仮面劇
その日、紫穂がバスウッドのステージに立った……正確にはドラムスツールに座った時、客席を見てギョッとした。
(また中原さんが来ている! しかも何、今度は小崎まで一緒に連れて? それとあの二人の女の子は……この間教会に新しく来た子たちかしら。やだ、一体何のつもりかしら? ともかく絶対バレないようにしなきゃ!)
教会ではジャズなどの世俗的ポピュラー音楽は汚らわしいもの、とされている──紫穂はそのことを熟知していた。彼女は大学に入る前には母親に連れられて別の教会に行っていたが、その母団体は桜ヶ丘キリスト教会と同じ日本福音宣教連盟だった。
同連盟は音楽に関しては保守的で厳格な風潮があった。教会内で使用される音楽についても同様で、他の教会で採用され始めていたゴスペルソングやゴスペルフォークは「堕落した世俗に迎合する禍々しい音楽」として忌避されていた。
そういうわけで、紫穂としてはジャズミュージシャンとして活動していることが教会に知られ、また教会を通じて母親の耳に届くなんていうことは絶対にあってはならないことだった。
演奏中、篤義たちの姿が見える時、心の中で紫穂はこう自分に言い聞かせた。
(私は五輪紫穂じゃない、星林檎よ、ジャズドラマーなのよ……)
その時、紫穂は中学生時代に両親の前でフルートを披露した時のことを思い出した。当時、演奏に入る前にもし自分が部活でフルートを専攻していたらどんな生活を送っていただろう……と想像し、そのもしもの自分になりきろうとした。
(私は太鼓叩きのホシリンゴじゃない。私は笛吹き少女紫穂よ)
そう何度も何度も自分に言い聞かせ、あたかもモーツァルトのオペラ「魔笛」において笛吹きパパゲーノの役を演じているかのようにフルートを吹いた。その時両親を騙しているという罪悪感よりは、自らに課した仮面劇を完璧に演じ切った充足感で一杯になった。
(……いいわ、中原さん、小崎君、そしてそこの名も知らぬ少女たち。こうなったらあなたたちの前で完璧に星林檎を演じて見せるわ)
紫穂はそう思ってこっそりと不敵な笑みさえ浮かべた。そしてパフォーマンスは乗りに乗って順調だった。このままいける……そう思って休憩室に入った時、思いがけない場面に遭遇することとなった。
なんと控え室に小崎忠司が来ているではないか! そもそも何故部外者がここに入っているんだ、スタッフは何をしているんだ! と心の中でボヤいていると……。
「星林檎さん……あなた、桜ヶ丘キリスト教会で俺を案内してくれた眼鏡のお姉さんですよね?」
忠司がそのように言う。
バレてる。
(……っていうか何、眼鏡のお姉さん? 名前を知らないにしても、もう少しましな呼称ってないワケ?)
