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俺たちにラブソングを  作者: 東 空塔
20/30

根回し

 恭子がwishを脱退した翌日……。


 とあるビジネスビルの14階にある食堂で教会役員の水野と平岡は同じテーブルについていた。因みにこのビルには水野の職場がテナントとして入居している。水野は難しい顔つきで平岡から手渡された書類に目を通していた。


「水野さん、これでゴスペルには教勢を向上させる効果が期待できると断言できるんじゃないですか?」


 そう言う平岡の顔を水野はチラッと見やったかと思うと、書類の束を放り出すようにテーブルの上に置いた。


「まったく、珍しくお昼でも一緒にどうですか、などと誘うものだから何かと思えば……なるほど、根回しというわけですか。確かに一番反対している私を予め抑えておけば、次の臨時役員会はスムーズに進むでしょうな」

「恐れ入ります。それで書類を見て納得して頂けましたか?」


 水野はフッと苦笑して答えた。


「さすがにここまでされたら文句の言いようがありませんよ。わかりました、臨時役員会では賛成に回りましょう。それにしても呆れますよ。予算案なんて牧師給減給で流しておけばいいものを、こんな苦労までしてね……」

「昨今の不景気でどこの企業もリストラに手をつけていますが、所詮タコが自分の足を食うようなものです。その場をやり過ごすだけの会計が続けば徐々に尻つぼみになって、やがて消滅するでしょう」

「なるほど……肝に銘じておきますよ」


 そう言って水野は残りの食事に再び箸をつけ始めた。



 wishメンバーの三人が矢口家に集まった時、忠司の顔つきが明るくなっているのに篤義は気がついた。


「小崎君、何だか元気そうだね」

「実は昨日、平岡さんの娘さんとその友達に会ったんです。何だか俺たちのストリートライブを観てたみたいで……すごい良かったって言ってました。もし教会でやるんなら行くって……それ聞いて、何だか俺たちやらなくちゃなって気になりました」

「へぇ、それは嬉しいね! そうよ、人数が減っても、女一人男二人で、ちょうどドリカムの編成(当時の編成)と同じじゃない?」

「まあ、だからどうと言うわけではないけど、今のメンバーで頑張っていける気がするよ。とにかく練習してレベルを上げていこう」


 篤義の音頭でwishメンバーは練習を開始した。ストリートライブでの反省点も踏まえてブラッシュアップしていった。


「お、いい感じに仕上がってきたんじゃねぇか?」

「ああ。深崎さんの抜けた穴は大きいけど、これはこれでいい感じだ」


 忠司と篤義が良い感触を得ていると、結衣が思いついたように言った。


「あの、まだ既存曲のコピーしかしていないですけど、キョンシクさんみたいにオリジナル曲作ってみるのもいいんじゃないですか?」

「僕は詞を書くのはダメかな。でも矢口さんは洗礼準備コース受けることになったから、その心情を詞にしてみるのもいいかもね」

「えっ、洗礼準備コースって、結衣、いつの間に受けることになったんだ?」

「富子先生(福原牧師夫人)に言ったらOKだって。忠司はまだ受けないの?」

「ああ。一応福原牧師には頼んでみたんだけど、信仰を持たないとダメだって」

「ふうん、お話聞いても信じられなかったってこと?」

「だってさ、死んだ人が三日目に生き返ったとか信じろって方が無理じゃねえか? それに『あなたは死んだら必ず地獄に行きます。だから救いが必要です』とか言われてムカついたんだよ。人が死んで天国に行くか地獄に行くかなんてわからねえだろうが!」


 すると篤義が訊いてみた。


「じゃあ小崎君は天国に行けると自負しているのかな?」

「いや、そこまで言わないけど、世の中には善人面してても裏じゃ悪いことしてる連中はゴマンといる。俺は確かにワルで退学寸前だけど、自分に正直に真っ直ぐ生きてきたつもりです。きったねぇ大人たちよりはずっとマシだと思っています」

「なるほど、聖書を読んでいても悪いことをしてしまう大人は沢山いる。君がもし聖書の言葉の一つでも守れるような人間であれば、確かに福原先生は君に言いすぎたかもしれない」

