月からの使者
星光の中にクロノスは立っていた。
黄金の大地がどこまでも広がり、動く腕に引き寄せられるかのように光が全てを包み込み、世界を侵蝕するように自らの領域を広げる。
風が変わった。
圧倒的な存在感が、全身を針状になって突き抜け、混じった神々しい気に一瞬で魂が浄化されそうになった。
『まさか……』
「星界と無の契約。魔力波動で知覚した空間内の事象を俺の意思を読み取って消滅させてくれる。知っての通り、星界と無の契約は神の一人。ただし、『無』と称するだけに、姿を認識することはできない」
『それがもう一人のお前か、クロノス・ルナリア……』
エイジアスはただならぬ雰囲気に言葉を失った。
空間を満たしている魔力の流れはいままでの比ではない。
神々の領域に足を踏み入る、そして、真正の神としての覚醒が事象を司る神を従えるまでの力を与えているのか。
『このような世界で我が同胞との再会は悲しいものだ』
表情を変えずに、原初の理は言うと同時に動き出していた。
「天空魔術――天空と風の鏡片、天空魔術――天空と幻の領域」
虚空に膨大な魔力を込めた拳を叩きつけるとそこから亀裂が入り、一気に砕け散る。爆風と拡散する衝撃、波動、さらに、透明の凶器に被せるように精緻な幻が世界を変える。
亞空間として生まれ変わった中には、無限の世界が広がっていた。
それでも現実は一瞬の出来事で片付いてしまう。
『世界創世の頃のように緑と青に彩られた美しい世界はどこにいってしまったのか。自然の理は生物たちの生態に飛躍的な影響を与えてくれたのに、その才能は堕落する一方だ』
「そんな考えしか浮かばなかったから、お前は『闇魂』の干渉に堕ちた。生命を司る神としてあるまじき行為だ。だが、それを問うことはもうしない。これで終わりにしようか、エイジアス」
迫りくる破壊の嵐を前にクロノスの背後が瞬時に割れると中から紅蓮の炎が噴出した。炎はすぐさま落ち着きをみせ、ゆっくりと炎の指が空間を押し広げ、次に見えたのは巨大な眼だった。
「さあ、最後の物語を始めよう。星界魔術――星界と炎の契約」
この世に炎を生み落とした事象神の一睨みによって、エイジアスの凶器、亞空間が抗う術も見せずに炎となって消滅した。
天空から降り注ぐ星の弾丸がエイジアスの支配のもとに集まってきている。
だが、クロノスから遠方に位置していても星界と炎の契約の咆哮に掻き消される形になる。
破壊の波動を凝縮したそれによって、巨大な魔は退けられる。
「異界を支配する魔神の前ではどんな魔術も無に等しい。その瞳に睨まれただけで魂すら燃え尽きてしまうというのはどんな気分だろうな」
そう言ってクロノスは次々に光を生む。
「風を起こせ、星界魔術――星界と風の契約」
「雨を降らせ、星界魔術――星界と雷の契約」
世界の変化は瞬く間に広がる。
黒雲から二つ、稲妻と暴風が雲海に突き刺さる。
全身から雷電を放つ巨大な獅子と大翼を羽ばたかせ旋風を巻き起こす巨大な獣が空を翔ける。クロノスの横を通過すると、最高速度で視界から消えた。
「こうして眺めているだけなら雲海もふわふわして寝転がったら最高だろうけど、生命を育むには適していない。今一度、この世に母なる海を取り戻そうか……星界魔術――星界と水の契約」
海面から飛び上がるのは一角を身に宿す巨馬。色味の強い純粋な青いたてがみには金属を塗したような銅が見え、青緑の胴体から伸びる尾は流水を思わせるような美しい毛並みが雲を散らす。
『わたしの世界が……くっ、これ以上の横暴を許すと思っているのか』
星界と水の契約が海面を歩くたびにその部分が正常さを取り戻し、塗り変える力がその他の世界を創る。
海上を翔ける二つの巨影が起こす事象にエイジアスの意思が介入する隙はない。
「黙ってそこで眺めていろ、星界魔術――星界と音の契約」
クロノスの掌の上に小さな影。抱え込むように時計を持った森の妖精を思わせる神が顔の正面に付いている突起を押した。時が止まる。
