プロローグ
勉強机のライトのスイッチに手を伸ばす。カチリという音と共に白く照らされていたノートが暗くなった。先程まで開いたノートをカバンに押し込み、タンスからタオルなどを取ってノートの上に押し込んだ。
新学期が始まって一ヶ月も経たないのに中間テストの話が出て、憂鬱で仕方がない。国語、数学、理科、社会、英語――俺の中学は頭が悪いから、中間テストは一日で終わらせる。内容が重たいからその日のカバンも重たくなり、身体も気分も沈む。
寝る前にトイレに行こうと、俺は自分の部屋を出た。冷たい床を歩いていくと、書斎の扉から少し光が漏れていた。書斎といっても大した部屋ではなく、親父の趣味で溢れた本から俺の小学校の教科書、家族のアルバムなど様々なものが置かれた物置といってもいいような部屋だ。
親父は時々この部屋に入り、何時間も出てこない時がある。何をしているか見てこいとお袋に言われて見に行くと、昔に買った本を読み返していたり、またある時にはアルバムに写真を足していたり、その時によって様々だ。
今日は何をしているのかと覗いてみると、親父はどこか見覚えのある本を開いていた。俺が目を細めて見ていると、親父は俺に気づいて手招きした。
「そんなところに突っ立ってないで、入ってこい」
この部屋に寄るつもりじゃなかったが、渋々親父に言われるがまま従った。親父に近づくとその手元にあったのは、俺が小学校の時使っていた社会の資料集だった。俺は五科目の中でも社会が最も苦手だ。歴史だなんてそんな過去のこと知ったことじゃないし、政治なんてチンプンカンプンだ。社会の中でも地理は辛うじて何を言っているかがわかる。
何をしているのだと眉をしかめると、親父は「これか?」と資料集を持った手を持ち上げた。
「いやな、もうあと数時間で平成が終わるじゃないか。それで平成に起こったことを振り返りたいなと思ったけど、さすがに今の教科書にはあまり平成のことは書かれていないんだな」
そりゃそうだ。二、三年前に起こった事件までテストに出されちゃ、俺の頭が持たない。人類誕生から近現代まで昔と変わらない量を覚えさせられているのに、どうして昭和、平成のことまで覚えなくちゃならないんだ。俺が怒りを腹の中で沸々とさせていると、親父がとんでもないことを言い出した。
「お前、少し時間あるか?」
「時間?」
「平成に何があったのか話してやるよ」
親父は昔から何かを語るのが好きだった。俺が小さい頃は昔話をやけに熱を込めて話していたし、小学生の頃は自身の武勇伝を語っていた。今までの経験からすると、今回のこれは少しでは済まない。しかも歴史という俺が苦手とする分野だ。逃げろと俺の本能がささやいたので、俺は親父から目を逸らした。
「部活があるから、早く起きなきゃだし……」
すると、横から本を閉じる音が聞こえた。諦めてくれたかと視線を戻すと、親父は資料集を振りながら言った。
「H三十一」
パラパラと音を立てる先で、親父が微かに笑っている。何なんだ、面倒臭い。こんな部屋、覗かなければよかった。怪訝そうな顔をする俺に親父は再び口を開いた。
「このHは何のことだかわかるか?」
「平成だろ」
ため息交じりに仕方なく答える。いつまでこんなことに付き合わなきゃいけないんだ。そんな俺の態度にはお構いなしに親父は続けた。
「ほう、お前はそう思うのか」
「他に何があるんだよ」
「じゃあ、『平成』の名前の由来は知っているか?」
「詳しくは知らねえけど、平和がどうのこうのって感じじゃねえの?」
「ああ、そうだ。平和を願って名付けられたものだ。だが」
親父は急に真剣な顔になり、俺の体に緊張が走った。いつもそうだ。親父の話を聞く気がなくても、真剣な顔をされると急に親父の話に引き寄せられる。これはパブロフの犬のようなものだろうか。俺はいつの間にか親父の話の続きが気になり、親父の顔をじっと見ていた。親父は一つ間を置いて、声のトーンを低くして言った。
「願いってものは、願われるほど叶わなくなる」
「どういうことだよ?」
「Hの裏に築き上げられたものは発狂、悲鳴、不安、変災、崩壊……、三十一のHなんだ」
カタンと本が棚に入れられる音が響く。その脇に張られたカレンダーの一番下には赤い文字で「退位の日」と書かれている。見慣れなかったその文字は、この三十日で違和感がなくなっていた。
平成最後の日――平成最後の親父の長話が始まった。