…ザー…ら、す……にそこ…ら逃げて!!…ザー』
「おっさん!?何言っ--」
『説…ザー…る暇は無…ザーー…の!…ザー…か…くす…に池……まで戻っ…』
ブチッという音を最後に通話が途絶える。終始酷い雑音が混じって何を言っていたのか解らない上にこちらの音声は届いてないようだった。だが「逃げて」の言葉は何とか聞き取れた。しかし何から逃げればいいのか、脱線して暴走する電車からだとしたら乗ってる時点で逃げるにも逃げられないわけで、結局訳が解らない。
「意味分かんねぇよ…」
ともあれ今は逃げるよりやらねばならないことがある。ぼやきながらイヤホンをポケットにしまうと、ちょうど真ん中辺りのドアを開けようと頑張っているスーツ姿の男性のところに急いだ。
「俺も手伝います」
「すまない、頼む!ここを開けられればホームの上に怪我人を直接上げられるから」
「分かりました!ってその怪我大丈夫ですか!?」
「軽く切っただけだ。それより周りで火事が起きてる!早くしないとここにも火が回ってくるぞ」
窓から見える限りでも至る所で火が燻っているのが窺える。それと風で運ばれてくるオイルの強い匂い。近くで爆発でも起きたらたまったもんじゃない。
「行くぞ…せーのっ!」
少し歪んだ扉が男二人の力で何とか半分ほど開いた。そこから男性がホームに上がる。
その後さらに数人の協力もあり、スムーズに怪我人をホームに上げることが出来た。何人かは割れた窓や他の扉から線路上に逃げたらしくもう殆どこの車両内に人は居ない。あとは…、
「すみません!この子もお願いします!!隣からは火事が酷くて出られないんです!」
他の車両と繋がるスライド式の扉が開いて女性の声が響く。尾行していた女性だ。見当たらなかったので先に自力で逃げたと思っていたが、煙で充満している隣の車両の中から片足を引きずりながら出てきた。背中には女の子を抱えている。
先程協力した人達もそうだが、改めて人間捨てたもんじゃないと大希は思えた。探偵としての仕事柄、人間の良くない部分を見ることが多いせいか、勝手ながら嬉しくて少しくすぐったい気持ちになってしまう。
もう車内には大希を含めて三人だけ。原因は解らないが異常に火の回りが速い。未だ扉の前にいる彼女までの十数メートルを急ぐ。だが辿り着く前に足が止まった。
バァァン!!!!
「!?…っおわっ!!」
ホームとは反対側の窓、彼女のすぐ横の線路側の窓が周りの壁や天井ごと轟音を奏でて破壊されたのだ。その衝撃で少女とともに吹き飛ばされ、大きな揺れで大希も後方にバランスを崩す。
脱線事故に火事と畳み掛けられてのこの事態。何かが車両のすぐ外で爆発したわけではないことはすぐに分かった。いや、見えた。
破壊された壁の淵を掴む黒いもの、手だ、黒い大きな手。さらに彼女の頭上の残った天井にも同じ大きな手が伸び、そのまま手は箱の蓋を無理矢理剥がして開けるように破壊していく。
車両内部と外の空間がより広く繋がり、そこから中を覗き込むように『それ』は姿を見せた。
「イヤァァァアア!!!!」
彼女の叫び声が響く。それが何に対してかは大希の目にも明らかだ。
だが声は出ない。何が起きてるのかは分かるが理解が追いつかない。視界に映っている光景が幻覚でないことは察している。火事で上がった空間の温度、打撲や擦り傷の痛み、肌に感じる熱風。自身の身体の感覚全てが現実だと言っている。だが目の前に出てきた『それ』は、これが現実かどうか疑わせるに十分な存在だった。
「うそ…だろ……?」
