会食
「お、葛城、早いな」
始業前のオフィスは、まだスタッフはちらほらとしか出勤して来ていないせいか、芳賀の声がよく響いた。
「あ、芳賀さん、おはようございます。今日は定時で上がりたいので前倒しで片付けておこうかと」
「そうか。それでめかし込んでるのか?」
「……。まぁそういうことです」
「親父さん、退院したんだろ?憂鬱そうだなぁ」
いつもはネイビーやブラックのパンツスーツの綾恵だが、今日はダークカラーのジャケットこそ着ているものの、パステルカラーのトップスに色は控えめだが華やかに広がるスカートの装いだ。
いつもとは全く違う様子に気になったらしい芳賀に綾恵は苦笑いを返す。
綾恵の父親が倒れたと聞いて病院へと駆けつけて数日、根岸が言っていたように父の容態はごく軽症で済んだらしく、3日ほど念のため検査入院をするとあっさりと退院した。
倒れた原因が恐らく過労であろうとの見立てからか、退院後数日は自宅療養をすることになったものの、それもすぐに切り上げて既に父親は仕事に復帰しているという。
そしてその復帰に合わせて、病院への搬送や付き添いをしてくれた根岸にお礼の席を設けることになったので、顔を出すように綾恵にも命令が下ったのである。
父親がごく軽症で済んだのも、倒れてから殆ど時間を置かずに処置が受けられたお陰だと医師は言っていた。それは間違いなく倒れたときに側に根岸が居たお陰であるし、恐らく病院への搬送等の判断や手配も的確だったのだろう。
家族としてお礼の席に出るのは礼儀として当然だろうと綾恵も思う。
しかし母親に告げられた本当の目的を知ってしまうと、なかなか気が進まない。
『お父さんがね、以前から根岸さんを紹介したいと言っていてね』
会食の詳細を伝えるためだろう、昨晩母からかかってきた電話でポロリとこぼされた一言を思いだし、綾恵は苦虫を噛み潰したような表情になる。
「本当に嫌そうだなぁ」
そんな様子の綾恵に、芳賀はもはや爆笑している。
「見合いさせられるのが分かってんだから憂鬱に決まってるじゃないですか」
思わず溜め息とともに吐き捨てると、それまでの笑みを消した芳賀が心配そうに綾恵を見た。
「断れないのか?」
「出席しないわけにいかないんですよね。何しろ父の回復祝いの席ですから。具体的な話が出たら断りようもあるんですけど」
具体的に見合いだと紹介されれば、綾恵も断りを入れることに躊躇いはない。
しかし恩人として紹介されるとなるとまた話が違ってくる。
こちらが父の恩人として接しなくてはならない限り、話が出る前に一方的に拒絶もし辛いだろう。
それよりも、相手方から断ってくれるとありがたいな、と綾恵は思う。
「…場所は?」
「え?」
「今日どこで集まるんだ?」
芳賀の思いがけない問いに、綾恵は思わず素直に都内のホテルの名前を告げた。
「あぁ。あそこのイタリアン、旨いよな。じゃあ、9時」
「え?」
「9時に、仕事を理由に電話する。旗色が悪かったら、電話を理由に逃げてこい。問題なければそのままやり過ごせば良い」
芳賀はそれだけ告げると、綾恵の返事は聞かずに業務へと向かっていった。
◇◇◇
「綾恵さんは妹と同じ年なんですね」
優しげな微笑みを絶やさずに、根岸は綾恵にそう告げた。
「そう、なんですね」
父親の指定したホテルに、綾恵が定刻より少し早い時間に訪れると、両親と根岸は既に到着していた。
早めに着いたにも関わらず、何となく遅刻をしたような気まずさを感じながらも、綾恵は指定された席へと着いた。
時間通りに始まった会食は根岸が改めて自己紹介をすると綾恵の父親も根岸に綾恵を紹介し、和やかに進んでいく。
根岸は笑みを絶やすことなく、綾恵にもにこやかに話題を振る。
やはり最初の印象どおり、根岸は綾恵の2歳ほど年上だった。
綾恵も年齢を告げると、楽しそうに笑みを深める。
母親と共に父親の介抱の礼を告げると、根岸は当然のことだからと穏やかな笑みを浮かべてそれ以上の礼を固辞した。
「側に居たのですから当然のことです。それに、専務にはまだ働いてもらわないといけませんから」
いたずらっぽく笑みを深めて茶化すように綾恵の父親に視線を向ける。
普段よりも表情を緩めた父親も、病み上がりなんだから手加減してくれ、とぼやきつつも愉しそうだ。
綾恵の仕事こと、根岸の仕事や家族のこと。