「俺以外にも教会の人とか来てるんですよ」
(私は星林檎私は星林檎私は星林檎私は星林檎……)
心の中で念仏のようにそう繰り返す紫穂に忠司は話し続けた。
「実は今日来てるメンバーってのが、教会でゴスペルソングってのをやろうとしてるんです。でもやってみたら中坊にダサいって言われちゃって……で、中原さんが星林檎さんのドラムが何かヒントになりそうだってんでみんなでこうして来たんです」
「……(私は星林檎私は星林檎私は星林檎……)」
「それで聞いてみて、俺たちみんな凄いなって思いました。お姉さんのドラム。それで、何かその、俺たちに助言みたいなの、もらえませんかね」
「……(助言と言われてもね)」
そこで紫穂は側にあったメモ用紙に自分のポケットベルの番号を書いてそれを渡し、その番号の上を指先でツンツンと突いた。ここにかけなさいという意味を込めて……。
すると、忠司は紫穂の意図するところを汲み取ったのか、メモを受け取り一礼すると部屋から出て行った。
†
帰宅後忠司がポケベルを鳴らすと、間も無く紫穂から電話があり、翌日、文明大学の学食横カフェテリアに来て欲しいと告げられた。
忠司は紫穂の言う通りに彼女の通う文明大学へ出かけ、そこで彼らは落ち合った。席に着くなり忠司が言った。
「へえ、良いところですね」
「でしょ? 小崎君も卒業したらここの大学来たらいいのに」
「無理っすよ。こんな偏差値高い大学」
「そんなことないわ。勉強すれば受かるわよ。ところで星林檎の正体が私だってこと、中原さんには……」
「言ってないです。俺以外は分からなかったみたいですよ」
「そう……よかった。私、あの活動は教会には内緒にしてるの」
「そうですか。ところで、この前の質問なんですけど……」
「ああ、そうね。だけど、音楽的にどうかって話ならともかく、ダサいとかナウいとかって話なら私には何とも言えないな」
「ナウい……」
「だってそんなの個人の好みの問題じゃない。むしろそういうのに媚びている方が格好悪いって思わない?」
「思います。でも言われたからってわけじゃなくて、俺たちの音楽は本当にどこかダサいとみんな心のどこかで自覚してたんだと思います。それに比べて林檎さんのドラムはカッコイイ……」
そこまで聞いて紫穂はしばらく考え込んだ。そしてプラスティック製使い捨てカップに入ったコーヒーを飲み干すと、思うところを述べた。
「私が思うに、演奏が人の心を打つ時って、音楽が人間としてのプレイヤー自身を語る時じゃないかしら?」
「え? どういうことですか?」
「人の生涯と言うのはある人を感動させたり、励ましたりするものよ。例えば偉人の伝記を読んでその人のように生きたいと思ったりね。でも、人の体験談でも聞いて嫌になるものもあるわ」
「自慢話や愚痴ですね」
「そう。だから音楽も技術的に巧くても自慢気に聞こえたり、また変な自己アピールが強いと聴衆は嫌になる。でも、音楽そのものが私を語る時はみんな聴いてくれる気がする」
「音楽に語らせるにはどうしたらいいんですか?」
「私の場合は……その音楽を語る人になり切ることかな。もっと言えば、その音楽になり切ると言うか……」
「ちょっと抽象的ですね」
「少なくとも、歌いながら歌詞の内容に無関心であったり、反発するようじゃだめよ。だからあなたたちがまず始めにすることは、自分たちがなり切って歌えるような歌を選曲することだと私は思う」
「うーん、何となく分かったような、分からないような……」
「無理もないわね。実は私なんかよりずっとあなたたちの役に立てそうな人を呼んでいるのよ。もう来る筈なんだけどね……あ、ちょうど来たわ」
そうしてやって来たのは背のヒョロ高い青年だった。右手にはアコースティックギターのハードケースを握っていた。
「紹介するわ。韓国からの留学生でイ・キョンシクさん。ウチの大学のKGK(キリスト者学生会)サークルメンバーよ。日本語は全然問題ないから色々相談するといいわ」
「キョンシクです。よろしく」
「聖僕学園高校二年の小崎忠司です……あの、俺たちの役に立ってくれるってどういうことですか?」
「僕は学生生活の傍ら、ゴスペルの弾き語りしています。もちろんプロじゃないですけど……」
「へえ、そうですか。実は俺たちもそのゴスペルっていうのをやりかけてるんですが、どうも今ひとつで、五輪さんに相談していたんです」
「はい、紫穂さんからその話ききました。素晴らしいですね」
「いや、本当はメンバーの半分以上洗礼も受けてないし、そんな俺たちがキリスト教の歌なんか歌っていいものか疑問なんですけど」
「大丈夫。きっと神様が忠司君や他のメンバーを選んでくれた。そう信じています」
「はあ……」
「メンバーの人たち、集まる時ありますか?」
「ええと、今晩みんなに電話してみます。それで決まったらキョンシクさんに連絡しますよ」
その晩、忠司はメンバーたちに連絡し、その結果、翌日の夕方に矢口家に集合しキョンシクも交えてミーティングを持つことになった。