三メートルは軽く越えているであろう黒い巨体、紅い眼を鈍く光らせている山羊のような顔面、そこから伸びる高熱を帯びたような緋色の角が二本。まさにファンタジーの世界で言うところのモンスターそのものに対してやっと出た一言。思考が追いつかない。幻覚?夢?にしてはリアルすぎる。だがそんなことを考えている余裕は無い。目の前に広がる光景はいくら瞬きしても変わらない。時間も止まってはくれない。
「イヤァァ!!来ないで!!!」
泣きながら叫ぶ彼女を紅い瞳で真っ直ぐ見下ろしたままモンスターが動く。右腕を高く上げるような動作。全部は見えないが大希の位置からでもそれは分かった。それが次にどうなるかは考えるまでもなく想像がつく。
彼女は動けない。少女も倒れたまま動かない。
自分が立ち上がって走ったところで間に合わない。
間に合ったとして二人を助ける時間もない。
そもそも膝が震えて大希も動けない。
無力さを噛み締めて叫ぶしかなかった。
「逃げろぉぉぉお!!!!」
声は届いた。叫びながらでもそれは分かった。彼女と目が合ったから。
目が合ったままの彼女の頭上に真っ直ぐ何かが降りてくるのも分かった。大きな黒い拳。それは止まることなく彼女の頭と重なり、さらに地面に向かって降りていく。何故かとてもスローに感じた光景は眼に焼き付いて、大希の声を掻き消すように轟音を響かせて彼女と少女もろとも床を叩き潰した。
凄まじい反動、破壊された部分が沈んで上下に大きく揺れる。同時に衝撃波と熱風が血飛沫や肉片と共に大希を襲い、抗う間もなく後ろに吹き飛んだ。
まともに受け身もとれず転がり、体の至る所に痛みが走る。
「…くっ……はぁっはぁっはぁっ……」
床に手をつき上体を上げる。幸い痛みは大したことはないが、息が荒い。吹き出る汗が額や頬を伝って床に落ちていく。
肉体的疲労、精神的疲労、目の前に広がるファンタジーと現実が混じってしまったような壊れた日常がその両方を一気に蓄積させている。
いや、それだけじゃない。さっきまでとは比較にならない程に暑い。そして視界も赤い。この車両内に火の手が回っているのは明らかだった。
顔を前に向けると黒い山羊の怪物は変わらずそこに存在していて、叩きつけた拳を血を滴らせながらゆっくりと床から上げていた。二本の角はより紅くなり、周囲の空間が陽炎で揺らめいて見えるあたり相当な熱を放っていそうだ。異常に速く激しい火事には間違いなくこいつが関係していると大希は本能的に察した。
一層激しく燃える炎の中でヴゥゥ…と地鳴りのように低く響く唸り声。拳を見たまま、というより滴る血を食い入るように、大希の方には目もくれずに魅入っている。
こちらに気付いているのか否かは定かでない。目だけを右に向けると先程乗客の脱出に使用した扉のすぐ側、運が良い。女性も少女も助けられなかった今、一人取り残された大希にとって車両から出て黒山羊の化け物から逃げる最初で最後かもしれないタイミング。ここにきて思考が、狂った今の状況になんとか追い付いてきているようだ。
――動くなら今しかない……
片膝を立てる。その瞬間何かを踏んだ感触が靴の裏から伝わった。
パキッっと小さな音、周りに響く程ではない砕けて潰れるような音。足をずらすと見覚えのある物がそこにあった。血にまみれた肉片をくっ付けた小さな金属と砕けた黄色い石。紛れもなく彼女のピアスだ。
「……ヴゥ…ヴォォォ…」
「…っ!?」
眼が合う。まるで砕けた石に反応するように、今の今まで目もくれていなかった大希の方に真っ直ぐ紅い眼が向けられた。同時に鳥肌が立つ感覚が全身を襲う。
――まずい!完全にこちらを認識した……!!
