其の弐
翌日、トオルはふたたび野菜の無人販売所を訪れた。
先方はくれたつもりでも、二百円で近所の恩を背負うのは居心地が悪い。今日は二百円を用意して来ている。昨日の借りを返しておこうと考えたのだ。
小銭を小箱に入れて立ち去ろうとした時、また板壁の後ろで声がした。
「何よ、お金を払いに来たの?律儀だわね」
昨日の農家の女だ。
板壁の後ろからひょっこりと顔を出す。何か作業をしていたらしく、軍手の甲で額に浮いた汗を押し拭うようにしながら笑顔になった。昨日と同じ明るい声だ。
「芋、うまかったです。ごちそうさまでした」
トオルが言うと、
「ありがとう。でも、だったら尚更お金なんていいのに」
黒くて大きな瞳がせわしない瞬きの中で良く動く、こちらまで嬉しくなるような女の笑顔が膨らんだ。
「何をしてたんですか?」
女の軍手が泥で茶色になっているのを見たトオルが聞いた。
「エンジンポンプっていうんだけど、水を畑に撒く機械が壊れちゃって、頼んだんだけど直しに来ないのよ。あなた、機械に詳しい?」
大学の理工系学部に通っているが、機械とはまったく無縁の生活をトオルは送っている。調子が悪くなった掛け時計に、同じ油だからとサラダ油を使って止めを刺した前科もある。
「いいえ、全くダメです」
少し慌てて首を何度も小さく振りながら、トオルが答えた。
「あなた学生さん?」
女が、ついでのように軽く尋ねた。
「はい、あそこのアパートに住んでいます」
トオルが、アパートのある雑木林の方を指差した。
「あら、富士見荘にいるの。貞夫の所の学生さんなんだ」
「貞夫って?」
「田辺貞夫。あなたの大家さんよ」
「へえ~、田辺さんっていうんだ、大家さん」
トオルは大家の名前を知らなかった。毎月家賃を手渡しで届けているが、ろくに話をしたことはない。
「そう、鼻たれ小僧の時からの知り合いよ。それが学校の先生になっちゃうんだから……」
大家が学校の先生だったことについて、もっと詳しく聞きたい気もしたが、幼馴染なのだとすれば、女の年齢は確実に六十歳を超えているはずだ。けれども、とてもそうは見えない。化粧っ気はないが上品な顔立ちと華奢な体つきは、四十代だと言われても信じてしまいそうだ。
「学生さんだったら日曜日は時間があるわよね。今度の日曜日なんだけど、手伝ってくれないかなあ」
トオルに向かって言うのではなく、空に視線を遊ばせながら独り言のように言う。
「少しだけど、アルバイト代も払うから」
と言ってから、トオルの方に真っすぐ向いて、
「お願い」
と手を合わせた。
可愛らしい仕草につられて、トオルも笑顔になっていた。
日曜日に子どもたちが芋掘り体験に来るのだという。一人では目が届かないから手伝えというのだ。お願いと言いながらも、トオルが手伝うことは、女の中ではすでに決まっているようだ。
「私ね、高倉桜子。桜の子ね。あなたは?」
「橘徹です」
「そう、橘クンね。よろしく。日曜日は二時からだけど、その前に一緒にお昼ご飯を食べましょう。そうねえ、十二時過ぎにいらっしゃい」
桜子がどんどん話を進める。トオルが入る余地などはない。
「私の家は、あそこ」
桜子は、大きな樹がこんもりと林のようになった一画を指差した。
「表札が出てるし、近くに他に家がないからすぐわかるわよ」
それだけ言うと桜子は、一輪車を押して畑の中の細い道を歩き始めた。
途中で歩を止めて振り返り、トオルに手を振る。
逆光の中で浮き上がったシルエットは女子高校生のようで、トオルはドキリとした。一瞬だったが動悸が早くなったような気がして戸惑っていた。