金魚すくい
幸せを書きました
『少女時代の片隅、ほんの少しの間だけ、あたくしと兄様は逢瀬をしましたね。
あのときあたくしは、まだ世間知らずの少女で、兄様に酷いことをいっていたと思います。
覚えていないわけじゃありませんよ。
あたくし、自信が無いの。
覚えているのは、兄様のやはらかな音で紡がれるお話だけだから。
あたくしのこと、ただの子供と思っていたでしょ?
あたくしはあのときから、あなたに首ったけだったのよ。』
「……もう書くことが無いわ。」
筆を置いて、それからお茶を飲んでみる。
それでも全く浮かばない手紙の内容は、本日何度目かのゴミ箱行きだ。
スマートフォンが震えて、誰かからの通知。
何だか見る気分にはなれなかった。
爪を噛む癖の治らない、ボロボロになった指先でもう一度筆を取る。
夏も半ば、暑さしか残らぬこの部屋で、自分の吐息がゆったりと吐き出された。
『兄様はあたくしの憧れで……』
「違う。」
『あたくしはずっと兄様の為に……』
「違う……どうして、どうしてあたくしは……あの人に手紙なんかしたためているの?」
もう死んでしまった、あの人に。
●
あたくしと兄様が出会ったのは、まだ紫陽花が枯れぬ初夏の事でございました。
青白くひょろりとした図体の兄様は、傍から見れば幽霊のようでした。
しかし中身は全く。耳が溶けるような甘い声で女の子達に甘味を分けておりました。
小さな村の中で、あたくし達は自分たちだけの国を作って生活していたため、兄様の持つ菓子や歌などはとても珍しいものでした。
兄様はとても博識で、聞けば沢山の知識を与えてくれた。
そこに住まう少女も少年も、そして村の大人達も彼のことを認めていました。
「お嬢ちゃん、此方へいらっしゃい」
少し緑がかった髪が揺れ、隙間から黒曜石のような瞳が覗いて、あたくしはその時、たしかに心臓が高鳴るのを感じていました。
「これ、なぁに?」
「金平糖だよ。この村には無いのかな……もっと、たくさん食べなさい」
コユキちゃ。
呼ばれた名前は、母と父に呼ばれる時よりも、特別だと思ってしまったのです。
その日から、毎日少女に菓子を配る兄様の後ろをひよこのようについて行くあたくしは、いつの間にか恋初めておりました。
でも、いつの時代も幸せには、不幸が付き物ですね。
兄様は、傍から見れば異常でした。
夜な夜な少女を誘拐して、バラバラに殺して仕舞う悪い人で。
鈴蘭の様な、綺麗で可愛らしいものだけ持っている人では無かった。毒を持ち、少女を狙って刺すのです。
嗚呼酷いひと。
あたくしの恋心と共に、命を奪うの。
「兄様はどうして……ミキちゃをお家に入れたの」
一度だけ、聞いたことがあります。
今思えば愚問ですね。
彼にとって、殺しは日課のような、挨拶のような。毎日月夜が訪れる程度の、なんでもない日常だったのですから。
証拠を消すため自分の家に入れるのは、至極普通の事。
兄様は優しくこう答えて下さいました。
「ミキちゃは悪い子だからね。こんな俺に魅入られた、悪い子。」
「あら、ならあたくしだって、兄様に」
「コユキちゃは、殺してあげない」
「……どうして」
あたくしはこの言葉が、一等嫌いでした。
あなたの隣という、あたくしの一番の存在を否定されたような気がして。
殺さないじゃなくて、殺せないの方が良かった。
そうしてミキちゃんは、血まみれになって裏の山に捨てられておりました。
その日からあたくしは、兄様に紅色に染められることが悦びと考えるようになりました。
赤い、綺麗な死を迎えて。兄様の口付けで来世へ行くの。
あたくしは兄様を知りたいのです。
兄様の理想はどんなものなのか、お家にある死体を見れば分かるかしら。
あたくしは我慢できず、兄様の屋敷へこっそりと入り込みました。
●
