記憶回帰
覚めない悪夢の中、少女は考えた。
考えて考えて辿り着いた。
そして、世界に色が付いた。
重苦しい空気が肌にまとわりつく。
真っ暗な視界を埋め尽くす闇は、現実のものではない。どこか作り物のような気がする。この肌につく感触も偽者かもしれない。次に視界に飛び込んできたのは目が眩むほどの光。その向こうに見えたのは何もない虚無の世界。地平線も、水平線もない。境界線の存在しない無の世界だ。
「お待ちしておりました」
その中に九つの光が立ち並ぶ。
誰を?
自分を目の前の光は待っていたのだろうか?
景色が一転。
漂う瓦礫の一つに乗る姿に動揺した。自分を取り囲むように九つの光が宙にある。
姿を変える九つの光。人とはかけ離れたものから人型のままの者もいる。ただ、その姿はハッキリとしない。
光の輪郭だけが自分を見ている。
異質なこの空間で沈黙を続ける。
お前たちは何者だ?
お前たちは何をしている?
自分を一心に見つめ続ける存在に疑問を投げかけても声が届く気配はない。だが、自然と涙を流す自分がいた。何か忘れている。何を忘れているのかもどうでもいい。どうして涙を流しているのかもこの際、どうでもいいことになっていた。
急速に失われていくこの感情の答えを探すことだけに躍起になっていた。しかし、その答えはみつからなかった。
まるで、自らがそれを拒んでいるように意識すればするほど、速度が増していく。死とは違う感覚。肉体と精神のバランスが崩れていくものとは異なっている。ただ、自分にとってこの者たちが敵ではないという確信だけが頭の中で生きている。
それは不定形からなるものであり、絶対的なものではない。
ただ、自分を見つめる瞳には悲しみが込められていた。だがこの瞬間、九つの光が突然現れた闇に呑みこまれていった。処刑するように順番に光が一つずつ失われていった。光が消えるたびに胸の中が軽くなっていった。
それが自らの中で生まれた恐怖を消し去ったことに対する、代価だとはこの時はわからなかった。
これでよかったのだと、思う自分がいた。
あの光たちの存在にどこか怯えている自分がいた。明確に恐れていた。あの光たちに関わることで何かを失うかもしれない恐怖が心に宿っていた。
両手で表情を隠すように、小さな声が嗚咽を漏らした。
†
白銀の閃光が二つ、夜空を割った。満点の星空の下を駆ける光。月を背景に華麗なる舞を披露している二人組は互いの動きを尊重するように息の合った動きをしている。
緋色の瞳が闇に映える。同じ背丈、同じ装いでも髪の長さと体の作りは異なる。白銀の光が二つ、目の前の光景に輝きは増していく。
「さて、どうしましょうか? 」
足下に転がる肉槐を踏み潰しながら女が呟いた。相手に対する言葉に迷いはない。耳を塞ぎたくなる不快な音が場を支配する。細長い指で唇を撫でると指先に黒い炎が宿る。その炎に息を吹き付けると津波のように炎が走った。
炎の波に景色は飲まれた。二人を追っていた黒装の連中も飲まれた。彼らを表現するなら黒以外に相応しい言葉は存在しないだろう。
黒装というのも外見だけのものであり、実際はペンで塗りつぶしたように影の形が点在しているだけだった。
燃え上がる大地から風が吹き上がると、月光に照らされる二人の影を避けるように、無数の影が揺らめいている。袖から黒い粒子が流れ出すと次第に形となっていく。腕と一体化することから使い勝手は悪そうだ。しかし、黒い刃を持つ刀身は厚く、邪な気配が溢れている。
対して二人組は無手だ。女のほうはここに来るまで戦いに積極的に参加していたが、もう一人の男は言葉を吐かずに女の戦いを傍観し続けていた。女と同じ顔をした少年だ。隣に立つ彼女と同じ顔をしている少年は自分を隠すように夜の闇に溶け込もうとしていた。
しかし、銀髪は月の光を吸収し闇を押し退ける。大きな緋色の瞳は目じりを鋭く尖らせ、世界を見つめる。
「この地域って治安が悪いのかしら? 」
そんな女の言葉に少年はゆっくりと首を横に振る。
静寂に耐え切れない女の気配を察し、少年が腕を持って引き寄せる。理解不能な現状よりも少年は彼女が暴れるほうが危険だと判断した。だが、黒装たちは沈黙を貫き、武器を構え続けている。
自分たちとの力量を知っても彼らは逃げる姿勢も見せない。
ただ、こちらの様子を窺っている。黒装によって隠された表情は読み取れなくても、そこから発せられる力強い視線がこちらの警戒を緩ませない。
事実、目の前にいる影たちに自分たちの攻撃は有効ではなかった。
地獄の獄炎に身を焼かれても何事もなかったように存在する輩をクロノスは知らない。だとすれば常人以外の存在を疑うのだが、クロノスの知識に該当するものはなかった。仮に常人だとしたら、狙われる理由がありすぎて悩むこともしなかった。
とりあえず、彼らは人ではない。
そして自分たちの命を狙っていることだけは確かだ。それ以外の可能性は考えられなかった。
「止めるくらいなら、クロノスも戦いなさいよ」
年相応に頬を膨らませても可愛いと思えなかった。クロノスは掴んでいる腕を引き離す、もう一人の自分に向かって言った。
「姉さんが暴れるとしゃれにならないから止めるんだよ」
そう言われると、クロノアは掌を合わせブツブツと呟いた。
ゆっくりと両手を離すとその中心から地面に向かって一振りの剣が刺さった。形としては特殊なものではなく、武器屋で安い部類に入る短剣が二本。芸術品のような輝きを放つ二本の剣をクロノアは手にした。
影たちが動く。
クロノスは両手を下げたまま黙って事の成り行きを見ていた。
黒い影を白銀の一閃が両断した。しかし、暗殺者のように確実に相手の死角を捉えての斬撃は影たちに恐れを抱かせることはなかった。霧のように消えた一人を奥から別の影がクロノスに迫る。タイミングを合わせるように背後左右からも気配がある。その手にある不気味な黒刃自体は気にならなかったが、刃が発している黒い粒子が気になった。
全身を黒装に覆われているが相手の膂力によっては無事ではすまない。クロノスはクロノアの動きを捉えると、腕を掲げて大きく回した。
「太陽魔術――太陽と風の障壁」
直後、クロノスの足下から強風が吹き荒れ、突進していた数人が風によって弾き飛ばされた。風による防御魔術に殺傷力は皆無だが、この魔術は真空の刃が術者を覆うので無闇に触れれば致命傷を受けかねない。しかし、相手方はそんなことなど気にしないで再度突進してきた。
風と刃の衝突音よりも風の流れが変わったことで刃が肉を切り裂き、黒い粒子が切断面から噴き出す光景にクロノスは表情を歪めた。地面に叩きつけられ骨が砕ける音は強風よりも耳に残る。触れることも許されぬまま崩れ落ちるそれらの背後にいる者たちは、霧散していく仲間を無視して風の障壁を突き破りにかかる。
だが、クロノアが行く手を阻む。
迫る四人を斬り殺し、残りは強化した蹴りで打ち貫き、触れることのできない風の障壁を掴み、不可視の刃で一蹴する。クロノアに引き剥がされた障壁を諦め、風の勢いを利用して高く跳ぶ。空中で身を翻して視界に敵を収めると、凝縮した魔力を地面に向かって放つ。
その動きにクロノアだけが反応した。
勢いよく地面に体が沈む。上空からとてつもない衝撃が連中を押し潰した。降り注ぐ超重力の中を立っているのはクロノアだけだった。
遠方にいる影たちも効果範囲が広がるにつれて潰された。クロノスが着地する。その瞬間にはすべてが消えていた。
「また消えたわね」
クロノアは首を傾げた。
「幻魔術の類かしら? 」
「自分でわからないことを俺に訊かないでほしい。重力に潰されたってことは質量があるから、幻じゃないだろ」
重力波によって作られた大穴を覗き込むと人の形で窪んでいる場所がある。そもそも幻魔術ならクロノアと対峙した時点で消滅するはずだった。
「それもそうか。世界は広いからわたしでも知らない現象が存在してもおかしくないしね。まっ、魔術だったらとっくに構築式わかっているけど」
こう言ってはいるが、クロノア自身納得していない。魔術的なものだとしたら、彼女は瞬時に理解できるし、人為的な類……薬物や投影だったとしても彼女が影響を受けることはない。それは彼女が特別な存在であり、その極地に至る能力があるからだ。
正体不明の敵……一体何が目的なのか?
