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其の玖

 その日、何も書かれていないことを確認してから帰る道で、桜子の家がある小路の横に、辺りの風景に似つかわしくない黒塗りの外国車が停まっているのが目に入った。

 車の横で男がふたり立ち話をしている。

 トオルはさり気なくその横を通り抜けた。恰幅の良い男が細身のスーツ姿の男を叱りつけるようにしている。

 桜子の家の前に初老の女が立って車の方を見ている。トオルが女に声を掛けた。

「誰ですか?あの人たち」

 挨拶のない唐突な質問は、相手が警戒するか、それとも心の扉を閉め忘れるか、一種の賭けのようなもので、ウマが良く使う手だ。

「よくわからないですけど、あの紺の背広の人は駅前の銀行の支店長ですよ」

 女は細身の方の男を、手を脇の下に隠すようにして指差した。

「桜子さん、いないと寂しいですね」

 女の心に飛び込むのにはその一言で十分だった。女はトオルを自分の側の人間だと判断する。トオルが何者であるか詳しく聞くことを忘れてしまっている。

「なんかね、高倉さんは弟さんのために随分借金をしていたみたいですよ。土地を担保にしてね。それを見に来たんじゃないですか」

 女が小声で言う。

「桜子さんのお知り合いですか?」

「ええ、自彊術の教室仲間です」

「ジキョウジュツ?」

「う~ん、健康体操みたいなものです。私たちはそれを習って、お年寄りに教えています」

 桜子がヨガのようなものと言った体操らしい。

「高倉さんは、コーラスで老人ホームを慰問したり、作業所で粘土細工を指導したりもしていました。ボランティアに一生懸命の人だったのに、そんな人が殺されるなんてねえ」

「そうですよ、絶対おかしいですよ」

 トオルの強い口調にうなずきながら、女の中でトオルは完全に仲間になっていた。

『おでん、六時』

 他に書きようがないのかと思う。ウマだ。

店に入るとウマが中年の女と差し向かいで座っている。一目で女将と分かる白い割烹着姿の女だ。トオルを手招いて横に座らせると、

「俺のシャデ(舎弟)みでなもんだ」

と、ウマは、トオルを東北弁で女に紹介した。

「それじゃ、ごゆっくり」

 女は古くからの馴染み客に対するような笑顔を作ると、カウンターの中に入って行った。

「ウマさん、また何かやったの?」

 飲み屋の空気にたちまち溶け込むのもウマの特技なのだ。

「これだ、これ」

 ウマは目の前の小鉢を箸で示す。おでんの汁の中に赤いトマトが浸っている。トオルの知らない食べ物だ。

「東北の方じゃ、おでんにトマトを入れるのは、それほど珍しくないんだ」

 旅芝居で日本中を歩いているから、ウマは土地々々の食べ物に詳しい。

「東京じゃまだ珍しいな。だから頼んだんだ。飲み屋に入ったらその店にしかなさそうなものを頼むんだ。うまくいけば銚子の一本ぐらいサービスしてくれるぞ」

 酒を飲まないトオルには無用の智恵だが、人を喜ばせる技だとは思う。

 ウマは箸立てから割り箸を取って、小鉢の上に置いてトオルの前に押し出すようにした。

「俺、トマト、だめなんだ」

 トオルはもう驚かなくなっている。

「どうだった、わかった?」

「ああ、いろいろな。まず石井という男は、小場の会社のコンサルタントもしているぞ。弟とは釣り仲間だが仕事の相談に乗ったりもしているようだ」

「それで、小場って人のことも調べたんでしょ」

「ああ、まあな。自動車部品を作っている会社だ。従業員が二十人ぐらいいる会社の社長だが、いまは結構苦しいらしいな。仕事はほとんど中国あたりに取られているようだ。借金があるのは会社としては当たり前だが、会社の実権は女房が握っている。女房の親父が作った会社で、そこの入り婿だ」

 どうやって調べたかは想像がつく。

 噂話好きはどこにでもいるのだ。この程度の話なら警察の真正面からの捜査でもすぐにわかる。ウマにとっては容易いことなのだ。ただし小場が捜査線上に浮かんでいての話ではある。

「それだけじゃないでしょ」

 トマトのおでんは不思議な味がした。醤油味の温野菜のようだが、何の手ごたえもなく箸を受け入れて持ち上がらない。戸惑っているトオルの頭の中に何故か東北の雪景色が浮かんでいる。

「ボン、聞いているか?」

 ウマに現実の世界に引き戻された。

「石井って奴は普通のコンサルタントじゃないぞ。客先は多いが、目立つのは『アケボノ企画』という会社だ。不動産管理の仕事だが、何のことはないひと昔前の地上げ屋だ。社長は片岡紀夫という男。この男だ」

 ウマは、紙袋から業界新聞を取り出して、トオルの前に置いた。それが先日桜子の家の近くで立ち話をしていた恰幅の良い男であることはすぐにわかった。トオルはその事をウマに伝えた。

「銀行の支店長と一緒だったのか、なるほどな。土地を担保に金を借りてたって言っただろう。だけど銀行は農地を担保にするのを嫌うんだ。簡単には売れないし、評価額も二束三文だからな。仕方なく担保にとっても、出来るだけ早く処理したいと思うだろうな。そこにアケボノ企画が一枚噛んだとしても不思議じゃないな。それと、これが石井というコンサルタントだ」

 ウマが一冊の本を取り出した。

 地方都市の事業者で作る公益法人の団体の五十周年を記念する本だ。巻頭に写真入りで挨拶が載っているのが石井だった。

「その団体の副会長をしているんだ。うまいこと潜り込んで肩書きを利用して商売を広げたらしい。やり手と言えばやり手だな」

 アケボノ企画の片岡とはその団体で知り合ったらしい。二人ともそれなりの地方名士ということになるのだが、芳しくない噂もあると付け足した。

 どこの業界にも商売敵はいる。調べようとする相手の敵を見つければ、もう調査は済んだようなものだ。恨みや妬みという飾りを削ぎ取る必要はあるが、少しだけ裏付け調査をすればいい。楽なものだとウマは言う。

「ウマさん、場所変えようよ」

 ここから先の話しは殺人や凶器といった血生臭い言葉抜きでは出来そうもないとトオルは判断した。「そうか」と立ち上がったウマが、

「女将さん、ごちそうさん。今度はイカ人参を食いに来るよ」

 女将が笑顔でウマを送り出した。

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