屋敷の中はじめじめとしていて、生暖かな風が吹き込んでおりました。
暗い畳は水分を吸ったのか、それとも他の何かを吸ったのかとても冷たい。
少し怖くて、泣き出しそうになるのを堪えます。少しだけ頬を伝う泪は、畳に吸い込まれていきました。
第一印象はお化け屋敷でした。
それくらい雰囲気が沈んでいるのです。あたくしは、本当にここに兄様が住んでいるなんて想像もつかないなと、感じていたのです。
でも兄様は、此処に寝て、ご飯を食べて、朝と夜を過ごしていたのですね。
暗がりから音もなくでてきた兄様。その時は本当に、心臓が止まるかと思いました。
「……コユキちゃ」
声を掛けられた時、あたくしは咄嗟に隠れた軒下で肩を揺らしました。
バレているなんて思わなかったけれど、兄様は入ってきた時からとっくに知っていらしたみたいで、あたくしを引っ張り出して、着いた泥を払って下さいました。
「ごめ、ごめんなさ」
どもりながら頭を下げて、着物の裾をぎゅうと握り締めて目を瞑ります。
人の家に勝手に上がるのは、母と父からダメなことと教えて貰っていたから、余計に怖かったのです。
兄様はしょうが無いなという風に頭を撫でて、あたくしの頬に唇を落としました。
それだけであたくしは茹で蛸のように真っ赤に染まっていて、口を開閉させて黙りこくってしまいました。
兄様は上品にフフと笑うと、あたくしの赤に染った頬を撫でました。
「赤が、好きと言ったら、怒るかい」
「どうして?」
「皆、言ったら怒るのさ、異常だってね」
「あたくし、どんな兄様でも好きよ」
兄様を分かるのは、あたくしだけ。
兄様の為に赤になれるのは、あたくしだけ。
そう思うことが、何よりも嬉しくありました。
あたくしは、困ったように笑う、そんなあなたの瞳が大好きだから。
ふと、兄様の後ろで小さな赤を見つけました。
美しく、儚い。赤に染まるのに、呼吸を続けている。
そんな、兄様の理想。
尾ひれが揺らぐ度、あたくしの憎悪は高まりました。それと羨望、嫉妬、悲しみ、たくさんのものがごちゃ混ぜになって。
あたくしは、金魚なんか嫌いなのです。
「バカ!アホ!ノロマ!愚図!」
頭に石が当たります。
身体は灼ける様な痛みに悶えて、骨が軋みました。
やめてやめて、あたくしを殴らないで。
ノロマじゃありません。ばかでもアホでもありません。
あたくしのこと、いぢめないで。
「こら、やめなさい」
ガキ大将の頭に、鉄拳が落とされました。
いて!という声と共に、男の子たちは駆け足で何処かへいってしまいました。
焦った様に近寄ってくる彼の胸に、あたくしは飛び込みました。
「兄様っ」
「ワッ、コユキちゃ」
手を伸ばして兄様に擦り寄ると、兄様はいつものように頭を撫でて下さいました。
優しい手つきが、あたくしは大好きなのです。
「大丈夫かい」
「平気よ。兄様が来たから、怖くないもの」
兄様に抱き抱えられた時、衝動に任せて唇を額に押し当てました。
愛している、それが伝われば良いと。
「コユキちゃ……ダメでしょう」
「どうして。あたくし、兄様が好きなのよ」
「でも、」
兄様の困ったような顔が、どうも気に食いません。兄様は、困ったように笑うけれど、本当に困った時は目を右に逸らすから。
あたくしを見て。逸らさないで欲しい。
「兄様」
「…………っ、」
ク、と身を寄せあって、そのまま顔を近づけます。心底狼狽えた兄様は脂汗をかいて、あたくしの身体に手を這わせました。
兄様の心臓は高鳴っていて、それにつられるようにあたくしの鼓動も早まりました。
「……コユキ、何処にいるの!」
しかしながらその早まりは、あたくしの母の声で掻き消されました。
兄様は珍しく焦った様に離れると、頭を左右に振りました。
そうしてあたくしを抱き抱えて、屋敷の門へ進みます。
