隙間風
次の日、新しくwishと命名されたメンバーは矢口家でいつものように集まった。キョンシクはこの日は参加せず、恭子は少し遅れてやって来た。結衣が玄関のドアを開けて迎えたが、どこか恭子の様子が変なのが気になった。
「いらっしゃい、恭子。あれ? 何だか元気ないみたいだけど……」
「うん。ちょっとみんなにお話したいことがあって……」
そうして恭子は結衣の部屋、すなわちメンバーたちの集まっているところにやって来た。そして一度深呼吸した後、思いつめたように言った。
「私、wishやめます! ごめんなさい!」
「おいおい、昨日まであんなにやる気だったのに急にやめるなんてどういうことだよ!」
忠司が感情的になりそうなのを手で制しながら篤義が優しく促した。
「何かわけがありそうだね。言ってごらん」
「実は、私の両親は折伏興和会の信者なんです。それも結構熱心な」
「そうだったのか。それで反対された?」
「ええ、今までゴスペルのことは別に問題ないと思って親にも言ってなかったんですけど、昨日私たちがライブしているところを会の人に見られたそうなんです。証拠のポラロイド写真まで撮られて……それで会の人からウチの親が注意されたらしいんです。『あなたに折伏の意識が欠けているからこんなことになるんです』って」
「そんな無茶な……」
結衣が目を潤ませて言うと、恭子が話し続けた。
「それで私もすごく叱られて……『キリスト教の歌なんか歌って御教祖様に申し訳ないと思わないの?』って言われて……兎に角、すぐにゴスペルは止めろ、そしてメンバーとはもう付き合うなと言われました。さすがに結衣たちとは別れたくないけど、歌の方はやはり参加出来ないかな……そう思ったんです」
「くそっ、何とかならねえのかよ!」
忠司は毒づくが、篤義は努めて冷静に話した。
「うん、話はわかった。君も大変な立場にいるんだね。ほとぼりが冷めたらまたいつでも戻っておいで」
「ありがとうございます、こんな私に優しくしてくれて。でも、もう私、行きますね。さようなら」
そうして恭子は出て行った。
恭子が去った後、隙間風が吹くような空虚さを誰もが感じた。これまで、恭子が言い出しっぺになって積極的にグループを引っ張ってきたところがある。だから彼女がいないとなかなか動き出さない。
「まあ、ちょっと寂しくなるけど、めげずに練習しようか」
「はい」
「はい」
そうして練習を始めたものの、みな気もそぞろで全く合わなかった。それで結衣が思い切って言った。
「もう、今日はこの辺でやめませんか?」
「そうだね。そうしようか」
そしてその日のwishのミーティングはそこで解散となった。忠司はやることがなくなって手持ち無沙汰な気持ちになり、何となく文明大学へと出かけた。キャンパスをぶらぶら歩いていると、キョンシクとバッタリ出会った。
「こんにちは、忠司君。今日はここまで何の用で来ましたか?」
「用があって来たわけじゃないんですけど、実はですね……」
忠司は恭子がwishを抜けたことを話した。
「それで、彼女が抜けた後、何だかみんな気持ちが沈んじゃって……」
「それは残念でしたね。でもそれだけwishは神様の役に立つから、サタンに攻撃されてるのかもしれません」
「そうだとしたらサタンも勘違いしてますね。僕ら、そんなに大したものじゃないのに」
「そんなことないです。昨日のライブ、たくさんの人聞きに来ました。影響力あるからです」
「あのう、いっそのこと、キョンシクさんwishに入ってもらえないでしょうか?」
するとキョンシクは一息ついて笑みを浮かべながら言った。
「誘ってくれるの、嬉しい。だけどそれはダメです」
「どうして?」
「僕は違う教会のメンバーです。他の教会のバンドに入るのはよくないです。それと……もうすぐ僕は兵役で韓国に帰ります」
「ヘイエキ?」
「軍隊に入ることです。韓国の成人男性は30歳までに兵役につかないといけないんです」
「そうだったのか……」
殴りかかる相手に頬を向けるようなキョンシクが、軍服を着て銃を構えているところなど忠司は想像すら出来なかった。これもお国の事情というやつか。忠司は複雑な気持ちになった。
「恭子もいなくなった上にキョンシクさんまで遠くへ行ってしまうんじゃ……何かwishがひどく空虚なものに思えてきますよ」
「空虚、孤独、寂寥感……僕はそのような時ほど神様が側に感じられて嬉しくなります。にぎやかなところではなかなか神様はわかりません」
「キョンシクさんは洗礼を受けたクリスチャンだからそう思うのでしょう。だけど俺は洗礼も受けていないし、別に神様を信じているわけじゃない」
「では、孤独の中から叫び求めたらどうですか。もしかしたら神様がいると感じられるかもしれません。感じるのに信じないわけにはいかないでしょう」
「孤独ですか……」
忠司は教会で牧師が話した内容を思い出した。
──キリストは人気絶頂になった時、しばしば一人寂しい場所に出かけられました。そこで神と会うためです──
それを聞いて、キリストは神なのに何で神と会う必要がある? と疑問に思ったが、後で篤義にでも質問しようと思いつつ、まだ訊いていない。ともかく、自分も一人寂しい場所に行ってみようと思ってキョンシクに別れを告げ、文明大学を出た。
しかし探してみると、なかなか一人きりになれる場所というものは見つからない。どこへ行っても人、人、人だ。誰かと関わりが持ちたければ、心がけ次第でいつでもどこでもそれが可能だ。
(それなのに……誰も彼もが孤独な顔つきをしている。まるで周りに誰もいないかのように……)
そんなことを考えつつ、忠司は結局一人でカラオケボックスに入った。思いつく限り、この町の中で一人になれるのはここしかなかった。ボックスに入ると、忠司は曲をかけることもなく、マイクも持たずにいきなり叫んだ。
「ワァーーーッ!!」
そこに店員が来て「いらっしゃいませ、飲み物のご注文は……」と言いかけたところで忠司が睨みつけたので店員はそそくさと出て行った。
「ワーッ! ワーッ! ワーッ!」
忠司はただ叫ぶだけ叫んだ。次第に喉が枯れてかすれてきた。それでも叫び続けた。そうしたら神が「おい」とでも言ってくるかと思いながら……。
やがて忠司は疲れて叫ぶのをやめた。何か起こるのを待ってみたが、神の声など聞こえない。代わりに調子っ外れな若者たちのドラ声があちこちから壁越しに聞こえてきた。
(……もう帰ろ)
忠司はボックスから出た。すると制服姿の少女たちの群れとすれ違った。その中に見覚えのある顔があった。
「あれ? 君は……」
平岡真菜だった。ストリートライブに来ていた友人たちも一緒だった。
「あ、教会のバンドの人ですね……この前家に来ていただいた時は失礼なこと言ってすみませんでした!」
「あ、いや別に……」
すると友人の一人が言った。
「昨日、映画館の前で歌聞きました。素晴らしかったです! 実は以前教会の歌の悪口を言ってバカにしたことがあって……昨日私たちみんなそのことを真菜に謝ったんです」
「そうだったの」
そしてもう一人の友人が言った。
「あの歌、教会でもやるんですか?」
「おそらくね」
「そうしたら私たちも教会行きますから、また是非聴かせて下さい!」
「まあ、あれで良ければ、どうぞ」
忠司はキョンシクが「wishは影響力ある、神様の役に立つ」と言っていたことを思い出した。キョンシクの助言通り一人ぼっちになって叫んでも神の存在はわからなかったが、彼の言うこともあながち間違いではないな、と忠司は思った。




