力の化身
レプティレス王国とイシュラン王国の戦いは終戦へと向かっていた。雷将のフリードが単体でイシュラン王国領土に侵攻を開始したのだ。
イシュラン王国の各部隊はフリード個人による戦略を無視した力任せの特攻によって次々と数を減らし、幾人かの各隊長たちは戦場に足を付けることなく神の雷に倒れた。
彼らは汚染されていない普通の人間だ。イシュラン国王の命令に忠実に従う操り人形。歯向かいことを知らない彼らには、沈黙するほかなかった。イシュラン上層部でも穏健派を残し、強行派や武闘派を標的に消していった。生きた証を残せず塵となる以外の選択はなかった。
残された国民と穏健派は様々な憶測を交わしていき、生きているということに喜びと絶望を同時に感じていた。だが、フリードの提案は喜びを増長させた。
国落とし。轟雷が天空を支配していたのが嘘のように、静寂が訪れた。フリードによる停戦協定が申し入れられた。
その条件として現イシュラン王国、国王ディライ・イシュランの受け渡しが絶対条件として提示された。残された穏健派一同が罠ではないかと訝しんだ。なぜなら、フリード・レプティレス・ジルフォニアという人間がこの国を怨んでいるからだ。
キーファ・イシュランを捨てた国。
友のために血を流すことを神雷は厭わない。子供のような理由だが、フリードが動くには十分すぎる理由だった。『氷水の反乱』でも、歴史を紐解けば、根本の原因はイシュランにある。今回、種火を持ち込んだのもイシュランだ。戦争に終止符を打つためにはどちらかが滅びる必要がある。だが、滅ぼすなら、あのまま滅ぼせた筈なのにそれを止めてまで、協定を申し入れたことに疑問もある。仮に本当に誠の話なら残された彼らには天国のような話だった。
しかし、彼らは動けなかった……いつの間にかイシュランでは王たる人間の行方がわからなくなっていたからだ。
†
四日、魔術師としてクロノスは研究所に捕らわれたままだった。アヴェロスたちに動いた様子はない。何かを待っているのか、調査をしているのか――どちらにしろ、クロノスが住所不定、所在不明の研究所から帰されることはないらしい。クロノスをこのままにしておくことに問題はないようだ。カリンの中にある因子との共鳴反応でも見ているのだろうか。
どちらであろうともクロノスはこんな茶番に付き合わされ、うんざりしていた。もう一度あの男がきたら、あの世を見せてやろうかと凶悪なことを考えていると、アヴェロスが姿を見せた。
「二度と来るなと言った筈だが」
感情を剥き出しにした視線に、アヴェロスはうろたえることはなかった。確信を得た顔つきで隔たりから出てきた。右手には赤い液体の入った小瓶が握られていた。
「この数日、お前の体を調べていた」
「悪趣味だな」
アヴェロノスの持つ、小瓶はクロノスの血液だ。最初の戦闘で得た戦利品といったところか。気を失っていた時に何かされているとは思っていたので、驚きは小さくすんだ。
「お前の体細胞から完全な個体を生み出すために、髪や皮膚を用いた術式の構築だな。クロノアの後だ、理論は整っていた」
遺伝子構造は同じだ。男か女かはどうだったか……体格も性別間のものを除けば同じと言ってもいい。まあ、一人できたところ言わなくてもわかる。
「結果から話せば、術式は失敗した。何度もやったことだ、簡単にことが運ぶとは思ってはいない。クロノアの肉体構成を素に応用した術式でもお前の体細胞は無反応。反応すら示すことがなかった。原因不明。ここまで来てそんな事態を認めたくはなかったが、ようやくその意味が理解できた。普通に考えればおかしな話だ。あの日から六年以上経過しているにも関わらず、魔力量がこの程度な訳がない。意図的に制御してもこれは酷すぎる。どういうことか説明してもらおうか」
「そういうことはやった本人に訊け。ただし、生きちゃいないだろうけど、な」
「生きちゃいないか……やはりクロノアによって封印術の一式を体内に組み込まれたな。お前を取り巻いていた魔力……があれは装飾品によるものか」
「だとしたら、どうするつもりだ」
「そんな目で見るな。術式の正体なら観察していればすぐにわかった。結界の作用で判断するのに時間はかかったが、おかげで実験は滞りなく進みそうだ。今回はその報告に来ただけだ。あとは顔色を見にきたというところだ」
「無意味なことをしていたな。お前にしては数日も時間を要するなんて現役を退いて隠居して大陸の端っこでくたばっていろ」
「悪が消えない限り、私はこの剣を捨てるつもりはない」
「騎士として素晴らしい宣言だ。それなら、一人の人間を救う意味を込めてこの呪を外してくれないか?」
「化け物を籠から出すつもりはない」
卑しく笑うアヴェロスに、クロノスは顔を背けた。
両手が使えず、耳が塞げないことが苦しい。
「クロノアの細胞からクローンが生まれたなら、いいだろう。こんな実を結ばない実験なんてさっさと止めろ」
顔を背けたまま、クロノスは言った。
「兵隊はたくさんいたほうがいいだろう。それも屈強な最強の兵隊だ。恐れを知らずに敵を殲滅するだけの人材。お前だって最強の魔術師だ、理解できるだろ」
「お前の理想だけは理解できない」
強い魔術師が責任を持ち、民衆は平和に暮らす。強力な魔術師による支配体制が生まれれば、争い、暴走を抑え込むことができる。
その代わりに、私欲によって運命を弄ばれた生命が生まれることになる。
(狂乱者が)
戦い以外でのアヴェロスをこの世の人々は知らない。例えば三騎士の担当外の団員たち。中央支部の団員たち。各国の国王からの視線は、魔術師としての信頼度の表れだ。汚い部分を隠す隠れ蓑。
アヴェロスに決まった味方はいない。力による支配を念頭に力による支配力で味方を作り上げる。正義として、知名度のある中央支部や三騎士だが、彼ら団員のほとんどは心に傷を負っている。大切なものを失い闇の中に捨てられた
その、人間性の薄れた瞬間をアヴェロスは見逃さずに引き込んでいった。悲しみを力に変えさせた。絶望を復讐心に作り変えさせた。心身操作。巧みな話術というわけではない、アヴェロスだから感じとれる欠如した部分を穴埋めするだけでいいのだ。より劣悪に改造された心を持った戦士を作り上げた。
そんなアヴェロスにまともな会話能力を期待するだけ無駄だ。ただ一人、クロノアだけは人間的会話をしていた気がした。
「お前、その首筋の刺青は何だ」
近づいたことで体から伸びている赤い分岐した花のような刺青に視線を固定し、クロノスは尋ねた。アヴェロスは何も答えず、上半身を剥き出しにした。
「超古代の負の遺産にまで手を出したのか……」
背中一面を覆っていた。見ているだけで邪悪なイメージが脳内に現れる。
絶句しているクロノスを見下ろしていた。
沈黙を保ったまま、言葉なくクロノスを見つめ続ける。
マリアの持っていた古文書、大規模儀式用の絵の一部。
その意味は生命の反転と、定着。
超古代の負の遺産は、存在自体に意味を持つ禁断の断片集。自分を贄に存在を許すことで代償を支払い、効果を引き出せる。現代に引き継がれている存在は数少ない。いや、存在自体曖昧にされている。
アヴェロスにとって、カリンを生み出せたということが自分の活路になったのは確かだ。どこで知ったか、何を代償として支払ったのか。アヴェロスは語らなくても、カリンを見る瞳には希望が溢れていた。
カリンにとってアヴェロスというのは生みの親であり、肉体の調子を整えてくれる魔術師でしかない。自分の出生の秘密は特殊な溶液の中から聞こえていた。誰かの遺伝子から生み出されても、この自我はカリン・ハイドラ・イフリートの個人のものだ。
父と娘という関係に疑問を抱くことはなかった。自分に手を差し伸べてくれるのはアヴェロスだけだ。彼女にとってアヴェロスを失うことが最大の危機であり、致命傷になる。