門の近くを歩く母に声を掛けて、あたくしを母へ渡してしまいました。
本当なら、男のくせに意気地無しと罵っても良かったような場面ですが、その時は兄様の体温に溺れていたので。
正直殆ど記憶がありません。
「兄様、今日は何をするの」
「……ちょっと、ね」
あたくしには分かりました。
彼は今日の獲物を探している。愛に飢えた少女との、美しい赤との蜜月を。
「あたくしは、連れていかれないの」
「……コユキちゃは、ダメだ」
「どうして。あたくしがあの家の御息女だから?そんなので兄様の赤になれないのは嫌よ!」
「コユキちゃ、どうか分かってはくれまいか。あすこの家の娘が居なくなるなんて、あっちゃあいけない。」
「この世にいる少女全員、いなくなっちゃいけないわ。」
いつしかこの村は現代社会からあぶれ、古の姿のまま時代に置いていかれたゴミ捨て場。
だからそこらにいるオンナのひとりやふたり、いなくなっても神隠しと言われてしまうのです。
あたくしはその時、自分も神隠しと誤魔化されると信じて疑いませんでした。
「コユキちゃ」
「何よ、その目は。あたくしの、何処が不満なの?あたくしは、兄様に殺されるために今日までっ」
「コユキ」
冷たい声でした。
兄様はいつも優しくて、あたくしの事をコユキちゃ、と訛ったように言うのです。
今では珍しい古風な喋り方も、毒花のような怪しげな雰囲気があたくしは大好きで。
どうしても惹かれててしまう。
そんな兄様の、聞いたこともないような声。
あたくしの脚は凍りつきました。
怒っているはずなのに、表情は全く動かない。
前に彼の屋敷へ入ったときよりも厳しいその目に、胸が苦しくって。
「兄様なんて、きらいよ」
あのとき駆け出したことを、今でも後悔しております。
次の日。
兄様はいつも通りに女の子へ菓子を配りながら、たおやかに立っておられました。
あたくしと喧嘩……というより一方的に怒ってしまったことを、忘れるかのように。
自分の中の兄様は、世界の百割を占めているけれど、兄様の中の自分は、少ししかいないのでしょう。
苦しいのに、泣きたいくせに、少しの声も出ません。
あたくしはこの時、初めての失恋を経験致しました。
●
殺して欲しい。
そう思うのは、異常です。でもあたくしはずっと、兄様の赤になりたかった。
悪いことだって思っていなかった。
あたくしは、その時からおかしくなってしまいました。
夜中。
二度目の兄様の屋敷へ入って、湿った生温い空間を抜けて、小さな赤を見つけました。
お水の中で動いている、綺麗な赤。
紅ではダメなの。兄様は、赤が好き。
身体が締め付けられるような感覚。
これが、兄様の赤なんだよね。
そう思えばそう思うほど、吐き気も目眩も鼓動の早まりも止まらないのです。
美しい水の中に手を差し入れて、赤にさわりました。
あたくしは意外と、魚の手掴みは上手なんです。
取り出した赤は、水中の酸素を求めて暴れました。
あたくしの身体全部、此奴と変わってしまえばいい。
あたくし、金魚になりたいんだわ。
兄様のやはらかなお声を一心に受ける、兄様の羊水の中で泳ぐ、金魚に。
ずるいわ。
あたくしは兄様との逢瀬を心待ちにしているけれど、金魚なら何時でも逢えるもの。
この少女時代、兄様一色でありました。
それなのに、兄様は金魚一色。こんなの、不公平だと思ってしまったのです。
パン、と乾いた音が響きました。
遅れて水の跳ねる音。
何かが叩きつけられたような音でした。
あたくしは、何度も何度も叩きつけました。赤い皮の下には、赤だけなのでしょうか。
「みして、」
パチン、バチン、ばちゃん、べちん
今まで生きてきた中で、充実した可惜夜月は、この時だけでした。
高まる鼓動に合わせて赤を叩きつける。
おかしいでしょう。それだけで満たされていたのですから。