「手荒なことはしたくないから、素直に話してくれると助かるわ」
クロノスが考えているところで、一つの気配にクロノアが気付いた。先程と違って今度は白装に包まれていた。ゆっくりとこちらに近づいてくることにクロノスは警戒を隠しきれない。ただ、どこか安心している自分がいた。
風が止んだ。全ての音が止み、相手が歩く音だけが耳に響いた。クロノスが思考を巡らしている間にクロノアは相手に向かって短剣を投擲した。
魔力を纏わせて威力を底上げした二撃は十分な破壊力が備わっている。それが、消えた。避けることもなく、受け止める仕草もなく、接触する手前で衝撃波の一つもなく突然消滅した。
舌打ちするクロノアに対する反撃はなく、相手は目の前にくると顔を覆う布を取った。
美女だった。
赤髪で、柔和な笑みを浮かべていた。吸い込まれそうな瞳は宝石のようにクロノスたちを映していた。
「あなたは何者かしら? 」
あくまで笑顔で対応するクロノアだったが、彼女から溢れている魔力は美女の周囲で牙を鳴らしている。
「わたしはこの世界の一部です」
予想していなかった言葉にクロノアの意識が逸れた。美女が頷き指を鳴らすと漂っていた魔力が掻き消された。一歩近づき、頭を下げた。
「世界の一部? 」
「あなたたちをお待ちしておりました」
これが始まりだ。
クロノスたちがこんな辺鄙な場所にきてしまったのはよくわからなかった。
いつものように有名な学術師の下で勉学に勤しみ、社交場に顔を出しては頭を下げ、強くなるために魔術の腕を磨いていた。
ある日を境に“普通の王族”としての教育を受ける必要はなくなってしまったのだが、普通でありたいクロノスは教育を受け、クロノアも暇つぶしに付き合った。変わらない日常は退屈だった。それでも自分の周囲に変化が訪れることに心は怯えていた。
クリスタル王国という世界を代表する国を妬む輩は多い。表側では世界に愛されていても、裏側では誰も知らない時間を過ごしていた。そして今日も同じだった。クロノアが呟く。
「暗殺者の癖に気配を悟られるなんて死ぬしかないとわたしは思うわ」
迷路のような庭園の一角に不吉な影が降り立つ。クリスタル王国の血筋を絶やそうと狙ってくる暗殺者たちは、次の瞬間、なにが起こったのか理解することができなかった。いつの間にか景色が一変していた。
暗殺者たちの視線の先には金色に輝く満月があった。無音。体の筋肉が硬直しているのか、手足を動かすことができなかった。
重力に則り落下していくと視界の端に二つの影を見た。
小さな子供。今宵、依頼者より受けた暗殺するする対象者……クリスタル王国切っての天才魔術師たちの膨大な魔力を放つ瞬間だった。小さな手の中で爆発を繰り返し膨れ上がる魔力に彼らは己の死を覚悟した。
クロノスとクロノア。
『神の化身』とも呼ばれる特異な能力を持つ双子の存在は近隣諸国や私欲の強い国王にとっては邪魔者でしかなかった。
人の欲に際限はない。
友好条約などと仮初の決まりを守るほどお人よしな人間はそういない。裏の歴史を振り返ると多くの王の血が暗殺者の手によって失われている。
もっとも、それは一般的な王族に限られる。目の前にいる二人に限っては認識を誤っていた。
「ば、化け物――」
閃光が、大爆発が、夜気を、言葉を奪った。そして、爆発によって生じた煙が晴れた直後、二人は知らない世界にきていた。
どのくらいの時間が経ったのだろうか、荒れている大地に変化はない。
それよりも普段和気藹々のクロノアが静かなほうが不気味だった。
その視線は美女に向けられている。
「殺風景な場所ね」
自然という言葉が似合わないほど、この場所は死んでいた。クロノスが地面に手をつき魔力を流し込む。広範囲に亘って浸透させても思った反応が返ってくることはなかった。
「大地が弱っている……」
人間のそれとは違って微々たるものだが、自然界にも魔力は存在する。
一般的な魔術師は自然の魔力に自分の魔力を干渉させて操ることが多いとされている。だが、それは自然環境が正常であれば成立する魔の法則。弱い鼓動しか返ってこない大地は終わりを迎えようとしていた。
「ところでここがどこなのか教えてくれない? 」
「それについてはお答えできません」
先頭を歩く美女の澄んだ声色だけが辺りに響き渡る。優しい声でもその言葉に乗せられた強い言霊にクロノアは眉をひそめた。
「なら、わたしたちを襲った理由を教えてくれない? 」
「姉さんは気が短いから逆らうことはおススメしないよ」
「彼らとわたしは関係ありません」
今度の質問には答えてくれた。しかし、『彼ら』と呼称している時点で無関係と言われてもこちらも情報が欲しいので簡単に引き下がることはできない。
「どういうこと? 」
「ですから、わたしはお二人を待っていましたが、彼らは目的なく襲ったということです」
「本当のことを言いなさい」
「本当のことですよ。この世界は治安というか、世界規模で先程の連中のように悪事に身を投じる者が多い。荒野を品のいい子供が歩いていたら襲って下さいとアピールしているようなものです。この世界の常識なので覚えておいてくださいね。」
「そうね。でも、もっと腕の立つ相手じゃないとつまらないわ」
「遠くで戦いの様子を見ていましたが、この世界にはあなたたち以上の力を持っている存在をわたしは知りません」
「あなたは嘘が下手ね」
「あなたこそ素敵な笑顔ですね」
互いに満面の笑みを浮かべている様子に、クロノスは呆れた。彼女が言っている言葉に嘘があるとは思えない。赤の他人に心を簡単に許すことは間違いだが、未知の世界で現状を確認するためには彼女の協力が必要不可欠だと思った。ここがクロノスたちの知る世界だったら記憶の地図を引っ張り出したのだが、月以外に知識と一致する場所はなかった。
(この人の内在魔力……尋常じゃない)
一般的な魔術師を遥かに超えている魔力総量にクロノスは、目を疑った。
「戦うのが好きですか? それでも構いませんが、わたしは無益な戦いは好みません」
美女はクロノアを見てから、クロノスに視線を移した。
首を横に振っている少年に対して、美女は胸の辺りで指を交差させた。熱い視線と勘違いしたのか少し頬を赤らめている美女から少年は視線を逸らした。
「負けるのが恐いかしら? 」
「恐いですね。あなたたちの内に秘める力がとても恐い」
言いながら美女は自身の胸を指で小突いた。
普段なら聞き流せる言葉が聞き流せなかった。美女が示している指先、それはクロノスとクロノアが持つ力とは違う別の部分を言っている。決して他言することを許されない力は魔力のように感じとれるものではない。それを初対面で見抜く美女に、クロノスたちは言葉を失った。重くなる空気に緊張でじっとりと手に汗が滲んだ。
「挑発するなら相手を見定めてからすることをおススメするわ」
クロノアは自分の手に魔力を集めると手首から先を覆いうように制御する、銀色の二本の鉤爪が虚空を裂いた。