だが、カリンが死ぬことはクローン体である以上避けられない運命だ。着々と進行している細胞組織の死滅現象を現代医学的、魔術的に防ぐことはできない。決まった生命の流れは平等な最後を演出してくれる。クローンでも最後は人間と同じ扱いで終えられる。
カリンがもしもクロノア本人だったらよかったと思ってしまう。
しかし、隠された感情を自覚すると複雑だった。
クロノアのことは嫌いではない。よくできた同い年の姉を嫌いと思ったことはない。だが、尊敬したこともない。断言できる。確実にできる。あの頃のクロノスが胸の中で大きくなるドロドロしたものが、なんであったかを知る由がない。今の年頃でも嫌いになりきれない。あんなことがあっても憎みきれない。クロノアも同じ気持ちだろう。
(下種が)
アヴェロスの背後にいるカリンを見る。顔が同じでありながら、その気持ちはまったくない。カリンに抱く気持ちは、複雑を通り越えてしまった。消し去りたい。アヴェロスに姉が従っているように錯覚してしまうことが、嫌だった。あの姉がアヴェロスを呼称したとき、素直に驚いた。
偽者は所詮、偽者だ。本物に近づくことはできない。それでも、周囲に影響を与えるのは、オリジナルの資質だろう。
「…………」
アヴェロスが口を開いた。何かを呟いたが、すぐに叫びに変わった。
だが、その言葉よりも別の声に耳を奪われた。
遠くから、絶叫する獣の声がクロノスの中で木霊した。
†
孤島。そこに男はいた。
イシュラン王国の穏健派たちがフリードの絶対条件に頭を悩ましているときに、豪華な衣装を汚して島に上陸した。数日前に気取ったものを頼りにボロボロの肉体を引きずってたどり着けば、そこにいた二人の騎士が襲い掛かってきた。
男がゆっくり歩いていることに疑問を思いながらも、彼らは自らに課せられた『誰も近づけるな』という命令を実行する。騎士の証である、剣から閃光が放たれると全身に切り傷が生じ、血が流れた。
それでも男は歩みを止めなかった。傷は浅く、出血量も少ないがいまの一撃を受けて逃げ出さないことはありえない。この島の秘密を嗅ぎ当てた敵対組織だろうか。それなら、生かしておくわけにはいかない。
水による大質量が男の頭上に展開されると、一つの塊が数百の槍に分かれ、視界のすみずみまで、戦場で散った兵士を弔う簡易式の墓標のように埋めた。骸と化した男はそれ以上動かなかった。
「こいつは一体……?」
三騎士の一人がそう呟いた。男に気がつかなかったのは、こんな場所にいるはずないといった先入観とその身にまとった衣服から威厳と権力が失われていたからだ。やせ細った顔は彼らの知る人物とは異なる。別の人間だった。知っていたなら、こんな事態にはならなかっただろう。あまりにも弱々しく、静かな装いが一国を統べる男だとは思わせない。
「漂流人民か? 粗末な格好だぜ」
「さっさと処理班をまわせ、アヴェロス様の手を煩わせるな」
粗末な格好なのは仕方がなかった。この男の体は心身が限界に達していた。ましてや、老いた肉体だ。騎士たちの言葉は正しかった。
『そうだ……煩わせるな』
声が聞こえた。二人の声ではない。
『ここら近辺から気配がした。我が主の気配だ。強い力の気配、全てを宵の闇に葬り去る死の香り……長かった、やっと見つけた』
まさか……騎士たちが剣を構える。墓地の中心地で天を仰ぐ死体の指が動き、雲の隙間から見える月を掴むように握りしめた。
『この体も使えない、お前の体を頂くぞ』
背筋が凍りついた。そして起ころうとしていること、すでに起こっていることを目にして理解できない現象に混乱に支配された。
生き返った。そんなありえない。
槍によって、頭、首、心臓、内臓、四肢を貫かれている死体が。
槍を分解し、立ち上がった。
『時は満ちた』
獣のように切れた瞳。向こう側の見える肉体。見え隠れする臓器からは血が流れていない。そこで、初めて二人は感じとった。腐った肉の臭い。死者の臭い。男はすでに死んでいた。ここに来る以前から朽ち果てていた。
足を踏み出せば体から不透明の影が現れた。二本の腕が突き刺さる槍を薙ぎ払った。地面が爆砕し、木々を飛ばした。
まるで手を払うように。
二本の角。大柄な肉体と三つ眼。その眼が二人の男を凝視すると虚空から強大な棍棒を召喚した。重圧に負のイメージが湧く。
口々に喋りだす。
『私の名はイリティスタ。天空の使者クロノア・ルナリアに仕える戦鬼』
秘宝に封印された、伝説の魔獣。
「化け物だ……」
三騎士の誰かがそう言った。経験が培った判断力で肉体を反射的に動かす。剣を抜き、魔力を走らせると真空の刃を解き放った。
「緊急事態発生、緊急事態発生!謎の生命体が最終防衛ラインを侵攻中!名をイリティスタ!至急応援を――」
その叫びの中、上空ではさらなる異変が起こっていた。
空間が裂けた。
剣で切り裂いたような、直線的な線からボロボロと崩れるように黒海が広がりだし、魔力の奔流が大地に降り注いだ。
イリティスタを出迎えるように。
悪夢が始まろうとしていた。
†
報告はアヴェロスにも届けられ、クロノスの全身がイリティスタの存在を確認した。アヴェロスはクロノスを一瞥して去っていく。クロノスに対して言葉を吐く時間すら惜しいという意味合いか、言ってしまえば水を差されたことに微妙に怒っていた。部下の失態に魔力が荒れていた。
その後ろをカリンが付いていった。これで心配していた事柄は解消された。しかし、クロノスには焦りがあった。
「アイツの気配を辿ったのか」
探すつもりが向こうから現れた。その意味を考える必要はなかった。イリティスタの真意を知っていれば悪い方向に進んでいる。
深層意識に働きかけ魔力をフィルターから通し、変質させた魔力を放出する。金属を引っかいた音が二、三回した後両腕に力を込めた。
「どうにでもなれ」
歯を噛み締め、魔力を腕に収束させる。高密度の魔力に建物が震えた。
「お前!何をしている」
カリン以外にいた見張りは残っていたらしい。クロノスの異変に戻ってきた。魔力の込められた剣を向けられたが、無視した。止まらないクロノスに衝撃はやってきた。
剣が折れた。クロノスに触れることなく折れた。さらに攻撃した衝撃が跳ね返ってきた。鈍器で殴られた衝撃に小さく体を丸めた。動かなかった騎士たちがクロノスを見て顔を青ざめた。何をしたのか必死に考えているようだった。
体内に異様な力が加わっていくのを感じる。
全身を金色の光が覆っていた。
溢れ出す力がクロノスに答えた。
王族の血とアルビノの因子。それと、クロノスが背負わされた天命の呪縛。不都合な制約たちはクロノスが命の危機に直面した時、守護する力を呼び寄せた。
月の加護はクロノスを守る盾だ。
人間でありながら異端であり、アルビノと呼ぶには残酷な運命によって力を持ちすぎてしまい、化け物の領域に至ってしまった。何者でもない、一つの生命体。
クロノス・ルナリア。
自分を見つめる三騎士たちの視線から優劣が逆転してしまったのをクロノスは感じていた。本よりこれが本来クロノスのいる世界だ。アヴェロスやカリンを相手にしている時、こんなことをすれば目の前の者たちはいなくなってしまう。彼らに罪はない。肉体は臨戦態勢を保っていた。
世界が『月の使者』と呼ぶクロノス。クロノスは自らを最強の魔術師の一人であると認識している。また、自分の能力が一対一の戦いに向いていることも知っている。クロノスの得意魔術、月魔術は周囲の魔力質を自分の思い通りの形状に変形させる特性だ。
王族の血が常人を遥かに超えた魔力量を提供し、アルビノの因子がクロノス常人には理解できない影響を与える。最高潮の状態まで活性化された肉体は、過去に比べたら異常だというのにアヴェロスが肉体を調べた時、彼はなんと言っただろうか?
