菩提寺
臨時総会とほぼ同じ頃に忠司と結衣の洗礼準備コースがそれぞれ始まっていた。飲み込みの早い結衣に対し、忠司はなかなか理解できずに立ち止まることも多かった。
忠司はwish練習の後、しばしば分からないことをメンバーに質問することがあった。
──なお、五輪紫穂が参加してから練習はアビーロードというスタジオで行うようになっていた。ここは篤義が大学時代によく練習で利用していて、昔のよしみで少し利用料金を負けてもらっていた──
「あの、前からちょっと気になってたんですけど、聖書の中にイエスキリストが神に祈ってるところ、結構出て来ますよね。でも、キリストは神なのにどうして神に祈るんですか? 独り言みたいなもんですかね」
すると紫穂がお堅い調子で答えた。
「それはね、イエス、すなわち子なる神と父なる神はそれぞれ違った人格をお持ちだからよ。だから一方の人格が他方の人格にお祈りするわけ。わかる?」
「つまりイエスと父なる神は別人ってこと?」
「ううん、父、子、聖霊、それぞれ三つの人格を持ちながら、お一人の神なの。これを三位一体っていうのよ」
「おお、わけわかんね!」
それを聞いていた篤義がフォローする。
「小崎君、三位一体の教理はとても難しくてね、この二千年もの間、色んな学者さんが考えて色んな説を出して来たけど、未だにどういうことか説明出来ていないんだ。だから頭で理解するより、そうなんだと受け止めるしかない」
「うーん……」
忠司が唸っていると、結衣が思うところを述べる。
「忠司の疑問だけど……私も三位一体だから、と言われても心にストンと落ちないな。でもキリストは人となって、わざわざ赤ちゃんになって本物の人間になってこの世来たんでしょ。すると、本来人間は神の言葉を必要としているから、そのような人間として生きておられたのではないかしら。キリストが人間である限りは食べ物や水が必要だったように、神の言葉も必要だったのだと思う」
それを聞いて三人はなるほどと感心した。その時、紫穂がふと思いついたように言った。
「ところで小崎君、洗礼を受けることはお家の人は知ってるの?」
「いや、教会に行ったりワーシップやってることは言ったけど、洗礼のことは特に言ってないですよ。何か問題かな」
「お家の宗教は何かしら?」
「うーん、仏教のなんとか宗って聞いたけど……」
「そうしたら、洗礼を受けることをあまり良く思わないかも。ちゃんとご両親と話した方がいいんじゃない?」
「そんなもんかな……」
忠司はそう言われても自分の両親は問題ないのではないかと高を括っていた。だがその考えがいかに甘かったか、まもなく忠司は思い知ることになる。
帰宅した忠司は夕食時に母親に訊いてみた。
「あのさ、うちの宗教って何なの?」
「うちは浄土真宗、勝祥寺の檀家よ。それがどうしたの?」
「うん……実は俺、今度教会で洗礼を受けることになったんだけど、別に問題ないよね」
それを聞いた母親の顔が途端に真っ赤になった。
「洗礼って……ダメに決まってるでしょ!」
母親が突然声を荒げたので忠司はビックリした。
「ええ? だって俺が教会行ってるのは知ってるだろ? 歌の活動していることも。母さんも『あなたは教会に行くようになって素行が良くなった』って言って喜んでたじゃないか」
「それとこれとは別問題。ああ、なんてことかしら……」
すっかりパニックに陥っている母親をポカンと見つめていると、父親が帰って来た。帰ってくるなり母親は父親のところに駆けつけて言った。
「あなた、忠司が教会で洗礼を受けるって……どうしましょ、どうしましょ!」
「まあ、落ち着きなさい。忠司、母さんの言うことは本当か?」
「ああ。っていうか、何をそんなに怒ってるんだよ? 学校だってキリスト教系だし、いまさら何が駄目だって言うんだ?」
「まあ、とにかくこっちへ来るんだ」
父親はそう言って和室の真ん中に忠司を正座させた。その部屋には古い仏壇が設置されていた。
「忠司、ウチは先祖代々浄土真宗の家系で、長男はこの先祖から伝わるお仏壇を引き継がなければならないんだ。しかもお前はひとりっ子だ。お前にはこれを引き継ぐ使命がある」
父親はいつになく厳しかった。はじめはナメた口調で反論していていた忠司も少しずつ逆らえなくなって行った。