難易度が低い造形魔術も使い手によって常識は覆る。虚空を裂いた場所から黒い粒子が噴きだすと同時に、周囲の闇が揺らめき始めたのに気がついた。
「……頭が悪い連中だったら喧嘩を売る相手が悪い」
美女も状況の変化に気がついている。幻魔術にかかったように視界がぼやけ、上下の感覚が鈍り始めた。その感じが、先ほどのものと同じだ。
「あなたの仲間じゃないのはこの殺気と出来の悪さから信じることにする」
「ありがとうございます」
軽く首を傾けると、美女の体が光り始めた。眩い光に目をやられるかと手で隠したが、その光がクロノスに害を及ぼすことはなかった。淡い金色の光を放つ布は何層にも重なり厚みを増していく。それを羽衣のように肩にかけると、今度は地面が光りだした。
光の正体は美女の魔力。
魔力を属性に変換したものをさらに視認できるまで高密に凝縮して足下で模様を描く。
一般的に魔法陣と呼ばれるものかと思ったが、描かれている文字や模様は不規則で陣の条件を満たしていない。暗闇を広げるように黒い粒子を撒き散らす黒装の集団が現れた。その手には、先ほどのように黒刃を基にした剣を持っていた。それと今回は同じ色合いで見分け難いが仮面を被っている。
黒い奥からの視線は美女を見ていた。それを、遮るように光が満ちた。
「 」
激しい光になんて言ったのか聞き取れなかった。その言葉がどういう意味をもったものなのか、考える前に目の前でそれは起きた。美女の足下の模様が宙に浮かんだ。まるで意思を持つように漂っている。
それは魔術的に考えても理解できる現象ではなかった。それが美女の羽衣に吸い込まれるように入った後には、思考することを手放した。羽衣は、その姿を劇的に変化させていた。
色鮮やかな暖色系の光を放つ翼と化していた。手を動かすようにゆっくり翼が動くと地面から足が離れる。
赤髪の美女の姿は物語に登場する神の使いと呼ぶに相応しい。その仕組みを理解しないことにはなんともいえないが、背中に生えている翼がそう連想させる。
「そういえば紹介が遅れていましたね、クロノアさん、クロノスさん」
「……どうして俺たちの名を」
「お二人は有名ですから」
「わたしたちのことはいいとして、早くあなたの名を教えてもらえるかしら? 名無しさん」
「クロノアさんは、失礼ですね」
相手方が痺れを切らしたのか包囲の輪が弾けた。
それなのに、美女は余裕の表情で呟く。
女の名は、アルル・スフォルツァンド・ラヴァーと言った。
「アルルと呼んでください」
初めて聞く名前ね。
クロノアが呟き黒装の連中に向かっていくなかでクロノスはその名前に違和感を覚えた。アルルは翼を大きく動かすとクロノアの後を追うように飛んでいった。
予想通りアルルは、強かった。
(見たことない力だ)
あのクロノアを隣にして自分以外に戦いを合わせることができることに驚きを隠せない。もしも彼女が敵だったら、苦戦こそしないだろうがやり難い戦いになったのは間違いないだろう。彼女が使用する魔術の術式が読み取れない。どんな魔術でも核となる構築式が存在し、それを基礎に創り出されるのだが、彼女の翼にはそれが見つからない。
アルルの翼が銃弾のように放たれる。
奇妙なことだがクロノスが羽根を認識する頃には敵に深く刺さっている状態だった。放たれてから刺さるまでの速度が異常に早い。
黒装たちは、クロノアよりも羽根の犠牲になっていく。クロノアには羽根が見えているのかと思えば、目を上下左右に動かしている様子が見えた。
クロノアでも対処できない魔術を持つアルルを恐いと思った。アルルの羽根が刺さった黒装たちは、羽根から発せられる光に侵蝕され、全身が白く染まるとその姿を消していった。
「クロノスは戦わないの? 」
増え続ける敵を攻撃しながら、アルルがこちらに声をかけてくる。
「俺は無差別に命を奪うことが嫌いなんだ」
クロノスは魔術を使わずに、肉体強化をして敵の攻撃を避けることに集中していた。命が危機に陥れば相手を殺すことも厭わない。でも、自分から手を下すのは好きではない。先程と違って、敵の数や動きに若干の変化はあってもクロノスの速度に対応できる速度を持っているわけじゃない。
反射神経もクロノアの動きを避けられないならたいしたこともない。
「それ以上に、姉さんを抑えるのが俺の役目だ」
敵の中心で天を仰ぐ姉を見ると意図を理解した。
「クロノス、結界張って。姉さん飽きちゃった」
動かないクロノアに向かって敵が集まり始めた。
それを動かずに片手だけで攻撃を捌き、崩れかけの山を作る。上空にいるアルルがその光景に首を傾げると、クロノスの声が耳元でした。
「巻き添えになるから俺の後ろに下がって」
クロノスの言葉はこれから起きる出来事の危険さを訴えるものだった。
アルルが地面に降りた直後、膨大な魔力が視界に広がる一帯を包み込んだ。その言葉がアルルの耳に届いたかはわからない。
ただ、その一瞬は忘れられないだろう。
「太陽魔術――太陽と地の噴炎」
地面から噴出す熔岩の柱が黒を呑み込んだ。黒装たちが成す術なく、圧倒的な力に消滅していく。その消滅の仕方がいままでと違うことに、クロノスは気付いた。
自分たちの魔力が有効でないことは先の戦いでわかっていので、全身に熔岩を浴びても溶けることはないだろうと思っていたら皮膚が溶け、骨が見え隠れしていた。ただし、最後まで声は上がらなかった。
凄まじい熱気が立ち昇る赤い大地にはクロノアだけが立っていた。
これが本来の姿だと言わんばかりに。
「殺しちゃえば、全て同じよね。ゴミは大人しく死ねばいいのよ」
腕を振るった。
結界内で風が熔岩の海を吸い上げる。魔術によって干渉したクロノアの魔力が巨大な竜巻と化し、吸い上げた熔岩が加わったことで膨大な熱エネルギーを放出している。もはや天災としか思えない破壊の熱風の回転速度が増す。広がる竜巻は結界を破り、自分たちを含め、新たに現れようとしている黒装たちを巻き込んだ。
瞬時に張った結界の中から風に乗った溶岩流が黒装たちを切り刻み、燃やし溶かされているのが見えた。拡大し続ける渦が治まりを見せたのは、それからすぐのこと、風の勢いが弱まり、瞬く間に消えると、不満の表情を貼り付けたクロノアがこちらに歩いていた。
「張り合いのない相手は大嫌い」
荒れ狂う魔力の流れが縦横無尽に走る。地面を抉る風の牙は熱を帯びる地面を喰い荒らし始めた。
「容赦ないですね」
クロノアが目の前に来たところでアルルが非難がましい顔をしている。
守ることも許されない怒涛の攻めは相手に同情する気持ちを芽生えさせた。
「あら、情けをかける戦いなんて逆に優しくないじゃない」
どうせ勝てないんだし、と冷酷な視線で応じる。
「それもそうですね。では、行きましょうか」
翼を折りたたみ、アルルがなにもない道を進む。
「行くって、さっきからどこに向かっているのか教えてくれ」
「特に場所は決まっていませんよ」
あっけらかんな態度に、クロノスは開いた口が塞がらなかった。どこか抜けているこの大人を信用していいのか不安が高まっていった。