「あと世界が見たいなら好きなだけ見ろ、星界魔術――星界と幻の契約」
不安定に揺らめく濃霧は近くにいる全てを包括し、それを惑わす幻想を生み出す。加速する時間、退行する時間、入り混じる時の流れが五感を狂わせる。
幻想空間内を支配する神と時の神に苦言が飛ぶ。
『こんなことをしても無駄だということがわからないのか、すでに生命は我が手に落ちた。この星の事象全てが我が意のままだ。事象神を味方にしても、創世の完全再現は不可能だ』
だが、彼が耳を傾けることはない。
「星界魔術――星界と闇の契約」
漆黒の戦神が、クロノスの前で膝をついていた。数ヶ月前にクロノスと戦いを演じ、その後も世界各地に混乱を招いた魔人の一人。
己の君主、天空の使者を求め続けた鬼が頭を下げていた。
新たなる主に忠誠を誓っているようだ。
鬼神は巨躯を持ち上げ、剣を立てる。月日の経過、どれだけの時間が彼をこのような姿に変えたのだろうか、いや、あの扉を通り抜けた瞬間からこうなるように運命が動いていたと思えてきた。
六本の腕に握られるそれぞれの大剣に陽光と月光が吸収され、淡い青い光が宇宙の色を垣間見せる。
「クロノアのことを頼みたい、出来るか? 」
無明が取り払われた心に鬼は頷く。
豪快に振るわれる腕が荒れ狂う世界を両断する。
剣圧に切り裂かれた亞空間から飛び出した戦神は、迫りくるエイジアスの牙をことごとく薙ぎ払う。
外部からの様々な影響下において、単体で戦いに身を投じようとするのは前にも後にも義に厚い神だけだろう。
はるかに巨大な意思の塊にも動じない精神力は巨大にして世界を蹂躙する。変動する流れにも的確に対応することなく、あくまでも力で捻じ伏せる戦いは簡単に彼女の下に辿り着いた。
そして、全身を固定する十字架に斬撃をお見舞いする。寸分の乱れも、振動も与えずに、ゆっくりと彼女を引き上げる神はようやく手にした主にもう一度、膝を折った。
漆黒の影に潜む獣と化した背に彼女を乗せる。
「幾千億年の時が流れても、定められた運命を捻じ曲げられる可能性はある。こうして再び出会うことが出来た奴らがいるからな。聞くが、それもお前が用意していたシナリオなのか?」
『…………』
「肯定か。だとしたら、お前が望む世界というのも高が知れたものだな。正確無比なことが求められるものが物語を書く上でのシナリオだ。矛盾した段階で、操れない運命に執念を燃やしているようじゃ、駄目だぜ」
『…………そんなこと』
「いままで逃げていた俺が言えることじゃないが、期待していたわけじゃないだろ。所詮は、一度壊れた世界を修復して再利用する偽りの世界。お前ただ一人で創った世界と神々全員で創り上げた世界では大自然の恵み、産物には大きな差があるだろうに」
『…………』
「ま、もう少しだけ待てよ」
クロノスの言葉にエイジアスは衝撃を受けている。それはおそらく、彼が従えているもう一人の自分としての能力、諦めない姿勢、後先考えずに動いている衝動的なものだとしても確実に潰すそうとする目的までの意思の強さ。
エイジアスが求めていた本当の強さというものを、崩壊する局面で開花させられたのはどういう訳だ。
力に呑まれることにエイジアスはいまだ感じたことのない恐怖を覚えた。
これ以上、自分が作り変えた世界の変化に精神に強い揺さぶりをかけられるというのは気分が悪い。
空が紅く染まる。
この世界が生まれた日にも見た、生命の炎が空から降り注いでいた。
「生命に炎を灯せ、星界魔術――星界と太陽の契約」
天空を旋回する不死の鳥をイメージさせる神鳥の全身から零れ落ちる生命の粉が与える力は母なる大地に新たな芽を咲かせる。
星の存在力をエネルギーに変換したものは本格的な生命体へ進化する恵みだろう。だが、どれだけ能力が想像を超えていても司る属性神を超えることまでは出来ない。
