活動
五輪紫穂は自宅に戻り、しばらく休んだ後洗面所の鏡の前に立った。眼鏡を取りコンタクトレンズをつけ、頭にはカツラを被った。長い時間をかけて入念にメイクした後、鏡の中の自分に向かって言い聞かせた。
「あなたは星林檎。あなたはジャズドラマー……」
星林檎と言うステージネームは小学生の頃のニックネーム「ほしりんご」に由来する。苗字の五輪を「ごりん」と読み替え、並べ替えると「ほしりんご」となることからこのニックネームがついた。
中学に上がって吹奏楽部に入部した時、このニックネームを聞いた先輩が、
「ほし・りんご? あはは、リンゴ・スターじゃん! あんた、絶対ドラムやるべきだよ!」
そう言って有無を言わさず紫穂はドラムを担当させられた。
紫穂は困ったことになったと思った。母親はフルートかクラリネットをさせるつもりで紫穂を吹奏楽部に入部させたのだった。まさかドラムをやることになったなんて母親には言えない。そこで母親にはフルートをやることになったと嘘をつき、ドラムを始めていった。
そうして始めたドラムだが、紫穂はドラムが大好きになり、毎日部活が楽しくて仕方なかった。めきめき上達し、あっと言う間に先輩たちを追い抜いて行った。そのようにイキイキとしている娘の姿を見た母親がある時、
「紫穂ちゃんのフルート、今度聞かせてちょうだい」
と言った。紫穂はさーっと顔が青ざめた。実はフルートを吹いたことなんかない。どうしようか。考え抜いた結果、学校から倉庫に眠っているフルートを借りて先輩に教わりながら必死で練習することにした。部活の時間には出来ないので、休み時間や時間の空いた時に自主的に猛練習した。急に長時間吹き始めたので、過呼吸で気分が悪くなり倒れそうにもなった。
それでも何とか曲らしきものが吹けるようになり、父親の誕生日に紫穂はフルート演奏を披露した。それに感激した父親は二十万円のフルートを紫穂にプレゼントした。このことで紫穂はフルートをやめるわけにはいかなくなった。
それで紫穂は部活でドラムをしながら独学でフルートも続けた。おかげで青春時代は音楽と勉強だけでほぼ予定が詰まってしまった。だから大学では音楽以外のことに打ち込みたいと思っていたのだが……親の監視がない分、以前にも増してドラムにのめり込むことになってしまった。特にゴンサロこと曽我昌弘と組むようになってからは、あっちこっちから引っ張り凧のライブ三昧である。
†
身も心も準備の整った紫穂はバスウッドの扉を開けた。開店前は舞台演出用のスモークの匂いがこもっている。本番時にはそれがすっかりなくなっているから不思議だ。
「おはようございます……」
「おおリンゴ、ちゃんと変身出来たようだな」
「当たり前よ。ところでアレって……」
「ああ、『列車で行く』ぞ」
『列車で行く』とは彼らの隠語でAメジャーのキーで演奏することを意味する。デューク・エリントンの名曲「A列車で行こう」のタイトルにかけたものだが、アドリブで即興をやる時に曽我はよくこう言ったのだ。
「しかしリンゴはドラムだから、キーは関係ないんじゃないのか?」
「とんでもない。ドラムだってピッチやコードで変えてるわよ」
「ああそうだったな、失礼」
紫穂はドラムの前に座ると、一つ一つの皮の張り具合をチェックする。そして細かい調整についてボーヤに指示した後、控え室に入った。
†
本番の時間がやって来て、紫穂たちはステージに上がった。それぞれがおもむろに楽器の調子を確かめる中、紫穂は客席を見てギョッとした。教会の中原篤義がそこにいたのだ。
(ど、どうして中原さんがこんなところに?)
確かに昔ジャズをやっていたと聞いてはいたが、今はやめているとも言っていた。もしかして見張りに来たのかも……と紫穂は疑ったが、そんな筈はない。まあ教会では銀縁メガネをかけているし、カツラとメイクで何とか変装しているからすぐにはわからないだろうとも思った。取り敢えず紫穂は中原と目を合わさないよう注意を払った。
そしていよいよ本番。初っ端は曽我の即興ピアノソロである。目まぐるしく弾きまくる、早弾きのマシンガンプレイだった。
(うわ、ほとんどまんま『シルクイト』だわ……)
──「シルクイト」とは、キューバ出身のピアニスト、ゴンサロ・ルバルカバのナンバーで、強烈なピアノソロの早弾きからスタートする。ちなみに曽我のゴンサロという渾名はこのゴンサロ・ルバルカバに由来する。紫穂が出会った頃の曽我はゴンサロ・ルバルカバのコピーに夢中になっていて、そればかり弾いていたので、紫穂はいつしか曽我のことをゴンサロと呼ぶようになったのである。
ところで、中原篤義がジャズ研を引退したのはゴンサロ・ルバルカバが初来日を果たす以前のことであり、その後のジャズ事情については一切知らない。だから曽我のピアノを聴いてもゴンサロ・ルバルカバの影響があることはわからず、バド・パウエル辺りの影響かと思ったのである──
(うわ……中原さん、苦い顔してる。こういうの、好きじゃないんだろうな)
事実、中原は演奏が気に入らなかった。それは演奏している紫穂にも伝わってきた。紫穂は何だか悔しい気持ちになった。中原の鼻を明かしてやりたい気持ちになり、演奏も力みがちになった。悪循環だ。
そしていよいよ『アレ』をやる時が来た。『アレ』とは……ベートーヴェン悲愴ソナタ第二楽章である。紫穂がピアノを習っていた頃、この曲が苦手でよく先生に叱られた。そのためこの曲にはあまり良い思い出がない。
そのことをメンバーに話した時、「じゃあそれ、俺たちでやってみようぜ」とエンドこと猿渡が言い出してライブでやったのだ。ところがそれが意外にも好評で、度々ライブで演奏した。しかし紫穂は好きでなかったので、これをやる時は必ず紫穂の承諾を得るよう曽我は気遣っていた。
(よりによって中原さんの前でこれをやらなけらばならないとは……よし、思い切って色気出してやれ)
そう思って紫穂は『色気タップリ』にブラシを操作した。演奏中、あのピアノレッスンを思い出した。
「メロディーと伴奏の音をちゃんと弾き分けなさい! もう何回も言ってるわよね、何で出来ないの!」
悔しくて、悲しくて、涙がポロポロ出た。レッスンの後、家には帰らず川辺で一人泣き続けた。すると川のせせらぎと風に揺れる木の葉のサラサラという音が紫穂を慰めてくれた。紫穂は泣くのをやめ、川の水で顔を洗って家へ向かった……。
紫穂がそのようにノスタルジーに耽っていると、中原が自分の方を見ていることに気がついてハッとなった。先ほどの死んだ魚のような目とは違い、食い入るような目つきだ。
「やばい、私が五輪紫穂だってことがバレたかも?」