「ただ、このところ変なことが続いているので、見回っているというのが正しいのかな」
アルルがため息混じりに言った。
「へえ、どんなことかしら? 」
「目に見える光景全てですよ。枯れた植物にはじまって限界に近い大地はもちろん、水のない河川、そして、朝の来ない空。完全に世界の理が崩壊している」
「どうしてそう思うの? 」
「最初から詳しく説明すると長くなるから掻い摘んで話すと、いままで保たれていた均衡が崩されたことで世界全体に悪影響が出てこんな世界になったのかもね。詳しいことはわたしにもわからないの。だから、その原因を探すのとこれ以上、悪化しないように動いているの」
「ああ、そういうことだったの。やっと納得できた」
アルルの行動概念を、クロノアは理解できたようだ。この世界の異常と自分たちがここにいる理由、それがどういう関係にあるのかクロノスはわからなかった。仮説を立てたとしてもそれは異常であり、信じられないことだからだ。
(どういうことだ? )
どういう訳か彼女はこの世界に関して追求されることを嫌う。その理由がクロノスの仮説通りだとたら……そもそも自分たちを待っていたという言葉がおかしい。だが、どういう意味合いなのか想像することをクロノスはできなかった。
「アルル、ちょっとクロノアと話をさせてくれ」
クロノスは言葉を投げるとクロノアの手を掴み、遠方に見える崖まで跳んだ。
もしかしたら自分の思考回路が正常に動作できていない状態になっているのかもしれない。
クロノアが同じように精神に異常をきたしていないことを祈った。
「この世界のことどういう風に捉えている? 」
クロノアは自分のこめかみを軽く小突くと、アルルに視線を送った。つられて見る。
「クロノスが考えていることと一緒だけど、別にどうも思わないわよ。彼女が敵になったとしても圧勝できるし」
クロノアと同じ答えにいるとわかると、不思議なことに受け入れている自分に驚いた。
異世界。
文字の如く、本来存在した世界から別の世界に時空間移動してしまったらしい。原因は考える間でもなく暗殺者を撃退する時に放った膨大な魔力が引き金になったようだ。
世界をも超える力を持っている。王族の血筋は魔術師として絶対の力を得ることが約束されている。それが古来より受け継がれている流れだった。人としての限界に達することができるのが王の力だった。
「戦う必要はないだろう」
アルビノの力がなければ。自分たちには別の暮らしが待っていたのかもしれない。
「もう、クロノスは平和主義者ね」
「姉さんが、壊滅主義者なだけだよ」
自分が生まれたことを数奇な運命だと思い始めたのは一年前。有名な魔術師を城に招き入れて魔術の基礎練習をしようとして最上位魔術を姉弟そろって発現できたことからきっかけだった。
ありえない力の才は、双子の名を知らしめる風となった。アルビノは、創造主が新たに生まれてくる生命に与えた加護と表向きは言われている。そして、不思議な能力は神が与えたもう一つの才能だと伝えられている。
嘘。
それが世界の本当の姿。
「お話は終わったなら、早く行きましょう。時間がなくなってしまいます」
俯いているクロノスの上空からアルルが声をかけてくる。
念のために音声遮断の結界を張ってはいたが、どうか。
反応を見る限りでは、怪しんでいるようには見えない。途方にくれる旅はどこか自分を見つめなおす時間のように思えた。生まれてから両手も生きていない子供がなにを思っているのか、これが異常だと気付いたのは遅かった。
裏の話は単純にひどいことしか言われない。
悪い夢でも見ているのか、わたしたちは化け物を生んでしまった。記憶に刻まれている両親の言葉は深く心に傷を作った。
アルビノとして完全に目覚めていない不安定な状態でもクロノスとクロノアの力は次元が違う。隣にクロノアがいなければこの事実を受け入れられない自分を追いつめ続けていた。
「どうかしました? クロノスさん」
とっさの言葉に反射的に応じてしまった。
「あ、いや……アルルって俺とどこかで会ったことないか? ずっと前に」
「口説くにしては言葉が古いわよ、クロノス」
「そういう意味で訊いたわけじゃない。ただ、昔から知っているような気がするだけだ」
「クロノスが知っていて、わたしが知らないならどこかのパーティーで出会ったのかもね」
「どうだったかしら? わたしは覚えていない」
「そうか……ん? 」
雰囲気が和みかけたところで、衝撃波が間を突き抜けた。
「あっちから強大な力の波動を感じるわね」
振り返ると廃墟と化した街並みが見えた。ここからでも人の存在がわからないほど、なにも感じとることができない。完全な眠りについている『暗黒街』は身を隠すにはちょうどいい。
「さっきの奴らか? 」
先を行くアルルの言葉に
「わたしにもわからない。仮にそうだとしたら見過ごすわけにはいかない」
「それがアルルの使命か? 」
「使命なんて大層なものじゃない。わたしのはただの正義感。この世界が好きだから、この世界をめちゃくちゃにしようとしている悪人を自由にさせておくのが嫌なだけなのかもしれない。本当はわたし自身、なにがやりたいのかよくわからないのよ」
「喋るなら早く行くよ。相手方の気配が遠ざかっている」
魔力を全身に走らせたクロノアは我先にと消えた。二人が急いで後を追おうとしてもその差が縮まることはなかった。これでも本気でないとクロノスは言った。自分たちには常識も、もしかしたら非常識も通用しない。化け物に相応しい言葉なんてこの世にあるものか。
「頼もしいお姉さんですね」
「俺とは違ってクロノアは自分の力を認めているからな。力に呑まれることに恐れる必要がない。自分に自信があるのさ」
どんなにひどい言葉を吐かれてもクロノアは笑顔を絶やさなかった。戦うことに関しては周囲に辛辣な言葉を吐き散らしたりしたが、最終的には笑顔になる。
「俺は自分の力を飼い慣らすことができない。だから、双子でもクロノアのほうがずっと上にいる」
全てにおいて姉は世界の頂点にいる。
「わたしに比べたらクロノスさんもすごいですよ。それにクロノアさんの魔術を防いだりしたじゃないですか」
「クロノアは天才の中の天才。俺は天才の中の凡人。クロノアが手加減してくれてなければ、今頃俺たちも溶けていましたよ」
「悲観しすぎですよ。自分に自信を持ってください、クロノスさん」
そんな会話をしているうちにクロノアの背が視界に映った。
暗黒街には不気味な空気しか流れていない。誰もいない闇に向かって歩くのは気味が悪い。建ち並ぶ建物を見れば砕け散ったガラスの破片や、風通しのよい大穴がいたるところに開いていた。
静寂が住人になってからどれくらいの年月がたったのか、答えられる者は誰もいない。
小さな痕跡を追う。
それは人の気配よりも希薄なもので、意識しなければ見失ってしまうほどだ。