背筋が凍るような感覚と冷や汗。辺りを囲う炎で感じていた暑さを感じさせなくさせる程に強く分かりやすい殺気が周囲を侵食し、ついさっき目に焼き付いたばかりの人間が平たい肉塊に変わる光景を脳内で瞬間的に再生させる。このまま動かなければ次にそうなるのは間違いなく大希だ。
硬直する足に無理矢理力をこめた。
「ヴオォォォオオ!!!!」
突然黒山羊が空を仰ぐように咆哮を響かせる。何を意味するのかは全くもって分からないし今はそんなことどうでもいい。立ち上がりながら、脱出に使った半開きの扉に向かい外に出る。
火よって普段より明るく照らされているホーム、人は居ない。
代わりに目に入る体のパーツに見えるものや赤い塊、壁や床に激しく飛び散った血のようなものは気にせずに真っ直ぐ右斜め前に見える改札に向かって急いだ。
改札を飛び越えて路地を抜け、大通りの川越街道まで一気に走り抜けた。
まだ心では現実だと認めていなかったらしい。
いや、認めたくなかった。黒山羊の怪物も、今しがた走り抜けてきたホームの惨状も火事や事故による混乱と恐怖が見せた幻覚だと思いたかった。
ただ規模の大きな脱線事故に巻き込まれただけで、消防や警察、救急隊員が駆けつけて鎮火や怪我人の搬送をする。まだ姿が見えないのは大規模故に対応が追い付いていないだけで、外に出ればそれらしい人達や現場を見にきた野次馬がいると思っていた。
でも違った。
「なんだよ……なんなんだよこれ!!」
ただただ壊れた日常が、視界の全てに広がっているだけだった。
逃げ惑う人々の悲鳴とどこからともなく聴こえてくる奇声。
至る所に転がる死体と、それを貪る獣の怪物。
道路向かいの電信柱に突っ込んで煙を上げている車から人間が引っ張り出され、小鬼の怪物数匹に何度も棍棒で殴られているのが見える。
どこを見ても、まともな現実は存在していなかった。
脱線事故から始まった『非日常』。
それは火に囲まれた車両内で人間を叩き潰した黒山羊との対峙では終わらず、見慣れた駅前の景色全てを異質な空間で満たしている。
もしこの異常事態が奇跡的に大希の居る周辺だけならまだいい。しかし遠くの方まで続いている赤黒い異様な空が、最悪の展開を想像させた。
もし日本中が同じだとしたら……。
───胡桃たちが危ない!
「やめろぉ!!来るなぁ!来るなぁぁぁあ!!!」
叫び声、近い。一本隣の路地から上半身だけを上げて腰から下を引き摺るように男性が出てきた。血塗れの右足はだらっと伸びたまま左足と両腕で必死に後ろへ下がろうとしている。
それが先程電車電車で協力した男性だと服装ですぐに分かった。
「グルルゥゥ…」
男性の目の前に現れたのは大型犬サイズの獣。涎を垂らして唸りながら男性に近づき、一気に速度を上げ男性を押し倒すように飛び掛かった。
「ギャァァァアアっ!!!」
「っ!?ちくしょう!!」
距離は十メートル程、間に合うかどうかは解らない。
だがここで見捨てる選択肢は大希には無い。
電車内での光景が蘇る。
目の前で人が死ぬのを黙って見てなんていられない。
だから全力で走った。そしてその勢いを乗せて獣に蹴りを放つ。
思いのほか見事に横っ腹に入り鈍い音がして獣が数メートル吹き飛んだ。そちらに警戒しつつ、男性を確認する。が、間に合わなかったらしい。首を中心に激しい損傷、肉も半分抉られているようで、だらだらと血が垂れ流されている。もはや虫の息だ。
だが助けられなかったことを後悔している場合ではない。
「ヴゥゥ…ゥガウゥゥ!!!」と、体勢を立て直した獣が敵意剥き出しでこちらを睨み付けているからだ。
蹴りひとつで仕留めようなどと都合の良いことは考えていなかったが、ある程度時間稼ぎはできると思っていた。しかし結局男性も助けられず、ヘイトを自分自身に向けただけ。
――――どうする…!?
一寸先は完全にノープラン。
獣の標的は完全に大希。もう不意はつけない。せめて何か武器があれば…。眼だけを動かして辺りを探す。すると獣の斜め後ろの方、恐らくは死体だろうがその横に転がっている物が見えた。
やるしかない。
立ち上がって全身を集中させる。
「グルゥア!!」
来た。引き寄せて獣が前足を上げて飛び上がるモーションを待つ。そして真横に転がるように回避して、全力で死体の方へ向かう。
───間に合え!!
