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其の伍

 数日後トオルの所に客があった。

「バイ菌さん、なんか怖そうなのが来ていますよ」

 隣の部屋に住む『文学』がトオルに来客を伝えた。

 出てみると、階段の下で、男が二人見上げるようにして立っている。

 一人はスーツ姿で、もう一人はネクタイとワイシャツの上に紺色の薄手のジャンバーを着ている。

 人相がどうのと言う前に、雰囲気が男たちの職業を物語っている。

 トオルはこれまでにもいくつか事件を解決してきていたが、その時に出会う刑事の特徴をふたりはそのまま持っている。他のどの職業にもない、悲しいまでに粘着力のある特殊な空気に包まれているのだ。

 警察手帳を示したあと、ふたりはトオルを外に誘った。

 すぐ近くの公園のベンチにトオルを座わらせてから、

「高倉桜子さんが殺されました」

 感情というものを含まない話しぶりだ。

「えっ、殺された?」

 突然だった。あとは言葉にならない。

「昨夜どちらにいらっしゃいました?」

 刑事の決まり文句だが、聞かれてもすぐにはトオルは答えられなかった。

 頭の中に桜子の笑顔が浮かび、耳の奥に明るい声が響いている。その死を受け止めることを心が拒んでいて、刑事の問いに答えるどころではなかった。

「八時から十時まで、昨夜はどこで何をしていました?」

 トオルはようやく我に返った。

「ゆうべは大学にいました。納豆菌の培養で一晩中目が離せなかったので」

「一晩中ですか。誰かそれを証明できる人はいますか?」

「後輩が二人、一緒でした。三人でほとんど徹夜でした」

「そうですか、その後輩の方のお名前は?」

 トオルが言う名前をメモして「また聞きに来るかもしれない」という刑事に、今度はトオルが質問した。

「殺されたって、一体どうして」

「それを調べているんです」

 刑事が突き離したように言う。

「どうゆうふうに殺されたんですか?」

 二人の刑事は一瞬顔を見合わせたが、互いにこくりと小さくうなずくと話し始めた。どうせ新聞で報道されるだろうと判断したらしい。

「絞殺です。紐のようなもので首を絞められていました。家の中が荒らされていましたから金品が目的かと思われます」

「紐のような物って、凶器は残されてなかったのですか?」

「ありませんでした」

 刑事の表情に明らかに面倒そうな色が浮かんでいる。

 トオルはまだ聞きたいことがあったがやめにした。

 事件の様子を聞くことは同時に桜子の死を再認識する作業なのだということも、質問をためらった理由だった。

 桜子とは知り合ったばかりだし、三回会っただけだ。それなのに刑事が自分のところに来たのは、自分の存在を婦警の洋子が話したからだろうが、洋子が警察の人間であれば当然のことだとも考えた。

 それよりも桜子の葬儀がいつ執り行われるのかを知りたかった。司法解剖をするかどうかで日程は変わる。その点を尋ねようと思ったのだが、洋子に聞けばわかるだろうと思い、質問を飲み込んだ。

 公園には、本格的な秋へと移ろう季節にそぐわない、どこか気持ちの悪い風が吹いていた。

 その日のうちにトオルは警察署に洋子を訪ねた。

 受付のベンチで待っているとゆっくりとした足の運びの洋子が来て「ごめんなさい」と小さく詫びた。自分の証言のせいで刑事の聴取を受けることになったことへの詫びらしい。

「いいですよ、警察官なら当然のことです。それより桜子さんの葬儀がいつかわかりますか?」

「あさってがお通夜です。私も行くことになっています」

 トオルには葬儀に出席する機会がこれまであまりなかった。当然のように喪服も持っていない。アパートの仲間も同じだろうと考えたが、だめで元々と、まず隣の部屋の文学に聞いたのは、住人の中で、一番死に近そうな雰囲気を持っていると思ったからだ。

 文学部に通う文学は、物書きを志す人間は病弱でなければいけないことを持論としているが、その割には年に一度の健康診断の受診を欠かした事のない男だ。

「喪服なんて、何か黒い服に腕章して行けばいいんじゃないですか?で、誰が死んだんですか?」

 質問の順番が逆であるし、腕章ではなく喪章だ。聞いた自分が情けなくなっていたトオルの部屋の戸を法律がノックした。

「芋をくれたおばさんが殺されたんだってな、文学から聞いたよ。これ、みんなから。まあ香典みたいなもんだ。芋、ご馳走になったからな」

 小さな紙袋をひょいとトオルに手渡した。振ると小銭に交じってカサカサと音がする。札も入っているらしい。アパートの貧乏学生たちの精一杯の、そして不器用な悔みと礼と心遣いだ。トオルも袋の中に桜子からもらったポチ袋に入れたままのアルバイト代を入れた。

 葬祭場の一番狭いスペースに、三十人ほどの人間が集まっている、小さな葬儀だった。

 習い事の教室の仲間や近所の人間が取り仕切っているらしく、洋子が受付をしていた。

 記帳を済ませ、皆から預かって来た紙袋をそのまま洋子に渡した。事のなり行きを説明すると、洋子は紙袋を祭壇に持って行き、桜子の枕元に置いた。

「桜子さん、喜んでいますよ、きっと」

 洋子は震える声で言うと、ハンカチで目頭を押さえた。

 トオルも一緒に手を合わせたが、両の掌を離す決意がなかなかつかなかった。

 不自然なほどに長い合掌は、桜子への別れである前に、その死を認めたくないという心の動きでもあって、離すと桜子が死んでしまうという心の矛盾にトオルは戸惑っていた。

 祭壇の一番近いところに座っている男が頭を下げた。桜子の弟の高倉亘だという。唯一の身内で、喪主を務めていたが、桜子には似ていないとトオルが思ったのは、男女の違いはあるが、細めの身体の線と、切れ長の目や小さいが形の良い鼻のあたりは同じでも、亘という弟の顔に張りつくようにしてある、人を見下すような表情からだった。そしてその表情の中には,悲しみの色が全くなかった。

 トオルは最後まで桜子の死に顔を見ることができなかった。彼女の死を認めたくない思いがまだ強く残っていた。

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