林檎
その日、篤義は家に帰ると、ソファに寝そべって大学生だった頃のことを思い出していた。当時ジャズ研に夢中になってた篤義はある日、テレビでジャズドラマーのアート・ブレイキーの特集番組を見た。その番組の中でアート・ブレイキーはインタビューアーに向かってこう語っていたのだ。
「人は誰しも神から授かった賜物を持っている。私にとってはそれがジャズなのだよ」
篤義にとって、そのコメントは衝撃的だった。天才、すなわち天から賜った才能を意味する言葉があるが、篤義はどんな才能でも努力して勝ち取るものだと思っていた。しかし天才ドラマーのアート・ブレイキーは自分に才能を賜った存在を知っていて、それを意識している。その生き方は篤義がそれまで知っていた競争を勝ち抜く生き方とはまるで違っていた。
もし神がいて、自分に何か賜物を授けるとすればそれは何だろう。会えるものなら直接本人に会って聞いてみたい……そう思って教会の門を叩き、やがて洗礼を受けて大学を中退して神学校に入学した。
しかし前述のように、ポピュラー音楽は教会では蔑視されていた。そこで篤義は洗礼を受ける時にジャズもキッパリとやめた。
(結局、神様が僕に授けて下さったものって何だったのだろうか。もしかしたらジャズかな、とも思っていたけど、逆に神様からジャズを取り上げられたようなものだ……)
そこまで考えて篤義は首を振った。いかんいかん、危うく神を冒涜するところだった。しかしジャズに夢中だったあの頃が懐かしいと篤義は時々思う。
その時、突然電話のベルがけたたましく鳴った。受話器を取ると、それは大学時代の友人である田辺からの電話だった。
「よお中原、久しぶり! これから出てこれないか?」
「出るって、どこへ行くんだ?」
「『バスウッド』だよ。曽我昌弘トリオが来るんだ」
バスウッドとは篤義が大学時代よく通っていたジャズバーだった。生演奏のレベルが高く、ジャズ研のメンバーはこぞって出入りしていた。しかし篤義がジャズ研をやめ、大学を中退してからは疎遠になっていた。
「曽我昌弘? 誰だよ、それ。それに悪いけど、僕はジャズからは足を洗ったんだよ」
「ああ、そうだったな……」
当時、田辺は篤義がジャズをやめると聞いて非常に驚いた。もっとも篤義は教会がそれに関係しているとは言わなかった。
「でもさ、一度聴いてみろよ、曽我昌弘トリオ。お前、絶対好きになるよ。少なくとも聴いて後悔はしないと思うぞ」
田辺に強く勧められて、篤義はバスウッドに行くことにした。捨てた筈のジャズを聴くことに、かすかな罪悪感を覚えはしたが、ジャズを聴きに行くんじゃない、友人に再会するためだ、と自分に言い聞かせた。
店に入ると、田辺は先に来ていてカウンターで何とかという名前のカクテルを飲んでいた。篤義の姿を見ると手を上げて呼び寄せた。
「待たせたな」
「おお、来たな。もうすぐ始まるぞ」
しばらくすると曽我昌弘トリオのメンバーがステージに入り、演奏の準備に入った。曽我昌弘がピアノで、ベースの猿渡太潮とドラムスの星林檎の3人でユニットを組んでいる。
「星林檎って……リンゴ・スターにかけたってわけか。ふざけたステージネームだな」
篤義はそう言いながらもクスッと笑った。実はこういう駄洒落は嫌いではない。その星林檎はトリオの中で紅一点の若い女性で、青白く染めた長い髪に白を基調としたメイクという風貌は冷たい流氷をイメージさせた。
準備が整うと、いきなり演奏に入った。それを聴いた篤義の第一印象は、まず曽我昌弘のピアノは大したことないということだった。
(テクニックはあるし、色々な研究してはいるみたいだな。バド・パウエルあたりの影響を受けているかな。しかしまだ自分の音がない。その自信のなさを派手な音で誤魔化しているように見える)
ベースの猿渡にしても、技術的には篤義より巧かったが、ウォーキングベースのライン作りがいかにもありきたりで平凡だった。特に魅力があるとは言い難い。
田辺は一体このトリオのどこを推しているのだろうか。自信満々に篤義が好きになると言った、その根拠はどこにあるのだろうか。
「なあ田辺、悪いけどこのトリオそんなに良いとは思えないんだけど……」
「まあ、そう言わずに聴いておけよ。ほら、来なすった。次なんか圧巻だぞ」
そうして始まったのは……ベートーヴェンの悲愴ソナタ第二楽章だった。篤義はためいきをついた。クラシック名曲のアレンジが原曲に優っていることなど稀である。大抵は駄作だ。何でここで悲愴かな……と思ったが、聴いている内に不思議に引き込まれてきた。
原曲より半音上げてAメジャーとなっていたが、和声的には原曲と変わらず、特にジャズ的なスパイスを加えてはいない。だが曲全体に躍動感があり、生命感にみなぎっている。何だ、これは?
その魅惑の根源は……星林檎のドラムだ。ドラムの音が巧みに音の情景を作り出している。特にブラシの使い方が見事だ。川のせせらぎのようであり、風に揺れる木の葉のようでもあり、優しく、それでいて大自然の畏敬をも感じさせる。呆気に取られている篤義を横目で見て、田辺はニヤニヤしていた。
「どうやら中原にも星林檎の凄さが分かったようだな」
「凄いなんてものじゃない……! こんなの聴いたことないよ」
複雑なコードを使わなくても、こんなに粋な音楽になるのか……それまで篤義は、テンションノートを駆使して洒落たコードを使わなければつまらないと思っていた。でも、それはただの音遊びだ。問題の核心は他にあるのに、篤義は音遊びを禁じられて子供のようにヘソを曲げていたに過ぎないと気がつかされた思いだった。
──石平さんの指示通りの音だって、きっと素敵な音楽になれる。いや、してみせる。
篤義はそれを早く試したくなって、ウズウズし始めていた。