やっぱり転がっていたのは木製のバットだった。それを掴みすぐ後ろを向く。しかし追ってきた獣の方が少しだけ速かったようで、振り返る大希の首に真っ直ぐ飛び掛かってきた。
そのまま押し倒される。だがまだ噛まれてはいない。
バットのグリップ部分を上手く咬ませて回避できた。そして下から腹を蹴り上げて獣をマウントポジションから引き剥がす。すぐに起き上がってこちらに向かってきた。
前足が地面を蹴って真っ直ぐに鋭い牙が飛んでくる。
速い、たが予想通り。このチャンスを待っていた。
起き上がりながら右手に力を込め、回転させた身体の勢いに乗せてバットを振り抜く。高さはちょうど首辺り。高めに浮いたストレートを真芯で捉えるように、バットは獣の頭を叩き伏せた。
獣はもう動く気配はないが、一匹仕留めたところで状況は変わらない。荒い呼吸が整うのを待たずに駅へ続く路地の先に目を向けた。
熱風とともに聞き覚えのある地鳴りのような唸り声が聞こえたからだ。完全に火に包まれた下赤塚の駅を背景にして、黒山羊はゆっくりとこちらに歩いてきた。右手に何か大きな物を持っている、シルエットからして恐らくバイク。
それを軽々と上に振り上げ、左足が前に出て右腕が振られる。
「おいおい!嘘だろっ!?」
咄嗟に横に飛んだ。大希が立っていた場所を正確になぞりながら凄まじい速さでバイクが飛んできて、そのまま道路を転がって向かいのビルの一階にねじ込まれて爆発した。まさに間一髪。
紅い眼はやはり大希を真っ直ぐ定めたまま、足下で放心状態で動けなくなっている女性をスルーしてこちらへと歩みを始める。まるで大希しか見えていないように。
ヒビの入った木製のバットを強く握りしめ立ち上がる。
もちろん黒山羊に立ち向かうためじゃない。どう倒したら良いのかも当然解らないしさっきの獣のようにバットの打撃でどうにかなる相手でないことは明らかだ。
だからここは逃げる。運の良いことに借りてるアパートまでは遠くない。辿り着きさえすれば所有しているバイクがある。それで胡桃たちと合流して……その先は合流してから考えればいい。
それに部屋に行けば使い慣れた武器が手に入る。家を出る前に祖父がくれた、この壊れた世界で少なくとも木製バットよりは頼りになる代物が。
黒山羊に背を向け、車の間を縫うようにして大通りを抜けて路地を全力で駆ける。
走りながらスマホを開いて電話帳から名前をタップし発信ボタンを押した。液晶に表示されている名前は『胡桃』。
呼び出し音が続くばかりで出る気配はない。一度切ってアキの番号にもかけるが今度は繋がりすらしなかった。女性の機械的なアナウンスで回線が混み合っていると繰り返し告げられるばかり。
きっと無事、そう思ってはいるがそれを自身の目で確かめるまで安心はできない。休日出勤を改めて呪いながら自宅までの最短距離を急いだ。
「ははっ、こりゃあ詰んだかな…」
アパートはもう目と鼻の先、二匹目の獣を仕留めたところで再び姿を表した黒山羊。手にはどこから出してきたのか分からない大きな斧。
突然「ヴォォォォォ!!!!」と咆哮を上げる。
その直後、大希の背後でも強烈な爆音が轟いて熱風と共に周辺を赤く照らした。振り向いた視界に映ったのは言うなれば火柱だ。激しく渦を巻くそれは立て続けに数ヵ所で吹き上がり、立ち並ぶ一軒家を簡単に破壊して燃える瓦礫を辺りに撒き散らした。
一気に周囲の温度が上がるのが分かる。
辺りは火の海、退路は燃える瓦礫で完全に塞がれた。
「ヴゥゥゥ……」
住宅街のど真ん中。決して広くない路地で黒山羊との距離が縮まる。もう背後に退路はない。だがまだなんとかなる。向かって左側、黒山羊の斜め後ろの一軒家はまだ燃えていない。立地的にあそこの庭の塀を越えれば大希の部屋があるアパートの敷地に出れるはず。
その現状唯一の逃走パターンのイメージを脳内で繰り返す。
大丈夫、黒山羊の動きは速くない。
今までも暮人のおかげでヤバイ場面は幾つもあったし、その度にどうにかしてきた。ぶっ飛んだ仕事やイレギュラーな事態にも何度も対処してきた。今の状況にパニックにならず打開策に思考を巡らせるくらいに頭を使えているのは、そういった経験が生きているのかもしれない。そう考えると暮人の荒い人遣いに振り回された日々は悪いことばかりでもなかったらしい。
恐怖心を再度押し殺して集中する。まだ諦めるには早い。
大希もまた黒山羊を見据えた。
もう下がれない大希へ黒山羊が一歩、二歩と大きな足を踏み込んで近付いてくる。
もう七、八メートル程の距離。だがまだ動かない。
さらに三歩目。
まだ引き付ける。
汗が額から頬を伝い、そして地面に落ちた。
四歩、五歩。完全に間合いに入った。見上げる大希に黒山羊が斧を振り上げる。
斧が空中で止まり、それを振り下ろすべく腕に力を込めるその瞬間を見極めて、大希は全力で地面を蹴った。
──ここだ…!!
