胸倉
謹慎が解けて、小崎忠司は久々に聖僕学園の校門をくぐった。クラスメートたちの態度がどこかよそよそしく、居場所のなさを感じた忠司は校舎の屋上へ上がった。そしてしばらく景色を眺めていると、誰かが階段を上がってきた。振り向くと、隣のクラスの粂沢章介だった。先日忠司が殴った、イジメっ子三人組の一人だ。
「よぉ、小崎。久し振りだな」
「……何しに来たんだよ」
「お前さ、結局退学免れたんだってな。ラッキーだったよな。折角俺たちがわざとケンカに負けてお前が退学になるように仕向けたってのによ。勘違いするなよ、そうでもなければお前になんか負るワケねえからな」
「……言ってろ」
そう吐き捨てるように言って忠司が再び景色を眺め始めると、粂沢がいきなり胸倉を掴んできた。
「……何すんだよ!」
忠司が叫ぶと、粂沢は掴んでいた手を離し、鼻を鳴らしながら言った。
「何だ、十字架のネックレスとかしてるのかと思ったよ」
「はあ?」
「お前さ、クリスチャンになったら卒業させてやるって学園長直々に言われたそうじゃないか。とっくにそういう手続き取ってるのかと思ったぜ」
「洗礼のことか? 何だかそんなに簡単じゃないんだよ。イエス・キリストを救い主として個人的に受け入れ、それが役員会で認められなけらばいけないって……これ、何言ってるかわかるか?」
「わかんねえな、さっぱり」
「だろ。俺の頭じゃ、到底理解出来ない世界なんだ。ついて行ける自信ないんだよ」
「そんなの取り敢えず口先だけで『信じました』って言っておけばいいんじゃねぇのか。本当にそう思っているかどうかなんて、誰にもわからないぜ」
「しかしなぁ、教会の中原ってオッサン、やけに馬鹿正直そうで、何て言うかごまかし効かなそうなんだよな……」
忠司は中原篤義の顔を思い出した。真っ直ぐで混じり気のない純真な目。高校生の忠司よりもよほど少年らしいとも言えた。そういう相手に嘘をつくのは心が痛む。しかしそんな中原にも時と場合によって自分を使い分ける建前社会の住人らしさを感じていた。
放課後、忠司は帰宅途中、駅で一人の女子高生が長い髪をしたいかにも軽薄そうな大学生風の男に絡まれているのを目撃した。
「ねぇ、彼女ぉ。一緒にお茶しようよぉ」
「だから、さっきから断っているじゃないですか。いい加減あっち行って下さい」
「怒っているところも可愛いなあ。ねえ、いいじゃない」
忠司はその様子を見て思った。
(ナンパか。それにしても随分しつこいなぁ。彼女、凄ぇ嫌がってるのに。助けた方がいいかな。でも、ケンカになったらまた俺の立場ヤバくなるしな……)
そうして忠司が躊躇していると、男はますます図に乗って女子高生の肩や髪を触り出したので、忠司は男に近づいて言った。
「あの……その人、僕の彼女なんですけど、離してもらえないでしょうか?」
忠司の咄嗟についた嘘を相手が信じてくれるか疑わしかったが、男は驚いて一歩下がって言った。
「あ、ごめん、ごめーん。なんだァ、彼氏いたならそう言ってくれれば良かったのに。それじゃあね」
男はそう言い残して逃げるように去って行った。
(やけにアッサリ引き下がったな。でもケンカにならずに済んだ。助かった……)
忠司がそう思って胸を撫で下ろしていると、
「助かりました、ありがとうございます!」
と女子高生が礼を言った。
「いや、別に俺は……」
「私、桜ヶ丘高校の深崎恭子といいます。何かお礼をさせていただきたいんですけど……」
「いいよ、お礼なんてそんな……」
忠司がたじろいでいると、そこに深崎恭子の友人と思しき女子高生がやって来た。
「恭子ぉー、遅くなってごめーん。あれ、その人は?」