表面上でしかものごとを見ることができなかったのか、難儀なことだ。
クロノスを覆う金色の光が月の加護。特定の条件でクロノスを物理的な攻撃から完全に守ってくれる。絶対防御。しかし、魔術師であるときにしか盾の効果はない。その理由はクロノスにもわからない。
また加護が働いている間は、クロノスの力は底上げされる。
それはつまり……
右腕が束縛から解放された。次いで左腕が自由となった。足の拘束も破り、クロノスは久しぶりの開放感を全身で感じた。
我に返った剣たちが豪雨のように降り注ぐ。その全てに対してクロノスは手を横に動かすだけで応じた。衝撃波が、轟音が研究所の壁に人間を磔に処した。
呻き声すら上がらない。完全に白目を剥いている。
「正当防衛だ。許してくれ」
自分がやったことにクロノスは落ち着いて呑みこんだ。衝撃波によって建物の外への道が開けた。何層もあった天上や壁は形状を残しながら、巨大な穴を開けていた。
磔にクロノスが近づくとその中にいつかの男がいた。胸の中心が陥没しており、右足が膝からなくなっていた。吹き飛んだ研究所の残骸に顔の半分を奪われていた。他の者も同様だ。三騎士の実力もこの程度だ。格下としか戦闘を繰り広げない彼らは自分よりも強い者と遭遇した時の対処を知らないのだろう。どこかの国のように多勢なら勝てると思ったのかもしれない。
だが、そんな彼らもこのありさまだ。
クロノスにとって一割の力も出していない。ただ魔力を収束し、集約し、凝集し、圧縮し、解き放っただけの一撃だ。これが化け物の理不尽な力だ。
「制限だけはどうにもならないか」
クロノスの中で五年間感じている気配が続いている。この気配が消えた時、全てが終わっているはずだ。
「今日で決着をつけるぞ、イリティスタ」
王族の血が全身を駆け巡っている。自分の体を内側から最強へと作り変えていく。月の使者として覚醒する。
いつかクロノスが望んだことだった。
周囲の人間にはああいってはいるものの、クロノスの深層意識は別のことを考えている。真実と嘘が混ざっている。
三騎士を全滅させた力を望んだ時があった。それは小さい時に心の中で無意識に思ったことだった。
クロノアが全てを滅ぼす太陽ならば、クロノスは全てを包むこむ月になりたかった。全ての人々を魅了して、虜にして、何よりも鋭く頑固に何者も寄せ付けず越えることのできない絶対的な存在に憧れた。
それが叶うのに時間はかからず、叶ったことで別の世界を知ってしまった。
研究所を出たクロノスは騒ぎのほうへと、跳んだ。深緑の木々を踏み荒らし、反り立つような山肌を越えた島の反対側だ。
山の中腹を吹き飛ばしたクロノスは足を止めた。
その先はすでにイリティスタとカリンとの戦いが始まっていた。カリンの生み出した炎によって焼き払われた上でイリティスタが棍棒を振り回していた。
巨体とは裏腹に速度のある打撃が、死角から放たれていく。それをカリンは冷静に見極め、かわしていく。
アヴェロスの姿はない。どこかで様子を探っているのだろう。
振り上げた棍棒が地面に接触すると、大爆発に土石がカリンを襲う。大小さまざまな石弾を、カリンは魔力を高密度に高め纏い超高温の塊として立ち向かう。触れる直前に石が赤く変化し、溶けていった。体に触れようとするものも同じだ。
手を突き出すとオレンジ色の光が一瞬満ちた。カリンの手から放たれた膨大な熱エネルギーはカリンが纏う熱量を上回るらしく、クロノスの足場が影響で溶け始めた。拡散しないよう一点に収束したことで破壊力は抜群だ。イリティスタの右腕が消失した。熱線の通り道の後は水気のない砂の道ができていた。
クロノスと戦ったときよりも力を出している。
それをカリンは次々と放つ。森林地帯は砂場に姿を変えていき、イリティスタは体を失っていく。空気は乾燥し、呼吸もままならない。だが、鬼は冷静に言った。
『お前は私の主ではない。私の主の扱う炎は煉獄の炎。漆黒戦鬼を追いつめたものはこんな生ぬるいものではなかった』
失ったはずの部分に不透明の泡が噴出すと元の姿に戻った。
『私のこの宿には有効だが、私の魂を燃やし尽くせると思っていたなら笑止。その不愉快な顔と共に消してくれる』
戦鬼が咆えた。瞬間、である人間がイリティスタの肉体に吸収された。不透明の肉体の中で絵の中に閉じ込められたような姿。巨大な二本の足が地を踏むと大地が震えた。胸の中心に顔だけを外に出すと鬼は跳んだ。巨大な口を開けると魔力が集まり始めた。カリンが瞬間移動で、イリティスタの背後を取るも、そこにイリティスタはいなかった。
頭上。巨大な魔力の塊に押し潰された。離島が吹き飛んだ。巨大なクレーターが海水を巻き込み三日月の地形へと変化した。泡が体を修復していくイリティスタに海中から炎の槍が連射され、イリティスタの体を焦がす。水しぶきの中から流星のように飛び出すカリンがイリティスタの顔面を殴った。
イリティスタが唸った。
カリンの手首までに収束されている魔力量にクロノスは舌を巻いた。保有している総量の四割をつぎ込んでいる。
確実なダメージを与えた。
拳士の連打にイリティスタが反撃を躊躇しているように思えたが、動きを止めたのはカリンのほうだった。髪の毛の色素が赤から白色に抜けていくとエネルギーが切れたように地面に落ちていった。
『面白い、今度はお前を宿としよう。あの娘よりも馴染めそうだ』
落下するカリンをイリティスタは握り締めると自らの魔力で縛り、地面に投げた。いまのカリンからは魔力を感じとれない。
魔力消費によって自己生成できる魔力が底を尽いたのかもしれない。カリンが生まれたのがいつだかわからないが、膨大な魔力を持っていても正しい制御法を知らなければ枯渇によって硬直する。
別の場所から声がした。剣を持って一身に特攻をかける者たち。それぞれが属性を放出し、巨大な槍となってイリティスタを狙った。アヴェロスの指示だったとしたら……動くよりも結果は早く訪れた。
喰い潰された。
巨腕から魔力が滲み出すと夜の闇がそこから広がった。例えるなら巨大な水かき。イリティスタが払うように被せると、もう消えていた。
おそらくは、取り込まれた。イリティスタの力とされたようだ。イリティスタから発せられる魔力の波動が強くなったのがその証拠だ。
「ちっ……どうもこうも最悪だ」
魔力量が有限なクロノスに対し、イリティスタはほぼ無限だ。少なくなればいくらでも取り込めばいい。この島から餌がなくなれば大陸に飛べばいい話だ。厄介なことこの上ない。
倒す手段が絞られていく。次第に選択したくない手段だけが残されていった。
二つ。イリティスタがこのままでいてくれるか、それとも……とにかく、苦しい展開にクロノスは顔をしかめた。
『そこにいるのは分かっている。出てきたらどうだ、月の使者』
イリティスタの言葉はクロノスに向けられていた。威圧的な視線はまっすぐクロノスを捉えている。アヴェロスの視線もどこからか感じる。接近することに躊躇いはなかった。
クロノスは高ぶる魔力を抑えることなく、全身を包み込む金色の加護をきらめかせ、乾燥地帯に足を踏み入れた。焼け焦げた地面から放出される熱気に全身の水分が失われていくのを感じた。
『久しい姿だ。初めて戦った日の事を思い出す……小さな童が私たちの封印を解き、簡単に捻じ伏せた日のことを……緋色の瞳、白銀の髪、忘れもしない神の仔よ』
素顔のクロノスにイリティスタの嬉々とした声を聞いた。
『私の最大の障害はお前だ。お前を消して私は主の下に帰らせてもらう』
「それは無理な相談だ」
イリティスタの背後で倒れているカリンが動く気配はない。魔力の波動は肌に感じる。生きて入るだろうが当分は目を覚まさないだろう。
今は雑魚の肉体を器にしているが、カリンを器にされたら想像を絶する。素直に殺してくれと頼んだら、殺してくれるだろうか。
肉体を持たない亡霊。
『わかっているだろう、無駄な抵抗だと』
「いいや、わからないね」
体内で魔力が疾走するのを感じる。全盛期からさらなる成長をこの体は行っている。
両目の緋色が真紅に染まる。
その瞬間、クロノスの腕が消失する。
一瞬、イリティスタが早く動いた。宙に逃げると足下が爆砕した。
クロノスの周囲を漂い待機する魔力の塊。イリティスタに指を向けると一斉に射出された。
「レンとの約束だ……クロノアの厄介ごとは全て俺が片付ける」
『その眼。その眼が私を楽しませる!』
イリティスタの体に着弾する形状を矢にした塊は爆発と衝撃を披露した。逃げる隙を与えず、攻撃は状況によって変化させる。
クロノスの攻撃はイリティスタに有効なダメージを与えていない。イリティスタの動きを止めているだけにすぎない。再生を繰り返すイリティスタを破壊するには本体を狙わなければならない。イリティスタもそれをわかっているから、反撃をしない。クロノスが仕掛ける様子を眺めて楽しんでいる。宿を守るように不透明な肉体が覆い隠している。
それは、宿が限界に近いことを意味している。ミュルアークのように威力を制限されていた場所や他人傷つけない戒めがここにはない。