神の鳥が行なうのは破滅を救う補助のようなもの、本来の役割は生命を滅ぼす破滅にあるのだ。生命幹から存在力を消費させるのが目的だった。
世界を創造するという意味としては空があり、海があり、大地がなければ命は成立しない。地上の花から空に小さな光が一斉に出る。
奪われた存在力を取り返した精霊たちだ。空の向こう側、亞空間の中で、エイジアスはこの世界に降臨した次世の神になにを思っているのだろうか。
彼を滅ぼすために手を尽くしてきたのに、いまはこうして逆に滅ぼされようとしている。どうしてこうなってしまったのか状況の変化に戸惑いは隠せないが、初期設定からかけ離れた姿になってしまってはもうほとんど別物に仕上がっていた。
雲海は流れ、青々とした大海原が広がり、風が運ぶ海の匂いや大地を潤す雨の恵みは止まらない。植物を整えるように活発に動き回る精霊たちが光、それを仕切るように境界面からは別の光が七色に輝いているのが見えた。
「世界を作りかえるというのは結構大変だな。お前たちが長い時間をかけて計画していただけのことはある。神の力を借りても絶妙な力の均衡というのは調整し難いな……」
クロノスが海面に降り立ち、エイジアスが囚われている亞空間を見る。怒りに大気が震えていた。「感情があったのか? だとしたら、この怒りは闇魂のものか。お前自身の気持ちじゃないなら話にならないな」
呪縛に囚われたまま身動きの素振りも見せない。最初は見せていた余裕が失われて次第に恐怖の色が強くなり、最後には表情を奪うまでになる。だが、それはエイジアスのものではなかった。闇魂という爆発した負のエネルギーの集合体に彼の存在もまた操られていた。氾濫する海を強風の影響を受けて波の山ができあがり、大地を呑み込んでいく。
汚れを洗い流すといった漠然とした作業に泥濘が地上を汚しては、木々を押し倒し、自然な形に整形されている。
クロノスはそれを見つめる。
ただ、見つめる。
やがて、流れが止まる。
だが、これだけでは終わらない。
分厚い黒雲の隙間から差し込むとともに、それもまた現れた。赤髪を揺らし、同色の羽根が世界に降り立つ。
過去の名はもう忘れてしまった。厚い雲が裂けた向こうから、眩い光が地上を照らす。線を引くように指でなぞった場所から次の変化は起こる。
小さな太陽に似た形の球体状の物体が、雪のように隙間から零れ落ちてきた。それはとても温かいものだった。
発光する光を受けて見違えたように鮮やかさを取り戻した世界は、霧散する雲から見える十二の輪が粒子に分解され、四方へと消し去られた。
無音の爆発が大気を叩き、風を巻き込む。
「終焉の世を希望の光で満たせ、星界魔術――星界と光の契約」
真名を呼ばれ、彼女は光に包まれる。
天女のような羽衣をなびかせては、笑顔を見せてくれる。
「さてと、ここまでの変化で全体の半分以上は支配域から脱しただろう。ここまでの巨大な質量を制御するなんて芸当が続けられるとは思っていないが、こういう事象は最初に手を加えてやれば後は勝手に続くって相場が決まっているのな」
冷静な呟きを掻き消すように、前方で魔力の爆発が起きた。
自然界に存在しない異形の生物に進化した異獣たちは、目前にいる背中に翼を生やして飛び回る存在に襲い掛かっていた。
ただ一度の羽ばたきで、距離感を思わせない超速移動は無数の爆発を引き起こしては、地上を粉々に破壊する。
衝撃波によるダメージを吸収する闇の加護をも爆発によってまとめて吹き飛ばした。
だが、闇は蠢き続ける。
「力を与えたわりには既存の能力しか持っていないネリスを倒せないようだな」
体勢を立て直す闇の勢力が新しい世界に充満する魔力を吸収し、新たな力を生み、死の雨が異獣に死角から襲いかかる。
これまで吸収した中でも良質な魔力の爆発力は放出する際に加減をし損ねてしまうほどの影響力があった。受け入れがたい現実を目の前にして、エイジアスは沈黙せざるを得なかった。
予測不可能な軌道を描く闇の槍が獣を串刺しにされる。
