知られざる決意
───アヤが、いる。
芳賀と綾恵が訪れた打ち合わせの後、このまま終業になるのならと再び藤崎が声をかけた食事の席で、諒真は意識して綾恵から離れた席に着いたものの、意識を綾恵から離すことができないでいた。
先日の急な誘いこそ辞退したものの今回は想定していたのか、藤崎の誘いに芳賀と共に頷いた綾恵は10人ほどが無理なく座れる大きなテーブルの対角線上、藤崎と向かい合って座っている。
絶えず笑顔を浮かべて藤崎と向かい合う綾恵の様子を常に視界の端に捉えて、諒真はふっと息を吐いた。
夕方の打ち合わせ中の方がよっぽど近くに居たのに、仕事を終えたと思うと途端に綾恵から意識を離せない自分の未練がましさに自嘲すら出ない。
「生島さん?」
諒真を呼ぶ声に、はっと意識を目の前に向けると、普段は事務作業を担当するスタッフたちが不思議そうに諒真を見ていた。
「生島さんが飲み会に来るのって珍しいですよね」
「そうそう。藤崎さん、今日これからなんて急だなって思ったけど、生島さんも来るって聞いて」
目の前のスタッフは数人で次々と会話が進んでいく。
話の端緒こそ諒真に向けられていたようだったが、すぐに話は事務所近くのランチのお店やカフェの様子、最近オープンしたお店がどうとくるくると話題が移っていく。
周りで流れていく会話を聞き流しながら、視界の端に映る綾恵の様子から意識が離せずにいると、くい、とグラスを呷った綾恵が席を立った。
綾恵が藤崎といつの間にか会話に加わっていた芳賀に何かを告げて席を離れたのを目の端に捉えると、諒真も不自然にならない程度の間を開けて席を立った。
───我ながら女々しい、と、そう思う。
奪い去る勇気もなかったくせに、自ら突き放して逃げたくせに、ずっと忘れられなかった。
今だって藤崎の隣にでも座れば綾恵も交えて会話に入れるだろうに、会話に困るのが容易に想像できるだけに動くことも出来ないでいた。
想いを拒絶されたらと思うと、告げることも出来なくて。
それでも捨てることも出来ずにずっと抱えていた想い。
綾恵を困らせることになってしまうけれど、区切りをつけなければ綾恵の幸せを願うことも出来ない。
───ちゃんと、振られてこよう。
そう決意して、諒真は綾恵の後を追うように店の廊下へと足を向けた。
「諒真もお手洗い?それならこの先だよ」
「あ、うん」
レストルームから出てきた綾恵の姿を認めると、諒真の足は廊下に縫い止められたように動かなくなった。
それを迷ってるとでも判断したのだろうか、綾恵は諒真の方へと歩み寄ると、自分の背後を指差した。
諒真、とかつて傍にいた頃と変わらない呼び方で、声音で話す綾恵の様子に、安堵のような喜びが全身に広がっていく。
これからの綾恵の心が別の男に向いていようとも、かつては傍にいた諒真に真っ直ぐに向けられていた事実が変わるわけではない。
例え過去のものだとしても、今でも思い出として綾恵の心の中に間違いなく残っているのだと、そう思うとこれまで抱えていた焼け付くような気持ちが穏やかなものへと変化していくようだった。
無論、今だって綾恵の心が欲しいと希う気持ちがチリチリと燻っていることには変わりはないが、これまで諒真を焦がしていた焦燥とは比べるべくもないほど凪いだ気持ちに、覚悟を決めるとこんなにも変わるものかと驚くほどだった。
この後、少し時間を取ってもらえないだろうか。
そう、決意して口を開こうとした時、綾恵のスマートフォンがブーッと振動した。
ちらりと見えた「母」の表示に、諒真は思わず力を抜いた。
「葛城さん」からの着信だったら挫けてたかもしれない。
そんな事を思いつつ綾恵を見ると、綾恵は着信に出るともなく躊躇っているようだった。
「おばさんから?出なくていいの?」
「あ、うん。ごめんね」
諒真といる手前、電話に出るのを躊躇っていたのだろう。
促すと綾恵は素直に応答したが、すぐにその表情は強ばっていく。