ここまでの条件が揃うことは滅多にない。
「くだらない」
攻撃を中止し、魔力を手の中に集約するとクロノスは呟いた。
「本当にクロノアが関わることはろくなことじゃない。その度に俺やレンが苦労した……今回もその延長線上に過ぎない。だから、終わらそう……お前の呪縛は俺が解いてやる」
クロノスの脳裏に、自分を陥れた姉の姿が浮かんだ。
「お前に月の祝福を」
化け物が動く。
†
離島の見える崖にセリュサたちはいた。
「まずいわね」
そう呟いたのはマリアだ。セリュサとフリードは強い魔力の波動を感じながら、戦いの様子を眺めていた。
「イリティスタと衝突したのね。夜だとはいえ、最初から膨大な魔力を消費したらただの人間になってしまう」
「イリティスタって何だ?」
「イリティスタは五年前に消滅したクリスタル王国に秘蔵された超古代の負の遺産の一つよ。正確には特殊な装飾品ね」
「それは……」
「私もクロノスから聞いた話だけど、特別な魔獣が封じ込められているらしいわ」
驚愕するセリュサをマリアが制した。
「五年前にクロノスが私と出会ったときに簡単だけど教えられた。信じられない話だけどイリティスタというのは意思のある装飾品で自らが認めた主には絶対服従し、自らの力を解放するらしい。古代書物の一説によると、魔獣というのは相当たちの悪い化け物よ」
「クロノスはそれを破壊しようとしているのか?」
フリードの鋭い目がマリアを捉えた。マリアの発言は世界を転覆させかねない大事だ。そして、月の使者が現れる理由。
レプティレス王国を舞台にして起こったこの争いの黒幕。
「いまの世界が五年前の天空の使者によってもたらされたものなら、その持ち物を野放しにしておいたらどうなるか……」
この世にいない人物がもたらした戦争。誰を咎めればいいのか、フリードの拳が朱に染まった。
「まあ、クロノスの話によるとイリティスタには特別な条件下でしか真の力を発揮できないそうよ。装飾品に封じ込められている間は、装着者の肉体を奪い、操り、暴れるらしい」
「特別な条件……主のことか」
「そういうことらしいわね。でも、クロノア・ルナリアはこの世にいない。だから、イリティスタも眠り続けるはずだった」
世界を敵に迎えたクロノアが投じた一石……イリティスタが適合できる肉体はこの世にないと思っていた。
「アヴェロスが連れていたクローン体が、条件を満たす可能性があると言いたいのか。だが、オリジナルの劣化で補えるほど安易なものなのか?」
たった一つの過失。理想と幻想の妄執にとりつかれた男が全てを捨ててでも得たかったものを手に入れてしまった。誰も想像できない事態に誘ってしまった。
「それは誰にもわからない。アヴェロス自身、そんなこと考えてもいなかったでしょうね。そもそも超古代の負の遺産であるイリティスタの存在を知っていたとは思わない。クロノスも人造化身計画後にイリティスタを知ったと言っていたから答えは神のみぞ知るってところね」
イリティスタがクロノアの何を基準に主として判断するのかはクロノスにも想定できない。魔力なのか、肉体そのものか、アルビノの因子なのかわからない。だが、クローン体の肉体を奪われたら厄介なのは間違いではない。
「仮に条件が満たされイリティスタが真の力を発揮した場合、いまのクロノスではどうすることでもできないとも言っていた。それだけイリティスタは強大な敵よ。私たちが立ち向かったところで勝てる見込みはない。ただ、遠くで見届けるしかないのよ。私たちにはそれだけしかできないの……」
クロノスでも危うければ……月の使者でも難しい相手に立ち向かうことは自殺行為だ。フリードの雷もセリュサも破滅もマリアの守護も通用しない。
「この先でクロノスは戦っているのか」
「イリティスタは仮初の体。対するクロノスは制限のある体。アヴェロスの下に捕まっているなら、クローン体も混戦していると仮定しても想像できない非常にデリケートな事態よ。極端な話になるけど、死にたくないなら行かないで」
その言葉はフリードよりもセリュサに向けた言葉だった。ギルドマスターとして、状況を考えれば当然の判断だ。
「どうしてもダメですか?」
いままで沈黙していたセリュサが口を開いた。迷いのない表情、力強い瞳は遠方に位置する離島、魔力の波動が発せられる島の様子を見つめていた。
「パートナーとして私は行きたい」
マリアがセリュサを見る。刹那、セリュサの顔から血が流れた。その横では血が宙に浮いていた。マリアの指先から伸ばされた極薄の魔力の刃が切り裂いたのだ。
「いま、この瞬間あなたは何を考えたかしら? ギルドマスターから攻撃されるなんて思わなかった? 実力を過信しているの?
捨てたとはいえ中央支部の魔導騎士に選ばれたということで舞い上がっているのかしら? パートナーとして行きたい?
死にたい、の間違いでしょイリティスタだけじゃない、クロノスがクローン体からあなたたちを逃がした意味がわからないの?
実力不足だと判断したからよ。勝てないの。太陽の使者が世間では名付きの実力者でも今回は舞台が違う」
「それは……それでも……」
「私の殺気で震え上がっているようなら話にならないわ」
マリアの本業は守りにある。そのマリアが放つ殺気なんてフリードが放つものに比べては粗末なものだ。だから、これに怯えているようでは話にならない。
「なら、どうすればいいですか!私はこの場所でパートナーが死ぬかもしれない状況を待っていなければいけないのですか」
「あなたはクロノスを信用しないのね」
「…………」
マリアの瞳は無垢のまま、セリュサの瞳を射抜く。全てを内包する母なる優しさを捨てた、この場に必要なのは現実を見る眼だ。
「…………私は」
「問題児はクロノスだけだと思っていたのに、噂は所詮、噂だったのね」
その言葉でセリュサがマリアを見た。瞳に変化はない。だが、震えは弱まっていた。
「太陽の使者は頭脳明晰、容姿端麗で人望も厚い。任務成功率100パーセント。冷静沈着に物事を見極める実力は年齢に反して高い。だけど、実際はどうしようもない情熱家。仲間意識が強く、我を忘れることもある。状況判断能力も乏しい――」
マリアの言葉には皮肉めいたものが混じっているように思えた。
「フリードさん、ここの依頼はもう完遂でいいの?」
マリアがセリュサの頬に触れると傷がなくなっていた。フリードは頭を掻き毟ってから告げた。
「依頼は完遂された。これでお前がここに留まる理由はない。好きにしろ」
「ありがとうございます!」
「それなら、俺が途中まで同行しよう。皆をお願いします」
フリードが部下に事情を告げて、セリュサを追いかける。
「守り抜きます。青海の癒し手の名にかけて」
残されるマリアは深く頭を下げた。
「感謝する」
フリードは雷を化して飛んだ。
マリアの感触に嫌な気配を覚えた。頭上からとてつもない憎悪を感じる。離島の上空、黒雲から放電する稲妻が走る中、厚い雲が開け、どこまでも黒い世界が広がっていた。
「そんな……空が」
離島を呑みこむように拡がる亀裂、異変にマリアは呟いた。
「まるで……」
クロノスとイリティスタの戦いに呼応しているかのようだ。
マリアの呟きに後ろの部下たちから声が上がった。マリアは空を見上げ続けた。
これから起こるであろう、出来事を見届けるために。
†
太陽の使者の噂ならフリードも聞いたことがある。しかし、目の前で必死になる姿を見るとは思わなかった。それがフリードの正直な感想だった。海面を跳ぶのにセリュサは何度も失敗していた。普段の集中力ではないのか、バランスを崩しては、セリュサは何度も転げそうになっている。
「大丈夫か?」
セリュサの動きに合わせるのは、フリードにすれば一般人を相手にするように軽い運動だ。話しかけるのに問題はない。
「ありがとうございます」
セリュサの顔色はいいものではない。だが、諦めているようにも見えない。セリュサがこれから向かう場所から、流れ出る波動にはフリードでも躊躇してしまう。
彼女は一般人だ。フリードと同じ世界を生きるものだ。それなのに彼女は自らの意思で境界を越えようとしている。彼と同じ世界に進もうとしている。いつかのフリードのように……
岩礁が連なっている海面は渦潮の流れが激しい。崖下は穏やかな流れでも、少し進めば流れは一気に変わる。足を取られては助かるのは難しい。本当なら、別のルートを使用すれば安全に行くことも可能だが、時間がかかる。この場面において、時間の浪費だけは避けたかった。魔力の影響で変質した風が刃となってときおり、襲ってきた。避けるのにも手間がかかる。
緑が残る砂浜に到着すると、その先には変貌した山のようなものがあった。ここからまっすぐ向かえば、彼がいる。
「ここで結構です。ありがとうございます」
セリュサはフリードに頭を下げた。
「クロノスにも言ったが……」
フリードはあの日話した言葉を口にした。
「もしも、無事に戻ってくることができたら、レプティレス王国の再建に協力してくれないか?
