告白
「葛城。明日の午後出掛けるから用意を頼む」
休み明けの朝、芳賀は綾恵がオフィスに入るところを見つけるなりそう告げた。
「わかりました。どこの資料ですか?」
「斎藤建築。葛城も同行してくれ」
「はい。…え、私ですか?」
思いもよらない芳賀の言葉に、綾恵は目を丸くした。
綾恵はデータの分析や資料の作成等の後方支援が主だった業務で、客先に出向くことはそう多くない。
全く無いわけではないが、ここ暫くはその必要も無さそうだと思っていた。
「この間纏めた斎藤建築の改善案、俺よりデータ分析をもとに葛城から説明した方が解りやすい。4時に先方と約束してるから3時には出る。その前に打ち合わせしておきたいから、明日昼飯のあとミーティングルーム取っておいてくれ。今日帰ったら確認しておくから、資料は共有フォルダに頼む。
───おい若松、もう行くぞ」
綾恵の動揺を敏く感じ取ったのだろう、芳賀はサクサクと指示を出すと若松を急かしてアポイント先へと出ていった。
今週は飯野がハネムーン休暇を取っているため不在だ。
その分若松が芳賀に同行するものと思っていたが、どうやら綾恵も頭数に入っていたらしい。
───斎藤建築
諒真に会えるだろうか。
ふと過った期待に頭を振る。
これは仕事、と自分に言い聞かせて、綾恵は予定を組み直して業務へと取りかかった。
◇◇◇
「今日はありがとうございました」
斎藤建築の東京事務所の所長である藤崎がにこやかに席を立った。
それを合図に綾恵と芳賀も席を立つ。
諒真は片付けがあるのだろう、座ったまま使用していたモニターやパソコンをいじっている。
「次は10日後くらいでいかがですか」
「そうですね。では来週の金曜日に───」
藤崎と芳賀の次回打ち合わせのやり取りを聞くとも無しに耳に入れながら、綾恵は資料を片付けて鞄へしまう。
時計を見れば終業時間を少しだけ過ぎたくらいだった。
綾恵も芳賀も今日はこのまま直帰の予定になっている。
せっかく早く帰れるのなら、今日は夕飯に好物を作ろうと献立の候補をいくつか上げていくが、思い付くのは諒真の好物ばかりだった。
───こんなに近くにいるからだ。
そう言い聞かせて、片付けをしている諒真をチラリと視界に入れる。
やはり、諒真も今日の打ち合わせのメンバーだった。
諒真は所長の藤崎と共に依頼を受けて初回の打ち合わせから参加していたらしく、東京事務所の立ち上げの副リーダーを務めているのだと短く挨拶すると、諒真は丁寧に名刺の交換を申し出た。
しかしそれ以上はまるで何も無かったかのように打ち合わせは進んでいった。
───仕事なんだから、当たり前だよね。
若干残念な気持ちを引きずりながらも、辞去する芳賀と共に藤崎に頭を下げる。
仕事で来ているのだ。
久しぶりの再会に浮かれる気持ちを必死に落ち着けようと、綾恵は手元の資料に集中していた。
「今日はもうお帰りですか?」
「はい。お陰様で久しぶりに早めに帰れます」
「それなら、これから食事でもどうですか?近くに良い店があるんですよ」
芳賀と藤崎がにこやかに会話を交わしながら会議室の出口へと向かう。
「いいですね。葛城は?どうする?」
「は、え?」
手元の資料の片付けに集中しすぎたのか、唐突に芳賀に話を振られて一瞬混乱する。
どうやら芳賀は藤崎と食事に行くらしい。
「あ、えと、今日は帰ります。夕飯、作らないと」
「そうか。葛城さんは今日は早いのか」
「あ、はい」
「残念ですね。葛城さん、また次の機会に。じゃ、諒真、先に行ってるから終わったら来いよー」
藤崎は綾恵に柔らかな笑顔を向け、残る諒真に声を掛けると、芳賀たちと共に会議室を出た。
───諒真も来るのなら、行けば良かったな。
現金にもたそんなことを思いながら、綾恵は芳賀たちに別れを告げると、久しぶりに夕方の喧騒にまだざわつく街の中を歩き出した。
◇◇◇
「ただいまー」
玄関のドアを開けるも、綾恵の帰りがいつになく早いせいか部屋に人の気配はなく、小さく落とした声は暗闇に吸い込まれていく。
手洗いを済ませて暗い部屋のスイッチを押すと、リビングにふわりと部屋に暖かい光が灯る。
大きな窓にカーテンを引きエアコンのスイッチを入れると、廊下へと戻って玄関に入ってすぐの部屋の扉を開けた。
荷物を置いて部屋着に着替えると、鞄からブーッと振動を伝える音が小さく響いた。
一瞬、諒真からの着信かと期待してスマートフォンを掴むと、画面に浮かぶ「母」の表示に自覚しているよりも落胆している自分に呆れてしまう。
───諒真が連絡くれるわけないじゃない。
高校を卒業してからというもの、諒真から綾恵に連絡が来たことなどない。
そもそも今頃諒真は芳賀たちと合流して食事をしているところだろう。
ちょっと再会したからと何を期待しているのかと、思わず自嘲の笑みを浮かべて、綾恵は振動を続けるスマートフォンをそっとタップして留守番電話へと切り替えた。
◇◇◇
「───なんだ、葛城まだ残ってたのか」
「あ、お帰りなさい。ちょっとキリの良いところまでやりきってから帰ろうかと」
