縁を求めて
着信を知らせる振動に正直、助かったと思った。
おそらく先ほどの着信に出なかった綾恵を心配した芳賀が再度かけてきたのだろう。
こんなことひとつ、ひとりで対応できないという事実に苦い気持ちが込み上げるけれど、今優先するべきなのはそんな子供じみたプライドではない。
「すみません」
ブーッと震えるその振動が切れる前にと慌てて根岸に断りを入れて鞄からスマートフォンを取り出すと、表示されていたのは思ってもいない名前だった。
《生島 諒真》
思わず着信ボタンに伸びた手が止まる。
別れを告げられた日以来、掛けることも掛かってくることもなかった、それでも削除することもできなかった番号からの着信に一瞬都合の良い夢でも見ているのかと目を疑った。
しかし着信に応じることに躊躇いを見せるような様子の綾恵に根岸が怪訝な視線を向けていることに気がつくと、慌てて応答ボタンをタップした。
「…はい」
『アヤ?ひとり?』
「いえ…」
『いまホテルにいるんだけど、アヤは?どこにいるの?』
「中庭、です」
『わかった。今から行くから、切らないで』
何故諒真が来たのか。
そもそもどうして、綾恵の居場所を知っているのか。
ぐるぐると疑問が浮かぶが、それよりも電話越しの諒真の声が、かつて傍にいたときのように優しさに満ちていて、耳に響くその低い声音に包まれるような錯覚に襲われる。
根岸が側にいるのも忘れて、綾恵はその声に支配されたかのように動けなくなった。
切らないで、といわれた通りに通話をそのままにスマートフォンを耳に押し付けると、ふっと諒真の吐く息の音がすぐ耳許で響く。
まるですぐ傍に諒真が居るような感覚にどきどきと速まる鼓動に戸惑いながら、スマートフォンから耳を離せずにいると、やがてすぐ後ろでざっと足音がした。
耳に押し付けたままのスマートフォンからも同じ音がしたかと思うと同時に通話が切れ、後ろから伸びてきた腕がふわりと綾恵を包んだ。
「…どちらさまです?」
突然現れるなり、その腕に綾恵を囲う諒真に、根岸は胡乱げな視線を向けている。
「突然すみません。見合いと聞いて拐いに来たんです」
「…それは情熱的ですね」
「でしょう?そういう訳なので、失礼しますね」
諒真はそう言うなり綾恵の肩を抱いて根岸に背を向けると歩き出そうとする。
それを引き留めたのは、綾恵だった。
「諒真、ちょっと、待って…!あの、根岸さん、ごめんなさい。お申し出は、お受けできません」
「そうですか。残念です。…綾恵さん」
さほど残念そうな様子もなく、根岸は頷いた。そして一瞬諒真に目線を向けると、綾恵に視線を戻してにこりと目を細めて微笑んだ。
「先ほどのお話は、彼のことですか?」
綾恵は一瞬何のことかと目を瞬かせたが、それが根岸に断りを入れるために「好きな人がいる」と伝えたことだと思い至ると、じわじわと顔が赤くなっていくのがわかる。
イルミネーションに照らされているとはいえ、夜の闇はそれを隠してくれているだろうか。
そんなことを頭の片隅に思いつつ、綾恵ははい、と首肯した。
「そうですか」
根岸は何か告げようと口を開くが、諒真はそれを遮るように失礼します、とその場を離れた。
◇◇◇
綾恵の肩を抱いたまま、諒真はホテルのロビーを通りすぎてエントランスへと向かう。
「諒真、ちょっと待って」
足の長さが違う上に、急いたように足を進める諒真の歩幅に付いていくことが辛くなって、思わず綾恵は声をあげた。
「…ごめん」
我に返ったかのように、歩調を緩めた諒真は、それでも止まることなく出口に向かって足を進め、エントランスに出てようやくその歩みを止めた。
「割り込むようなことしてごめん」
「急に、どうしたの…?」
「芳賀さんに、お見合いさせられるって、聞いて。…ねぇ、アヤはなんで『葛城さん』なの?」
綾恵の細い肩に回していた腕の力を緩めると、それでも肩に置いた手を離すことなく諒真は綾恵に向かい合うように真っ直ぐと視線を合わせてゆっくりと問うた。
「…結婚したわけじゃないの?」
「…諒真」
「結婚してるなら、諦めなきゃいけないって思ってた。でも、お見合いさせられるって、聞いて。違うの?」
真っ直ぐに綾恵を見つめる諒真の視線は射抜くように強いのに、不安も同時に孕んで揺れていた。
────諦める?
諒真のその言葉に、痛みを堪えるような瞳に思わず掠めた願望を、あり得ないと押さえ込む。
諒真の強い視線に捕えられていると、押し込めた願望が再び育ってしまいそうになって、綾恵は思わず目を逸らした。
「…結婚してるなら、迷惑になるって、諦めなきゃいけないって思ってた。他の人と生きるってアヤが決めたなら、もう俺が入り込む余地なんてないんだって。だから、この間の飲み会の日、幸せかって聞こうと思った。結婚してるなら、今幸せにしてるって聞いたら諦めようって、思ってた」
呟くような小さな声が落ちると共に、綾恵の肩に置かれた手がぐっと力が込められて、思わず諒真を見上げると、不安に揺れる諒真の視線が真っ直ぐに綾恵を捕えていた。
「あんな別れかたして、情けない奴だって解ってる。でも、忘れられなかった。アヤのお父さんに釘を刺されたくらいで、尻尾を巻いて逃げ出したのに、今さら何って言われるのが怖くて連絡もできないのに、ずっとアヤが忘れられなかった。名字が変わってて、結婚したんだって思っても、アヤにちゃんと振られないともう前に進めないって、そう思ってた」
────でも、それが勘違いだというのなら。
「でも違うんだったら、諦めたくない。アヤが、好きだ。別れてもずっと忘れられなかった。今でも、好きなんだ」
思いの丈を吐き出すと、諒真は知らずのうちに力を込めてしまっていたことに気がついて、綾恵の肩に置いた手の力を抜いていった。
しかし不安に揺れる瞳は、綾恵から逸らされることはない。
これまでの言葉の少なさが嘘のように言葉を紡ぐ諒真の様子に、綾恵は正直気圧されていた。
────これは、都合の良い夢だろうか。
ずっと忘れられずにいたのは綾恵の方だ。
諒真が告げた言葉は、綾恵が夢にまで見ていたことそのもので、現実ではないのではないかと疑いそうになる。
しかし力を弛めたものの綾恵の肩を掴む諒真の手の力強さも温かさも確かにそれが現実で。
しかし視線を逸らすこともできずに、何も答えることもなくただ呆然と諒真を見つめる綾恵の様子に、諒真の瞳が翳っていく。
「芳賀さんに、アヤに好きな人がいるって、聞いてる。今更こんなこと言っても困らせるだけだって」
「諒真、だよ…」
言い募る諒真を遮るように思わず零れた呟きは、ごく小さな声だったけれど、それは諒真の耳に届いたらしい。
ピタリと諒真の動きが止まり、信じられないものを見るかのように目を瞠る。
「私、諒真以外、好きになれない…」
驚いたように綾恵を見つめる諒真の表情が、だんだんと歪みその輪郭が滲んでいく。
それが溢れる涙のせいだと気づいたのとほぼ同時に、綾恵は強い力で諒真に抱き締められていた。
ありがとうございました