風化してしまったこの街の活気を引き起こした者だとしたら、思っていたよりも慎重な奴だと感じた。
「静かなところね」
「静かでも殺意はあるよ」
気にしていないように見えてもクロノアは相手の姿に気付いている。先頭を歩いていたアルルが足を止めると、焦げた地面が黒く変色した。
その黒い中から影が伸びるようにして、十人程度の集団が現れた。いままで出会った者たちとは違い、外見は人間のそれと変わらないものだった。
「久しぶりだな、アルル・スフォルツァンド・ラヴァー」
中央に立つ、獣皮を着込んだ男がそう言った。
血に飢えた獣のような瞳は血走っている。男の気迫に後ろに控えている者たちが震えているように見えた。顔や手足にある生傷が男の実力を物語っている。
そんな相手に本名を呼ばれているのに、アルルは怪訝な顔をしている。
「アルルの知り合い? 」
「いいえ、わたしの知り合いにこのような方はいらっしゃいませんよ」
「よく言うぜ。お前たち『守護神』が役目を果たさなかったから“世界はここまで中途半端”な形で終わっちまった。大いなる意思に反した事象はここまで世界を歪めることになる。いまならまだ遅くない、本来の役割を果たしに行け」
「ああ、そういうことですか。それなら、本来の役割というならわたしたちは放棄していません。わたしたちは従順に自らに課せられた使命を果たしています。妙な言い掛りはやめてもらいたいです」
「責任逃れか? だったら、しようとしても無駄な話だ。いや、話なんて聞いちゃくれない。『創造主』は残酷だ。お前たちの考えは全て奴にはお見通しだ――諦めろよ」
発せられる声に込められた感情に反応して男の中で、魔力の流れが急速に速まる。爆発を繰り返すそれは、体外に放出される頃には頑強な鎧を築き上げていた。「
クロノア」
「ええ、わかっている」
クロノスの声にクロノアは頷いた。『創造主』と『守護神』。
その言葉を耳にしたのは世界創世の歴史を学んだたった一度だけだ。内容も講師の学者が出来損ないだったので後日、自分たちで調べ直した。
無から有を生み出し、全ての命の祖にして世界を創造した存在の名が『創造主』。
世界創世に関わった十三の偉大なる神に認められし存在の名が『守護神』。
彼の者たちがしたことは世界の流れを作り上げたということ。文明という種を世界中に散らし、膨大な時間をかけて芽を咲かせた人類の基礎を創り出した存在だ。それを古代人がどうやって知り得たのかは不明だ。人の領域を超えている存在を知覚することができたなら、話は別だが、現代に残る文献にそのようなことは残されていない。後に『超古代の負の遺産』と呼ばれる禁魔術書にのみ記録された一文は多くの争いのなか遺産ごと表の歴史からは消された。
消されたはずだった。
だが、過去から現代にかけて知識の最高峰にいる大賢者の称号を与えられし者たちが、世界中に散らばった欠片を集めては研究という名目をもってして禁忌の一線を越えていった。
誰も理解することのできない内容を解き明かした時、世界に広がる名と名声だけを求めた。
たった二人の姉弟が見つけるまでは……。
埃を被った遺産を手にした小さな子供は誰も知らない裏世界の奥深くで、葬られるべき過去の歴史を知ることになった。
子供が見てもわかるはずない内容にも関わらず、彼らは全身が震え上がったことはいまでも覚えている。
恐かった。
単純に、知ってしまったというよりも、“どうして自分たちは理解できた”ということが二人の運命を変えた。
姉は世界を統べる力をもって光の世界を生きることにした。
弟は世界を統べる力をもって闇の世界を生きることにした。
それから世界にこの歴史が広まることがないように、二人は世界中に散らばった欠片を壊し続けた。誰も知ってはいけないことだと思ったから、これまでの時間の全てを受け止めた。
子供ながらの正義感だったと思う。
少なくとも気が付いたときには遅かったかもしれない。
アルルと男の会話は続いている。
「異常というならあなたたちの行動のほうが異常ですよ」
「我ら『闇魂』に異常なんて概念はない」
「いつまでも固執するような執念深さはみっともないですよ」
「なんと言われようと関係ない。我らは“そういう風に生み出された”のだからな」
敵意というよりも激しい憎悪を感じる。
それがアルルたった一人に向けられているというのだから、彼女が行なっていた役目が重要だということがわかった。本来の役割に戻るように言い聞かせている男は彼女の仲間ということになる。
しかし、彼女は男を拒んでいる。
「そこのお前、邪魔をするなら消すぞ」
クロノスがため息を吐いて一歩前に出た時、穏やかに声を掛けられた。
隣のクロノアは物珍しそうに見ていた。アルルを抜いて、クロノスは男の前に立った。この世界では珍しいのか銀髪緋眼の子供に、男は目付きを変えた。
「肉片の一つでも残したいなら、素直に消えろ」
「脅しにしてはいささか、物足りない」
「これは脅しじゃない警告だ。俺は姉さんと違って気は短くないが、自分の目の前にいる相手がどういう存在かぐらいは理解できる」
「わかりやすい態度だ」
子供だということに油断している相手をぶん殴った。
瞬間的に魔力で極限まで強化した一撃は相手を建物まで吹き飛ばす。
体が建物に当たり、倒壊。
突き抜けるまではいかなかったが、崩れた建物から声が上がることはなかった。消えた男に仲間は動揺の色も見せなかった。これもまた異常だと思った。小さな子供が大人を倒すだけで化け物扱いされていたクロノスとしては時間が止まったようにしこりのようなものが残る。
それともう一つの違和感が手の中にある。
「なんだ……」
それがどういう理屈なのか、考えたところでよくわからない。だが、それはクロノスの中でまた一つの異常となった。
さきほどの攻撃の中でクロノスは二つの攻撃をしていた。一つは外部と内部を破壊する物理的攻撃。二つは手に込められた月の魔力による精神的攻撃。特に後者を主体に行なった。他者の意識に潜り込み、読み取るクロノス独自の攻撃は熟練した魔術師でも対処するのは難しい。
しかし、
(いまの感触……なにも感じなかった)
虚無感だけが手の中にある。
「俺の深層意識を探ろうにもなにも出てこないぞ、クロノス・クリスタル・ルナリア」
瓦礫の中から男が、そう言って出てきた。
「どうして俺の名を」
全身の獣皮が黒く染まり、不気味な黒い粒子と手には凹凸のない面を持っていた。他の連中も同じだ。
「お前は何者だ……」
背後でアルルの翼が辺りを照らす。街中の闇を光が押しやると浄化されたように色が定着する。
風の音が聞こえると失笑が聞こえた。
足下に広がる黒い闇以外の場所からどんどん影が形になっていった。
最初にいた者たちも同じ姿勢を取り、姿を変えた。
獣だ。
刃物で切り裂かれたような鋭い目つき、闇を塗り固めたような漆黒の毛皮は光を通さないほどだ。口と思われる場所からは白い牙はなく、見分けがつかない黒い牙が並んでいる。唯一、男だけが人の形を保っていた。だが、それもどんどん失われつつある。闇が侵蝕するように男の容姿を奪っていった。