「確かにお前はキリスト教の学校や教会に行き、そこで聖書を学んで素行が良くなって来た。そのことには感謝している。だがお前自身があちらの人間になるというのは別だ。檀家の跡取り息子として断じて許されてはならんのだ」
「そうは言っても……実はですね、」
忠司は以前にケンカで退学処分になりそうになったが、洗礼を条件に免除してもらう約束をしたと話した。それを聞いて父親はカンカンに怒った。
「何ということだ! 退学免除をチラつかせて洗礼を迫るとは……信教の自由に反した行為だ。もう私はお前をあの学校へやることは出来ない。転校手続きを取る。それまでお前は外出することも許さん」
「そんな無茶苦茶な……」
忠司は恭子が親の反対でwishをやめさせられたことを思い出した。今度は自分の番か……忠司はどうにかなりますように、と神に祈った。
†
翌日、忠司は学校を休まされた。父親も会社を休んで息子の問題解決に一日を費やすことにした。父親は福原牧師や篤義にも電話し、事情を説明した上、今後息子と関わり合わないで欲しいと釘を刺した。
「忠司、出かけるぞ」
「出かけるって……どこへ」
「我が家の菩提寺である勝祥寺へ行く。そこで住職様にお前を仏の道に相応しく諭して頂くんだ」
どうせ逆らえないと悟った忠司はしぶしぶ父親の後について行った。そして勝祥寺の前までやって来た。忠司は子供の頃、法事で何度かここを訪れたことがある。しかしその頃はここが浄土真宗であるということも知らなかったし、自分が檀家の長を引き継がなければならない立場だということも知らなかった。寺に入ると僧侶が庭先を掃除していた。
「やあ、これはこれは小崎さん。それにこちらが忠司君ですか。しばらく見ないうちに立派になられて……」
「それが立派じゃないことをしでかしたもので、今日は相談に上がったのです」
「まあまあ、取り敢えずお上がり下さい」
二人のやり取りを見ていると、どうやら話は通っているようだと忠司は思った。小崎親子は住職の家の応接間に通された。
「忠司君、私がこの寺の住職の仲村夏生です。子供の頃に会ってるのだが、覚えておいでかな?」
「いえ……」
仲村住職は60過ぎだろうか。忠司が会った時はもっと若かったのだろうが、全く覚えていない。
「ところで、君はキリスト教の洗礼を受けたいということだそうだが、どうしてそう思ったのか理由を聞かせてくれるかね?」
「ぶっちゃけたこと言えば、ケンカして退学って言われてたんですけど、洗礼受けたら免除してもらえると学園長に言われたので希望したんです」
「ほっほっほ。君は正直ですねえ」
「でも、最初はそうだったんですけど……ある時牧師から『あなたは地獄へ行く人間です』と言われてムカつきまして、それなら聖書の言葉の一つくらい守ってやってマトモな人間だと証明してやろうと思ったんです。でも結果的に俺はたった一つの言葉すら守れない人間だと分かったんです。そしてキリストの神様に助けてもらわないといけないって。それで洗礼を受けてキリストの後について行こうと思いました」
仲村住職は忠司の話を瞑想するように聞いていた。そして父親に語りかけた。
「小崎さん、息子さんはいい修行をされているではありませんか。ムキになることはありません。息子さんにとことん思うところまで進ませてあげましょうよ」
「えっ? しかし、忠司は檀家の跡取りでして……」
「昔から『宗論はどちらが負けても釈迦の恥』と申します。浄土真宗がいいだの日蓮宗がだのと言い争ってどちらに勝敗がついても結局はお釈迦様の恥となるのです。それはキリストでも同じこと。ならば良い修練を尊ぶのが御仏に仕える者の在り方というものでありましょう」
「ご住職様がそう仰るのでしたら……」
父親はそう言って、教会に関することは息子の自由にさせることにした。ただし同じするなら中途半端ではなく徹底的にするようにと忠告した。
忠司の父親が洗礼を許し、転校手続きを取りやめたことで学校側としては事なきを得たかのように見えた。しかしこの騒ぎを耳にした副校長の三善は僅かにほくそ笑んだ。
(ほう、あの黛学園長がそんな取引を生徒に持ちかけていたとはねぇ……)