「待っている間、変な男の人に絡まれちゃったんだけど、この人が助けてくれたの」
「へええ。あ、私、彼女の友達の矢口結衣です」
「……小崎忠司です」
なぜ俺がここで見知らぬ女子高生たちに自己紹介する羽目になっているのだろうと疑問に思いつつ会釈していると、突然矢口結衣の方が忠司を指差して叫んだ。
「あー、あなた!」
「え?」
「あなたこの間、教会にいたでしょう?」
「え、まあ……いたけど」
「私もあの日、教会にいたのよ。何だか眼鏡かけた女の人が高校生の男の子引き連れていて何だろうな、と思ってたの」
「ああ、あの人は偶然教会の前で会っただけなんだけどね。何か色々案内してくれたりして……」
二人の会話を聞いていた恭子が目を輝かせながら提案して言った。
「何だか面白そうな話ね。ねえ、小崎君も一緒に私たちとお茶しない? そこでお話ししようよ」
「え、まあ時間はあるけど」
「じゃ、いいわね。行きましょう!」
恭子は先ほどのナンパ男顔まけの強引さで誘い、忠司も彼女たちのカフェタイムに付き合うことになった。喫茶店で一通り注文が済むと、恭子は結衣を差し置いて言った。
「結衣はね、好きになれる歌を探しに教会に行ったのよ」
「好きになれる歌?」
「そう。私たち、中学の合唱部で友達になったんだけど、結衣は本当に歌が大好きだったの。それで彼女は音高に入って本格的に歌の勉強を始めたんだけど、歌が好きかどうかわからなくなったの」
「なるほどな。どの分野でもありそうな話だ」
「それで『天使にラブソングを』って映画見て感動して、あのような歌を歌いたいって思って教会に行ったのよ……って結衣、私ばっかり喋ってるけど、それで合ってる?」
「うん、大体……」
結衣は恭子の饒舌に苦笑した。そんな彼女に忠司が訊ねた。
「それで、結衣……さんは、教会で好きな歌を見つけることは出来たの?」
「結衣でいいわ。うーん、はっきり言えば、歌はひどいものだった」
「そりゃ、歌に関しては素人ばかりが歌ってるんだから、あんなもんじゃないの?」
「上手い下手の問題じゃないのよ。歌ってさ、ほら、ルンルンという気持ちの時につい口ずさんだり、逆に辛くて仕方がない時にシャウトしたり、そういうものじゃない? なのにあそこで歌われていたのは……何だか魂がホルマリン漬けされるような、そんな感じ」
「つまり生き生きしていないということか」
「ええ。それにあのピアノ伴奏も何かやる気ないって言うか……」
「中原さんのピアノか。俺はちょっと面白いって思ったけどな」
忠司が中原のピアノを聴いた時、この人何かやりたいことがあるんだ、と思った。同時に忠司自身がバンドをやっていた時のことも思い出した。
忠司が参加していたバンドはJPOP系のロックで、ボーカル主体のスタイルだった。往年のハードロックやヘヴィメタルのように弾きまくるのはご法度で、若干早弾きソロがあったとしても、曲全体にセンス良く収まっていなければならない。そう、何よりセンス、ファッショナブルであること……それが忠司には窮屈で、しばしばケンカのもととなった。
(何かしらあの人のピアノには俺と同じ匂いがした。たしかに結衣の言うようにやる気は失せていたけど、本当はピアノが好きなんだろうな……)
「じゃ、結衣はもう教会へ行くのはやめるの?」
恭子が訊くと、結衣は首を振って答えた。
「ううん、たまたま開いた聖書に書かれてあった『新しい歌』というのが気になるの。だからしばらく行ってみる。忠司も行くわよね?」
「え? ああ……」
いきなり結衣から呼び捨てにされ、半ば気圧される形で忠司は次回も教会に行く口約束をした。