その光景が心の中に大きな衝撃を与えた。
「どうしてそのような言葉が吐けるのかわたしたちはとても不思議で仕方がないよ」
「なんだと? 」
「不動の流れは誰にも変えられない。しかし、君がこの流れに乗らないということは神の運命から外れた予想外の出来事だ。本来の全ての命に与えられる使命も、運命も、宿命も君にはない。だが、ここに現れたということはとても残酷なことだと思わないか? 」
ゆっくりと面を被った。その瞬間、男の体が何倍にも膨れ上がった。周囲の闇が男に伸びている。アルルが起こした光が潰された。幻覚に思った刹那、クロノスはその時、仮面の向こうにある男から怒りの表情を見た。
「わたしたちの目的は世界崩壊の助力。これをもってして大いなる意思を完遂する」
「させるかよ」
クロノスは男の言葉に耳を傾けることを止めた。この世界が異世界でも構わない。現状を理解することも止めた。惑わされること、と惑うこと、謎と事態の解決策を考えることも放棄した。
自分の中でそれよりも優先すべきことができた。
魔力が全身を支配する。
「言葉が通じないなら死ね」
魔力を解放する。子供とは思えないほども強大な魔力が光の柱となって周りを飲み込んだ。白銀の光が世界に広がる。白銀の閃光が、男の正面で拳を放った。その瞬間、男は嘲笑うような声を零し、光に包まれた。目の前には倒壊した瓦礫の山だけがある。クロノスの光は獣となった闇魂たちも同時に消滅させたようだ。
本当の意味ですべてが消え去った。
大きく地面が揺れた。突然の震動にクロノスは振り返った。アルルが倒れていた。
『お前たちが足掻いたところで世界の流れは変わらない。決められた運命に逆らったところで待っているのは破滅だ』
男の声が脳に直接響いてくる。押し返そうとしても止められない。
アルルに駆け寄ると全身の痙攣が激しさを増した。
『この世界も間もなく消滅する。それも絶望に塗り固められて二度と元には戻らないだろう』
光を失ったアルルの瞳の中に男の姿を見た。精神を侵蝕しているのかクロノスにはわからない。
『招き入れたのが遅かったね』
「アルルっ!しっかりしろ」
感情によって枷が外れた。
手の中で爆発する魔力を気力で捻じ伏せ、アルルの体内に浸透させる。瞳の中で凶悪な笑みを浮かべる男に向かって力を放つ。
『忘れているようだから教えてあげるけど、君たち双子とわたしたちが会うのでこれで二度目だよ。クロノスは覚えていなくても、クロノアは覚えているだろうね』
「どういうことだ!」
『思い出せないならそれでいいじゃないか、君はとても運がいい。逆に彼女は運が悪かったとしか言いようがないね』
運がいい?
運が悪い?
一体なんのことを言っているのかわからないクロノスに対し、彼の腕の中にいるアルルは驚愕した。
二度目。
クロノスではなく、クロノアは覚えている。
力の抜けた呟きに意味はない。
「まさか……クロノアさんは」
その様子にクロノスは不吉な気配を感じた。と、同時にアルルの中にある邪悪な気配を掴んだ。体内を傷つけないように精密かつ繊細な魔力制御と同時に強大な力は男の抵抗を突破し、一気に大気に放り出した。どこまでもふざけた顔が宙に浮いている。
「くっ……」
無理矢理体を起こそうとして、横に倒れた。全身を蝕む、痛みに耐えながら、クロノアを見つめている。虚脱感からくる疲労はアルルの精神を追いつめた。
下品に笑う顔を無視して、強くいった。
「クロノア本当のことをいえよ」
最初から知っていたなら、クロノスも黙っているわけにはいかない。なにかを拍子に思い出したとすれば納得できたかもしれない。だが、クロノアの表情に拳を突き出した。衝撃が、大気を震わせた。
「知っていたよ。断片的に覚えている程度だけどね」
「どうして言わなかった」
包まれる拳は力を込めても動かない。怒りを宿す目にもクロノアは動じない。
「このわたしが“断片的”にしか思い出せない。これがどんな意味をもっているかわかる? 」
落ち着いた声に、クロノスは飛び退いた。沸々と滾るような濃密な魔力の流れがクロノアを中心に放たれている。その矛先は空中の顔に向かった。
「魔術的な干渉じゃない。世界……いや、創造主たる者の意思とでも言えばいいのかしら?
このわたしの記憶に意図的に干渉して操作するなんて芸当ができる術者なんて存在しない。断片的に覚えているなんて、わたしだから完全に消すことができなかったのね」
『断片的なピースでよくそこまで推測が立てられるものだ。優良な才能はわたしたちの理解を超えた場所にまで到達するとでもいいたそうだね』
「どうでもいいけど、わたし相手に中途半端なことをしてくれたことにお礼をしてあげなくちゃね」
『この悲劇にわたしたちはなんの関係もないはずだが、君の怒りは治まりそうにないね』
「音魔術――音と無の支配」
魔力が変化する。
「誰であろうと、わたしの領域に踏み込んだ者は殺す」
音が消えた。世界を奏でる音が止んだ。轟々と流れる不規則な風、衝撃波によって耳を襲う波、自分の発する声、手を当てれば聞こえる脈動すら感じない。
視覚から入る情報だけがことの最後を教えてくれた。クロノアを前にして力なんて無に等しいどんなに強くても戦えば全てを失うことになるそれが彼女に与えられた力というなら、この世界に生きる全ての人間に価値はないのかもしれない、彼女こそ選ばれた人間だと思っているからだ。
(クロノスさん……)
(しっかりしろ、いま助ける)
クロノアの影響下で思念の疎通も困難だ。戦闘による激しさはなくとも、彼女の身体から垂れ流される魔力が周りを砕かんと動き回る。地面がゆっくりと剥がれていき、視界の奥から急速に広がる大地の悲鳴を聞いて、クロノスはアルルを抱きかかえて跳んだ。
「クロノス、彼女から離れなさい。その女もいますぐに殺す」
背後でクロノアの声がした。
振り向きはしなかったが、男をすでに消した後だとわかった。そして、今度はアルルを狙っている。無音の世界を駆ける。どうしてか、いまのクロノアから逃げなければいけない気がした。無駄だと分かっていても、アルルを渡してはいけない気がしてならなかった。
腕の中で自分を見つめる瞳から力が抜けていく。
唇を噛み締める自分の姿、その奥に赤い光を見た。咄嗟に体を回転させたが遅かった。手の中にあった重さがなくなっていた。空いた隙間を埋めるように流れ込む虚無感を吹き飛ばし、クロノスは叫んだ。彼女の下に、 「逃……げてく……ださい」
口から零れる鮮血。
隣で高らかに笑う声に言葉は出なかった。
どうしようなんて思わなかった。体を貫いている細い腕が、引き抜かれる。無造作に振り払われた腕から、飛散する血が頬に付いたときには気持ちは決まっていた。感情に任せてぶん殴った。笑い声が止み、クロノスの視界から弾き飛ばされたそれは地面に激突した。
はやく、もっと速く。
