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報せ

綾恵はあまりお酒を飲むのは得意ではない。

学生時代は授業と資格取得に向けた勉強ばかりで、あまり飲み会などには参加しなかった。

そのせいかいまいち自分の酒量を把握しきれておらず、社会人となった今でも飲み過ぎたときが怖くてあまり羽目を外して飲むということはできずにいた。

しかし今も積極的に参加するわけではないが飲み会そのものが嫌いなわけではなかった。

むしろいつもオフィスに漂う緊張感が解すような居酒屋の雰囲気も、業務中以上に朗らかになった上司や先輩が資格取得に至るまでの努力や仕事に対する気持ちをつい溢すように教えてくれる気安さも好きだった。


「葛城、あんまり藤崎さん飲ませ過ぎるなよー」


斎藤建築での打ち合わせを終えて、芳賀が予告していた通りこのまま終業するならとまた誘われた食事の席に、綾恵は参加していた。

隣に座る藤崎の話を聞いていると、芳賀が面白そうに茶化す。

その声に慌てて首を振ると、藤崎も笑顔をさらに深めた。


「大丈夫ですよ。しかし葛城さんとだとついお酒が進んじゃうね」

「そうでしょ。こいつ飲ませ上手なんですよ」


芳賀は笑顔を崩すことなく藤崎との会話に入っていく。

綾恵からしたら、全く不自然な様子もなく相手の懐に入っていく芳賀の方がよっぽど飲ませ上手だと思う。

芳賀と藤崎の会話を聞くともなしに聞きながら、綾恵はちらりとテーブルの端へと意識を向ける。

10人ほどが無理なく座れる大きめのテーブル席の端、ちょうど綾恵の対角線上には穏やかな笑みを浮かべた諒真が目に入る。


女性1人、綾恵だけ誘うと言うのはどうかと判断したのだろう、綾恵が食事にも参加すると伝えたところ、藤崎は事務所の女性スタッフにも声を掛けたらしく、諒真はその女性たちに囲まれるように座っていた。


「あー、諒真囲まれてんなー」


綾恵の視線がばれていたのだろうか、藤崎が苦笑いを浮かべて呟いた。


「あいつ、会社の飲み会に殆ど来ないから、たまに来ると珍獣扱いなんですよ」

「珍獣」

「普段からあんな感じなもんで、割りと女性受けはいいんですけどね。ちょっと寄せ付けないと言うか」


そう言うと藤崎はグラスに注がれたビールに口をつける。

それにつられるように綾恵もグラスに注がれたビールを含んだ。

“女性を寄せ付けない”

藤崎のその言葉に、どこか安堵する自分に思わず自嘲してしまう。

かつて綾恵に向けられていた優しい眼差しが、別の女性に向けられている訳ではないと教えてもらったようで一瞬心が浮き立ったが、だからといってそれが綾恵に向けられるわけがないのだ。

淡い苦味を炭酸と共に飲み下したが、いつもは心地好い筈のその苦味が何故か今日に限っては増しているような気がして、綾恵は断りを入れて席を立った。


レストルームで軽く化粧を直していると、ブーッと振動とともにスマートフォンの画面が着信を表示した。

「母」と表示されたそれに小さくため息をついて留守番電話へと切り替えると、綾恵は化粧ポーチを仕舞って廊下へと出た。

先日芳賀の告白を遮るようにかかってきた母からの電話は、やはり見合いを奨めるものであった。

お父さんの仕事の関係の人だから、顔を立てるつもりで会うだけでも、と言い募る母親に、仕事の多忙を言い訳に電話を切ったのだが、やはりそれくらいでは断ったことにはならなかったらしい。