飛び込んだ先は黒山羊の足下、いわば股の間だ。大振りの隙を突き、転がるようにそこを抜けて先程の一軒家へと走る。空を切った斧は真っ直ぐ地面に刺さり大希が立っていた場所を粉々に粉砕した。
「ヴオォォォ!!!」
背後からの野太い叫びに鼓膜が揺れるがもう立ち止まれない。
洋風の庭を抜け、お洒落なデザインの鉄柵を登る。頂点に足をかけて乗り越えるとやはりアパートの前の道路に降りられた。
大きな桜の木がシンボルになっている大きな広場には生きてる人間は見当たらず、魔物も近くには確認できない。その広場を左右から挟むように建つ二軒のアパートも逃げる途中見てきた景色と違ってまだ綺麗に残っていた。
ここまではスムーズ。左側のアパート、一階の一番奥にある自分の部屋まで一気に走り抜ける。
一瞬だけ後ろを確認するがまだ黒山羊は追い付いてきていない。
駐輪場はアパートの裏側だ。このペースなら部屋で鍵を入手してバイクに向かう時間はある。そうすれば黒山羊の追跡を撒いて胡桃達がいるはずの川口へ短時間で行ける。
「あいつら……無事でいてくれよ……」
だがそう甘くはなかった。
目の前で巨大な火柱がアパートの一部を貫いた。それに続いて広場の中や外に次々に火柱が上がり熱風が吹き荒れ、直後に駐輪場の方から爆発音が響く。
ここまで逃げてきた目的を一瞬にして奪われてしまった。そして見渡す限りの炎は壁のように切れ目なくアパートの敷地全体をを囲っている。まるで大希がこれ以上逃げるのを許さないように。
ズン、ズンと重い足音と共に地面から揺れが両足に伝わってくる。
「ちくしょう…俺ばっかり追ってきやがって…」
どうやら余程この巨大な魔物に好かれてしまっているらしい。
周囲の炎で一層迫力を増して迫ってくる黒山羊に怒りのようなものが沸いてくる。
バイクも失った上に激しい炎の壁のせいで今度こそ前にも後ろにも逃げ道は無い。つまりこいつをどうにかしない限り胡桃達との合流は叶わないわけだ。
武器はヒビの入った木製バット。遮蔽物の無い広場。両サイドのアパートは火の回りからしていつ崩れてもおかしくない。仮にアパートの中に身を隠せたところで火柱で貫かれるか斧で建物ごと叩き斬られることになる。
現状から言えばまさに詰み。絶体絶命。
──それでも…
大きな斧が真っ直ぐ振り下ろされる。だがその一撃は空間を切り裂き地面を抉っただけ。
直前に黒山羊の足下に滑り込んで回避した大希にダメージはない。
両手で握り直したバットに力を籠めた。
バチィッ!!
「……やっぱこれじゃあ効かねぇよな」
全力で振るった一撃を太股の辺りに打ち込むが案の定黒山羊はびくともしない。
「ヴウゥ!!」
周囲を薙ぎ払うように横に振り抜かれる斧。これも体勢を低くして回避し間合いの外に出て距離をとる。
現状の得物ではダメージを与えられない。
護身術や体術は暮人にみっちり仕込まれているが、それも目の前の怪物相手には役に立たない。
倒し方も、弱点さえも解らない。
──それでも、諦めるという選択肢は無い。
地面から熱を感じ、ハッとして咄嗟に横に飛んで火柱を避ける。さらに間髪入れず斧の一振りが襲うがこれも回避。
単調な大振りをかわすのは難しくない。振り下ろしの体勢で手の届く位置まで下がった頭部を目掛けてもう一度全力でバットを振り抜く。
今度は角を捉えた。
バキンッ!! っと硬い金属を叩いたような音が短く響くが、やはり黒山羊にダメージは無い。
そのまま背後に回る。振り向き様に放ってきた裏拳をバックステップで回避して再び距離をとる。
斧にせよ拳にせよ一撃でも喰らったら一溜まりもない。地面から沸き上がる火柱もまともに受けたらヤバいのは間違いない。だから一瞬たりとも集中を切らすわけにはいかない。
再び足下が熱を帯びるのを感じて横に飛ぶ。
さらに何度かの攻防が続いた。
「はぁ…はぁ…はぁ…はぁ…………くそっ!」
終わりの見えない戦闘。隙を突いて全力の打撃を打ち込めてはいるが相変わらず黒山羊にダメージが入っている様子はない。大希も今のところ無傷。だが徐々に蓄積していく疲労で集中力が切れそうになり、だんだんと防戦一方になってきているのは否めない。
このままではじり貧。
また迫る斧の一撃を後方に飛びかわす。シンプルな攻撃パターン故に読みやすい。おかげで体は重いがまだ何とか回避はできる。だがそれは相手も同じようで、こちらの動きに明らかに慣れてきている。戦闘が長引く程不利だ。
再び距離をとった。足下を狙う火柱に備えるがその読みは外れた。火柱が貫いたのは大希の目の前の地面。視界が吹き上がる炎で視界の大部分が埋まり黒山羊が一瞬見えなくなった。
そのせいで視界の右端から襲うヤツの鋭い爪への反応に一瞬遅れる。
―――まずい!!