それは自分の中での大きな変化だった。魔力を広域に巡らせれば、範囲内ある物事が手に取るようにわかる。
相手が動く前に叩き落す。
どうしてしまったのか、考えない。
ただ、感情をぶつけるだけだった。
きっと終わったときに自分自身を責めることをわかっていても止められなかった。動きを止めた場所で空を見上げて、ゆっくりと、とてもゆっくりと落ちてくる彼女を抱きとめた。背に感じる気配を無視して小さく呟いた。
「……月魔術――月の使者の祝福」
クロノスを中心に淡い青い光が二人を包み込む。
その間に、無数の鉄塔が隙間を埋めるように、向かってきていた。当の本人も意識していない。魔力による暴走は文字通りの破滅を意味していた。
意味を求めるなら、こんなことしなかったとやはり反省する自分がいた。終わりはすぐにやってきた。衝撃が体全身を震わせた。見渡す限り、黒一色で統一されているのは、凶器の矛先だ。気を抜けば肉片すら残らないだろう。限りなく本物を求めた結果。淡い期待は崩れた。
クロノス・クリスタル・ルナリア。
自分は化け物じゃなかったのか? それとも化け物だったからダメだったのか。敵を殺すことはできても、たった一つの命は守ることができなかった。力があってもなにもできなかった。
「俺は無力だ」
どこまでも続く黄昏の大地は、灼熱の熔岩によって草木一つ見ることがかなわなくなった。
生存者は一人だけ確認できた。しかし、彼女は誰もが死に絶える灼熱の中で存在している。
時間だけが過ぎていく。
星の命が消えていく。
このままどこへ辿り着こうとしているのか。
想像できない空想からは欲しい答えなんて返ってこなかった。
『泣かないでください』
背後からの声に振り返ると、そこに九つの光が浮いていた。気がつくと景色が変わっていた。周囲は白で統一され、一つの大きな扉がある。色の付いた光はクロノスの周りを回転しながら、形を変えていった。
「お前たちは何者だ? 」
『忘れてしまわれても仕方がありませんね。でも、これだけは忘れないでください』
「なにも聞こえないぞ」
『あなたは一人ではありません』
形が整ったところで、距離が遠ざかった。
突然の出来事に迫ろうと走るも、距離は縮まるどころか逆に拡がった。そうしている間にも形は色濃くなり、姿を現していく。視力を強化したがどういう訳か見ることができなかった。ただ、姿を現したのは人の姿をしていなかった。
生き物としては多種多様、知識としてある獣のような生物から人形のような外観の者、視界に治まりきれない巨体の持ち主から、伝説の生き物として認知されているなど幅は広い。どの瞳もクロノスを映している。誰もが黙って見定めているといってもいい。彼に対してなにかを訴えかけるように見つめていた。その中に見覚えのある色を見た。まさか。翼の生えた美女の温もりはまだ腕の中に残っていた。
「アルル……なのか? 」
呼びかけると、一瞬だけ笑ったような気がした。それがとても心地よかった。
「いつまでもこんなところで寝ていないで起きなさい、クロノス」
重い目蓋を開くクロノスの耳に、鐘の音が木霊した。欠伸をしていると、目の前にいる人物が机を叩いた。夕日を背景に、室内に乾いた音が響き渡る。さきほどの内容の続き……ではないようだ。
着ている衣服がまず違うし、自分の体から魔力が一切感じられない。それ以前に、この世に存在しない登場人物がいたら夢であってほしい。深呼吸をすると、意識が目覚めてきた。周囲の状況を記憶から引き出しながら、第一声を考えた。
「どうして俺の教室にお前がいるのか説明しろ」
眠たげな声に丁寧な口調が返ってきた。
「一日中机に突っ伏して眠っているクロノス・ルナリア君がこのままでは明日の朝まで熟睡しそうだったので起こしにきました。あと、お前って否定されたような気分になるからやめて。それにわたしにはセリュサ・ルーヴェン・ベルリカって立派な名前があります」
「それは悪かったな。授業というのは生まれて初めて受けたから、時間の過ごし方が分からなかったと言い訳させてもらう。あと、あんな程度の低い内容に頭を抱える魔術界の将来が心配だ」
二人きりの教室は数時間前まで、クロノスを除く多くの生徒たちが机に突っ伏していた。定期テストの時期が近かったこともあり、ペンを走らせる音はよく響いた。魔術構築理論の基礎と応用は記憶に留めておくほどの内容ではなかった。
「迂闊なことは言わないほうがいいわよ」
「言ったところで所詮子供の喧嘩になるだけだろ」
クロノスの言い方にセリュサは顔をしかめる。
だが、わからなくもない。
彼はそもそも素人の魔術師ではなく、世界に名高い魔術師の一人。当然、このような場所で習う魔術構築理論も幼少の頃より教師よりも熟知している。応用だって自分自身で幅広い成果を残しているかもしれない。過去から現在まで魔術という分野は常に姿を変えている。無から有を創り出すことが魔術の真髄。古代人が生み出した術式を理解し、自分の技に昇華させてこそ魔術師としての一歩が踏み出せる。
教科書に載っている強力な魔術を扱えて喜んでいるような場所に彼はいない。彼の背後には世界があり、力とは目の前の状況を突破するための自衛手段でしかない。他者とはなにかが違う。闇の中でしか生きられない存在は光の中ではその存在を極限まで抑えこむ。まるでなにかに怯えているように、誰にも知られないように他者との繋がりを拒むからこそ、
どこかに違和感を覚えてしまう。
どこかズレているように思ってしまう。
だからこそセリュサは、目の前の少年の行動一つが大きな問題に発展してしまうのではないかと考えてしまう。
個は小さくても身の内に秘める絶対の力を解放した時、その中には、死の臭いが混じることになるだろう。
子供の喧嘩にそこまでするとは思えないが、問題は避けたい。
教室に出てから堀に沿うように歩いていると、別棟から爆発音が聞こえた。
「まったく、喧嘩だけはやめてよね。ここにいるのはクロノスを除いてみんな魔術師なのよ? わかっているなら普通にしていなさい」
「素直に退散してくれる大人がいれば世界は平和だな」
セリュサの言うとおりにしていても、そんな状況に巻き込まれてしまえばクロノスにはどうすることもできない。
彼はいま魔術師に必要な魔力がない。
自分の半身に掛けられた呪いによって半永久的に魔力を封印されているからだ。その効果は時間帯によって消えるようになっているので、私生活を送ることに関してはさほど問題もない。ただし、それは普段と変わらない環境で日常を過ごしていればの話だ。現在、彼らがいるのはギルドではない。
二人が所属するギルド『星降る家』にいればギルドマスターであるマリアを筆頭にクロノスをサポートすることが可能だったが、とある一件からギルドを離れて遠方にあるボルダラ大陸にきていた。護衛として。
「適正年齢がわたしたちしかいないことも問題だけど、それ以上に格下しかいないからってクロノスは落ち着いた行動が取れないの?
