第8話
商店街恒例の七夕祭りが終わり、次の日の午前中から街中の飾り付けを外す作業を始めます。
自動車の行き来を確認しながら電柱や街灯の飾りを取ってくのですが、飾りをつける時は高さとか見栄えとか飾る順番とかを気にして、時間をかけていたものが外すとなるととても簡単ですぐに終わってしまいます。あ、箱に入れるときに飾りが絡まないようにきを使ったくらいですね。そんなこんなで非日常だった世界から日常に戻るのはすごくあっけないものでした。
さてさて、うちの新人さんたちですが、入団してから約3ヶ月が経ち、体つきがそれぞれの競技からプロレスラーっぽくなってきたので色々と確認しながら次の段階へと進もうと思います。まずはマット運動から見ていきましょう。
赤コーナーから青コーナーまで対角線の距離を基本の前転と開脚前転からやってもらいますが、うん、3人とも何の問題もなくできているので後転と開脚後転もやってもらいましょう。こっちも大丈夫ですね、言うことなしです。特に百合奈ちゃんは体全体が柔らかく本物の体操選手のようで見ていて美しいって思うほどです。
次はちょっと難しく、前転した後にヒザを伸ばしたまま立ち上がる伸膝前転、逆立ちした状態から始まる逆立ち前転、前方にジャンプしてから行う飛び込み前転をやってもらいます。長谷川さんは勢いよく、よっ!とかほっ!とかの掛け声とともにやってのけます。西田さんは勢いはないものの丁寧に確実にできてます。そして百合奈ちゃんにいたってはもうね、次元が違うというか優雅というか、動きに無駄がなくてホレボレしちゃいますよ。その運動神経の1/10でいいから分けて欲しいです。
マット運動を終えてから今度は後ろ受け身を中心にやっていこうと思います。ついでに痛みにもそろそろ慣れてもらわないといけません。といってもこちらも段階を踏んでいく予定です。
まずは椅子の半分くらいの高さの箱を用意して、柔らかめの薄いマットを敷いた上に倒れるように受け身をとってもらいます。後頭部を打たないようにあごを引いて背中がつくと同時に両手で強くマットを叩いてダメージを分散できるように。このくらいならストレスもなく大丈夫でしょう。
それでは長谷川さんからですね。後ろへ倒れる恐怖心はないようですが背中と腕のタイミングがちょっとずれてますね。走り高跳びの着地をしていたから何とかなりそうとは思うのですが、それとはちょっと違うのでしょうか。でも柔らかいマットがあるうちに回数を重ねて体に染み込ませていきましょう。10回くらい見たあと西田さんと交代します。
西田さんは長谷川さんと比べるとなんかぎこちない感じがしますね。それでも一回やっては修正し一回やっては修正を繰り返しているようです。時間はかかるかもしれないですけど自分で考えているのはいいことですね。西田さんも回数を重ねていけばぎこちなさも解消されるでしょう。
最後に百合奈ちゃんですがちょっときになることがあります。後ろに倒れる場所が気になるのか、アゴを引くのが甘くなるようです。新体操の経験から着地点を知りたいとかあるんですかね?というか、そもそも新体操にバク転とかってありましたっけ?リボンとかボールとか使うのはよく見ますけど。それはともかく、そういうのがクセになってるとしたら早々に直さないといけませんね。ひとつ間違えると頭を打ったり事故に繋がりますから。
そんなことを気にしながら時には注意したりアドバイスをしたりと何周か繰り返したらちょっとレベルを上げましょう。
箱をどかしてその場所にお相撲のそんきょのように座り、その体勢から後ろに倒れると同時に足を前に伸ばしながら受け身を取っていきます。倒れるというよりもジャンプするようにしたらいいかもしれませんね。ここで注意することはお尻を先につけないことです。お尻から着地すると、その勢いで後頭部を撃ちやすくなるんですよ。ですので必ず背中と両腕が同時にマットにつくように心がけてやっていきましょう。
マット運動と後ろ受け身の練習が終わったらレスリングのタックルの練習をします。まずは足を肩幅よりやや広く開き、片方の足を一歩前に出します。前の足の方に重心をかけ、脇をしめ両手を前に出します。そこから姿勢を低くして相手の懐に飛び込み片足や両足を抱えると同時に前に進んでいきますが、私にはこれをきちんと教えることができないので立野さんと交代します。立野さんは私を相手にして見本を見せ、具体的なポイントを説明してから3人にやってもらいます。その時の相手は当然のように私です。