イシュラン王国は国王の罪状で領土はレプティレスのものになる。国土が広がれば護衛も強いほうがいい。俺も魔術師の指導に当たりたい。二人の実力は申し分ないどころか、国民全員が納得する。考えてくれないか?」
誰かを守るために、ギルドメンバーになった。この力を人々のために役立たせたいと望んだ。その近道をフリードが示してくれている。
だが、セリュサは首を振った。
「申し出はありがたいのですが」
「いや、構わない。悪かったな」
「そんなことないですよ。クロノスは喜ぶと思います」
人として生きるセリュサと違い、アルビノであるクロノスには必要としてくれる人や場所が必要だ。セリュサはアルビノのことをよく知らなかったが、マリアの説明や世界の裏側の事実を知ればいくらでも風当たりの悪さがわかる。
そう感じる中で一つだけ不安がある。
自分がクロノスを目の前にしていままで通りの自分でいられるかどうかという不安。その正体と力量を知ってしまったことに対して、クロノスを見てどんな風に接すればいいのかわからない不安。
だが、クロノスのパートナーとして恥じる気持ちはない。
二度目の今回もクロノスと一緒にいて嫌だと思ったことはない。
いままで見てきたものがクロノスの本心だと思いたい。
生きていて欲しいのだ。
それこそがセリュサを突き動かすものだと、セリュサ自身は知らない。
「お世話になりました」
「いつでも来てくれ、レプティレス王国全員君たちを歓迎する」
再び頭を下げたセリュサに、フリードはどこかすっきりしたと言葉を投げかけた。
「無事に帰ってこい」
では、また会おう。
そう言って、フリードは元の道を飛んでいった。あのままマリアたちと合流して事態に備えるのだろうか。
たぶん、それはしないだろう。マリアに守護を頼んだいま、フリードがすべきことはもっと大きい。戦うためではなく守るために彼もまた動き始めた。
一時の共闘が終わり、それぞれの岐路を進む。
フリードと共にいた時間は短かったが、その間は決して無駄なものではなかった。フリードのような人間がいればあの国は平和でいられるだろう。自分たちにその隙間を割って入ることはできない。今度は客人としてあの国に出向かうことが楽しみに思う。だが、その未来を実現するためには目の前の現在を突破する必要がある。
セリュサは微かに震える手を握り隠すと歩き出した。
フリードが去ってから肉体にかかる負荷が増したような気がした。彼がいたおかげでセリュサは無事だったのかもしれない。重い足取りで砂浜を抜けると血塗られた密林に入った。
湿気に鉄の臭いが充満し、意識がより重くなる。靴底で引いた水気に足が滑る。
重圧。島全域を支配する魔力の重みに体がいうことを利かない。
殺気。心を鷲づかみにされて生きたまま抜き取られるようなイメージが精神を狂わせようとする。
だが、どこかに悲しいものを覚える。
肉槐として転がる彼らも同じものを感じだろうか?
目の前に倒壊した建物が見えた。人の気配のない無人の廃墟。
アヴェロスの研究所。セリュサを拾ってくれたあの老人が生きた場所。心の奥底でいまだに信じられない感情。セリュサが見てきたアヴェロスが行ってきたことをいまでも信じられない。多くの世界を教えてくれた。信じたくない……でも、ここには老人の魔力の残滓が残っている。事実が重くのしかかる。
その背後での爆発音。戦っているここまでこられた。足の震えはなくなった。重圧にも殺気にも臆することはなくなった。
死地。
これから向かう先には常識の通用しない光景が広がっているだろう。きっと頭の中で考えている以上に、激烈な光景が起きているはずだ。セリュサが見てきた世界を超えた世界に足を入れる。
覚悟はできている。
魔力を走らせて跳ぶ。心が簡単に折れそうな場所に来たら、あとは精神力の戦いだ。実力よりも自分を保っていられることを優先する。
着地した場所からすぐに跳んだ。直後、足下が爆発で吹き飛んだ。バランスと崩して落ちる中、岩肌を掴むと体勢を変えて跳んだ。削られた粗い岩で服はボロボロだ。
破壊だけが続く場所に安息の時間はない。
セリュサは反対側の見える位置で足を止めた。二つの光を見た。
戦う地が消滅し、海が広がる。
ぶつかり合う度に島が削り取られている。魔力に押しつぶされ、粉々に砕け、沈み落ちる。セリュサの場所も危ういかもしれない。
なのに、島を侵蝕する魔力はある一定の場所で止まっているのはどういうことだろうか?
「空間に亀裂が……」
セリュサは視線を空に上げた。そこにはどこまでも黒い世界が蠢いていた。
だが、その奥から目に見えない何かがこの島を見ているように思えた。史上最強の魔術師、天空の使者がいる場所。彼女なら見ているのかもしれない。自分が用意した舞台を眺める観客として。
この場所にいても圧倒的な舞台に言葉がない。これが魔術師の最終形ならどの魔術師も子供に感じてしまうのは当たり前だ。
この島は二者の戦いによって原形を感じさせないくらいまで破壊されるだろう。さらに最悪がとどまることなく続くならば王国そのものも的になる。
そのことに対しての恐怖感はない。自分たちが起こさせない。
止めていた足を動かし、目指す。
クロノスの元へ。
†
意識はハッキリと事実を演じた。
切り裂き、切り崩し、切り殺す。
無限循環を目の当たりにしても止められない自分を感じ、そしてその工程を嫌わない自分がいることも確かだ。
人が生きるために、辿ってきた道筋を記録して生きているのがその例だ。生きること自体に意味はない。だが、それを完遂するまで生きた時間や偉業がどれほど誇らしいものなのか、あてもない未来を描くことは重要だ。
思い返すことが心地よいのだ。思い出すことに苦労があっても、その瞬間だけは当時を生きたことに若返ることができる。
内で枯れていく心を咲かせることができる。
荒れ狂う戦場は自然界の終わりを示すような風景になっていた。クロノスは愚直にくる攻撃をひたすら切り裂き、切り崩し、切り殺した。
だが、その先に待っている遭われもない現実だ。こちらの生命力を無限に吸い込むだけのはけ口、どこに答えがあるのか分からない心を惑わせる現実が、一撃ごとに現れる。
自分は破壊する者だ。癒す者でも守る者でもない。血筋がこうさせた。人間は敵であって、味方ではない。大人の感覚が子供に影響を与え、一つの環境を作り上げた。不幸という誰も望まない場所を生み出した。
そんなこと言い訳だと、自分でもわかっている。わかっていてもそれをどうにかしなかった自分の落ち度だと、後悔の波は治まることがない。クロノアやレンのようにしていれば変わっていたのかも知れない。
姉を殺し損ね、クリスタル王国が亡くなった時からこうなることはわかっていた。後悔は何をしても襲ってくる。その中で、クロノスは誰よりも逃げる道だけを選んでいたに違いない。立ち向かうことをしなかった。
痛み。灼熱が燃え広がるように思考を中断させた。
いまは相手を滅ぼすだけだと。
この命はそのために生かしてきた。
クロノスを覆う死線の外にいる戦鬼。イリティスタが腕を動かすだけで大気が凝縮され塊となり、手足として、暴力の限りを行使する。
これを破壊するのがクロノスの世界だ。化け物が生きる、化け物の世界。
死線を走らせれば風は解ける。イリティスタの鋼のような肉体を細切れにする。そして、瞬時にそれが元通りになる。本体に内蔵されている魔力量は以前よりも多い。この日のために貯蔵してきたと思っていいぐらいだ。
繰り返される攻防。だが、その中でクロノスだけ力が弱っていくことを感じていた。全身を覆う魔力が本当に微かだが減っている。
同時にイリティスタの攻撃が勢いを増していく、さらに規模を広げて凶暴になっていく。破壊の力が増している。
切り裂く毎に力が要る、切り殺す毎に力が要る。両者の中で少しずつズレが生じていた。それは一つの始まりを意味していた。時間は有限であることを、知らしめた。イリティスタの肉体強度が増すこと、破壊力と再生力が上がっていく過程で、クロノスだけが弱体化していっているからだ。
小技で圧倒することはできても、致命傷を受けるのはクロノスだ。
しかし、それも次第にできなくなる。
クロノアの笑い声が聞こえた。
そんな気がした。
ほぼ同時に、イリティスタも自らの力の増長に疑問を抱いたようだ。力が増す。イリティスタ自身でも制御ができないほどまで上昇する力に肉体が変態し始めた。体を凱甲が覆い始めた。イリティスタの外観が獣の装いから騎士のように変化した。頭上に向く視線を、クロノスも追った。
魔術師となった目だからこそ、それが見える。
空に巨大な亀裂があった。
この島ほどの地割れは、それ以上の広がりは見せない。見えない魔手が亀裂を広げるように徐々に円に形を変えていく。
蠢く闇が雪のように落ちてくるような光景。内部では乱気流のように魔力が荒れ狂っている。
「異次元空間」
どちらともなく、あるいは同時に、クロノスたちはその言葉を口にした。
そこに展開されるのは確かにあの日見た異次元空間だ。その中に身を置けば永遠の呪縛に絡め取られる。別次元の入り口。しかし、入ったら最後どうなるかは誰もわからない。混沌の象徴がそこにある。
「どういうことだ……」
異次元空間がこんな自然発生で現れるのは、クロノスにとっては初めてのことだ。あの日見た異次元空間はクロノアによって人為的に引き起こされたものだ。
もちろん、それはクロノアだからできたことだ。膨大な魔力によって空間を無理矢理こじ開けるなんて芸当を一般人ができるはずない。
それが、なぜいまでてくる?