仮にも月の使者でしょ。命狙われているかもしれないのに、バレたらどうするのよ」
「バレたら消すだけだ」
素っ気無く呟いているが、目は本気だ。
「その暴力思想を止めなさい」
その言葉をそのまま返してやりたいと思ったのは何故かわからなかった。
「本当にマスターマリアの考えはわからないわ。もちろん、クロノスのこともね」
「ここにきてその言い草はないだろう。ま、それでもマリアの考えはわからなくもない。どうしてここに派遣されたのか大きな可能性として二つある」
クロノスは校外を出てから街の光に向かって歩きながら、話し続ける。
その間にも陽の光は徐々に明るみを失い、代わりに夜の闇が空を覆い始めている。そして、セリュサの隣ではスイッチを入れたように一つの変化があった。
容姿としては黒髪だった色合いが白銀に変色し、菫色だった瞳が美しい宝石のような輝きを放つ緋色に変わった。それに反応して体の中心から蛇口を全開にしたように魔力が勢いよく流れ始めた。
「一つは世界規模で起きている魔物異常行動。イリティスタとの戦いの影響で、自然界の生態系が大きく歪んだ。それによって世界規模で『魔物狩り』を行なう必要があった。一般人に被害があったら、ギルドの面子丸潰れだしな。ま、俺は好かないけど」
「ひどい話よね。わたしはこういう状況にこそ前線に立ちたいのにここで子守とは……」
罪悪感はない、なぜなら本気の言葉だからだ。魔物に両親を殺されたセリュサは自分のような人を作らないためにギルドの門を叩き、太陽の使者として一時はギルドの最高機関、中央支部の魔導騎士の称号を得ていた経歴がある。そんな彼女はいまクロノスと同じ星降る家の仲間だ。
「物分りがいいなら言葉に気をつけろ。こんなところだからこそ、俺たちが派遣されたってわからないのか? ここは未熟者の集まりで、近隣諸国との繋がりも薄い小国。北は山岳地帯、南は森林地帯、西は大海原が広がる場所だ。空だって大規模結界が張ってあるわけじゃない」
「そういわれてわかったよ。つまり、魔物による被害がもっとも大きいと懸念されているわけね」
そう言われると広域に魔力探査を行使した。反応はない。
「もう一つは月の使者を恨む者のから俺の存在を隠すこと。俺の体のことを知っているのは現時点でマリアを除いてお前とアヴェロス、フリードと星降る家の受付係だけだ。無力な人間の時間帯に狙われたらそれこそ恰好の餌食だろ」
「『大翼』と『羽根』の連中ね」
「世間ではどういう説明をしているのか知らないが、大翼と羽根は異なる位置づけにある。大翼は天空の使者自身で集めた精鋭中の精鋭で、俺を狙っている以外よくわからない。五年前に十翼全てと戦ったがどいつも強敵だったぞ。羽根の連中は大翼の影に潜む、天空の使者に怨みを持つ劣化した雑魚の集まりだ。こっちも俺を狙っている以外理由はわからない。ただ、羽根の連中は大翼と違って犯罪行為にも手を染めている史上最悪の集団であり、いうなればアヴェロスと同じ馬鹿なことをしていた狂った連中さ。実力的に言ってしまえば、マリアは大翼レベル、セリュサは羽根の上位レベルだ。」
「アヴェロスさん……いえ、アヴェロスと同じって事は」
中央支部最高司令官であり、三騎士の三剣の一人神聖騎士のアヴェロス・ミラアンセス・カーマインは数ヶ月前の事件に深く関わった中心人物の一人だ。イリティスタという『超古代の負の遺産』が異次元空間で眠る、クロノア・ルナリアを手にするために起こした暴走は世界中を混乱させた。その暴走を可能にしたのが、世界最強の遺伝子からアヴェロスが創り出した一つの生命体だった。イリティスタを滅ぼすどころか助力してしまったことに、許されることではないが、彼はその地位から退いている。
「アヴェロスの馬鹿が俺の存在を世界中に広めた挙句、お前がパートナーだと告げた以上、太陽の使者が羽根の連中に狙われる可能性はある。あいつらは容赦がない屑としても知られているから、お前を捕らえたら屈辱と恥辱に満ちた拷問が待っているだろう。だから、捕まらないことを祈ってやるよ」
月の使者はあの日と同じ紅月を見上げた。
クリスタル王国が滅びた夜もクロノスは同じ空を見上げていた。
天空の使者が一瞬で滅ぼした母国に未練はなかった。ただ、あの時はどうしてクロノアがそんなことを知りたかった。でも、彼女は純粋に破壊を求めていた。異次元空間に消えても彼女の意思は世界を飲み込んでいる。
破滅こそ人類再生の鍵。
彼女が消える前に告げた言葉は現実のものになっている。均衡が崩れたことで世界が大きく傾いた。破滅までいかなくても、イリティスタの後に魔物が異常行動をし始めたのは偶然ではない。これが次の目的なら人類は避けられない終わりに近づいている。
「未来予測をするのは勝手だけど、そのときはクロノスも一緒に巻き込まれてもらうわよ」セリュサの感想は至極迷惑なものだったが、それも自分に課せられたものだと思うことにした。
「ここではわたしが先輩でも、実力的にはクロノスのほうが上、魔術が使えなくても本当はその『月の耳飾り(ディアソルテ)』があれば内包してある魔力で戦えるんでしょ? マスターマリアから聞いたけど、結構体術の特訓をしているらしいじゃない」
一般人となった当初、路上でマリアと買い物をしているときに喧嘩に巻き込まれ怪我をしたことがあった。
基本的に魔術師は肉体を強化魔術で強化してしまうため、基礎能力を練磨することをしないことが多い。クロノスは嗜みとして訓練を受けていたが、魔力がなくなったことによるブランクで動きはひどいものだった。
五年間、受付業務と兼任して毎日特訓した結果、相当な術者でない限り、多対一でも負けることはない。
「この先の未来であなたが元の体に戻るまでわたしが隣にいてあげるから心配しなくていいけど、頼りっきりはやめてよね。女の子は守るよりも守られたい主義ってことを忘れないこと。いつかクロノスが人を好きになる日がくるかもしれないから教えるけど、未来には無限の可能性があるってよく言うよね? でも、女の子にしたらそんなことどうでもいいの。わたしたちは心から好きな人と未来永劫一緒に居られればそれでいいの。それなのに世の中、ガサツな男が多い上に――――」
「お前の説教は長すぎて覚えられない」
クロノスは空高く跳んだ。耳飾りが一瞬光と、隣に美しい女神が現れた。
月の恋人。
その目はこの世界をどう映しているのかわからない。彼の目は彼女を、彼女の目は彼を見る。夜空に黄金色の道が描かれていく。どこかで叫び声が聞こえるが無視した。
「もう一度お前が現れるなら、俺は今一度剣を握ろう。それがお前にできる唯一のことだから……」
小さな呟きは夜の闇に消えていった。
その闇に彼はあの夢のことを思い返した。
異世界と光の世界の住人たち。
常人だったら夢の話だったと、流してしまうことだがクロノスはそうできなかった。なぜなら、後者はともかく前者は過去に実体験しているからだ。それがいまこのときに夢の内容として現れることはなにか意味のあることだろ思う。
まして、その内容が自分の記憶を疑うほど“変わっていた”なら――