紫穂
「あなたは五輪紫穂、あなたはクリスチャン……」
紫穂は鏡に映る自分の顔に向かってそう言い聞かせた。これは毎週日曜日、教会に出かける前のお決まりの儀式である。
このように鏡に向かって語りかけながら、紫穂は今日一日、いや、せめて教会を出るまでクリスチャンとしてどう振る舞うか頭の中でシミュレーションするのである。起こり得るあらゆる場面を想定して、その都度どう対処すべきかイメージトレーニングする。そうしないと教会のような聖所には入れない、と紫穂は思い込んでいた。
紫穂の母親はクリスチャンで、紫穂が小学生の頃に洗礼を受けて以来、母親は「クリスチャンのお作法」ともいうべきものを紫穂に徹底的に仕込んだ。教会で紫穂がちょっとでもおてんばしようものなら、母親は厳しく叱った。
それで幼い頃から紫穂は教会の中や母親の前では、細心の注意を払って母親から伝授された「クリスチャン道」を守った。しかしその反動で、母親の目の届かないところでは好き勝手に振舞っていた。もちろんあまりにも素行が悪ければ母親の耳に届いてしまうので、そうならないギリギリの線は保っていた。
サンデークリスチャンという言葉がある。平日は世俗的なライフスタイルに浸かりながら、日曜日になると発言も行動もすっかり教会風の敬虔な信者に成り替わるような人をさす。紫穂はまさに自分がそれだと自覚していた。大学に入り、親元を離れて一人暮らしになっても、日曜日に敬虔な信者に変身する習慣だけは続いていた。
†
教会の近くにやってくると、一人の少年が教会の前をウロウロしていた。
(高校生かしら? どうやら教会に入ってみたいけど、躊躇しているようね)
このように教会の入口で入ろうかどうしようか迷っている新来者に遭遇することも、紫穂はちゃんと想定していた。そしてシミュレーション通りに事を運んで行った。
紫穂は少年の近くに歩み寄って話しかける。
「あら、初めての方かしら。高校生?」
「はい、そうですが……」
少年はまるで交通違反で警察に捕まった時のように「しまった、捕まった」と言わんばかりの顔を紫穂に向けて言った。まあ、こんな反応も想定内よ、と紫穂は思う。
「よく来て下さいました。入口はこちらですから、さあ、中へどうぞ」
「え? いや、あの……」
まだ躊躇するか? ここはひとつ押しの一手だ。紫穂は拳を握りしめる。
「遠慮は要りませんよ、どうぞどうぞ」
「は、はい……」
二人が教会に入ると、受付係が新来会者名簿を差し出した。人によっては個人情報を書き出すことに抵抗を示すこともあるが、少年は躊躇することなく記帳した。
紫穂はあらためて少年を見た。少しワルっぽいけど、なかなかかわいい顔立ちだ。ちょっと好みかも……と思いかけて紫穂は首を横に振った。いかんいかん。と、その時、中高生担当の中原篤義が通りかかったので、浮き足立った心を誤魔化すように声をかけた。
「中原さん、高校生の新来者が来ているわ。フォローよろしくね」
「うん、わかった」
中原はそう言うと、紫穂の方を向くこともなく、そそくさと行ってしまった。ああそうだ、今日は中原さん奏楽の日だったっけ。後でまた話しておこう……と紫穂は思った。
新来者を放っておくのは忍びないと紫穂は思ったが、クリスチャンたるもの家族以外の男女は隣同士座るべからず、というのが母親の教えであった。それで小崎忠司と名乗ったあの少年を一人で座らせ、紫穂は離れた席に座った。
礼拝が始まり、中原のピアノ奏楽が始まると、紫穂はクスッと笑いそうになった。ジャズ研出身という中原は本当はもっとアドリブを入れて自由に弾きたい筈。それが石平に言われてしぶしぶ真面目に弾いている。厳しい教育ママにガミガミ言われて仕方なくお利口さんにしているヤンチャ坊主みたい……。
そんなことを考えていると、マナーモードにしてあった紫穂のポケットベルが突然震えた。画面を見ると、
49 874− 536
という数字の羅列。「シキュウ ハナシタイ ゴンサロ」と読む。
(ちょっとぉ、勘弁してよ、こんな時に!)
実は、紫穂は親にも教会にも内緒で、とある活動をしていた。ゴンサロというのはその活動のリーダーであった。そのゴンサロから呼び出しがかかったのである。
とはいえ、小崎少年のことがある。礼拝が終わって彼を中原に引き合わせるまでは居なくてはならない。そこで紫穂は一旦礼拝堂を出て、教会事務所の電話を拝借してメッセージを返信した。
1[] 50=41 []10
こんな暗号みたいなメッセージが通じるかなと思っていると、間も無く返信が来た。
|[0_0]| / 889
(何だこれは? ええと、カセットテープかな? それともカセットデッキかしら? デッキ、レバー、ハヤク……デキレバハヤク! わかりにくーい!)
ともかく急ごう。そう思った紫穂は礼拝が終わるや否や、小崎少年を連れ出して中原に引き合わせた。
「中原さん、こちらがさっき言ってた新来者の小崎忠司君よ」
「ああ、小崎君、ようこそ。僕は中高生担当の中原篤義です。よろしく」
「どうも……」
中原と小崎は通り一遍の挨拶を交わす。紫穂は引き合わせた手前、二人がそれなりに意思を疎通し合えるまでは見届けなければならないと思った。無論それも母親の教条によるものだ。しかし……。
「バンドではどんな音楽を?」
「X-JapanとかBOØWYやったりしてましたけど、本当に自分が好きなのはゲイリー・ムーアやランディ・ローズでした」
「へええ、80年代ハードロックか。若いのに渋い趣味だね」
「そうですかね」
中原が音楽の話を始めたのを見て紫穂はまずいと思った。中原はジャンル問わず音楽を語り始めると止まらないのだ。
(ああもう、急いでるのにィ!)
次第に紫穂は苛立ち始めた。するとそんな紫穂の気配を感じたのか、中原が話題を変えた。そして教会に来た経緯などを質問し始めたので、もう任せて大丈夫かなと思い、紫穂はいとまを告げることにした。
†
紫穂が待ち合わせ場所の喫茶店に着いた時、活動メンバーのゴンサロとエンドは待ちくたびれてあまり食べないケーキまで注文した。
「ごめん、待った?」
「やっと来たか、遅えぞ!」
ゴンサロは怒鳴ったが本気で怒ってはいないことはわかった。
「それで、話って何よ?」
「ああ……今晩のことだけどな。『アレ』をやろうと思う」
「『アレ』? やめようよォ」
あからさまにため息をついて言う紫穂にゴンサロは宥めるように言った。
「どうしてだ? お前の良さが一番出てるのは『アレ』じゃないか。やればお前の株も上がるぜ」
「どうでもいいけどね。まあゴンサロがやりたいなら好きにすればいいわ。私はついて行くだけだから。っていうか、そんなことで私を呼び出したワケ? 電話一本で済む話じゃん」
「まあ、そう言うなって」
「私、一旦帰るわ」
「え、何で? ずっといればいいじゃん」
「私、『変身』しなきゃいけないのよ」
紫穂は千円札をテーブルに置くと、そそくさとその場を離れた。教会モードの五輪紫穂のままで活動仲間と一緒にいたくなかったのだ。