「嗚呼なんだ、」
全然赤じゃないじゃない。
あたくしの行動は、気が狂っていたとしか思えません。
でも止められなかった。あたくしはもう、命を奪ってしまっていて。
「コユキちゃ……?」
兄様は音もなく後ろに立っていて、その手には鋭利な包丁が握られておりました。
真っ赤に染まった手が、着物が。
彼が今しがた知らぬ少女に毒針を刺しこんだ事を教えてくれました。
恋蛍のあたくしは彼を見て、ひとつの感情が湧き上がりました。
「あ、兄様、見てっ、みて、……あたくし、いけない子よ、怒って、おこって!」
両手を広げて、悪役のように笑いました。
掌で息絶えた赤を見せつけて叫びます。
からだが、あつい。
あたくしの首に手を掛けて。
あたくしの腹にその刃物を突き立てて。
あたくしの殻を破って、醜い所まで愛して。
貴方が絶望の淵にいるなら、あたくしを掴んで。そして一緒に堕ちましょう。
「兄様、あたくし気付いたわ!あたくし兄様の金魚になりたいのよ、それがあたくしの夢!あたくしはずっと物足りなかったわっ貴方の隣にいることが幸せだと思っていたの、でもあたくしは貴方の赤になりたい!」
「コユキちゃ」
「この金魚は何処で手に入れたの?丘の上の夏祭りの時に金魚すくいで貰ったのかしら?一匹だけなんて、兄様はすこし下手なのね!あたくしも金魚になるから、お風呂に入っていいかしら、水の中で兄様に救われるのを待つわ、その時あたくしを殺していいわよ、そしたら浴槽が真っ赤になって綺麗でしょ!」
あたくしは興奮したまま、涎を撒き散らしてそう叫んでいた気がします。
きっと目は血走り、顔は醜く汚かったでしょう。こんな顔では、兄様に可愛いとはお世辞でも言われなかったでしょう。
あたくしは兄様へ愛を叫んで、糸が切れたように下を向きました。
息をするのを忘れて、軽く酸欠になっていました。
赤まみれの兄様は黙ったまま金魚を一瞥して、ふらふらと覚束ぬ足取りであたくしへ向かいました。
刃物は未だ握られたまま。
殺されてしまうのね。夢が叶ってしまうのね。嗚呼でも、あたくしもう少し夢の余韻に浸りたいのだけれど。
そう思いながらそっと兄様へ手を伸ばすと、兄様はあたくしを抱き締めました。
「…………兄様?」
「………………ウッ、ウウッ」
兄様の匂いに混じって鉄臭いのが鼻を通ります。
兄様は静かに啜り泣いてしまいました。
あたくしは何が何だかわからず、兄様を呼びました。
あたくしのこと、初めてこんなにきつく抱き締めてくれた。
目の前が真っ白で、世界が煌めいたように感じました。
でも、あたくしは大きな勘違いをしていたんですね。
「琴雪……」
あたくしを掻き抱きながら、兄様は聞いたことも無いオンナの名を呟きました。
「……あ、」
大きな音が湿った畳に叩きつけられました。
あたくしは後頭部と背中を襲う衝撃に脳味噌がついて行かず、痛みに喘ぐことも出来ませんでした。
兄様は、齢十も行かぬあたくしの手首を片手できつく縫いつけていました。
男の本気の力に叶う訳もなく、そのままあたくしは唇を奪われました。
歯が当たり、頭の中で音がなります。
兄様と接吻が出来た。嬉しい?そんな訳ありません。
「あ、いや、うそ、ウソでしょう、兄様、やめて!」
兄様はどこか遠くを見るようにあたくしへ口付け、そのまま衣服を破るように脱がせ始めます。
「イヤ、嫌あよ、あたくし、あたくしを見て」
「琴雪、琴雪」
・・
「違う、あたくしはそのコユキじゃない!お願い、何処見てるの、兄様」
荒い息遣いのまま、兄様はあたくしを優しく呼びました。
正確には、あたくしに似た、琴雪というオンナを。
コユキって、誰なのだろう。あたくしはずっと、そのオンナに重ねられていたの?
なぜ、そんな酷いことをするの?
