平岡家
最寄りのバス停から徒歩五分、平岡孟は「メゾン小暮」と書かれた二階建てのアパートに向かう。半年ほど前に越してきた平岡家はここでは新参者と言えるが、このアパートには新婚家庭や若い夫婦が多く、平岡夫妻は年齢的には長老の部類に入る。平岡は鉄板を並べたような階段をカンカンという音を立てながら昇り切ると、長旅を終えてきた者のように自宅のドアを開いた。
「ただいま」
役員会を終え、多くの課題を背負って帰ってきた平岡は率直に言って憔悴し切っていた。しかし、娘の手前、教会帰りに落胆している姿を見せるのは教育上良くないと思い、平岡は疲弊感を出さないよう努めていた。そこに妻の紗栄子が出迎えて言った。
「お帰りなさい。すぐにご飯にする? あ、私と真菜は食べちゃったけど」
「もちろん構わないよ。僕もすぐにご飯にしよう」
そして平岡が居間に入ると、娘の真菜がソファに座ってテレビを見ていた。真菜は中学二年生だった。
「なあ真菜、今日も教会行かなかったんだってな。何か行きたくない理由でもあるのか」
すると真菜は父親の方を振り向きもせずに言った。
「……別に」
「じゃあ、毎週日曜日はちゃんと教会へ行くんだ。その方が元気も出ていいぞ」
「もう、うるさいな……」
真菜はそう言ってテレビを消し、部屋に引っ込んでしまった。その娘の姿を呆気に取られながら見た後、誰にともなく呟いた。
「引っ越す前は教会に行くのをあんなに楽しみにしていたのにな。今の教会は合わないのかな」
「あなた、真菜はそういう年頃なのよ。暖かく見守りましょうよ」
「そういうものなのかな」
真菜は小さい頃から両親に連れられて教会へ通い、また毎週日曜日行くのを楽しみにしていたものだった。昨年の引越しで今の桜ヶ丘キリスト教会に通うようになった。前の教会と違い、真菜と同じ年頃の子供は少なかったが、「学校の友達を教会に誘うわ」と健気に通い続けたものだった。それが最近になってパッタリと行かなくなってしまった。
「そういう年頃……か」
当時は中二病などという言葉はなかったが、平岡自身も中学二年生の頃を振り返るとイキがったり突っ張ったりしていたことを思い出して恥ずかしくなる。
(……いや、今でも何かと人とぶつかってしまう性格はあの頃と変わっていない。今日の役員会なんかそうだ。それでたいそうな土産を持ち帰る羽目になった。企画を立てるなんて大きな口叩いたけど、一体何をすればいいんだ?)
食卓についた平岡はそれとなく紗栄子に話してみた。
「今日の役員会で、何か教会を盛り立てるような企画を立てることにしたんだけど……何かいい案ないかな」
「盛り立てるって……そんなにあの教会、『盛り下がってる』の?」
平岡は牧師給減給が役員会で論議されていることは伏せながら話していた。
「そうだねえ、何か言いようのない閉塞感があるね。それに福原先生を支持する人しない人、また岩波派の人たちとの間はいつもギスギスしている感じだ」
「岩波派ねえ……釧路沖地震支援チャリティーコンサート以来、少し険悪なムードよね」
釧路沖地震支援チャリティーコンサートというのは、教会とは関係ない団体が企画したものであるが、岩波派メンバーのうち数名が参加していた。
ところがそのコンサートの開催日には教会では特別伝道集会が予定されていた。教会メンバーとしては特別伝道集会に取り組まなければならないのだが、岩波派のメンバーが事もあろうに釧路沖地震支援チャリティーコンサートへの招待状を教会メンバー全員に配布したのである。
それで岩波派に属さない教会メンバーは激怒し、岩波派を非難した。一方岩波派の方は「特別伝道集会か、コンサートか、どちらか好きな方を選ぶのは個人の自由」と反論し、両者は対立。結局のところ、岩波派は全員特別伝道集会には出席せず、コンサートの方へ出向いた。その他の教会メンバーはコンサートには行かず、特別伝道集会に出席した。それをきっかけに岩波派と他の教会メンバーとの間に確執が生まれ、時間と共に沈静化はしているものの、両者の関係性は今もなお良好とはいえない。
「もう今では釧路沖地震支援チャリティーコンサートの名前自体触れてはいけない、みたいな空気があるな。何かそんな風に臭い物に蓋をしているから問題が解決しない気もするんだけどね」
「一層のこと、岩波派の方に意見を求めてみたらどうかしら?」
「はあ? 冗談を言っているのかい?」
「本気よ。釧路沖地震支援チャリティーコンサートなんて企画に携わったくらいだから、イベントに関しては色々なノウハウを持ってらっしゃるんではないかしら……」
「確かにそれは一理あるな」
平岡は妻の意見に頷きながら、岩波派筆頭であり釧路沖地震支援チャリティーコンサートに最も積極的に関与していた榊原敏朗に接触してみようと心に決めた。
その時、真菜の部屋から「ほら、思ったとおりにかなえられてく」という歌が聞こえてきた。娘が最近好きなドリームズ・カム・トゥルーというグループの歌。平岡は何かその歌に励まされ、後押しされているような気持ちになった。