咄嗟に地面を蹴る。爪は火柱ごと引き裂くように迫り、後方へ飛ぶ大希の脇腹に食い込んだ。
ズシャァア!!!!
勢い余ってさらに後ろへ転がる。すぐ上体を起こしコートも中のシャツもズタズタに切り裂かれた胸部に手をやる。
痛みはない。体も動く。運良く掠めただけ。だが胸に触れた手を決して少なくない量の生温かい血が汚していた。胸元を見ると右脇腹から左胸にかけて斜めに入った大きな二本の爪跡。
この傷どこかで……。
直後フラッシュバックのように昼間見た写真が鮮明に浮かぶ。
『人が殺したようには思えない』
そう言っていた暮人が送ってきた惨い写真に映っていた引き裂かれたような大きな傷跡。深さは違えど、写真と酷似した傷が今大希の胸にも刻まれている。
何かが少しだけ脳内で繋がった気がした。
写真の被害者七人全員に共通していた天然のトリプルクロス。
今日の仕事について暮人は、大希の他にもお気に入り五人が『同じ案件』で動いていると言っていた。暮人が言うところの被害者候補、つまりトリプルクロス所持者の調査だろう。
大希の調査対象だった女性も所持していた。
その彼女は電車内で叩き潰されて死んだ。人間でなく目の前の黒山羊が写真の遺体と同じような惨い肉塊に変えてしまった。
しかも溢れる魔物と火事で騒然とする中、外も逃げる人でいっぱいだったはずなのにわざわざ車両の壁を破壊してまで殺しに来た。
彼女を狙った? いや、ターゲットはトリプルクロスの所持者だ。
とにかく彼女は『被害者候補』から晴れて『被害者』となった。
『同じ案件』で動いている他の五人もそれぞれが『候補者』に一人ずつついていたとして、黒山羊のような怪物が他にもいるのなら、少なくともここ以外の五ヶ所でも同じことが起こっている可能性がある。
それに駅の外で尽く日常を破壊していた魔物達はどこから…?トリプルクロスとの関係は…?
暮人との通話で聞こえた『逃げて』の言葉。
それは脱線事故からではなく黒山羊から、逃げろということだった…?
現に今黒山羊に追い詰められている。しかし大希はトリプルクロスなんか持っていない。なのに何故?
「ヴゥゥ……」
「っ!?」
ハッと前を向くとすぐ目の前まで黒山羊が迫っていた。完全に間合いの中。
───とりあえず後ろに!!
だが動く前にそれは阻止された。ゴォーっという何度も聴いた音、火柱だ。それと同時に背中が熱くなる。こちらの回避行動が完全に読まれた。
後ろには下がれない。なら足下か横に飛ぶしかない。斧の動きに備える。が、そんな大希を文字通り一蹴するようにヤツは右足で蹴りを放ってきた。
避けるタイミングはない。防ぎきれるとは思えないが、蹴りが大希の左半身を捉えるより先に体の前に滑り込ませたバットに力を込めた。
重い一撃、全力で込めた力など関係無しに押し返されたバットは脆い小枝のように折れ、大して勢いを殺せないまま大希を横から捉えた。瞬間ふわっと浮く感覚、直後凄い力で引っ張られるように真横に吹き飛んだ。
パリーン!!とガラスを突き破る衝撃を感じて尚勢い余って転がる。全身に痛みが走る。特に左側のダメージ、左腕にあまり力が入らない上に左の肋骨は恐らく何本か折れているだろう。
だがしぶといことにまだ動ける。頭も冷静だ。
何故黒山羊は大希を殺そうとしているのか?
