焦燥
彼女を呼ぶ、聞きなれない名字。
それに返事をする彼女。
その意味に、全身の毛穴が開くような焦燥が諒真を焦がした。
───間に合わなかった
いや、違う。
綾恵を突き放したのは諒真だ。
綾恵に連絡をしなかったのは、諒真自身。
例え連絡先が変わっていたとしても、中学時代の友人を辿れば容易く綾恵にたどり着くだろう。
それをしなかったのは、今度こそ綾恵自身に拒絶されたら、今さら何かと詰られたらと思うと動けなかった諒真の弱さだ。
梨香が高校を卒業したら。
大学を出るまでは。
妹を放り出して綾恵のもとへと行ったとしても、決して彼女は喜ばないだろう。
きっと梨香のことを気にするはずだから。
そう言い訳をしては、勇気を出すのを先延ばしにしていた。
だから彼女は、別の男と人生を歩んでいるのだ。
聞いたことの無い名字を名乗って。
初めて会ったとき、なんて可愛いのだろうと一瞬で目を奪われた。
母親の足に縋るように隠れて俯く様子に守らなきゃ、と何故か強い使命感にも似た気持ちに揺さぶられた。
強引に遊びに誘うと、戸惑いながらも段々と心を開いて向けてくれた笑顔に、何度も諒真の心が跳ねた。
転入したばかりの慣れない幼稚園で、近寄ってくるクラスメイトに戸惑いながらも、諒真にだけは安心したような笑顔を向けてくれることに優越感にも似た感情を抱いた。
諒真の、初恋だった。
綾恵が中学受験をせずに公立中学に進むと聞いた時はまた一緒に居られるとホッとした。
中学に上がって初めてのバレンタインに妹の梨香と何やら作っていたのに、全く渡される素振りの無さに、まさか他に好きな奴が居るのかと胃の底が焼き切れるかのような焦燥を感じた。
焦りを隠して冗談めかしてチョコをねだると、真っ赤な顔をして押し付けられたそれに、断られることを怯えていたとの告白に、震えるような歓喜が襲った。
ずっと大事にする。
そう、決意していたはずだった。
突然両親を失って呆然とする諒真に寄り添ってくれたのは、綾恵だった。
当たり前のように側に居て、不安と緊張で動けなかった諒真の手を握ってそっと体温を分けてくれた。
不安も苛立ちも、悲しみさえ受け止めるように何も言わずにただ抱き締めてくれた綾恵の腕の中が、諒真の心が安らげる唯一の場所だった。
いつか大人になったら、彼女を大切に守ってみせる。
そのためだけではないけれど、諒真は就職を急いだ理由のひとつはその焦燥だった。
両親の残した財産で暮らしていくことはできたけれど、早く一人前になって胸を張って綾恵の隣に居たかった。
でもいつかなんて、そんな甘えがあったから、バチが当たったのだろうか。
あの夏の日、彼女の父親から綾恵との訣別を告げられたのは。
「東京に進学させることになったから、そのつもりで」
氷のような冷えた眼差しを向けて、彼はそう告げた。
───いつまで彼女に甘える気だ。
そう糾弾された気がした。
綾恵の、一緒にいるときの穏やかな笑みに、指を絡ませたときの照れたような表情に、体を重ねたときの熱に。
いつも癒されていたのは諒真だった。
綾恵が地元の国立大を第一志望にすると聞いて諒真は確かに安堵した。
今までと同じように一緒に居られると。
高校を出たばかりの子供に、働き始めたからといってすぐに経済力がつくわけ無いことは分かっていた。
しかし綾恵が大学へ進学したのなら、その四年間は猶予になると。
綾恵の父親は転勤族だ。
幸運にも今まではこの地にある支社に長く勤めていたが、いつまた転勤になるかわからない。
でも、綾恵の進学先がこの地元の大学なら、その間は今と変わらずに傍に居られると、諒真はそう安堵していた。
でもそれは諒真のエゴで、綾恵の可能性を狭めているだけなのではないか。
綾恵を幼なじみという枷で縛り付けているのではないか。