なぜいまここにある?
脳裏に姉の笑う声がする。この瞬間にこの場所で、この機会に現れた異次元空間。この世の終わりを想像させるほど、巨大で、壮大な異次元空間がある。
まるで、いままで好機を狙っていたように。
天空を支配する。
それは一瞬、クロノアのように思えた。
人類が手の届かない果てしなき空の世界。クロノスが見てきたたった一人の姉がたどり着いた境地は目と鼻の先にある。
クロノスを見ている。
『感じる……主の気配を感じる』
イリティスタが口々に叫んだ。
『そうか異次元空間に飛ばされたのか、それならまだ生きている可能性がある』
イリティスタの言葉は、決して聞き逃していいものではなかった。
「なんだと?」
聞き返す。力を弱めることなく、抗うクロノスには、余裕こそなかったが、それを知らなければいけなかった。疑問を抱いたままにすれば、能力の精度が落ちる。動きが鈍れば、それこそ終わりだ。
イリティスタはクロノスの石を汲み取ったように言った。
『そうか、お前はこの世界の人間だったな。私やディアソルテのように異次元空間を越えてきたわけではないのだな。なら、知らなくても仕方がないか……』
イリティスタは口を笑わせて告げた。
『異次元空間に飛び込めば生命活動は空間の影響を受け、活動を強制に停止される。死とは違う、文字通りの停止だ。死ぬことはなく、動けないと言った方が正しい』
意識が遠のいた。心配が停止したように硬直した錯覚、言葉を失った。
『信用していない目だが事実だ。人間たちの考える異次元空間はそのような場所だ。肉体を引き裂かれる、精神異常をきたす、憶測でしか語られない世界は間違いだ。だから、私の主は生きているのだよ。私がこうしてこの世界に辿り着いたように、ディアソルテがこの世界に導かれたように全ての異次元は繋がっている。
だが、異次元も完璧なものではない。無制限ということはないのだよ。物事に限界があるように異次元にも限界がある。維持できなくなれば異次元に亀裂が入り、崩壊し、復活するだろう――クロノア・ルナリアの復活だ』
天空の使者の再誕。あの惨劇の主がもう一度現世へと甦る。この汚染された世界を今度はリセットするために、蘇らせるために動き出す。
『この頭上に展開されているのも条件が揃ったのだろう。次元崩壊までもう少しだ』
黒雲が吹き飛ばされた。空一面に美しい月が現れた。イリティスタの叫び声は周囲に響いた。その叫びを聞いたのは、この離島を見ている者たちだけではないだろう。この世界のどこかで異変を感じている者は他にも大勢いるかもしれない。
そして、その全員が感じた。
この世界の命が終わるかもしれないということを。
「さっきからうるさいよ」
淡々としていて怒りのある言葉。それは、この場所ではなく、もっと下……三日月に模した密林の中からの囁きだった。
だが、クロノスとイリティスタには十分だった。
「カリン?」
魔力制御不足による魔力枯渇、イリティスタの魔縛りによって動けなかった彼女が届けられる。密林の一部から火柱が上がると、その中心からカリンが現れた。
「私はパパの邪魔になる存在を消すこと。クロノス・ルナリアはもう一度捕まえるけど、あなたはいらない。死んでもらうよ」
『模造品が私に口を訊くか、死を簡単に口にできるほどお前ごときに遅れはとらん』
倒れる前と同量の魔力を纏いイリティスタに牙をむく。
「別にどうでもいいけどさ、私のことを馬鹿にするってことはパパを馬鹿にするってことよね。それはとても許されないことよ。パパの望む世界平和を叶えるために私が負けるわけにはいかないの」
『ほざけ』
イリティスタはカリンに体を向けると動いた。いまのイリティスタは魔力に満ちている。また、異次元空間の影響下で力が増長している。
それに対し、カリンは変わらない。己の意思を持ってして、目的だけを遂行しにかかる。その瞳が美しかった。
「死んで……炎魔術――炎と風の暴風!」
解放。
そして地獄の始まり。
「ちっ!」
灼熱は、クロノスにも襲い掛かってきた。
それはイリティスタも同じだ。
炎の蛇がお互いの体をよじり合わせ一本の火柱となり、地上から二人を燃やし尽くす。燃やすなんてレベルじゃない。魔力による障壁が炎属性の『侵蝕』によって溶けていく。強引に、強制に、引き剥がされた。
激痛に神経が叫んだ。魔力が極の炎に侵されていく。消費していない温存してある根元までも侵蝕される。全力で防御するクロノスは全身の脱力感から落下する。
海面が十字に割れ、元に戻ることなく魔縛りの影響で固定される。
着水というより、着地……力が入らない。
(なんて火力だ)
言葉にもできず、クロノスは雄叫びを上げた。
体から奪われた分の魔力を補うために魔力が流れ込む。それはクロノスの内部で一種の戦いとなっていた。体内に残されたカリンの炎がその分の魔力まで奪いにかかっている。
荒々しい炎のように、カリンの意志を貫くように、迅速かつ丁寧に体を蝕む。崩れていく精神で、もう一つの柱を見上げた。
「本当にクローンかよ……オリジナルの間違いじゃないのか」
こんなことがあっていいはずがない。偶然で生まれたとしても、突然変異と断言したい。絶句。激痛に絶叫。空一面が炎に包まれていた。
カリン・ハイドラ・イフリート。体現するのは明確な死の炎。クローンが生み出すものはそれだけではない気もする。それがアヴェロスに対する気持ちの表れということ、感情を持つ人型の生命体の意思ということ。それがこの炎に作用している。
つまり、カリンは怒っている。イリティスタに対して激昂している。アヴェロスの研究の邪魔をする悪人に対し、動いている。アヴェロスのために、そのためだけに、どんな結果を招こうともカリンの意思はない。あるのはアヴェロスへの忠誠心。体内の魔力を燃やしつくし、エネルギーを燃やしつくし、炎として放出し続ける。
どうしてそこまでするのか。
魔力活性を行うクロノスはゆっくりと立ち上がる。
月の魔力がクロノスを癒す。
体内を暴れまわる炎を沈静させる。クロノスの傷ついた体内を金色の魔力が修復させる。全快時とまでは行かないが動きは問題なく再現できそうだ。それでも、微々たるものだ。カリンの炎を排除できてもまた奪われれば元も子もない。
だから、近づけない。
カリンはクロノスを殺さない。それはアヴェロスの命令として刻まれたものを実行するために越えてはならない線だ。だが、弱らせることはする。攻撃してきたこともそうだった。イリティスタに比べれば弱い炎だ。
だからといって、クロノスには時間がない。
魔力が奪われれば人に戻る。
この体から、魔力を失えば残留魔力でもクロノスは内部から焼き尽くされる。そうなった場合、防衛本能から魔力が勝手に体を癒す。魔力制御ではなく、生きるのに勝手に起こる現象はクロノスの意思を無視する。
うかつに捕まればイリティスタを消滅させる機会を失う。
カリンの炎が悪いわけではないが、力不足だ。
(アヴェロスに負けるか)
足下をすくわれるとは、クロノスにとって屈辱だった。実力の問題ではなく、その研究成果、今度は本当に負けたということ。
いや、正確には姉に負けた。
カリン……クロノアを模して生み出された生命体。その能力はクロノスも認める。昔から、戦って勝てたことなど一度もなかった。それがまさかこんな形でも再現されるとは。
(胸糞悪い話だ……)
クロノスの中で何かが弾けた。アヴェロスに負けたこと、カリンに負けたことよりもその奥にいるクロノアに負けたことに憤った。段々、どうでもよくなってきた。自分の命のことだ。マリアに知られれば怒鳴り散らされそうだが、もうやめた。
