初恋の終わり
気がつくと、綾恵は自分の部屋のベッドに腰かけていた。
あの後、どうやって帰って来たのか覚えていない。
いつもなら帰り際に優しく抱き締めてくれるはずの諒真は、暗い目をしたまま別れを告げるとさっさと自室へと戻ってしまった。
玄関に取り残された綾恵は呆然と立ち竦んでいたと思っていたけれど、いつの間にかちゃんと帰ってきていたらしい。
我に返ると途端に涙が溢れてくるのを、綾恵は止めることが出来なかった。
───どうして
朝、駅で別れた諒真はいつも通りだった。
優しく絡めるように手を繋いで、柔らかく微笑んで。
多分遅くならないで帰るよ、と優しく笑って手を振ってバイトへ向かって行ったのに。
一頻り涙が溢れるのに任せてから、ぼんやりと時計を見ると随分と時間が過ぎている。
あまり遅くなると母親に咎められてしまう、落ち着くためにもお風呂に入ろうと浴室へと向かった。
「綾恵」
浴室に向かおうと部屋を出たところで、綾恵は父に呼び止められた。
そういえば今日は家にいたんだっけ、と思い出す。
どうやら話があるらしく歩き出した父とともにリビングへと向かった。
「綾恵。東京の大学を受けろ」
ソファーにどっかりと腰を沈めると、父は前置きもなく命令した。
そこに綾恵の希望を考慮する余地など全く無い、命令であった。
「は?地元の国立大受けるよ」
地元の国立大ならここからバスで20分も乗れば通える。
諒真と離れる気は無かった綾恵は、迷うことなく第一志望を国立大と決めていた。
「東京の本社に異動が決まった。春には東京に戻る」
「だったら私はここに残るよ。独り暮らしでも───」
「バカ言うな。いつまでママゴトを続ける気だ」
いつもと変わりの無かった穏やかな朝。
ママゴト。
いつもはいない時間にいる父親。
暗い目をして別れを告げた諒真。
これまで感じていた違和感が、かちりと在るべきところに嵌まったような気がした。
「……諒真に、何を言ったの…!」
「東京に戻ると伝えただけだ。…まぁ、その様子だとものわかりは悪くない奴だったんだな」
父親は満足そうに目を細めると、ぽんと綾恵の頭をひと撫でして寝室へと戻っていった。
怒りと絶望で視界が歪む。
今まで仕事ばかりで全く顧みることもなかったくせに、いとも容易く綾恵の大切なものを破壊する。
その横暴さへの怒りに、しかしそれに対抗する力など無い絶望に、綾恵は立ち尽くすことしか出来なかった。
◇◇◇
「お帰りなさい。どうだった?」
綾恵が駅近くに建つマンションのエントランスを潜って、シンプルだけど重厚な造りの玄関ドアを開けると、優しく微笑んだ寿々が迎えた。
「受かってた。寿々さん、ありがとう」
コートを脱ぎながら、綾恵もホッとしたように柔らかい笑みを浮かべて靴を脱ぐ。
慣れた足取りで玄関のすぐそばのドアを開けると、脱いだコートと鞄を部屋の隅に置いた。
「良かった~。大学もここから通いなよ。その方が近いんでしょ?アヤちゃんのご飯が食べられると有り難いわぁ」
寿々は喜びを隠さずに上機嫌のままコーヒーを2つ淹れると、マグを綾恵に渡してソファーに腰かけた。
「でも、寿々さん、お邪魔じゃない…?」
「ないない。仕事から帰ってきてアヤちゃんのご飯が食べられる幸せを知ったら正直もう手放したくない。むしろお願い、ここにいて。お姉ちゃんには私から頼んでおくから」
手をパタパタと振って綾恵の遠慮を封じると、言うが早いか寿々はスマホを手に取って何やらダイヤルする。
「あ、お姉ちゃん?私~。うん、アヤちゃん、合格だって。だからさ、ウチからアヤちゃん学校に通わせるね?…だってうちの方が全然近いじゃん。駅も近いし、セキュリティも心配無いから任せてよ。…うん。ありがとー。じゃあね」
パタンとスマホカバーを閉じると、イタズラが成功した子供のように瞳を輝かせて、寿々は綾恵に向かってガッツポーズを決めた。
「お姉ちゃん、OKだって。これからよろしくね」
「寿々さん、ありがとう。こちらこそ宜しくお願いします」
「じゃ、私仕事行ってくるねー」
綾恵の合格発表のために、わざわざ午前休を取って待っていてくれた寿々は、コーヒーを飲み干すとコートを掴んで颯爽と出掛けていった。
寿々を見送った綾恵は、寿々が淹れてくれたコーヒーをゆっくりと飲み終えると、空になったマグをシンクに下げられた寿々のマグ共に片付け始めた。
諒真に、別れを告げられてから半年。
これまでの時間が幻だったのではないかと疑いたくなるほど、諒真は徹底的に綾恵との接触を断った。
朝も綾恵が訪れる前に既に登校していて、学校ですれ違う時ですら目を合わせることはない。
