其の参
日曜日になった。あまり乗り気ではなかったはずなのに、曇り空だが雨の心配はなさそうなことにほっとしていた。
トオルには芋掘りの経験がない。土で汚れることは想像できたが、どのような格好をしていけば良いのかわからない。
久しぶりに引っぱり出したジャージーに着替え、アパートの靴脱ぎにあった長靴を履いた。誰の物かはわからないが、わかったとしても断る必要はない。アパートの共有の場所に置いてあるものは、すべての住人の共有物だというのが暗黙の了解になっている。
言われた通り、桜子の家はすぐにわかった。
「保存樹」のプレートがネックレスのように掛けられた大きな樹木が作る林の中に、郷土資料館のような古い農家の建物がある。かなりの大きさであるのに、これまで気が付かなかったのは、木々が目隠しになっていたためだ。皮を剥がされた太い自然木の門柱がある。
平らな自然石が飛び石になっているアプローチの先の、頑丈そうな格子戸の横はインターホンではなく、呼び出しのベルが付いている。
押すと家の中から桜子の明るい声が返って来た。
「開いているわよ~、入って~」
語尾が気忙しそうに伸びている。可愛い悲鳴のような声だ。食事の支度をしている最中らしい。
重い引き戸を開けると土間になっていた。
靴脱ぎの大きな石もいわくがありそうだ。
縁側からの光が座敷の中ほどまで差し込んで、箪笥やテーブルの輪郭を明確なコントラストにして見せている。まるで意識的に造形されたようになっている。
大きな座卓のある部屋の奥にはさらに二間あって、一番奥には床の間がある。
古民家を利用した蕎麦屋に入ったことがあったが、より重厚な生活感のある住まいには、確実に時代が流れている。
箪笥を背にした座卓の一画にトオルを座らせると、
「古いでしょう、ひいお爺さんの時代からの建物よ。トタンで覆ってあるけど、屋根は茅葺なのよ」
トオルの目の前の小鉢や箸の位置を小さく調整しながら桜子が言う。
「すごいですねえ」
時代が持つ空気の重さは、トオルの知っている芝居の俄かづくりのセットとは比べるべくもない。圧倒され、押しつぶされそうな威圧感がある。そのくせ妙に懐かしいのは何故なのか、トオルはぼんやりと考えていた。
「すぐ出来るから待っててね」
言い残して台所に行った桜子が料理を乗せた盆を持って戻って来た。
「野菜を煮たのよ、おイモ、サトイモ、ニンジン、みんな私が作った野菜よ」
赤絵の大きな鉢の中で季節の野菜が湯気を立てている。
「それとお魚、サバよ。焼いたから」
焼き網の目が綺麗に浮き出ているサバも、いまが旬だ。
座卓の上に旬の野菜と魚が並んだ。
「食べて」
トオルの前に料理を並べると、桜子は小さく座って嬉しそうに勧めた。
ゆっくりと時間をかけた昼食だった。
大学のことやアパートでの生活など、他愛もない話題が箸と茶碗の間を通り抜ける。交通事故で亡くなった両親のこと、育てられた旅芝居一座のことなど、普段ほとんど話すことのない話題さえ自然に話している自分が不思議だった。この古い家にはトオルが生きて来た時間など問題にならないほどの深さがある。そのせいかもしれなかった。
「そうなの、旅芝居をしているの。でも、今は大学に通っているんでしょう?」
「バイオの勉強がしたくて、我が儘を言って四年間だけの約束ですが、皆に迷惑をかけています」
「そうね、別の世界を見ることも大切だものね」
桜はまだ一口残っている飯茶碗に白いご飯を盛り足して、トオルの前にそっと置いた。おかわりは一口遺して頼むのが作法だということはトオルも知っていたが、それを先回りした桜子の心遣いだ
食後のお茶を啜りながら、トオルはさきほどから気になっていることを桜子に尋ねた。
日本人形やガラス細工が並べられた腰ほどの高さの飾り棚の上に、写真立てが置かれている。
「あの写真ですけど、桜子さんですか?」
楽譜を手にして歌う桜子が写っている。コーラスでの一シーンであるらしい。
「そうよ、合唱団に入っているの。もっとも素人合唱団だけどね」
「あっちの写真はジャズダンスですか?」
レオタードではないがジャージー姿の桜子が開脚して背中を伸ばしている。
「まさかあ、そんなオシャレなものじゃないわ。あれはヨガみたいなものよ。教室に通っているの」
トオルは自分の舞台の写真を見るのが好きではなかった。
そこにいるのが自分だと認めたくないという心の動きに分析を加えたことはなかったが、舞台を離れた時は本来の自分でありたいと思っていることだけは、漠然とだが理解しているつもりでいる。だから自分の写真を飾る女の心理は理解できなかった。ただ深く尋ねるつもりはなかったから、無理に話題を変えて、芋掘りの時間が来るのを待つことにした。