たまにチラリと頭を掠める影に気づかない振りをしていたことを、咎められた気がした。
迎えに行けるようになるまで待っていて欲しいと乞えば、綾恵は頷いてくれるだろう。
しかしそれはまた綾恵を縛り付けることに他ならない。
幼馴染の立場を、綾恵の優しさを利用して甘えているだけだ。
身を引き裂かれるような思いで別れを告げた後は、出来る限り綾恵との接触を断った。
言葉を交わせば、離れたくないと縋ってしまうだろう。
触れられるほどに近づけば、誰にも渡したくないと抱き締めてしまうだろう。
そんな資格は無いというのに。
それでもいつか。
綾恵の父親に恥じない男になったと胸を張れるようになったら。
彼女にもう一度愛を乞うことは出来るだろうか。
高校の卒業式のあの日、押し付けるように渡されたチョコレート菓子は、いつかねだった時に真っ赤になって渡してくれたものと全く同じもので。
まるで綾恵の気持ちはあの時と変わらないと訴えているようで。
だからいつか、迎えにいくことが出来るのではないかと、その時まで待っててくれるかと縋るような気持ちで走り去る綾恵の後ろ姿を見送った。
でも。
またしても《いつか》なんて甘いことを言っていたから。
だから彼女は諒真の手の届かない未来へと進んでしまったのだろうか。
相手が居ることが判っていて、尚もこの気持ちを押し付けるなんて迷惑以外の何物でもないだろう。
ホテルのエントランスで記憶のままの可愛らしさを残した綾恵を見つけたとき、あまりの偶然に目眩がした。
思わずかけた声に振り返った彼女は、想像よりもずっと大人びて綺麗になっていて思わず息を飲んだ。
二次会の会場に入っても、意識は会場の入口に向いてしまう。
あそこに綾恵がいる。
声を掛けるのは簡単だ。
久しぶり、と笑えば良い。
でも、そんな簡単なことが今の諒真には出来そうもない。
ビンゴ!という声に会場が沸くが、その熱とは裏腹に諒真の心は冷たくただ入り口付近だけに向けられていた。
二次会が始まって暫くしても、綾恵は受付を離れない。
おそらく遅くなった招待客のために待機しているのだろう。
彼女だって招待客だろうに、そんなことも気にすることなく気を配る綾恵は変わっていないな、と思うと心の奥がふわりと柔らかく綻ぶように暖かくなる。
同時に、彼女のその優しさを独り占めしている男がいるという事実に胸が焦げるような苛立ちが立ち上る。
どんなやつなんだろう。
彼女を、大切にしているのだろうか。
「生島さん」
不意に掛けられた声にドロドロとした思考に引きずり込まれそうになっていたことに気付く。
目の前には今日の主役である飯野が立っていた。
「お休みの日に引っ張り出してすみません」
「いえいえ。ぜひお祝いをしたかったので。おめでとうございます」
「ありがとうございます。あ、あちらに芳賀もおりますから、ご一緒にいかがですか」
一人でいる諒真に気を遣ってくれたのだろう、飯野に誘われて取引先である芳賀たちが固まるグループへと向かう。
その人の輪の中には、受付を引き上げたのだろう綾恵も含まれていた。
諒真の心臓がドクンと大きく跳ねる。
このまま近づいて心臓の音が聞こえてはしまわないだろうか。
そんな心配をよそに芳賀に挨拶をすると和やかに会話へと入っていった。
───大丈夫。
神経は綾恵へと向いているものの、芳賀と会話を交わす。
しかし輪の中の一人が、綾恵と諒真の先程の再会を覚えていた。
内心の動揺を悟られないように、笑顔を張り付けて綾恵を見る。
綾恵も一瞬驚いたものの動じた様子もなく、ニコニコと応じて会話は流れていく。
綾恵にとって諒真は既に過去のことになっているのだろう。
諒真が綾恵から離れて何年も経っている。
疾うに過去のこととして消化されていて当然だ。