根岸は営業部に在籍していた事があったらしく、流石と言うべきか話の穂を失することなく綾恵や両親に言葉を継いでは聞き役に回り、会話は途切れることなく和やかに過ぎていく。
綾恵の父親がチラリと腕時計に目をやったのは、コースのデザートまでしっかり楽しみ、給仕が紅茶のおかわりを注いでいった頃だった。
「根岸、長々と付き合わせて悪かったな。どうもありがとう」
「いえ」
祝いの席の締めの様子に綾恵もそっと腕の時計を確認すると、思ったよりもそう遅くなってはいない。
芳賀が連絡すると言っていた9時にもまだ少し余裕があることに、綾恵はホッと息を吐いた。
いつもならまだオフィスにいる時間だ。
期日こそまだ余裕はあるもののまだちょっと気になっている案件もあるし、会社に戻って仕事をしても良いかもしれない。
「綾恵さん」
「え、あ。はい」
仕事に意識を向けてとりとめもなくぼんやりとしていたところに根岸に声を掛けられて、綾恵は思わずびくりと体を震わせた。
「失礼、驚かせましたか?」
「すいません、ちょっと考え事してました」
ぼんやりしていたことは繕えないだろう、綾恵は正直にあたまをさげると、やはり根岸は慌てたようにそれを制した。
「いえ、ここの中庭、今イルミネーションしているらしいんですよ。少し散歩しませんか?」
思ってもいなかった申し出に、綾恵は一瞬目を瞠る。
思わず両親に視線を向けると、二人の会話は聞こえていないのか帰り支度をしているところだった。
二人きりで話ができるのなら、却って好都合かもしれない。
根岸ももしかしたら、父親には耳に入れたくない話があるのかもしれない。
───例えば、この縁は断りたい、だとか。
そもそも、綾恵の父親が一方的に話を進めている可能性もあるのだ。
根岸自身がどう思っているのか聞くチャンスには違いない。
そう考えると、綾恵は根岸の申し出に頷いた。
◇◇◇
美しく整えられた芝生と、景観を邪魔することなく、それでも明確に遊歩道を誘導するように低く切り揃えられた生垣、計算されたように配置されている木々に、花の少ない季節だというのに寒々しさはない。
スッキリと整えられた庭を美しく彩る、期間限定だというイルミネーションは、ホテル自慢の中庭を幻想的に浮かび上がらせていた。
根岸は綾恵を先導するように、数歩先をゆっくりと歩く。
その後ろを辿るように歩きながら、綾恵は広い背中を見つめていた。
根岸が断りたいというなら、綾恵としてはこの上なく有難い申し出である。
しかし綾恵の父親は根岸の上司だ。
根岸から断るのは角が立つのではないだろうか。
ここは綾恵から断ったことにした方が、お互いにいいだろう。
「あの、根岸さん」
「はい」
「父が、すみません」
先程も言っていたように、根岸は仕事で父親の側についていただけだ。
倒れた父親の介抱も、業務の内だと思っているだろう。
にもかかわらず、お礼の席とはいえ時間を奪うように付き合わせて申し訳ないと言う気持ちが強い。
上司であれば、尚更根岸が断るのは難しいことであっただろうから。
「父が何か言っていたかもしれませんが、気にしないでください」
「何か、とは?」
「父が、あなたと私を引き合わせたがっていたと母から聞きました」
「あぁ、そうなんですか」
いかにも気の無い様子の根岸の返事に、綾恵は内心冷や汗をかいた。
もしかしたら父親は、根岸には綾恵のことは何も言っていなかったのだろうか。
だとしたら墓穴を掘ったかもしれない。
「専務からは」
どうしようか、と考えを巡らせていると、不意に根岸が呟いて振り返った。
「恋人の影もなく仕事ばかりで結婚の気配もなく心配している、と」
綾恵は思わず唇を噛んだ。
大切な恋人を綾恵から取り上げたのは父親だろうに、 今さら何を言うのか。
たとえあの時、父親が諒真に何も言わなくとも、綾恵は父親の転勤に伴って東京の大学に進学せざるを得なかっただろうと思う。
すでに地元に就職を決めていた諒真とは離れてしまうことになっていただろう。
距離に、会えない時間に負けてその先に別れがあったかもしれない、とも。
しかし自分達で別れを選んだとしたら、こんなにも諒真への思いを引きずることもなかっただろう。
諒真に徹底的に接触を絶たれ、ごく稀にすれ違うときですら目も合わせてもらえないことに、綾恵は確かに傷ついた。
