二つの深淵の間に咲く一輪の花
9月も暮れどき、粕谷の学校では文化祭が終わり、今は1日使って文化祭の片付け日としてそれぞれが自分の持ち場を片付けていた。
粕谷の学校の吹奏楽部は、都内でもトップレベルの実力を持つ強豪校だ。吹奏楽部とは言え、バイオリンやチェロなどの弦楽器も使える人がいるし、ピアノもコンサートで好成績を残しているものが何人もいた。
その中でも、粕谷の実力は群を抜いていた。彼女の父親は高名な調律師で、さらに母親は有名なピアニストで、彼女は調律から演奏まで幅広く楽器に触れてきた。母や父のツテで実力のあるピアニストの指南を受けることが多くあり、さらに彼女自身かなりの才能に恵まれた。ピアニストとしても調律師としても、彼女は恵まれていた。彼女は音楽に愛され、彼女もまた音楽を愛していた。
体育館で文化祭の片付けのために真面目に動いているのは粕谷だけだった。他の部員は他の部活の人や女子の友達と話している。誰も粕谷のことを手助けする気は無いのだ。というのも、粕谷は現在、部活の中であまり良い目で見られていないのだ。
彼女はあらゆるものを持っていた。群を抜いた音楽の才能、流行りのアイドルなんかよりずっと綺麗な容姿。彼女は無意識に努力ができる人間で、謙虚であり続けた。そして、周りはそういう彼女のことを最初こそ煽て友達として扱ったが、今は違う。彼女は周りから見てもかなり努力していたし、自分では決してそれをひけらかすようなことはしなかったが、彼女はそのうち、“気取っていて実は周りの人を見下している女”という烙印を皮肉にも彼女の態度によって押されていたのだ。
そして、極め付けには部長の彼氏が彼女に気があることが発覚した。彼女自身はその人は部長の彼氏であることを知っていたので、彼の告白を断った。しかし、閉塞的な環境下にある女子同士によくあることで、周りは彼女対し一層冷たくなり、彼女は一層その孤立を深めていた。
しかし、彼女は環境の悪化に反して、彼女の音楽技術は加速度的に上がっていった。彼女はまさしく、孤高というに相応しい技術を手に入れた。体は以前より痩せ細り、表情は暗くなる一方だが、彼女の演奏は精錬され、どんどんその名声を上げていった。
“魂を吸われているようだ”と彼は言った。雑誌や音楽家間での噂にも聞いたことがない男性。力強く、感情的で完璧なバイオリンの戦慄。彼は、粕谷と他の部員達で弾いていたチャルダッシュに急に乱入してきた。彼女はあんなに上手くチャルダッシュを弾くバイオリニストを知らない。まるで歌のような荒削りながらに完璧な演奏。演奏が終わった後のしばらくの間、彼女ははその余韻に浸った。強烈な奔流に流され、抗おうにも抗えない。そのうち全てを任せてしまいたくなって、そうなるともう抜け出せない。彼の言葉を超えた感情、粕谷のピアノパートも絶対的な才能の前には無力だ。粕谷はそれからずっと彼の演奏に囚われ続けていた。また聴きたい。会って話をしたい。
その点、粕谷にとって文化祭の片付けを自分だけがしているというこの状況は悪くない。楽器の一つ一つから、より鮮明にあの時のことを思い出せた。コンサートの中での彼の背中。全国規模のコンサートで優勝した時よりも良い思い出だ。目を瞑れば今でも鮮明に思い出せる。
本当は昼には帰れるはずだったのに、結局夕方になった。うんざりもしたが、あの文化祭が終わってしまったことを実感させられるのが粕谷にとっては辛かった。良い夢だった。ずっとあの瞬間が続けばよかった。
顔を涙が滴っているのに気がつくのに数分かかった。彼女がここ半年間抑え込んでいた感情が溢れ出てきたのだ。もっと周りの人と仲良くなりたかった。一緒にどこかに出かけたり、男の人と恋をしたり......。
「......粕谷さん、大丈夫.........?」
「...うん。ちょっとね......」
目にかかった髪に黒縁のメガネをかけた少年。彼は桐谷健吾だ。あまり交友関係を築かない彼は、粕谷を取り巻く問題にも疎く、吹奏楽部員の中では珍しく粕谷に対して優しく接してくれる人間だった。
「...酷い顔だ。本当に大丈夫?」
「うん...嘘。本当は辛い......ごめんね」
「いいよ、気にしないで。残りは僕がやっておくよ。大した量じゃないし、宿題忘れたせいで手伝うの遅れちゃったし...」
彼は優しい。でも、今の粕谷にはその優しさが痛かった。とりあえず何かしていたい。そうしなければ、自分が壊れてしまいそうだったのだ。
「...じゃあ、粕谷さんのピアノを聞かせてよ」
「え...」
「何かしてなきゃ気が落ち着かないんでしょ?じゃあ、ピアノを弾いてよ。どうせやるなら好きなことの方がいいよ。それに何より、僕もう一度粕谷さんのピアノ聴きたいな」
「...じゃあ......弾こうかな」
桐谷は「やった」と言って、運ばれた楽器を元の配置に片付け始めた。