無駄なことはなにもない。
「見ていろよ、クロノア」
燃え盛る世界を見た。陥落した世界は、崩壊の序章が始まっていた。十字の内部から熔岩が噴出した。ここら一帯の環境がついに壊れた。海流が渦を巻き、竜巻となって天に伸びていった。
異次元空間。イリティスタの話が本当なら見ているはずだ。それなら、死ぬわけにはいかない。負けることは絶対に嫌だ。
理想を捨てる。
「クロノス」
その言葉は小さくもクロノスに届けられた。
「ベル……?」
視界の先にセリュサがいた。衣服が破れ、普段見えない部分が見え隠れしている。綺麗な髪も汚れてくすんでいた。
「どうして来た!マリアはどうした」
言葉は消された。接近する魔力体に反応した炎が轟音を上げた。巨大な竜巻の群れが交わり、巨大な大口でセリュサを呑み込む。それよりもセリュサ早く動いた。目標物を失ったことで方向を変え、空に消えた」。
セリュサは危険が過ぎたことを確認すると、走り出した。
「マスターは皆を守っている。私は助けに来た」
怒鳴るクロノスの側でセリュサがそう呟く。
「私はあなたのことを何も知らない。全部噂で聞いた話。名前すら、アルビノということですらマスターにさっき聞いた。力だって足下にも及ばない。恐いのもある。無謀だってわかっているけど……」
俯くセリュサを見てクロノスは言葉を返すことができなかった。この姿を見られたことよりも、セリュサがここにきたことよりも、正体を知られてここにきたこと。クロノスの中ではもっとも触れられたくない部分を決して口にしないことを知られた。知られればどういうことになるのか過去に嫌というほど味わった。
それなのにセリュサはここにいる。
自分のことを恐いと思っていてもここにいる。
「私はクロノスのことが知りたいからここにきた」
瞬間、クロノスの頭上に無数の炎塊が落ちてきた。カリンの炎だ。破滅する島の残骸が取り込まれた武器は容赦なく空間を破壊する。
次の瞬間、クロノスの頭上で爆発が起こった。迫り来る炎塊を横から衝撃が襲い、爆砕させた。そこからさらに上空で大規模の大爆発が引き起こされた。衝撃に炎の形が歪められた。
クロノスの前にセリュサが立つ。
「クロノス……いや、月の使者」
魔力を解放する。超高温の体でセリュサは長大の炎剣を生み出すと炎塊を切り裂いていった。クロノスに負担をかけないように全力を出す。
死角からもセリュサは反応した。並外れた集中力がセリュサにここまでの動きを可能とさせる。
その表情に焦りはない。爆発と爆発。花火のように撃ち出される攻撃は確実に地上への進行を防いでいった。太陽の使者の名に恥じない見事な動きだった。
炎塊を相手にしながら、セリュサは口を動かす。
「私は死ぬつもりは最初からない。二人で家に帰るのよ。マスターも待っている。皆はどうかわからなけど、フリードさんだってまた来いって言ってくれたよ」
「そうかよ……」
その瞬間、頭の中を静寂が広がった。
セリュサの口からもう一度その名を呼ばれるとは思わなかった。
(全部知られた……)
せっかく消した記憶なのに。
(本当にクロノアが関わるとろくなことがない)
嫌なことしか俺にはないのかよ。
(俺がするべきことはいまも昔も変わらないか……)
それは、自分自身を動かす言葉だ。
「月魔術――月と水の揺り籠」
魔縛りによって固定されている海面の一部から水が噴出し、セリュサの前で巨大な水泡となった。
クロノスが跳び水に触れる。すると、水はたちまち弾け、炎塊を包み込んだ。
それからゆっくりと雪のように海の中に落ちていった。残骸の姿は消えていた。
その一度の魔術で炎の雨は消え去った。
セリュサは驚きやしなかった。逆にこれがクロノスだということに、胸が高鳴った。圧倒的な実力差を見せ付けられた。この世界にいる三人の偉大な魔術師の実力は予想以上だ。水泡に込められた魔力は自分の総量と同じぐらい。
これが月の使者の力。
そして、クロノス・ルナリアの力。
(まったく……振り回されてばかりだ)
水泡を操作して周囲一帯を内包し、状態を変化させる。山の残骸は水泡内で砂まで粉々に砕いた。余剰魔力でこれ以上の被害をこうむるのは避けたい。
不要なものを全て包み。破壊する。離島の象徴でもあった山が瞬時に消え去った。この島を見ていた者がいたら、声を上げて叫んだだろう。
火柱は絶えず、上空に上がっている。
イリティスタを消滅させようと、カリンが戦っている。
セリュサの隣にクロノスが降りた。
「生き残ることだけを考えろ。お前の世話まで俺は見きれない」
自分の発した言葉を、自分にも言い聞かせる。貯蔵されている魔力はまだあるが、カリンによって奪われた分が思ったよりも多い。
だが、やるしかない。
「俺は月でお前は太陽だ。いまは俺に主役を譲れ」
満月がクロノスの瞳を黄金に染めた。
「うん」
セリュサが頷き、クロノスの顔を見つめてくる。
「炎が!」
次の瞬間、いままで上昇していた火柱が消え去った。その上空から黒い塊が急降下していくのが見えた。ぐったいしたようだが、生命の鼓動は消えていない。
「嘘だろ」
目の前の落下しているのはイリティスタだ。クロノスの視線に気が付いたのか一瞬こちらを見た気がした。
一方、その地上ではカリンが硬直していた。頭上に手を上げた状態で石像のように固まっていた。その髪から色素が抜けていき、白髪になっていく。
カリンに何があったか、終わりがきたのだ。
「ちっ……寿命か!」
カリンの瞳は死んでいた。体は動く気配を見せない。魔力の波動も感じとれない。綺麗な顔立ちのまま、表情は怒りに燃えたまま落ちてくるイリティスタを瞳が映していた。避けることもできない。
クロノスが水泡を操作するも、イリティスタのほうが速い。瞬時、二人は飛び出していた。イリティスタではなく、カリンに向かっていた。カリンを渡してはならない。それが実現してしまったら……
「間に合え」
魔力量を無視してクロノスは広範囲に向かって魔術を撃った。
「月魔術――月と太陽の息吹」
イリティスタが吹き飛ぼうとカリンが消滅しようと、どちらの結果でもこの場合は欲しい。セリュサの前面を吹き飛ばす閃光。膨大な魔力に魔縛りが解け、荒れ狂う海面が飛沫を上げた。足場が不安定になったことで動きが乱れた。
手ごたえを感じない。広範囲に接待したことで大した威力を発揮できなかったらしい。イリティスタの落下軌道も変化していない。
閃光が収まると視線の先にはカリンを握り締めるイリティスタの姿が映った。泡が溢れ、その中に紅い宝石の付いた腕輪がある。考えるよりもクロノスは叫んだ。
「セリュサ、何でもいい最大級の魔術をぶつけろ!乗り移るつもりだ」
「わかった!」
込められるだけ魔力を内包し、同時に放つ。
「太陽魔術――太陽と雷の悪夢」
「月魔術――月と音の天秤」
膨大な熱量と雷を秘めた巨大な玉がイリティスタを巻き込み爆発した。
雷が帯電し放電現象に地面を溶かすほどの熱量が加わる。
それを補強しているように共鳴音が攻撃によって生まれた穴に充満する。反響した音が五感を通じて体内を衝撃の嵐で破壊する。
「間に合わなかったか……」
しかし、そこから溢れ出す魔力は別物だった。イリティスタの上げる咆哮が衝撃波となって二人の体を寄せ付けない。イリティスタの肉体から炎が溢れている。クロノスが苦しめられた侵蝕の炎。
「クローンでも可能なのか」
だが、カリンは死んでいたはずだ。朽ちた生命でもそれができるなんてデタラメもいいところだ。生命が停止しているということは魔力生成もされない。異次元空間からの影響だろうか?