「重ねないで、嫌あ!あたくしはここにいるの、ここにずっといるのに!あたくしのことをいぢめないで、いぢめないで!」
あたくしはガキ大将の彼奴らに殴られた時よりも、蹴られた時よりも、服に虫を入れられた時よりも、罵声を浴びせられた時よりも、たくさんたくさん泣きました。
「好きよ、好きなの、あたくし、あなたがすき!どんな事があっても、あたくしの思いは曲げないから」
「琴雪……」
「だからあたくしを見て、兄様」
その大声が、きっと村に響いたのでしょう。
夜中だと言うのに、大人たちが大慌てで屋敷へ入って来ました。
そうして兄様はあたくしから引き剥がされて、男たちに連れていかれました。
「コユキ!」
「かあ、かぁさ」
あたくしは兄様の言うコユキに憎悪しながら、母にしがみつきました。ほぼ全裸のあたくしを見た母は、目を吊り上げて何かを叫んでいました。
●
それからずっと、兄様の姿を見ないままで。
兄様と出会った、春が二回訪れました。
あたくしはあの時のことを誰にも話してはおりません。
母や周りの人からは彼の事を忘れなさいと言われておりました。
でも、彼の事を忘れたことなど一度もありません。
未だに恋初めたままのあたくしの心は、兄様という水槽を求めてのたうち回っているのです。
鉄臭い赤に塗れた愛を抱いたまま、あたくしは水の底に沈んでいました。
度々兄様の屋敷へ踏み入っては、想いを馳せて居る。これを母に知られていたら、あたくしは屋敷にすら行けなかったのでしょうね。
その日も只、そこにいるため足を動かして。
そうして、花衣の貴方を見つけたのです。
「兄様……?」
あたくしは最初、幻覚でも見ているのかと思いました。
だってずうっと姿が見えなかった人が、当たり前のように立っていたのですから。
「コユキちゃ」
兄様は琴雪ではなく、あたくしを呼びました。
そこでやっと、幻ではないと思い至って、あたくしは感情のまま兄様に抱き着きました。
兄様は視線と両手を彷徨わせておられて、少し笑いを誘いました。
「どうしてここに?」
「もうこの村から、出なきゃいけないのさ」
「うそ、ずっとこの村の中にいらしたの。」
「ウン、地下牢にね。コユキちゃに、あんなことしたんだから。……ごめんね」
気にしてないと言いたかったけれど、彼が呼んだ琴雪のことを気にしない訳には行かないので、そっと言葉を飲み込みました。
「ねえ兄様。琴雪って誰なの」
無粋で、最低かも知れません。あたくしはそれでも、彼の口から聞きたかった。
あたくしに重ねた、オンナのことを。
兄様はギクリと身体を固めて、それから大きく深呼吸。数分にも数秒にも思えた長い時間の後、そっと切り出しました。
琴雪は自分の妻だった。
小柄なのに活発で末っ子気質で。兄様はいつも振り回されていたらしく、でもそれが心地よかったのだとか。
でも6年前の冬、流行病で死んでしまった。
兄様が無けなしの金を出して都会へ行って、病院で告げられたのは余命宣告だった。
それから数ヶ月、都会の食べ物なんかを彼女に食べさせたり、珍しいものを見せたりした。
彼女も笑って、そうして死んだらしい。
布団の上で兄様に手を握られて、円満に、綺麗な終わり方をした。
でも流行病は、身体から血を吹き出す奇病だったらしい。
自分の愛する人が真っ赤に染まる様を間近で見た兄様には、ひとつの感情が芽生えた。
これは本当に琴雪なのか。
赤に染まったオンナは、琴雪なんだろうか。
狂っていく平衡感覚の中、兄様の脳味噌はねじ曲がって、赤に染った女に執着するようになった。
琴雪がよく着る着物に描かれた、赤い金魚に執着するようになった。
彼女は死んだのに、死んだ後の方が兄様の脳内にこびり付いて離れない。
何時しか真っ赤を目の前で感じたくて、オンナノコを攫って殺した。
それでも満たされない衝動が、兄様に襲いかかる。
何度も何度も攫っては殺して攫っては殺した。
処女の方がいいのかと考えて小さな子も、違くてもいいのかと考えて大きな子も。
全部全部、赤に染めてしまったらしい。
自分の意志よりも本能が勝って、兄様の手はどんどん薄汚れていく。
苦しくてどうしようもなくて、そうして女々しく逃げた小さな田舎村で、あたくしを見つけた。
活発で、小柄で、可愛らしい、コユキ。
「……だから、あたくしとその人を重ねて……しまったのね……?」
それは、全て仕組まれているのではないかと思うくらい、最低な話だったのです。
途中から耳を塞ぎたかったのが正直な話。でも兄様が話すのは、これっきりと何となく感じていました。
「最低だ。罵ってくれてもいい。だから、どうか、俺を許さないでおくれ」
「…………」
喉がグウと音を鳴らし、あたくしは言葉を失いました。
どんな声を掛けても、全部無駄です。
あたくしのことを見てくれていたことは、きっと出会ってから一度もないのですね。
「……あ、兄様」
「……。」
「あたくし……ッ、なんでなの?あたくしは、貴方に恋焦がれる権利すらないっていうの」
「ごめん、ごめん」