頭では解っているのに、その事実が諒真の心を深く抉った。
◇◇◇
「あー、すみません、ちょっと外します」
遅れて席に着いた諒真を待っていたかのように鳴った携帯に表示された名前をちらとみて、所長の藤崎は芳賀に断りを入れて立ち上がる。
携帯に応答しながら店の外へと出ていく様子に、長引きそうな電話だな、と諒真はぼんやりと思いながら見送った。
東京事務所の開設にあたり、コンサルタントを依頼した会計事務所が綾恵の勤める会社だったと知ったのは、つい先日の飯野の結婚式の二次会でのことだった。
これまで何度か打ち合わせはしていたものの、主に後方支援を担当している綾恵と会うことはなかった。
しかし先日、綾恵と諒真が同級生だったと知ったからだろう。
普段は飯野と打ち合わせに訪れる芳賀は、飯野の休暇中を理由に綾恵を伴ってやって来た。
諒真たちとの打ち合わせが終わり次第終業だと聞いた藤崎が、是非にと誘った食事の席に諒真が顔を出したのは、片付けを終えて終業時間をだいぶ過ぎた頃だった。
綾恵も誘われてはいたものの、夕飯の支度を理由に断っていた。
結婚して家庭を持っていたら当然だろう、突然の食事の誘いに応じるわけがない。
チラチラと綾恵から覗く「葛城さん」の影に、諒真はチリチリと焼けるような焦燥を感じることを誤魔化せなくなっていた。
芳賀は綾恵の相手を知っているのだろうか。
芳賀から、諒真の知らない綾恵の様子を聞かされるのが嫌で、なかなか足が向かず遅れていったことを、諒真も自覚していた。
「生島さん、お疲れ様です」
藤崎と入れ替わるように席についた諒真に、芳賀がにこやかに声を掛ける。
遅くなったことを詫びる諒真に気にしないと手を振りメニューを渡す。
「すみません、遅くなりました」
「いえいえ。生島さんは、葛城と同級だったんですよね?」
「はい。と言っても卒業以来でしたね」
「はは。じゃあ今日連れてきた甲斐がありました」
「ええ。驚きました」
「…ところで、葛城って誰か付き合ってた奴っていました?」
「は?」
「葛城ってああでしょう。高校の時ってどうだったのかなと思ってね」
「どういう意味です?」
「多分、生島さんが考えていることと同じかと思いますよ。“好きな人がいるから”と言われてもね…どうしても、諦められなくて」
カッと血液が頭に集まるのがわかった。
この男は綾恵を不倫の道へと引きずり込むつもりなのか。
と、同時に諒真も同じだと指摘されたことに気付く。
綾恵は、いつも真っ直ぐに好意を向けてくれていた。
高校生の頃、まだ諒真が綾恵の傍に居たときも、綾恵は何度か告白をされたことがある。
その度に、綾恵は“諒真が好きだから”と断っていた。
綾恵は諒真に余計な心配をさせたくないと思ったのか、諒真に告げることは無かったけれど、付き合っている人がいるから、でも諒真が居るから、でもなく“綾恵自身が諒真を好きだから”その告白は受けられないと断ったと耳にしたときは、安堵と歓喜とがない交ぜになった何とも言えない気持ちになった。
その真っ直ぐな綾恵の気持ちは、今は結婚した男に向けられているのだろう。
綾恵の心根は変わっていない。
例えそれが自分に向けられていなくとも。
それを土足で踏み荒らすようなことはしない。
───この男と同じだと思われるなんてごめんだ。
「彼女は、変わってないですね」
思っていたよりも、低い声で諒真は芳賀に答えた。
「俺と付き合ってた時も、そうやって他の奴の告白を断ってたんですよ。アヤがそう断る以上は、無理じゃないですかね」
───あなたも、俺も。
自嘲するような最後の言葉を飲み込み、諒真の告白に驚いたように目を瞠る芳賀に今日はこれで失礼します、と声を掛けて席を立った。
ありがとうございました。