其の壱
武蔵野の面影を色濃く残すこの土地に三年も住んでいるというのに、まだ一度も通ったことのない道がある。
その日、浄水路から引き込んだ細い用水の流れに沿った小路の角を曲がったのは、乾いた風が耳の後ろを少し乱暴に吹き抜けたせいだ。
住んでいるアパートの殺風景な部屋に、そのまま帰るのが少しだけ惜しいような気にさせる、秋の風だ。
季節の変化を伝えることが役目だと考えている雑木林では、気の早いモミジが、緑の部分を残す葉を散らし始めている。
後ろ姿を見せる家々は、狭い庭に小さな滑り台やブランコがあって、干してある洗濯物からも皆同じような世代の家庭だとわかる。
一本向こう側が車の通る道路になっていて、小さな砂利石が混じるきめ細かな赤土の、初めて歩く小路は、裏道だ。
一番先に出会った角を右に曲がれば、借りているアパートの裏手あたりに出るだろう。小さな冒険旅行もそれで終わるはずだと思ったとき、トオルは無人の野菜販売所があることに気がついた。
道端で売られている野菜まで自動販売機が主流になった時代に、戸板の上に、土の付いたままの大根や外側の葉を取らないままのキャベツ、名前は知らないがビニール紐で束ねられた葉野菜の隣に、代金を入れる小さな木箱が、全く無防備に置かれている、昔ながらの販売所だ。
トオルの目に薩摩芋が飛び込んで来た。
小ぶりだが十本以上入ったビニール袋に、二百円と赤のマジックで書かれている。
幼いころ、「芋坊主」と呼ばれたほどに、トオルは芋が好物だ。
ポケットを探って小銭を取り出す。だが、百二十円しかない。昼に大学の学食で、日替わりのアジフライ定食に納豆を付け足したことを思い出した。
すでに無意識のうちに手にしていた芋の袋を、置いてあった場所に戻す。もう、半分以上、芋を食べる気になっていただけに、辛い別れだ。
その時、販売所の板壁の後ろで声がした。
「お兄さん、お芋、持って行っていいよ。お金は要らないから」
板壁の陰から女が現れた。
緩めの黒のジーンズに、ディズニーキャラクターのトレーナーだ。モスグリーンのウインドーブレーカーを着て、頭にはサンバイザー、足元はカラフルな長靴で固めている。
若くはないが年寄りでもない。
旅芝居の一座では女形も演じているというのに、トオルは女の年齢を読むのがどうにも苦手だ。アウトドアスタイルにまとめ上げた女を農家の人間だろうと判断したのも、やや甲高いが、それでいて心地良い明るく響く声が伝えた内容からだった。
「朝掘ったから、今日のうちに食べた方が美味しいよ。野菜も一晩置くと味が変わっちゃうの。いいよ、持っていって」
話しながら、女は芋の袋をトオルの胸元に押し付けるようにした。
「でも……」
「食べてもらうのが嬉しいの。遠慮しないの、若いんだから」
芋の袋を無理に持たされて戸惑っているトオルを無視して、女はネコ車と呼ばれる一輪車を器用にバランスを取って押しながら、行ってしまった。
それが高倉桜子とトオルとの出会いだった。
アパートに着くと、秋の一日はすでに暮れかけていた。
アパートの共用の薄暗い玄関口は、ぽっかりと口を開けた洞窟の入口のようで、食料を持って帰って来た原始人のような気分にトオルをさせていた。
昼ならば焼き芋もできるが、これから焚火をしたのでは消防車を呼ぶことにもなりかねない。
アパートの住人たちは、天ぷら鍋はおろか天ぷら油さえ持っていないから、あとは蒸かして食べるしか思いつかない。そのための容器を、アパートにいた全員で探すことから始まった。
トオルの住むアパートは学生専用で、それも、貧乏という共通項で括られる。
名前の代わりに学部名で呼び合っているのだが、『陸上』と呼ばれている体育大学の学生が「こんなのがあった」とホーロー引きの筒のようなものを持って来た。
元々は爽やかなブルーだったのだろうが、今は浮き出た錆の部分の方が多い。記憶に間違いが無ければ玄関に傘立てとして置かれているもので、何代か前の住人が置いていったものだ。
「良く見つけたなあ」
法学部に籍を置く、アパートのボス的存在の『法律』に珍しく褒められたものだから、
「はい、自分が洗います」
と、陸上は嬉しそうに筒を洗い始めた。狭い流しが、たちまち泥水で赤茶色に変色した。
誰も芋を蒸かしたことなどない。
イメージとしてはお湯が沸いていて、お湯から少しはなれた所に芋が置かれている。お湯の中に浸けたのでは煮ることになってしまうから、距離を保つ必要があるように思えた。
芸術大学に通う『美術』が、スチール製の五徳のようなものを二つ持って来た。これも、どこかで見たことがある。
「美術君、これ、どこにあったの?」
大学の理学部で学んでいる『バイ菌』ことトオルが聞くと、美術は,今歩いて来た方向にゆっくりと首だけを動かし、廊下の中ほどに向けて三白眼をギョロリとさせた。その方向には共同のトイレがある。それはトイレットペーパーが乗せてある小さな鉄製の棚だった。
こうして蒸かし芋づくりが始まった。
いきがかり上、トオルが蒸かし芋の番をすることになった。
他の学生が入れ替わり立ち替わり覗きに来る。そのたびに蓋代わりにした盆を持ち上げて中を覗くから、湯気が一向にたまらない。おまけに箸で突き刺して蒸かし具合を何度も、しつこいくらい確かめるから、穴だらけになってしまった。
それでもどうにか蒸し上がった芋が学生たちに配られた。
まだ帰って来ていない学生の分は取っておくことにして、どんなものでも他人に分け与えたほうが、それ自体の価値が上がり美味くなることを実感しながら、トオルは芋を口に運ぶ。ただその前に二、三回匂いを嗅いでいたが、それは他の学生たちにも共通した行動だった。