「……赦せない、許さない……だから、ちゃんとあたくしを見て!貴方が、辱めようとしたオンナを、見て」
頬はすっかり痩せこけて、瞳の黒曜石のような輝きは少しも無い。
そんな彼は、そっとあたくしに目線を合わせました。
「逸らさないで」
「…………う、」
「ねぇ、これでも、あたくしのことが琴雪に見える?」
見えると、言われたらこの場を去るつもりでした。
あたくしと彼の間にはずっと何かがあって、それが許せない。
でも兄様にとっては、かけがえのないものだったのでしょう。
「ねえあたくし、もう大人になるの。あと数年したら、お嫁にいって子供を産むのよ。それが普通なの。」
「…………」
「でもあたくしは、貴方に蝕まれて、歪められた。」
兄様は下を向いていました。
もう立つことすら危ういのか、全身を揺らつかせながら。
「こんなの、不公平でしょう。皆は普通という幸せを掴むのに、あたくしは幸せを掴めないの。……貴方のせいで。」
「償えないって、分かってるよ」
「そうね、そうよ。あたくし、中途半端に汚されたの。だからね」
どうせなら全部、汚してよ。
そういった時の兄様の顔は、忘れられません。あたくしにとって、最高の表情でした。
兄様は死にかけの金魚のように口を開けて、濁った瞳で此方を見ました。
まさか、あたくしが何もしないで貴方の前から去るとでも?
「分かるでしょう。あたくし、強情なの」
「だッ、駄目だって」
「あら、その言葉は二年前の自分にでも言っていて。」
後退る兄様の手を握って、顎を掴んで。
そうしてあたくしは、ぢっと黒曜を見つめました。
兄様は目をこれでもかと泳がせて、それからあたくしの唇を見ました。
そしてあたくしへやおらに近づいて。
「兄様って、下手なの?歯が当たったわ」
「き、緊張してるだけだってば」
あたくしは彼が、好きでした。
兄様はその後そっと居なくなりました。
田舎村はいつも通り子供が遊び、大人が田に苗を植える。
あの人なんていなかったみたいに。
ある日、男の子に呼び出されました。
「コユキちゃん、スキ」
「ウン、あたくしもよ」
あたくしは、そうして結婚した。
あたくしは、そうして子供を産んだ。
あたくしは、そうして……。
都会に出て、母や父と別れました。
結婚相手と住んで、それなりに幸せを掴みました。
きっとあたくしは、生き方が上手い方だったのですね。
成人した盆の日、貴方が死んでいたことを知りました。
母はずっとその事実を隠し続けて、兄様が綴った手紙を、箪笥の奥へしまい続けていました。
大人になったあたくしへ、気遣うようにそっと渡された紙は、萎れて、所々色褪せていました。
『 拝啓
未だ盛夏の候、如何お過ごしでしょうか。
御家族の皆様には益々ご清祥のことと存じます。
さて、この度はこうして手紙を書いたものの、何一つ話題は浮かびません。お恥ずかしながら、手紙を書くのは初めてで。
コユキさんは、どんな風に大人になりましたか。ずっと、隣で見ていたかった。
子供は何人居ますか。名前はなんですか。
旦那さんと上手くやれていますか。女の子なんだから、お腹を冷やさないように。
体を大切にしていますか。
きっと、いい出会いに恵まれたんだろうなと。これをかきながら思っています。
自分は、全く。苦しい事が、たくさんありました。
コユキさんへ手を出してから、ずっと。自分はただの犯罪者でした。
周りから向けられる目が、全部敵意に見えてしまう。
優しさも、裏を返そうとしてしまう。
こんな弱い自分を、なぜ貴女は好いてくれたのか。
コユキさん、愛していました。
貴女のことが、ずっと愛おしかった。
きっと、貴女の愛と自分の愛は、何かが違っていた。
だからすれ違ってしまったんでしょうか。
それでも、愛していたことに変わりはありません。
コユキさん。愛している。
だけど自分は、もう君の前に立つことは出来ない。
この先も、自分は君に愛を伝えることはこれっきりだ。
君は何もしなくていい。
今更だって怒っていい。
浅ましい自分のことを、殺して欲しい。
こんな酷い男の事を、どうか忘れないで。
最低な男だと、君の頭の隅に住まわせてください。
これ以上赤に染まりたくない。
だから俺は、遠くへ行こうと思います。
君の届かない場所まで、逃げてしまおうと思います。
君の薄紅の唇で、狡い男と罵ってくれ。
返事は結構です。末筆ながらご自愛の程、お祈り申し上げます。
敬具
大正 年 八月十五日
三藤カズヒロ
鹿羽コユキ様 』
「それ、読んでたコッチが恥ずかしくなるくらいのラブレターで、吃驚しちゃったわ」
電話口で母に言われた時、涙か止まらなかった。あんなに愛していた人が、死んでしまったことよりも。
あたくしがあの人のことを、まだ好きでたまらない事に。
最低で最悪で最高な人。未練がましいのは分かっているけれど、あたくしを放ったまま、地獄て落ちてしまったのね。
一緒にいきたかった。
きっとあなたは許してはくれないのに。
せめて、死んだその日のことが知りたかったわ。
あたくしは、走馬燈にいたかしら?