梨香と朝食を摂る習慣はなかなか抜けずに続けていたけれど、二学期が始まって暫くした頃、お兄ちゃんにいつまでもアヤちゃんに甘えてちゃダメって怒られちゃった、としょんぼりと告げられた。
そんなことない、と言いかけたその時に、受験勉強頑張ってね、と寂しそうに笑う梨香を前に、綾恵はそれ以上何も言えなくなった。
二人の縁はすっかりと切れてしまったかのように秋が過ぎて冬が来て、綾恵は本格的な受験シーズンへと入った。
地元の国立大への受験は、諦める他無かった。
仮に合格出来たとしても、あの父が綾恵が1人残ることを許すとは思えない。
また、橋上家の住まいは綾恵の父親の会社の借り上げ社宅のため、父親の転勤が決まった以上住み続けることも出来ない。
一切の援助もなく、綾恵1人で学費を賄い生活していくことは不可能だった。
「帰らずに済んで、良かった…」
父親の辞令が4月1日付けで発表されるため、綾恵の両親が東京に移り住むのは、3月末の予定になる。
そのため東京の大学を受ける綾恵は、東京に住む叔母を頼って一足先に上京していたのだった。
年が明けて暫くしてから高校が自由登校になるなり、綾恵は叔母の寿々のもとに逃げ込むように上京した。
表向きは受験時に迷わないで済むように、早めに街に馴染んでおきたい、と言い訳を並べたが、本音では父親にも諒真にも顔を合わせたくないからだった。
大切にしていたものを、諒真との絆を簡単に壊した父親がどうしても許せなかったし、諒真の姿を見れば心が騒いでしまう。
何も写していないような、何の感情も見いだせない目をして、綾恵を一切見ようとしない諒真を見るのが辛かった。
父親の言葉がきっかけに過ぎず、綾恵への想いは勘違いだったと、近くに居ただけに感じていた親愛を履き違えていただけだと諒真に断じられるのが怖かった。
いくら家を空けることが多いとは言え、やはり父親と暮らすのは憂鬱だった。
それに親元を離れての寿々と過ごす自由な暮らしに慣れてしまうと、戻りたいとも思えない。
ここから通学すれば良いという寿々の提案は、綾恵にとっても有難いことだった。
◇◇◇
卒業式を終えて、クラスメイトとの別れも存分に惜しんだ綾恵は、ゆっくりと校門に向かった。
小学校の時も、中学校の時も卒業式の後は諒真が待っていてくれて、一緒に帰った。
卒業後の進学先も、常に一緒だった。
しかし今日は綾恵1人で、諒真と共に通った道を歩く。
合格発表後も暫く寿々のもとに居着いていた綾恵は、引っ越しの荷物の整理と卒業式のために地元へと戻ってきていたが、卒業式も無事に終えて翌日早々に東京へ向かうことにしていた。
もう、この道を歩くことはないだろう。
そんな感傷にも似た気持ちでゆっくりと歩いていると、見慣れた背中が視界に入る。
つきり、と胸の奥に鋭い痛みが走るけれど、それも最後だと己を叱咤して足を早めると、その背中をとん、と軽く叩いた。
「───諒真」
「…あぁ」
「合格、おめでとう」
「うん」
ひどく素っ気ない返事だが、別れを告げられて以来初めて会話を交わしている。
それだけで綾恵の痛む胸の中で、少しだけ暖かい気持ちが灯る。
「あんまり無理し過ぎないでね」
「あぁ」
諒真はいつの間にか地元の国立大の二部への進学を決めていた。
綾恵がそれを人伝に聞いたのは、今日、卒業式の前だった。
もう自分は諒真に関わることは出来ない。
そう思い知らされた気分になったが、綾恵も東京の大学に進学が決まっている。
今さらどうにもならないのだと、胸を締め付ける痛みに気がつかない振りをした。
「諒真、これ 」
綾恵は鞄から包みを取り出すと、諒真の胸に押し付けた。
それまで短い返事だけで綾恵を見ることが無かった諒真の瞳が、戸惑うように揺れた。
「遅くなっちゃったけど、バレンタイン」
綾恵は諒真の反応を待たずに包みから手を離したが、怖れていたように包みが落ちることはなかった。
呆然としたように、諒真は包みを押し付けられたまま立ち尽くしている。
「これが最後だから、受け取って。…元気でね」
それだけ呟くように小さな声で告げると、綾恵は諒真の返事を聞かずに走り出した。
諒真が追いかけてる来る気配はない。
自意識過剰だったな、と綾恵は自嘲すると足を緩めて自宅へと入っていった。
諒真に渡した包みは、中学1年生の時に、諒真に初めて好きと伝えた時に渡した小さなチョコレート菓子。
───あの時と、私の気持ちは変わっていないよ。
そんな気持ちが伝わればいい。
離れてしまっても、この気持ちは変わらないと知っていて欲しい。
たとえこの先会うことすら無いのだとしても。
その夜、溢れる涙を堪えることなく存分に泣いて、綾恵は翌日、東京へと発った。
ありがとうございました。