3人は大体の動きはできているようですが、立野さんからしてみると足の位置、姿勢の高さ、タックルした時に相手のどこを捕まえるなどなど細かいところが気になるようで、その場で丁寧に教えてあげています。そしてそれができると「そう!それ!できてるよ!」とか「ナイスタックル!いいねぇ」なんて声をかけたりしています。褒められた3人はどんどん調子よくなっているように感じますね。誰かに何かを教えるにあたって大切なことってこういうことなのかなーっと私も教わった気がします。
それが終わるとタックルの掛け合いをします。自分から技を出したり相手の技を受けたり、先ほど学んだことを確認しつつ自分の体に染み込ませていくように何度も何度も繰り返していきます。本当に地味なことですが大切なことなので、私も3人の相手をしながらしっかり身に付けられるようにしていきます。
そんな日を過ごしながらも季節は巡り、夕方の風が練習後の火照った体に気持ちいい時期になりました。
昼間はまだ暑く日差しも強いのですが、ジメッとすることも少なくなってきた今日この頃、立野さんからロープの差し入れがありました。差し入れってお菓子や飲み物を同じ職場や関係者にささやかな贈り物とばかり思っていたのでなぜロープなんでしょう?
何でも立野さんが初代タッグチャンピオンになったことで元の所属先の方々からもっと頑張って欲しいという意味を込めていただいたそうです。道場には引っ張ったり上下に揺らしたりするロープがありますのでこっちのは天井からぶら下げて使うそうです。
業者さんの作業が終わったところで立野さんがこんな感じ?とお手本を見せてくれたんですけど、何ですかそれ!腕の力だけでスイスイと登っていくではありませんか!あっという間に天井まで行って腕の力だけでゆっくりと降りてきます。ロープを足に挟んでスルスルーっていうのじゃないんですね。
「まあこんな感じかな?晴子もやってみる?最初は上まで行かなくてもいいからできる範囲でね」
私ですか?まあやってみますけど立野さんみたいにできませんよ?足をロープに絡めずに床と水平になるように伸ばしてと。腕だけで...うわっ、これ見てたよりかなりキツイじゃないですか!
「そう、そのままゆっくりでいいから、焦らずにね」
と言われましてもすでに身体中がプルプルしてますよ。腕だけじゃなくて背中の筋肉も使ってるみたいです。何より握力と腹筋にきますね。特に腹筋なんて普通の腹筋のトレーニングより効いているかもしれません。2〜3メートルくらいしか登れませんでしたが落っこちる前に自分から降りましょう。もう握る力がありません。
「どう?思ったよりハードでしょ、見た感じは簡単なようだけどこれをすることで広背筋や上腕二頭筋なんかも鍛えられるしバランス感覚やインナーマッスルなんかにも効果があるわよ」
確かにちょっと登っただけで上半身の筋肉全体を使ったなーって思えますもん。それに腕立て伏せとかバーベルを使ったトレーニングでは鍛えられないところも鍛えられてるみたいですね。
「あら、懐かしいですね。私も登ってみてもよろしいでしょうか」
山田さんがやってきて興味深そうにロープを掴むと立野さんと同じくらいのスピードでするするーっと登り同じようにゆっくり降りてきました。
「久しぶりでしたのであまり上手くできませんでしたけどいいですね。このロープはいつでも使えるのですか?できればしばらく使わせていただきたいですね」
入団する前に使ったことあったんですね。
「柔道では道着を掴むので相手に振り払われないように握力やトータルで鍛えられるロープ登りはずっとおこなってましたのよ」
どうりでいとも簡単に登れるわけですね。レスリングでも柔道でも使われているトレーニングでしたら効果はありそうです。私も上まで登れるようになりたいです。
その後堀田さんがやってきて、工藤さんにロープを支えてもらうと芸術的な外国のサーカス団のようにぐるぐる回って立野さんや上田さんに怒られたのはお約束すぎて呆れてしまいました。
次話は3月25日を予定しています