終業時間もだいぶ過ぎた頃、外出先から戻った芳賀に声を掛けられた綾恵は集中し過ぎていたことに気づいて慌てて睨んでいた画面から視線を上げた。
「ちょうど良かった。芳賀さん、ここの数字なんですけど───」
戻ってきたばかりの芳賀に悪いと思いつつも、どうにも気になるデータを見てほしいと指差すと、芳賀もネクタイを緩めながらディスプレイを覗きこんだ。
「ここか?あー、確かになぁ…」
綾恵の示すデータを確認して何かと思案顔の芳賀が思っていたよりも近い。
自分から見るよう示したにも関わらず、思わず綾恵は芳賀から距離を取った。
それに気がついたのか、芳賀は苦笑いを溢してディスプレイから顔を離す。
「あ、明後日の斎藤建築の打ち合わせ、葛城もまた同行してくれ」
「わかりました。資料は共有フォルダにいれてあります」
「確認しとく。また夕方からだから、直帰出来るようにしといてくれ。藤崎さんが次回は是非葛城とも飲みたいってさ。あんまり誘うとセクハラにならないかとか心配してた」
「あはは。なりませんよ。じゃ、明後日はそのつもりで行きます」
「頼んだ。…なぁ、葛城」
「はい」
「葛城の好きな人ってさ、生島さん?」
「へ?」
「3年前に俺と付き合えないって言ったのも、生島さんが理由なの?」
思わず芳賀を見ると、口調の軽やかさとは裏腹に真剣な瞳が綾恵を見つめていた。
「俺の気持ち、3年前から変わってないんだけど」
「え」
「俺の彼女になって欲しいってこと」
◇◇◇
───3年前。
「なぁ葛城。俺と付き合わないか?」
二人が遅くまで残業となったある日。
やっと作業が一段落ついたところで交わしていた雑談が途切れたその時、まるでついでのような気軽さで芳賀が続けた言葉の意味を理解するのに、綾恵は数瞬、時間を要した。
「付き合う?どこにです?」
「お約束だな。…俺の彼女になって欲しいってことなんだけど」
思わず溢れた返事に苦笑いを漏らして、芳賀は綾恵を真っ直ぐと見つめた。
そこにこれまで雑談をしていた時のような気軽さはない。
芳賀の本気を感じ取って、綾恵は小さく息を飲んだ。
しかし迷うことなく真っ直ぐな芳賀の視線を見つめ返す。
「ごめんなさい」
「即答かよ。彼氏いるわけじゃないんだろ?」
「ごめんなさい。あの、好きな人が、いるんです」
視線を緩めた芳賀は、これまでの真剣さをすっかり消し去ると、今度は面白そうに好奇心を隠さないまま、綾恵に畳み掛けた。
「ふぅん。なに、俺の知ってる人?」
「いえ、知らないはず」
「そっか。葛城は告んねぇの」
「…え、無理、です…」
「だったら俺でもいいじゃん。付き合ってるうちに気が変わるかもしれないだろ」
「……ごめんなさい」
「…そっか。ま、気が変わったら教えて」
「…ごめんなさい」
「あぁ、わかったから。気にしないでくれ。…っていうのも無理があるか。すまなかったな」
芳賀は小さく笑みを浮かべて綾恵の頭をぽんと軽く撫でると、帰ろう、と椅子に置いてあった鞄を取るとオフィスの出口へと向かった。
◇◇◇
「えーと、」
どう返せばいいのだろうか。
芳賀の真剣な眼差しに、からかわれてると返すのはあまりに失礼なことは分かる。
芳賀に気付かれてしまうほど、分かりやすかっただろうか。
綾恵は今さら諒真とどうこうなれるとも思っていない。
諒真だって困るだろう。
離れてどれだけ経っているというのだ。
恋人として付き合っていた時間よりも遥かに長い時間が二人の間に流れている。
それを気持ちひとつだけで飛び越えていけるとは、綾恵は思っていなかった。
「…ごめんなさい」
「否定はしないんだな」
「え」
「好きな人」
「……あ」
やっと返事を絞り出したものの、出てきた答えはやはり3年前と同じで、あまりの代わり映えのなさにがっくりしたが、芳賀の指摘に諒真のことばかり考えていたことに漸く思い至り、思わず綾恵は俯いた。
「…はい」
「…理由は知らんけど、離れてた事が問題なら、ちゃんと話せばいい」
まるで諒真との別れを知っているかのような口ぶりに驚いて顔をあげると、思いの外優しい目をした芳賀が綾恵の頭を撫でた。
「…でも、私、振られたので」
「え。マジか」
思わずポツリとこぼすと、芳賀は驚いたように目を見開いた。
「じゃ、何でだ…?」
考え込むように腕を組んで唸る芳賀の様子に綾恵は黙って見守る他ない。
芳賀は諒真とどんな話をしたのだろうか。
話しかけようかと口を開こうとしたその時、デスクに出したままになっていたスマートフォンがブーッと振動した。
表示された画面には「母」。
「出ないのか?」
「お見合いしろって催促なんですよ」
また会わせたい人がいるなどのお見合いめいた話だろう。
震えるスマートフォンに応じる様子のない綾恵に不思議そうに尋ねた芳賀も、苦笑いの綾恵の様子に納得したのかニヤリと笑う。
「なら尚更出ろよ。出ないから躍起になってかけてくるじゃないか?仕事場を理由に切りやすいだろ。それとも」
恋人の振りでもしてやろうか?
そう続けて面白そうにニヤニヤと笑う芳賀を振りきるように、綾恵は慌てて震え続けるスマートフォンをタップした。
ありがとうございました