卒業
忠司は生徒指導の沼田に連れられて学園長室の前までやって来た。沼田が豪勢な彫刻の施された見るからに重そうな扉をノックすると、中から黛の声がした。
「入りなさい」
扉を開けると、奥に黛が深々と腰掛けて二人がやって来るのを待った。そして忠司は黛に近づいて行って、一枚の賞状を差し出した。黛はそれを手に取って読んだ。
「『洗礼証明書、小崎忠司。右の者は桜ヶ丘キリスト教会に於いて、牧師福原智成より洗礼を受けたことを証す』おめでとう。本当に君はよくやった。では……」
そう言って黛は別の賞状を忠司に手渡した。
「これは……」
「そう、約束通りの卒業証書だ。これには君が卒業する筈の日付が既に記入されている。学園印も押されているから、公に有効な証書だよ。大学を受けるなり就職に使うなり、君の好きなように使いなさい」
「ありがとうございます。でも、証書はやはり卒業式に受け取りたいんで、それまで学校で保管して頂けないでしょうか」
「わかった。君が望むならそうしよう。ともかく君の卒業は確定だ、おめでとう」
「あと、教会の岩波先生が学園長によろしくと言っていました」
「ほおそうか、岩波君がね……」
忠司は深々と頭を下げて退室した。沼田は部屋に残り、顔を曇らせて言った。
「学園長、本当にこれでよろしかったんですか?」
「ああ、一人の生徒が厚生したんだぞ。教育者冥利に尽きるというものじゃないか」
「しかし、学園長の身の上が……」
すると黛は手を振って言った。
「ハハハ、君が気にすることはない。どうせ拾い物の立場なのだからね。教育者としてなすべきことを遂げたという思いで私は満足だよ」
高笑いする黛学園長を、沼田は複雑な面持ちでじっと見つめていた。
†
「よぉ〜、聖コサキ様!」
忠司が振り向くとそこには粂沢と仲間たちがいた。
「何か用か」
「お前、卒業確定したんだってな」
「ああ、おかげさまで」
「ふん、おかげさま、か。どうだい? 他人を踏み台にして卒業を勝ち取った気分はよ」
「……どういうことだ?」
忠司は粂沢の胸倉を掴んで詰問したが、粂沢はそれを払いのけて言った。
「何だ、やっぱり知らねえのかよ。ウチのクラスに学園の事情に詳しいヤツがいるんだが、そいつによるとな……」
それを聞いた忠司は愕然とした。
「何てことだ……」
そして粂沢たちを突き放して一目散に駆け出した。
†
忠司は学園長室の前にいた。そして激しく扉を叩いて言った。
「学園長、小崎です! 学園長、いるんですよね? 返事して下さい! 入りますよ!」
そうして忠司は返事を待たずに入室した。ところが部屋の中にいたのは黛学園長とは別の人物であった。
「何事だね、騒がしいではないか」
「三善副校長……どうしてあなたがここに?」
「私はまもなくこの椅子に座ることになるのでな、ちょっと下見に来たのだよ」
「どういうことです?」
「小崎君だね。君には感謝しなければならないな。君のお陰で学園長の地位は私のところに滑り落ちて来るというわけだからな」
「俺の退学免除の代わりに学園長が解雇になると聞きましたが、それは本当だったんですか」
「その通りさ。さらに君のお父さんが学校を訴えてきただろう。退学免除を天秤にかけて洗礼を迫り、信教の自由を侵害したとね。だが、君のお父さんが訴えてくれたおかげで私の知るところとなったのだよ」
「まさか……あんたが黛学園長を陥れたってわけか!」
「おっと、殴るかい? 好きにしたまえ。私が学園長の椅子に座った暁にはそれ相応の対応をさせてもらうがな」
忠司は怒りの拳が飛びそうになるのを必死でこらえた。三善は話を続けた。
「誤解のないよう言っておくが、私は何をしたというわけではない。耳にしたことを然るべき人物に報告し、査問会議にかけてもらったまでだ。あと、君には黛さんが救世主のように見えているかもしれんが、あれは過去にとんでもないことをやらかしていたんだ」
「過去? 牧師をしていたという話は聞きましたが」
「その牧師時代にだな、こともあろうに女性信徒に猥褻な行為を働いたのだよ。それも一人や二人ではない。やがてそれがバレて牧師は廃業せざるを得なくなったというわけさ」
「まさかそのことも査問会議に……」
「ああ、報告させてもらったよ。目の前で教鞭をとっている人物がそんな過去を持っていると知りつつ誰にも教えないのは、むしろ私の罪だからね」
「何てこと……」
「ああ、だが安心したまえ。私は君の退学免除や卒業を取り消すつもりはない。だが君があまり駄々をこねるようなら気が変わらないとも限らん。そうならない内にとっとと退出したまえ」
三善が吐き捨てるように言うと、忠司は何も言わずに踵を返し、部屋から出た。
†
夕食時、目の前で新聞を読みながら箸を動かす父親を見て、忠司は無性に腹が立ってきた。父親さえ学校に訴えなければ黛学園長の解雇はなかったのだ。そんなことも知らずにこうしてここでのうのうと飯を食っている。
「あのさ、父さん」
「ん? なんだ」
父さんのせいで学園長はクビになるんだぞ。いったいどうしてくれるんだ……そう言おうとして忠司は言葉を飲み込んだ。
「いや、何でもない」
「そうか……」
父親は本当に何でもなかったように、再び新聞に視線を戻した。忠司はやりきれない気持ちになり、食事もそこそこに席を立った。
「何か食欲ない……ごちそうさま」
「あら、どこか具合悪いの?」
問いかける母親に返事もせず、忠司は自分の部屋に入った。
†
数日後、岩波は黛の家に呼ばれた。久々にチェスの相手をしてくれということだったが、そういう時の黛は話し相手を欲しがっていることを岩波はよく承知していた。
「昔はこうしてチェスをしながら色々なことを話したものですよね」
「ああ、思えばあの頃は自分のことは棚に上げて偉そうなことを君に講釈していたものだよ。それがあんなことになって……家族にも愛想尽かされ、どこも私のような醜聞牧師など雇う教会もなく路頭に迷うかという時……君は私の世話をして聖僕学園の仕事まで紹介してくれた。ただ口うるさいだけのジジイにな。本当に君への恩は返しようがないほどのものだ」
「何を仰いますか。あなたの教えあってこそ今の私があるのです。この御恩を忘れるようであれば最早私は人非人です」
「実を言うとな、私は罪悪感に苛まれていたのだ。あのような悪事を働いた私がこうしてぬくぬくと暮らしていることにね。だからと言ってまた路頭に迷う勇気もなかった。だから君の好意に甘えざるを得なかった。だが、このままではいけない、何でもいい、何か一つでも善と呼べることを今の立場を生かして行いたいと思った」
「そこに現れたのが……小崎忠司君というわけですね」
「そう。彼を救うことで……結局私の方が救われたのだ」
「黛先生は良い人材を発掘されたと思いますよ。相変わらず人を見る目は確かです……あ、引き分けになりそうですが、続けますか?」
「いや、また始めからしようじゃないか。今度は君が白でやってくれないか」
「はい。では……」
そう言って岩波はキングの前のポーンを2マス進めた。その鼻先に黛が自分のポーンを突き合わせると岩波は僅かにほくそ笑んだ。
(オープンゲームの定跡へのお誘いか……)
こういう時、黛がまだまだ会話を続けたいと思っていることを岩波は長年の付き合いで分かっていた。




