第19話
練習を終えてマットを片付けていると萩原さんがやってきた。
「はーい練習生ー、ちょっといい?片付けが終わったらこっちも手伝ってちょうだい」
道場の外まで案内されると、すぐ前の道路には20人くらい乗れそうな小さなバスが止まっている。
「明日、とある地方で試合があるので出場する選手の荷物をバスに積み込んで欲しいの」
道場から合宿所のリビングスペースに戻ると、10コくらいのスーツケースと同じくらいの段ボールが積み重ねられていた。
明日のお昼から試合が始まるので、今のうちに現地に向かうそうだ。当日になって事故とか渋滞とか体調不良とかなどの理由で選手が試合できないって事のないように前泊するするらしい。
車は商店街のレンタル会社が、選手たちが泊まるところはGPWUが手配してくれたようだ。
みんなで手分けして荷物を運ぶ。一番後ろのドアを開けて座席の下と、横にも荷物を入れるスペースがあるみたい。
スーツケースのハンドル部分を持つと、なんだか思った以上に重い。一体何が入ってるよ!一泊分の着替えと試合のコスチュームくらいでしょ、違うの?って思っちゃうくらい重かった。なのでいっぺんに二つずつ運ぼうと思ったけど、諦めて一つずつ運ぶことにする。先輩の荷物だからちょっとでもぶつけたり倒したりして傷つけたらよろしくないもんね。
キャスターを使ってコロコロと合宿所から道場を抜けて、そのまま外に出ようとすると
「ちょっと待って、一歩外に出たらスーツケースは引きずらないで必ず持ち上げて運ぶ事、いい?」
と萩原さんに注意された。え?なんで?こんなに重いんだからキャスターを使った方が楽に運べるじゃないですか。
同じ事を思ったようで堀田さんが萩原さんが意見する。
「いい?プロレスラーたるものは一般人と同じ事してるようじゃダメなの。鍛えてるんだから一般の人とは違うってところを見せなきゃね。いちばん分かりやすいのは力自慢じゃないかしら。重い荷物を軽々と運ぶのってなかなかのことだと思うのよ。それを見たファンに、やっぱりプロレスラーって凄い!って思ってもらえるかもしれないじゃない」
へえー、そういうことがあるんですね。確かにその方がファンの夢を壊さなくていいのかもね。ただ、この時間にファンの方がいるとは思わないけどどこで見られてるか分からないもんね。
とは言うものの荷物が重かったので結構な時間が掛かってしまった。ちょっとした筋力トレーニングにもなったかもしれない。ちなみに段ボールには出場選手のTシャツやタオル、ブロマイドなどのグッズが入っていて、どうやら試合会場で販売するらしい。そういうこともするのか、なんか面白そう。
荷物を積み終えたくらいになると、横田さん、豊田さん、松本さんと、あと見たことあるけど直接指導を受けてないので顔と名前が一致しない先輩方がバスに乗り込んでいく。最後に上田さんが萩原さんと少し話し合いをしてからバスに乗り込む。萩原さんが忘れ物や積み残しがないか確認した後バスが出発する。私たちは萩原さんとお見送りだ。
「じゃあ明日、今くらいの時間に選手たちが帰ってくるまで休みとしまーす。ゆっくり気持ちと体を休めてね。それじゃあお疲れ様ねー」
そういえば入団してから今まで一日もお休みがなかったな。
練習が終わってから少し時間が過ぎちゃったけど一応クールダウンに向かう。
ジョギングをしながら練習生が半分以上辞めちゃったなーなんて思ってしまう。もしこれが一般の企業だったらどうなんだろうか。お母さんに聞いた話では、入社して三年以内に新入社員が3割以上辞めたらブラック企業扱いされるって聞いたけど、それに当てはめるとここはどうなんだろね?立野さんや山田さんはどう思ってるんだろう。
「そんな事考えたこともなかった」
「努力ができて実力のある人だけが生き残れる厳しい世界ですからね」
「芸能界なんてどうするのよ、芸能活動だけじゃ食べていけないからってアルバイトを掛け持ちするのなんて普通の事よ?」
堀田さんからも意見を聞いたけど、どうやら一般企業と比べたらダメらしい。仕事自体が一般的じゃないもんね、当たり前か。
