其の漆
警察署の隣が大手のスーパーになっている。
数年前に建て替えられた署の建物には厳めしさなどはなく、薄茶色の壁面でスーパーの別棟のような雰囲気さえある。正面の懸垂幕の交通安全や防犯の標語も、うっかりするとスーパーの催事案内に見えてしまう。
署の出入口が見えるスーパーの休息スペースで、トオルは洋子が刑事を連れて来るのを待った。
洋子が連れ来た刑事には見覚えがあった。トオルのアパートに聴取に来たふたりの刑事のうちの若い方の男だ。
ペコリと小さく頭を下げて目で挨拶をした刑事を、洋子は洞口雄一だと紹介した。
アパートに来た時と同じ恰好をしている。背はさほど高くないが、しっかりとした四角い柱のような体型で、それでいて童顔の中の笑顔は可愛らしくさえある。聞き込み見に行く来たときの第一印象と違い、刑事らしくない話しやすそうな男だと思った。
「洞口さん、桜子さんの事件はどうなっていますか?」
「話せませんよ。洋子さんと一緒に来たのも、君が話したいことがあるからと聞いたからです。警察として、こちらから話すことは何もありません」
その通りだ。警察官が事件のことを一般人に話すことは禁じられている。見た目はともかく、やはり刑事なのだ。
「そうですね、では僕が勝手に話をさせてもらいます。桜子さんを殺した犯人の目的は金品ではないかということでした。強盗をしようとする人間が他人の家に入る。もしそこの住人に見つかれば当然逃げます。でも、もし逃げられなくなった場合のために何か武器を用意するとします。例えばナイフや鉄パイプ。しかし、紐を用意して侵入する人間がいるものでしょうか」
トオルは、一呼吸置くと、テーブルの上の紙コップのお茶を飲んだ。スーパーがサービスで置いてあるお茶だが、トオルが大学の研究室で飲んでいるお茶よりも数段美味い。
「桜子さんを殺した凶器は紐のようなものでした。それが現場に残されていなかったということは、犯人が用意して来て、絞め殺して、そして持ち去ったと考えるのが自然です。本当に人を脅すために紐を用意する強盗がいるものでしょうか」
捜査本部も頭を悩ませていることだ。
「手近にあった紐を使ったとも考えられるだろう?」
洞口が腕を深く組み直して言ったが、それでは持ち去ったことの説明がつかない。少し怒ったような表情になった。わかりやすい男だ。
「女性が一人で暮らしていることは前もって下調べをすればわかります。でも用意したのが紐となると、そこには初めから殺意があったとしか思えないんですよ」
「なるほど」
今度は素直に感心している、感情を隠すことも得意ではないようだ。
「言いたかったのはそれだけです」
トオルは立ち上がるとゆっくりとその場を去った。意識的に振り返らなかった。素っ気ない素振りは時として相手にプレッシャーを与える。あとは洞口がどう動くかだ。
その後も桜子のことを思い出しながら一週間ほどが経った。
心とは裏腹に、風のない、穏やかな日が続いた。
駅前を通ると、テントが張られ、警察官の服装をした人間が通行人に何かを配っている。秋の交通安全運動が始まっていた。
トオルはその中に洋子の姿を見つけた。洋子もトオルに気付いて手を振った。トオルがテントの所まで行くと、
「安全運転をお願いします。眠くなったら噛んでください」
と、コーヒーのイラストが入ったガムを手渡した。しかしトオルは運転免許を持っていない。
「その後、桜子さんのこと、どうなりました?」
洋子が黙ったままトオルをテントの後ろへと連れて行く。
「私は何も聞かされていませんし、聞いていても話せないんですよ」
テントの裏で休んでいた『ピーポくん』の背中を叩きながら言う。警視庁のマスコットキャラクターだ。
「私は知りませんけど、ピーポくんなら何か知ってるかも知れません。ねえ、ピーポくん」
洋子は、ピーボくんの耳を引っ張って話してから、ぬいぐるみの口元に顔を寄せた。
「へえ、そうなの、桜子さんの首と指に黒い粉のようなものが付着してたの。鑑識で調べたらフッ素の入ったゴムの材料だったのね。なるほど、うんうん」
またピーポくんに顔を寄せて、
「でも本部は物取りの線を崩してないのね。だからピーポくん動けないのね、可哀想」
まだ目撃者は見つかっていないともピーポくんが言ったらしい。
「ありがとうございました」
トオルはピーポくんにわざとらしく礼を言ってテントを離れた。
「洋子さん、何やらせるんですか」
「いいじゃないの、刑事は話せなくても、ピーポくんならいいでしょ?」
被りものを取ると刑事の洞口が鉢巻をしている。顔にたっぷりと汗をかいている。
「なんで刑事課の俺がピーポの中に入んなくちゃなんないんですか」
「仕方ないでしょ、この時期交通課は忙しいのよ。あなた暇でしょ」
洞口が口を尖らせた。
「まあ、俺もすっきりしてないんですよ。あの若いのが言う事もっともですし」
洞口が短髪の頭の汗を手拭で乱暴にぬぐった。組織との間の粘り気のある泥水の感触にも似たジレンマが、洞口の中に間違いなく存在していた。
警察の鑑識ならばフッ素の入ったゴム素材が何であるかは当然割り出しているだろう。しかし何なのか聞くこともできないし、聞いても教えてはくれまい。自分で考えてもわかるはずはないから、トオルはアパートの学生である『理科』に聞いてみることにした。理科は理学部に通っているが、誰もその内容を理解できない化学が専門だから、単純に理科と呼ばれている。
「フッ素ですかFですね。歯磨きとかに入っているやつです」
トオルから貰ったコーヒーガムを口に放り込みながら言う。元素記号を聞いているのではない。諦めかけていると、横で話を聞いていた獣医大にこの春入学したばかりの『動物』が、
「フッ素かどうかは知りませんけど、バイト先で触ると指が黒くなるゴムの紐のようなものを使っていましたよ」
夏休みに機械部品を作る工場の出荷のアルバイトをしていたと言う。
「クッションにしたり、部品を縛ったりしました。指が真っ黒になって、なかなか落ちないんですよ」
トオルは動物を連れて一階に降りると『パソコン』の部屋を訪ねた。アパートでは比較的裕福な学生で、IT関連の専門学校に通う、ただ一人パソコンを持っている学生だ。
「パソコン君、ちょっと知らべて欲しいんだ。フッ素、紐、工業って入力してもらえる?」
インターネットで検索すると現れた画像をみて動物が大きな声を出した。
「これです、これ。このチューブみたいなやつです」
『フッ素スポンジ丸紐』。これ以上望みようのない一致だ。
情報化社会に感謝するが、ここから先は推理に頼るしかない。
いま自分と警察との一番の違いは、桜子の弟を疑っているかどうかだ。トオルの頭の中の推理の歯車が急速に回転し始めた。と同時にある人物の顔が浮かんだ。他ならぬウマだった。