父親の言葉によって魔法が解けたかのように、綾恵への愛情が傍にいたがためだけの勘違いだったと思われたのかと。
それでも、別れを告げたときのあの暗い瞳が綾恵から離れる辛さを何よりも雄弁に語っていた。
頑なに取られた距離に、視界から消し去らないと耐えられない、本当は離れたくないと諒真も思っていたのだと、不思議と信じられた。
だから綾恵は、諒真だけを思って生きていこうと決めたのだ。
決して望んで離れたわけではないのだから、思いを手放せるその日まで、諒真を好きでいたかった。
たとえそれが見当違いな自惚れであっても、もう会うこともない以上、正解など分からないのだから。
でも、それすらも。
初恋を弔う気持ちすらも、父親は赦してはくれないのだろうか。
───もうほっといて欲しい
とうの昔に心の奥底に押し込めていた怒りがふつふつと蘇ってくるのを感じる。
かつて綾恵の心をじくじくと焼け付くように蝕んでいたその感情とは、随分と前に折り合いをつけたはずだったのに。
持っていた鞄を強く握り締めたその時、綾恵の指先に小さくブーッと振動が伝わった。
おそらく芳賀が律儀にも約束通り電話を掛けてくれたのだろう。
これを取れば、仕事を理由に逃げることも出来る。
しかし綾恵はスマートフォンの振動が止まるのを待って、口を開いた。
「…好きな人が、いるんです」
根岸は驚く様子もなく独り言のような呟きを溢す綾恵を見つめていた。
根岸も上司の勧めとあってはそうそう断れないだろう。
綾恵も父親の恩人と思えばこちらから断りを入れるのもどうかと思っていた。
しかし、父親がどこまでも綾恵の心を顧みることもないのならば、遠慮する必要もない。
「ずっと、想っていくって、決めているんです」
「…だから、結婚はする気はないと?」
「恋人も、必要ありません」
静かに綾恵を見つめる根岸の瞳は、凪いだように穏やかだった。
かつて綾恵を見つめていた諒真の瞳のような暖かさも、別れを告げたときの絶望を溶かしたような暗さもなく、感情の全てを排除されたような、心の読めない瞳が綾恵を見下ろしていた。
「それなら、丁度いい」
「…え?」
「僕も、結婚なんてするつもりもないんです。お互い、偽装するにはうってつけだと思いませんか?」
根岸は一歩踏み出すと、綾恵との距離を詰める。
「まだ独り身なのかと、なかなか周りも五月蝿くてね。放っておいてくれ、と言えれば良いんですけど。それも難しい相手も少なくないんですよ」
「だから、偽装?」
「えぇ。あなたは、思う存分思い人やらを思えばいい。僕はあなたを恋人として隠れ蓑にする。綾恵さんも、こんなお見合いみたいな席に引っ張り出されることもなくなるし、お互いに旨味があると思いませんか?」
そっと綾恵の手を取った根岸が、労るように綾恵の指先を握る。
ホテルの庭園は、時間も遅くなってきたせいか、綾恵と根岸の他に人影はない。
美しく整えられた庭を計算され尽くした照明の光を受けて、根岸は暗闇から浮き上がっているようにも見える。
それはまるで悪魔の召喚のようだと、綾恵は思った。
利を得る代わりに、魂を要求する───
「…そんな、上手く行くとは、思えません」
根岸の提案が突飛すぎて暫く言葉が出ない綾恵だったが、やっとの思いで絞り出すと、根岸の手を払う。
「やってみる価値があると思いませんか?ダメなら別れました、で良いわけですし」
根岸の提案は、確かに綾恵にもメリットがあった。
しかしよく考えればデメリットの方が大きい。
最近うんざり気味の母親の連絡からも逃れられる。
しかしあの父親が、自分の目論見通りに別れを納得するだろうか。
ともすれば、根岸と交際するなどと知った途端に結婚しろと圧をかけてくる姿しか想像できない。
しかも根岸は縁談避けのカモフラージュとして交際したいというのだから、公表しないという選択肢は無いだろう。
綾恵は先程の芳賀からの着信をやり過ごしたことを後悔していた。
怒りに任せて断るだけだと判断を誤った。
自分だけで何とか出来ると感情的に判じた結果とはいえ、自分の浅はかさに泣けてくる。
「私には、デメリットこそあれ旨味はありません」
───お断りします。
そう続けようとしたその時。
ブーッと僅かな音と共にスマートフォンが再び着信を知らせて振動した。
ありがとうございました。