かと言って飲み会の席でしたい話でもない。

後でかけ直さなくてはいけないな、と気が進まないながらもぼんやりと思いを馳せていると、廊下には諒真が佇んでいた。


途端に綾恵の心臓がドクリと跳ねる。

心拍数が一気に跳ね上がるのが分かるが、どうにも対処のしょうもない。

どうか心臓の音が諒真に聞こえませんように、と祈りにも似た気持ちになりながら、綾恵は廊下を進んだ。


「諒真もお手洗い?それならこの先だよ」

「あ、うん」


狭い廊下に立つ諒真に何の声も掛けずに通り過ぎるのは不可能だろう。

そう思って声を掛けたが、その瞬間に綾恵は後悔した。

つい習慣で諒真と呼び捨てにしてしまったが、諒真とは離れて久しく、ましてや現在はクライアントである。

“生島さん”と呼び掛けるべきだったかと恐る恐る諒真を仰ぎ見ると、綾恵は思わず目を瞠った。

諒真は柔らかく微笑んでいた。

かつて綾恵が諒真の隣に居たときのように。

優しげな眼差しに、さらに心臓が跳ねるのが分かる。

その笑みに吸い寄せられるように諒真に近づいていったその時、再び手に持っていたスマートフォンが振動した。


驚いて画面に目をやると、再び表示されたの「母」の文字。

こう時間を置かずにかけてくるなんて、いつもなら留守番電話へと転送すれば日を改める筈の母親にしては珍しいことだった。


「おばさんから?出なくていいの?」

「あ、うん。ごめんね」


諒真にも発信元の表示が見えたのだろう。

心配そうに尋ねる諒真の手前、「どうせお見合いの話だから出たくない」などと言うのもまるで引き留めて欲しいようで言いづらい。

確かに母親がこう何度も立て続けに電話をしてくることは珍しいことだから、何か緊急の───こんな時間に緊急連絡だなんて、悪いことしか思い付かないけど───連絡なのかもしれない。

そう思って通話ボタンをタップすると、いつもは割りとおっとりと話す母親が珍しく焦ったような早口で綾恵の名前を呼んだ。


「綾恵っ?!」

「うん、どうしたの?」

「あのね、お父さんが───」


◇◇◇


「芳賀さん、すみません」

「謝ることじゃないだろ。気を付けてな」


タクシーに乗り込む綾恵に芳賀は優しく声をかける。

乗り込むなり綾恵は運転手に病院の名前を告げた。


綾恵の母親からの連絡は、父親が倒れたというものだった。

何でも会社で倒れたらしく、母親も父親が搬送された病院にこれから向かうが、郊外に住む母親よりも早く着けるのではないか、と母親の告げた通り、実際に父親が搬送された病院は綾恵が居た店から車ですぐのところだった。

母親の話に動揺した綾恵の様子と病院と言った単語に、傍に居た諒真は大体の話を察したのだろう。

店のスタッフにタクシーを呼ぶように頼むと、席に残した綾恵の上着を取りに行き、その場にいる芳賀に家族の急病を告げると綾恵を迎えのタクシーへと誘導する。


「諒真も、ありがとう」

「うん。きっと大丈夫だから。落ち着いてね。気をつけて」


母親の電話を受けてから、綾恵は諒真に誘導されるがままにタクシーへと乗り込み、シートに身を沈ませた。


◇◇◇


「橋上さんのお嬢さんですよね?」


病院の時間外窓口を通り、案内された通りに暗い廊下を進むと、病室の前に立っていた背の高い男性が綾恵に声を掛けた。


「はい。あの、父は…」

「もう処置も終わって落ち着いています。軽症のようでしたから、心配はいらないと思いますよ。あ、その辺はお医者様から説明がありますよね…。私は橋上専務の秘書の根岸です。専務が倒れたとき、私が側におりましたので、付き添って参りました」

「あの、ありがとうございます。母もそうかからずに着くかと思います」


思わず根岸に頭を下げると、彼は慌てたようにとんでもないです、と少し早口で綾恵を制した。

綾恵が顔をあげると、根岸ははにかんだような笑みを浮かべていた。

年齢は芳賀と同じくらいだろうか、綾恵よりも2、3歳ほど年上に見える。


「綾恵!」


パタパタと軽い足音ともに、名前を呼ばれて振り返ると、慌てた様子で廊下を駆けてくる母親の姿が目に入った。


「橋上さん、大丈夫ですよ。こちらです」

「根岸さん、付いててくれたんですね。ありがとうございます」


母親と根岸はどうやら面識があるらしく、戸惑う様子もなく挨拶を交わしている。

二人の様子から、母親に父親が倒れたと連絡をしたのも根岸なのだろう。

綾恵と母親を案内するように根岸が静かに病室のドアを開けると、ドアを押さえたまま二人の入室を促した。

母親に続いて病室に入ると、父親がベッドに横たわっている。

まだ眠っているらしく、ピッ、ピッと無機質な電子音が父親の心音が正常であることを告げていた。

久しぶりに顔を見た父親は、記憶の中よりも少し小さくなったように見える。

それは病院の寝間着を着せられているからか、倒れたと聞いたせいなのかは、綾恵には分からなかった。


ご覧いだだき、ありがとうございました。


外出もままならない時世ですが、

皆様も健やかに過ごせますように。


外出制限の暇潰しになれればいいな、と思いながら書き進めていました。

しかし子供が家に居るとなかなか落ち着かないもので、なかなか進められずにいます。ただでさえ遅いのに…。


そんなわけで更新も滞りがちですが、もう少しお付き合い頂けると嬉しいです。


この事態が、早く終息しますように。

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