爽籟が頬を掠めて、少し肌寒い今日この頃。
そっと思いを馳せて、手紙を懐に仕舞いました。
●
「かぁさま!」
「きゃ」
小さな手のひらが、あたくしを包み込むように伸ばされた。
まだ成長しきっていない身体が背中にのしかかり、温もりを感じる。
「ちよ」
「かぁさま、なにしてるの?」
「……お手紙書いてたの」
そっと書きかけの紙をゴミ箱に捨てる。
ちよに見せたところで、なんの意味もない。ただの遊びだ。
彼はもう居ないのだから。
「ちよこそ、夏祭りはもういいの?花火は……」
「うん!おわり!花火よりいいのもらったの!」
ニッコリと歯を見せて笑う娘の歯には、青海苔が付いていた。
相当楽しんだのか、額の汗が髪の毛について前髪が大変なことになっている。
娘のちよはあの人の面影すらない。
そりゃそうだ、だって自分が結婚したのは。
そっと搦められた手。角張った男の手。
それは自分が結婚した人の手。
自分も手に力を入れて、ゆっくりその人を見つめた。
「……おかえりなさい、貴方」
「ただいま、何をしていたんだい」
優しげに細められた瑪瑙色の瞳。
この人は、あたくしの愛する人。
あたくしと綺麗な恋をした、唯一の人。
「かあさま、お手紙かいていた!……じゃあちよがとった、これあげる!」
幼い手に握られた袋の中には、あの人が求めた赤色があった。
たった一匹のそれは、こちらをぢっと見ている。
あたくしが殺したアレと似ている気がした。
「金魚……は、いらないわよ。ちよがとったものでしょ?倉庫に水槽があるから、後で取ってきてあげる。」
「うん!金魚ちゃん!さっきまでね、二匹いたの。でもすくったら死んじゃった。」
ちよが持つちり紙に包まれた赤は、ヒレも色もくたびれていた。
あたくしが殺した金魚に似ている。
「こっちは多分、妹だったの!だから、この金魚は……」
袋で窮屈に泳ぐ赤は動きを止めた。
「あにさま!」
彼はそっと近づく。
俯く自分の前髪を流して、それから彼はゴミ箱の中を一瞥した。
クシャクシャに丸まった紙くずがそこらに散乱している。
一人で佇む自分に寄り添ったまま、口を開かなかった数秒間。
彼は何を考えていたのだろう。
彼は、意を決したようにこちらを見た。今までで一番真剣な瞳だった。
でもその目には、少しの恐れと好奇心が混じりあって。
とても汚かった。
「コユキ、さっきかいていたのは」
不安げに聞くくせに、目が物語っている。
きっとこの人は、あたくしを殺せない。
物足りないの。
はやくあたくしを殺して欲しい。
ぐちゃぐちゃの死体が腐乱して、蛆が湧く所まで見届けて欲しい。
狂ってる、なんて言葉じゃ表せない。
だって今も、あの人に囚われているから。
あの人に歪められた価値観は、一生付きまとうものだから。
「大したことじゃないわ。ただの、日記」
あの人のことは、決して忘れないように。
何があっても隠し通すように。
やはりこの手紙は、永遠に書かないでおくの。
部屋の隅。
すくわれて綺麗な水槽で泳ぐ金魚は、もう救いようがないあたくし。
あにさまと名付けられた愚かな赤は、今日も能天気に箱庭を泳ぐのでしょう。
あたくしはいつまでも、赤く染ったまま。
ひらひらと、すくいをまっていた。
大正時代が好きです