「たった一つ? 楽勝でしょう」

「そうかな? じゃあ、これから一週間、何か一つ聖書の言葉を選んでそれを守ってごらん。もし出来たら、君が洗礼を受けられるよう僕が取りはかろう」

「一つだけ……」


 その時、キョンシクが殴られそうな時、頬を向けてきたことを思い出した。


「あの、右の頬を殴られたら左の頬を向けろって言葉、あります?」

「うん。マタイ福音書5章39節だね」

「じゃあ、それにします」

「わかった」


 それから忠司は「右の頬を打たれたら左の頬を差し出す」という誓いのもと生活することになった。


(要するに、やり返さなければいいんだ。っていうか、そもそも殴られないよう気をつければいい)


 次の日から忠司は学校へ行っても、なるべく不良少年が好むような場所は避けた。休み時間には不良が近寄りそうにない図書室で時間をやり過ごした。そのようにして三日目が経った時、粂沢章介とその仲間たち、即ち例のイジメグループと渡り廊下ですれ違った。


(うわ、よりによって嫌なのと出会ったな。出来るだけ関わらないように素知らぬふりをしておこう)


 忠司はそう思って大人しくやり過ごそうと思ったが、すれ違いざま粂沢が声をかけてきた。


「おやおや小崎君。久々に会ったのにシカトですかぁ〜?」

「(おい、来るなよ……)別にシカトしたわけじゃないよ」

「あ、そうそう。最近キリシタンになったそうですけど、聖書には『右の頬を殴られたら左の頬も向けろ』と教えているそうですね」

「ああ、書いてるよ(うわ、よりによって嫌なこと知ってるな。っていうか、敬語気持ち悪りぃ)」

「つまり、聖コサキ様はこっちの頬を殴られても……」


 と言って粂沢は忠司の右頬を手の甲でペンペンとはたいた。もちろん痛くはないが、神経を逆撫でするには充分だった。


「こっちの頬向けるそうですよ」


 と言って左の頬も同じようにはたいた。忠司は怒りが込み上げてくるのを必死でこらえた。


(耐えろ、これに耐えられれば洗礼、そして退学免除、ひいては卒業保証だ!)


「おや、聖コサキ様もお怒りになられますか。やせ我慢は体に良くありませんよぉ〜」

「おい、いい加減に……」


 と言いかけたところで生徒指導の沼田が通りかかり、彼らに声をかけた。


「おい、お前ら何やってる。もう授業始まってるぞ!」

「あ、はい。すみません……」


 粂沢たちはそう言って立ち去って行った。


(ふう、危ないところだった。助かった……)


 そして学校での授業が終わり、矢口家での練習を終えて帰宅する途中のことである。駅で電車を待っていると、突然忠司の右肩に鈍い衝撃が走った。振り向いてみると、泥酔した若いサラリーマンがよろけてぶつかってきたようである。


(何だ、酔っ払いか……)


 以前の忠司なら掴みかかって謝罪を要求したかもしれないが、酔っ払いの戯言など気にしない程度には成長出来たようだ。ところがやり過ごそうとする忠司に対して、酔っ払いの方がガンつけて言った。


「くぉのやろう、どこに目ぇつけてんだ。気をつけろ!」


 忠司も流石にカチンと来て言い返した。


「何言ってるんですか、そっちがぶつかって来たんじゃないですか!」


 すると酔っ払いはますます激昂し、忠司に掴みかかって言った。


「何ィ、この脛かじりのガキが、社会人ナメてんじゃねぇぞ!」

「ちょっと、離して下さいよ!」


 そうして払いのけようとした忠司の手が運悪く相手の顔にぶつかった。


「あ」

「やりやがったな、この野郎!」


 と言うのが早いか、酔っ払いのパンチが忠司の顔面に命中した。忠司の中で何かがパチンと音を立てて切れた気がした。そして気がつけば渾身の右ストレートを酔っ払い目掛けて発射していた。


(あ、まずい。だけど止められない!)


 右足から左足への体重移動により強固となった忠司の拳が、相手の頬を捕らえた……。


 ……かと思いきや、その拳は空を切り、忠司は前方によろけ出た。見ると酔っ払いの方が力尽きて勝手に倒れ込んだようである。ホッとしたのも束の間、通報を受けて駆け付けて来た鉄道警察隊に酔っ払いもろとも捕らえられてしまったのである。


「あの、俺は何もしてませんよ!」

「話は署の方で聞くから、とにかく来なさい!」


 ……まずいことになった。これで学校に知らされたら退学免除の話もなくなるかもしれない。当然洗礼とか卒業保証の話もなくなる……忠司は暗澹たる気持ちで警官について行った。

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