心当たりはある。電車内で彼女が死んだあと急に大希にヘイトが向いたあのタイミング。確かあの時踏んだのは彼女の着けていたトリプルクロスのピアス。
理屈は解らないが、石を割ったことで大希を『被害者候補』と認識しここまで追ってきた。見えなくなるまで距離を離しても追い付いてきた。まるでこちらの居場所を察知しているのように。
そして『被害者候補』は今のところ全て肉塊へと姿を変えられている。
つまり、大希を殺すまで黒山羊はどこまでも追ってくる。
だとしたら、選択肢はもはや一つしかない。
───黒山羊を倒す。
それが恐らく、大希が生き延びる唯一の道。
蹴りで吹き飛んだ先は激しく燃えるアパートの一室のようだ。周囲の壁紙は燃え爛れ、広場と反対側の玄関に続く廊下は既に床まで炎に包まれているが、偶然にもそこは見覚えのある部屋だった。燃えるカーテンの柄、記憶に新しい新調したばかりのソファーとその前にあるローテーブルに置かれたウイスキー。今晩飲もうと少しだけ残していたお気に入りの銘柄が記された瓶が周囲の炎を投影していて、まるで瓶自体がメラメラと燃えているように見える。
紛れもなく大希の部屋だった。炎にどんどん浸食されていく自室で立ち上がる。
ゴールポストに収まったサッカーボールの気分はこんな感じだろうか、と下らない事を一瞬考えてしまった。もともと駅から目指していたこの自室は大希にとってとりあえずののゴールには違いなかった。そこに自分自身がボールのように蹴り入れられたのは不本意だが。
ここに辿り着きたかった目的は二つ。一つはバイクの鍵の回収、だがこれはもう意味がない。さっきの駐輪場での爆発によって恐らくバイクは木端微塵。それにもう逃げるという選択肢は消えている。
そしてもう一つ…
割れたガラスの先に黒山羊を捉えた。近い、そして熱を帯び始める床を蹴って大希は部屋の隅にあるクローゼットに手を伸ばした。
瞬間、床を粉砕し吹き上がる大きな火柱は部屋の空間を貫き二階の部屋ごと屋根を吹き飛ばした。アパートを完全に崩壊させ熱風により粉塵が舞い上がる。
ザシュッ!!!
「ヴオォ!?」
「……やっと入った……」
余波に浸る黒山羊の太ももに深々と突き刺さったのは日本刀。粉塵の中からの鋭い突きは綺麗に右太腿を捉え刃を貫通させた。
刃を抜くと同時にブシュッ!!と勢い良く血が溢れる。
視界の右上から襲う爪。速いが何度も見たその攻撃を避けながら背後に回り込んで膝の裏側を真横に切り払う。硬い皮膚が大きく裂け血が吹き出し、黒山羊が初めて膝をついた。
黒山羊に与えられた初めてのダメージ、その手応えに高揚していくのを自覚した。
脳内を満たすアドレナリンが痛覚を鈍らせている。
おかげで胸の傷も脇腹もさっきまでの痛みはもう感じない。
地面から沸き上がる火柱を避け、間合いの外に出る。黒山羊もすぐに立ち上がりこちらを睨んできた。
「来いよ化け物。第二ラウンドといこうぜ!!」
クローゼットの奥にしまっていた、大希にとって最も使い慣れた得物。恐ろしく手に馴染む柄から伸びる青白い刀身を持つ日本刀。
家を出て独りで生きていくと決めた自分に神代家前当主の祖父がくれた、『壊れた世界』でこそ役に立つ最高の武器。間一髪で回収に成功したその得物を黒山羊に向ける。
相変わらず窮地に立たされているのは変わらない。周囲の光景はまさに地獄。退路もない。倒し方も、弱点だってまだ解らない。でも確かにダメージは与えられた。今この瞬間を生き抜く覚悟を決めるのには、その事実だけあれば十分だ。
―――待ってろよ、アキ……葵…………胡桃!!
今まさにあいつらも魔物に襲われていると思うと気が気でならない。無事かどうかもまだ解らない。だからこそ…
―――こんなところで独り死ぬわけにはいかない!!!
熱を感じた地面を蹴って火柱をかわした。
日常が崩壊した東京二十三区の隅で、ただの人間が再び怪物に抗う。