道場に戻り合宿所に入ると、前田さんが夕食の準備を終わらせてくれていた。前田さんも忙しいのにありがとうございます。
「いいのよいいのよ、作る量が半分になったからね。大した事じゃないわよ」
ちなみに今日のメニューは
・豚キムチちゃんこ、温泉卵だれ
・鶏の唐揚げ 刻みニンニクたっぷりソースかけ
・たたきキュウリとクラゲの浅漬け風サラダ
でした。ご馳走様でした。
食事を終えたら片付けをして、もろもろの雑用を終わらせてお風呂に入る。そういえばまだ一週間しか経ってないのに初めての経験ばかりだったなー、あっという間に過ぎちゃったなー。なんて考えてたらちょっとだけ感慨深い。
部屋に戻って工藤さんと明日は何をします?そういえば商店街ってどんな感じなんですかね。初日に少し挨拶回りをしたのとクールダウンでちょっと通ったくらいだからどんなお店があってどういうものを売ってるかまだ分からないですもんね、ウインドーショッピングでいろいろ覗いてみたいですね、なんて話をしながらマッサージをしてベッドに入ります。次の日が休みだからって夜更かしなんてしませんよ。
次の日、今日は朝から練習生全員でジョギングをするようです。あれ、今日から練習メニューが変わったのかな?まあいいか。
全員でお揃いのジャージを着ていると、ちゃんと団体に所属してるんだなーなんて事が実感できてなんだか嬉しくなっちゃう。それにしてもみんな無口ですね。クールダウンの時はいろいろお話しながらだから、それと比べちゃうとね。
そのまま商店街の方に向かって出発する。まるでピョンピョンと飛び跳ねているかのような軽い足取りでジョギングしていると、なぜか私だけ飛び跳ねた時の高さが高くなっている。え、なんで?どうしたの??って思っていると車を飛び越え、普通の一軒家を飛び越えていく。ちょ、ちょっと待ってよ!って思ってもジョギングするたびにどんどん高くなっていく。
倉庫よりも高く、5階建てのマンションを飛び越えても止まらない。でも着地する時の衝撃がないのも変な感じね。猫がびっくりして変な動きでどこかに行っちゃったけど。このくらいになるとピョンピョンからビヨーンビヨーンというアニメチックな効果音とともにさらに高くなる。飛んでる?私、飛んでる??ってか皆さん気づいてくださいよ〜。
そのうち送電線の高さを超えオフィスビルを超えて、カラスや渡り鳥の群れとぶつかりそうになる。あら、ニルスさんこんにちは。ってそうじゃなくて!
もう雲の高さも超えて大気圏っていうの?空気の層と宇宙空間の境目くらいまで飛んでくると半ば諦めの境地っていうんですかね。地球は青かった、とか地球には国境は見えません、とか私はカモメ、とかどこかで聞いたような言葉が思い浮かぶ。「宇宙」と書いて「そら」って呼んじゃおうかしら?部下から「大佐は宇宙がお似合いですね」なんて言ってもらっちゃう?大佐って何よ。
はあー、このあと私ってどうなっちゃんだろう、このままお星様になっちゃうのかなー。そしてプロ野球選手を目指す親子の目標にされちゃうのかなー、できればプロレスラーを目指す親子にしてほしいなー。それとも宇宙人に会えたりして。
Pipipipi、Pipipipi、何この電子音。まさか本当に宇宙人?UFO来ちゃった?どこ、どこよ?なんてあたりをキョロキョロと探していると……
ドスンという音とともに壁に頭を打った衝撃で目が覚める。
「晴ちゃん!なんか大きな音がしたけど大丈夫?」
「はっ!イテテテ、すみません。おはようございます。なんか寝ぼけてたみたいで...」
それならいいんだけどねって心配してくれた工藤さんに挨拶をする。ちょっとベッドの中で落ち着こう。それにしても妙にリアルだったけど夢だったのか。ちゃんと戻って来られたから良かったけどもうちょっとだけ見ていたかったかも。でもなんであんな夢を見ちゃったんだろうね、トランポリンの練習をしたからかな。確か空を飛ぶ夢って現実逃避だとか今の自分が不安定だったとか、あんまりいい意味じゃなかったような気がするんだよね。そりゃあ多少の不安はあるかもしれないけれど、自分では分からない深層心理ではそうなのかな?あとで夢占いで調べてみようかしら。
次話は8月5日を予定しています