綾恵の母親からの電話は、父親の急病を告げるものだった。
母親からの連絡に青い顔をした綾恵の様子と病院の名前に、諒真はすぐに事態を察した。
「おばさん、なんて?病院、呼ばれたの?」
通話を切ったものの青ざめたままの綾恵に声を掛けると、はっとしたように綾恵は諒真を振り仰いだ。
「お父さんが、倒れて、救急搬送、されたって…」
「病院はどこか、聞いてる?」
「うん…」
綾恵が告げた病院は、都内の大学病院だった。
ここからならタクシーでそう時間がかかることなく着けるだろう。
「アヤ、タクシーを呼んでもらうから、待ってて」
諒真は綾恵にそう告げると、近くを通りがかった店員に声を掛けて車を呼ぶように頼むと、芳賀たちが居る席へと向かった。
「芳賀さん、ア…、葛城さんの家族が急病みたいです。タクシーを呼んだので、上着、預ります」
藤崎と和やかに飲んでいた芳賀に声を掛けて側に置いてあった綾恵の上着を掴むと、諒真は素早く踵を返す。
驚いた芳賀も慌てて立ち上がると諒真の後を追った。
急かされるように綾恵の側に戻ると、綾恵は所在無げに廊下に立ち尽くしたままだった。
上着を渡して忘れ物がないか訊ね、ぎこちなく頷くのを見て外で待とうと店の外へと綾恵を誘導すると、既にタクシーは到着していた。
開いたドアに押し込むようにして綾恵をタクシーに乗せると、我に返ったのか綾恵は運転手に行き先を伝えると芳賀に慌てて挨拶を告げて、諒真を見上げた。
「諒真も、ありがとう」
「うん。きっと大丈夫だから。落ち着いてね。気をつけて」
諒真の言葉に頷き、綾恵はシートに身を沈ませる。
ばたり、とドアが閉まると静かにタクシーは離れていった。
「大したことないといいな」
タクシーが見えなくなると、芳賀はポツリと呟いた。
そうですね、と諒真も応えて二人は店へと戻っていった。
◇◇◇
結婚の休暇が明けたらしく、斎藤建築との打ち合わせには、今まで通り芳賀と飯野が訪れた。
その様子に思わず落胆していた自分に気がついて、諒真は思わず息を吐いた。
浅ましくも自分はまた綾恵に会えることを期待していたらしい。
それも仕方のないことだと思いつつも、もう手に入らない存在をいつまで未練たらしく引き摺るつもりなのだと自嘲する。
それに綾恵は父親が倒れたばかりだ。
看病のために休暇を取っていてもおかしくない。
ただ、父親の病状に関わらず飯野が復帰した以上、今後は打ち合わせに綾恵が訪れる可能性はほぼないだろう。
父親の急病は心配だが、きちんと想いを伝えた上で振られれば、ここのところ膨らませていた未練にも区切りを付けられると思っていた矢先だけに、もう会うこともないと思うと暗澹たる気持ちになってしまうのも仕方のないことだった。
居場所を知っていれば、なおさらに。
「そういえば、葛城さんは大丈夫でしたか?」
打ち合わせの後の恒例となりつつある食事の席で、藤崎はおもむろに芳賀に訊ねた。
先日の打ち合わせの後の食事会で家族の急病を理由に慌ただしく帰っていったことを思い出したのだろう。
諒真も気になっていただけに、芳賀に視線を向けた。
丁度グラスに口を付けていた芳賀は、笑顔を浮かべてぐびりとビールを飲み込むと、大丈夫みたいですよ、と告げた。
「軽症だったらしくて2、3日で退院したらしいですよ。もう仕事にも復帰してるそうですし」
そりゃ良かった、とほっとしたように藤崎が笑みを浮かべると、諒真も頷いた。
良かった、と素直にそう思う。
父親が倒れたとあっては、回復したとは言え暫くは慌ただしいだろう。
落ち着いた頃にでも、連絡をしてみよう。
綾恵の連絡先が変わっていないという可能性がある以上、なにもせずに諦めるのは無理なのだから。
もしも連絡がつかなかったのなら、綾恵との関係はそれまでということだ。
もう遅い。諒真とのことは、思い出として未来に向かって進んでいると。
その時には今度こそ諦めよう。