イリティスタの力が強化された原因だ。カリンも影響を受けてもおかしくない。
「……出てくるぞ、イリティスタが」
黒いオーラが爆発した。
獣。
次なる変化までそう時間はかからなかった。クロノスが行動を決断するよりも早く、それが起きた。
イリティスタ。三つ眼を宿した異形の獣。天空の使者クロノス・ルナリアを主とする戦うために存在する鬼に、変化が起きた。
黒い球体に変化した。
だが、それを見て安心することなんてできない。
黒い球体に押し込められたことが要因か、一気に魔力密度が増えた。邪悪なオーラを纏う球体から出てくるのは黒い光。
卵が孵化するっようにひび割れが始まり、外面が崩れる。そして、大気を伝って鼓動が聞こえる。
「百戦錬磨の漆黒の戦鬼」
その変化にクロノスは息を呑んだ。球体からそれは突然現れた。
小さな球体にはどう考えても収まらない質量が吐き出された。
一瞬、背筋が凍った。
この姿をクロノスは知っている。
頭からは捩れた角が三本生えており、その下には宝石のように紅い三つ眼が付いていた。口からは収まりきらない牙が零れる。
過去に一度、クロノスは見たことがある。
そして、全身を凱甲が包む。動きのことを無視した装いは敵を確実に葬るためのものであり、守りのことなど考えない姿勢が見える。
イリティスタの上半身から泡が溢れ、下半身を形成してい始める。その速度はいままでの比ではない。絶大な力を手に入れたことで出来るものだ。
その肌は漆黒、闇を塗り固めたような色をしている。
三つ眼に二人が映る。
「最悪だ」
クロノスの苦い呟きの後も目覚めた鬼は変化を続ける。
「どういうことだ!」
絶叫が背後から聞こえた。
†
「どういうことだ!」
それを目撃していたアヴェロスは絶叫した。完全に死んだ瞳。生命活動が停止したにも関わらず、体は崩れ落ちない。体を支えるように巨大な怪物が隣に現れた。カリンを守るように手に乗せた。
状況に応じた結論は事実を述べればいい。
特定の条件を満たしたのだ。
カリンはイリティスタに認められた。この世を平和にするために生み出された存在が、この世に破滅をもたらす悪に、アヴェロスの憎悪するクロノアに奪われた。
「カリンが死ぬわけない」
だが、事実はアヴェロスの願いを裏切る。
クローン自身の寿命は短い。細胞を無理矢理増殖させた個体は個人の細胞質にもよるが、長い時間を生きることはできない。そのために超古代の負の遺産の力を利用した。生命活動の限界を超えるようにした。
「いくらなんでも早すぎる」
完璧な研究によって生み出されたカリンは魔力枯渇のためかいまは髪の色素が抜け気っている。その体をイリティスタが飲み込んだ。一飲み。巨躯な体が蠢いた。背中から二本の四本の腕が生え、さらに足が二本増えた。馬のような体躯に体を変態させる。その胸の中央に赤く光る宝石が見えた。
それは、イリティスタを縛り付ける魔石。カリンの肉体を喰ったことで封印術も効力が消えかかっているらしい。
「あれは何だ、クロノス・ルナリア答えろ。どうしてこうなった」
クロノスの胸倉を掴んでアヴェロスが叫ぶ。
「自分のことは棚に上げて、クロノスに押し付けるのはどうかと思うわ」
声は、この場にいないはずの声だった。
離れた大陸で世界を守る一人。
「マリアか」
アヴェロスの目の前にマリアの姿があった。
ただ、その姿は薄くぶれた。思念体。高度な技術だ。
「この事態を引き起こしたのはクロノア・ルナリアだけど、原因はアヴェロス、あなたが作ったのよ」
「私が何をした」
突きつけられた言葉に目を見開いて反論した。
その姿を予想してか、マリアは表情をなくした。
哀れな者を見るように見下した視線で刺した。
クロノスとセリュサがその後ろで見つめる。
「わからないの? あなたの歪んだ思想が多くの人々の命を消そうとしているのよ」
「なっ……」
「やっぱり何も知らなかったのね。目先のことしか考えないところはどこにも変わってない。目的に辿り着くまでの第三介入を考えなかったからこういうことになったのよ。イリティスタは秘蔵の魔具。クロノア・ルナリアが所有していた超古代の負の遺産。クロノア以外は従わない。そして、特別な条件下でイリティスタは具象化する。超古代の負の遺産がどのぐらい危険かあなたも理解しているでしょ」
いまさらながらのマリアの発言に、アヴェロスは唇を噛み締めた。背中が疼く。危険な代物だということはこの身で証明している。
「超古代の負の遺産か……覚えているさ。あの大事件にも使用された。多くの人々の命が失われた。相手は奪われても仕方のない貴族だったが、一般市民も巻き込まれた」
マリアというよりも、クロノスから目を話してアヴェロスは告げた。
「アルビノが憎い訳じゃない。賊が憎いわけでもない。人が生きる上で悪のいない世界など存在しない。どんな善良な人間でも少なからず心に闇を抱いている。人の命が儚いことも生きて周りを見渡せばわかることだった。だからこそ、私は願った。恒久の平和を祈った。それを成し遂げるために三騎士を生み出し……」
「……クロノスとクロノアを使った人造化身計画を思いついた。圧倒的な実力を持つ二人。あなたの頭の中で描いた世界はどうだったかしら?
そんなこと言わなくても結果は目の前にある。クローンはイリティスタに選ばれた。オリジナルと同じと判断された」
「…………そんな」
「あなたの実験は身を結んだ。何も無駄じゃなかったわね。人造化身はオリジナルと同じ性能を有した。人間性や魔力に関するところは劣化しても私たちを圧倒している。この騒動をあなたはどうやって止めるつもり?」
変化し続ける化け物の声がする。
地形が変わる。
全身を炎が覆う。カリンの魔力がイリティスタのものに還元され、イリティスタの力になる。
いい事なんて一つもない。どうやってこの戦いを止めるのか想像できない。いや、想像できても実行できない。力がない。抗えない。戦えない。どうすることもできない。
「あなたが何もしなくてもクロノスは止める。それがあの子が五年間戦い続けた目的。無責任なあなたと違って立派な魔術師よ」
正面に立つ異端児。
自らの理想のために犠牲となった一人は、マリアのように老人を見下していた。
その奥にいる巨大な存在をアヴェロスは視界に入れた。
「あれが……イリティスタ」
アヴェロスが崩れ落ちる中、イリティスタの体が浮き上がった。重力の支配から解放された魔獣はゆっくりと飛ぶ。
目指すは、空へ。
「ちっ……異次元空間に飛び込むつもりか」
クロノスが空を見上げて呟く。その言葉がイリティスタに届いたのか、背から翼を生やすと自分の力で飛び上がった。
「共鳴現象によって生じた異次元に入ってオリジナルのクロノアを連れてくるつもりね。模造品でないオリジナル。五年前の惨劇が再びかな」
「そんなこと……」
畳み掛けるようにマリアが潰す。
「魔導騎士の序列一位、三騎士の神聖騎士様が何て姿かしら」
「その程度の実力者だった
呆れた様子のクロノスに、マリアは我に返った。
「おっと。そんな恐い目で見ないでよ。そもそも秘密主義のあなたがいけないわけだし、捕まったのもそうだし、私は悪くない!」
慌てるマリアに、クロノスは叫んだ。
「お前に構っている暇はない。ふざけている場合があったら動け。いますぐ大陸、いや、国に避難勧告を発令しろ。最悪本当にクロノアの奴が出てくる可能性がある。出てこなくてもイリティスタが具象化した影響で世界に何らかの悪影響があってもおかしくない。急げ!
誰も死なせるな」
記憶の中でのクリスタル王国の最後だ。その中で立つクロノアが何かをいっている。耳には届かない。それでも、クロノスには感じることができた。
あなたに何ができるかしら――
「クロノス」
思念体が消えたことでセリュサが声をかけてきた。
「セリュサ、お前ともここで一時の別れだ。避難民を誘導して火の粉が降りかからないようにしろ」
その言葉に、セリュサは顔を上げた。クロノスは、面食らったセリュサから暴走している異次元空間を見上げていた。
「何かあるか?」
「どうしてクロノスは私たちのためにそんなに頑張ろうとするの? 私たちはあなたたちを……ううん、アルビノであるあなたたちを差別してきたのにどうして」
「勘違いするな」
「えっ」
「俺は身内が仕出かした馬鹿騒ぎを終わらせに行く。人間のことはお前たちが何とかしろ」
再びため息を吐くと、クロノスは両手が光った。
その手に、二本の短剣が生まれる。
そして、魔力を走らせる。
「アヴェロス」
魔力密度を上げながらクロノスが言った。
「今回のことは大目にみてやる。過去のこともどうでもいい。どうせお前のような石頭に何を言っても無駄だとわかっているが、これ以上命を弄ぶな。それと、三度目だが俺の前に二度と現れるな」
アヴェロスの返事は待たない。魔力を解放したクロノスは走り出そうとして、袖を引っ張られていることに気が付いた。
セリュサが袖を掴んでいる。その手をそっと掴むとクロノスは優しく言った。
「ちゃんと帰ってくる」
セリュサが手を離す。彼女の表情が不安の色を見せた。
でも、すぐにそれは消えた。無理矢理作るように笑った。
どちらにせよ、セリュサの思うことは起こらない。
「行ってくる」
セリュサを見て、クロノスは走り出した。