ピアノに手を置くと、驚くほどそちらに意識がいった。立て続けにラ・カンパネラとカプリースを弾いて、指が慣れてきたところでフリージャズをしたくなったので、粕谷は思いっきりアレンジを加えてリベルタンゴを弾いた。
その時粕谷は、自分の他にバイオリンの引き手がいることを想像した。無論、文化祭の時の彼だ。
とりあえず持てる力の全てを使って弾いていた。そして、バイオリンのソロを入れたいと思ったので、一度ピアノの演奏を切った。すると、音楽室は恐ろしく静かになった。
桐谷はあたりに見えない。その瞬間、粕谷はどうしようもない孤独感に襲われ、ピアノに突っ伏して泣いた。
粕谷がピアノに寄りかかると、汚い音が鳴った。色聴を持つ彼女にはその音が黒い色に感じられて、彼女の暗い気持ちをどんどん加速させていった。真っ暗な空間から涙が溢れてきて、それを抑えるのに彼女は必死になっていた。
しかし、次の瞬間、粕谷はその顔を上げる。音楽室にリベルタンゴのバイオリンソロが聞こえた。アレンジの効いたいい感じの曲調だ。
決して忘れない。この音は昨日の彼だ。粕谷は彼が自分の意図を察してどこかはわからないが、弾いていてくれていると確信できた。情熱的で、枷の一つもない自由な音楽。この音を聞くために生まれてきたとさえ思えるような演奏。
彼がパートを終わらせたので、今度は粕谷が弾く。絶対に負けない。子供の頃の駆けっこみたいに、粕谷は柄にもなく躍起になってピアノを弾いた。途中、手が攣ってしまったが、痛みなんか忘れて弾き続けた。基本形なんて知らない。まるで声を出すように、叫ぶように、ただ感情のままにピアノを弾いた。この時間を終わらせたくなかった。
彼女は泣きながらピアノを弾いた。楽しくてしょうがなくて、胸の中の寂しさが埋まり、真っ暗な涙の海に一筋光をさしてくれるようなその夢にずっと囚われていたかった。しかし、思いとは裏腹に体は動かなくなった。手がもうすでに限界を迎えてしまったのだ。これ以上動かせば長くピアノを弾けなくなるという具合を私の体は覚えていて、鍵盤を叩こうとすると、忘れていた手の痛みが痛くて動きもしなかった。
「いや...終わらないで......」
涙が止まらなかった。彼女が曲を弾くのをやめた時、夢が覚めた時、彼女はどうしようもない絶望感に囚われてしまった。音楽はあんなにも美しく優しいのに、現実はどこまでも冷ややかだ。
言っても片付けを手伝ってくれない部員、孤立した私に何も言わない先生。みんなに嫌われることも、そして大好きな音楽がその理由であることも粕谷にとっては辛かった。弾けない曲を弾こうとしていた時とは違う辛さ。自分ではどうしようもできないと感じてしまう。
すると、音楽室に聞き覚えのある曲が流れる。チャルダッシュだ。力強く感情的で、荒削りながらの歌みたいに弾き手と同化した完璧な演奏。彼だけの、魅力的で美しい演奏。
粕谷は音の聞こえる方に歩いて行った。となりの音楽準備室だ。
もう外は暗くなっていて、音楽準備室には月の光だけが差し込んでいた。
そして、月に照らされ一人、弓で夢を弾く一人の演奏者がいた。
彼女は彼の演奏を聴いていた。この人の演奏は本当に感情的だ。
その演奏は彼から彼女へのメッセージ。一人、傍で彼女に優しくしてくれた彼の感情。悲しい。彼が感じた悲しみと、彼自身の優しさが彼女へと流れ込む。
「ありがとう...桐谷くん......」
彼は演奏を終えると、彼女を強く抱きしめた。彼女は彼の胸の中で大きく声をあげて泣いた。
彼女は悔いた。ずっと傍にいたのだ。自分を思っていてくれていた人が。
彼は悔いた。なぜもっと早く助けてあげれなかったのか。彼女は強いと勝手に断定してを差し伸べようとしなかったのかと。
そして二人は見惚れていた。お互いの演奏に。そして、月明かりの中のその演奏をした人物に。
彼らはそっとキスをした。言葉はいらない。二人の間には音楽で言葉を超えて理解しあえた心があった。時刻は18:01。二人はお互いに深淵の中に一つの花を見出したのだ。
初投稿です。暇つぶし程度に書いたものですので軽くお読みになってください。ちなみに、最後の文章に少し小ネタを挟みました。興味があれば是非、ベートーベンの「月光」のウィキペディアをご覧ください。
僕は現在、音楽好きにも関わらずクラシックやジャズしか聞かないので、知り合いとは全く話が合いません。その中で、自分と感性を共有できる人がいたらいいなという想いのもとこの話は、書かれています。二人の出会いは、“僕の身の回りにも見落としていただけでそういう人がいる”“彼女欲しい”という二つの煩悩によって執筆されております。本で出てるような大層なコンセプトはございません。自己満です。
最後に、読んでいただき誠にありがとうございました。今後も、適当に投稿していきます。よろしくお願いします。