「今日は回復祝いの食事会だそうですから、大丈夫でしょう」
芳賀は柔和な笑顔を浮かべたままそう続けると、飯野も納得したように頷いた。
「あー。それで今日はいつもと違う格好してたんすかね。その割に浮かない顔してましたけど」
「ああ…。ただの回復祝いってわけじゃないらしくてな」
飯野が不思議そうに芳賀に目線を向けると、芳賀はそれまでの笑みを消してばつが悪そうにモゴモゴと歯切れが悪くなった。
いつも快活な芳賀が分かりやすく何かを言い淀む様子は珍しく、それだけに深刻なことでもあったのだろうかと不安になる。
藤崎を見ると、彼も心配そうに芳賀を見つめている。
「あー…。個人的なことを本人のいないところで言うのはどうかと思うんですけど…。なんでも回復祝いももちろんなんですけど、見合いめいたことも含んでるらしくて。気が進まないみたいなんですよね」
「あー、それでかぁ」
飯野は納得したように頷き、藤崎はどんな想像をしていたのか、心なしかほっとしたように表情を緩めている。
しかし諒真の胸のうちはそれどころではなかった。
芳賀は見合いめいたこと、と言っていた。
見合いとは即ち、独身の男女を引き合わせることで。
彼女は、今独り?
ならば何故姓が変わっている?
好きな人がいると芳賀の告白を断ったのは?
未亡人、とふと頭に過ったが、もしそうなら芳賀や飯野が知らないわけないだろう。
それに藤崎が初めて二人を食事に誘った時、芳賀は綾恵に向かって「葛城さんは今日は早いのか」と尋ねていた。
「葛城さん」とは誰なのか。
言葉もなく考え込むように黙りこんだ諒真の様子を芳賀が見つめていることに気がつかぬまま、諒真は思考の中へと沈み混んでいった。
◇◇◇
「気になりますか」
打ち合わせが終わるなり、終業して早々に店にと集まったせいか、芳賀の帰り支度の素振りとともにだいぶ早い時間にお開きとなり、諒真は飯野や芳賀と共に店を出た。
不意に芳賀が諒真に問いかけた主語を含まないその問いに、一瞬反応が遅れたが、すぐにその意味を解すると、そうですね、と何気ないことのように返す。
素直な返答に、芳賀は面食らったように目を見開いて諒真を見つめていたが、有名ホテルの名前を告げた。
「9時に、仕事を理由に連絡をすると約束しています。それに彼女が応えてくれるのなら…。恋人役に立候補します」
たとえ仮のものであっても、それできっと彼女を守ることが出来るから、そう続けた芳賀の目は真剣だった。
そこに冗談の色はない。
かつての関係がどうであれ、諒真に遠慮する気はないのだと、その瞳は告げていた。
「……名字、橋上だったんです」
「え?」
「葛城じゃなかったんです。俺と居たときは」
だから諦めなくてはいけないと思っていた。
彼女には、もう既に人生を共にすると決めた人が居るのだから。
「…時間だ。ちょっと失礼しますね」
時計に目をやった芳賀が、スマートフォンを取り出して通話ボタンをタップする。
諒真も手元の時計に目をやれば、それは9時を指していた。
「…新卒で入ったときから、葛城でしたよ」
暫く続いたコール音が途切れて留守番電話に転送されたアナウンスに切り替わると、芳賀は終了ボタンをタップし、ポツリと呟いた。
「その理由は分かりませんけど。自分で確認された方がいいのでは?」
予想していなかった芳賀の言葉に、諒真は驚きを隠せないまま芳賀を見つめた。
芳賀も真剣な表情のまま諒真を見つめている。
「…伝えるだけでも、気持ちを伝えてみようと思います」
ありがとうございます、と芳賀に一礼すると、諒真はその場を離れた。
空車ランプを灯すタクシーを見つけて停めると、芳賀が溢したホテルの名前を告げる。
綾恵がまだそこにいるかは分からない。
食事のあと場所を移している可能性も大いにある。
祈るような気持ちでタクシーを降りた諒真はスマートフォンを取り出すと、あの夏の日からかけることのなかった番号をタップした。
ありがとうございました。