「致命傷は避けたらしいな。同じ素体からの姉妹としての同情だろう」
そのまま身動きを封じるために、ネリスは異次元空間に姿を移した。
「気を遣ってくれたようだな、感謝しておけよ」
最悪の居心地の悪さにエイジアスの感情が爆発し、呪縛から解き放たれる。
逆立つ髪の毛先まで満ちる魔力は見事としか言いようがない。
『月の使者ァァァァァァァァァァァァッ!』
エイジアスは自らの中で急速に失われているものがあることを感じていた。
それは燃え上がる意思の炎が勢いを弱まっている証拠でもあった。
己を守ることしか考えていなかった月の使者が、こうして自分のために攻めることを考える。
攻撃という意思を想定していなかっただけに、本来の魔術師としての姿を取り戻した攻撃性は驚愕に値する。大地を変える神々の行動に、都合が悪いことは間違いない。
だが、攻撃対象はたった一人だ。
エイジアスが望む未来を荒れ狂わす危険因子は、過去にも未来にもクロノスただ一人だ。だが、エイジアスは又も邪魔をされることになった。
最後の変化が静かに訪れたからだ。
次に現れたものは、クロノスも驚いていた。他の神とは違い銀髪の美少女が目の前に壁となっていた。
女神の異名を宿していた彼女はクロノスと違わない背丈に、か細い手が同色の銀の剣を握り締めていた。
それでも主の敵を前にして穏やかな雰囲気を漂わせてはいない。はるかに巨大な魔力を持ち、左右に身に付けている四つの銀の輪が宙に浮かび、前方で規則正しく並ぶ輪から発せられる聖なる気が守護の結界となり、両者の間を切り離す。
そして、その表情に宿している意志は、彼女の想いの全てが込められていた。
「星界魔術――星界と月の契約」
クロノスは静かに愛しい者の名を呼んだ。
†
神々総出の世界はエイジアスの精神を蝕んでいく。
『馬鹿な……』
事実に全身を震わせながら、エイジアスは上空でこちらを見下ろしている十一の神々の姿を瞳に焼き付けていた。
世界創世では同位の存在に寄せる思いというものはなにもなかったが、こうして見るとその巨大さに圧倒される。
魔力体である神々が現実世界で肉体を得る。それは、物質が力を発揮するこの世界に干渉するということである。
エイジアスの宿るこの肉体の記憶を掘り返しても、神と直接対決したことはない。
「驚いている暇はないぜ、俺たちの舞台は整った」
それに、敵は目の前だけではない。
「神としての最後を見せろ」
クロノスが右手を上げると、十一の神が一斉に動き出す。対抗する破壊の嵐は衝撃を圧縮させながら、視界の奥にいるクロノスを見る。
混沌はどこにいった?
どこにもない。
この世界にエイジアスの意思はどこにも反映されていない。
闇を探す。
見つからない。浄化の光が点である闇を面で覆い尽くすように、なにもなくなっていた。エイジアスの魔力解放に応じる世界はすでにない、だが、諦められるほどに彼の意思が失われた訳でもない。
『……これは誰の意思だ? どうしてこのようなことに』
エイジアスを追い掛け回す彼の意思の強さ、彼に引き寄せられる神々の行動力は信頼にそのまま繋がる。
地上で眠り続ける彼女の能力を奪っておきながら、彼女の真の意思を隠すものだった。
「誰の意思? 笑わせるな」
これほど馬鹿げた言葉もない。その時、クロノスの内部で爆発するこの感情は区別できない激しさをもっていた。
「こいつはな……」
感覚からしてクロノスが感じたことのない意思の強さは、精神の流れを経由してそのまま届けられる。
胸の奥が疼く。
言葉があふれ出そうとしていた。
その力の激しさはクロノスを内側から食い破ろうとしているほどに鋭い牙を唸らせていた。エイジアスに向ける人々の言葉。
「俺たち世界の意志だっ!」
吐き出される言葉の波動が、エイジアスに達しようとしている。この世の事象を操作できるクロノスはすごい勢いで押し返す。
エイジアスの前にして武器となるのは心の力だ。純粋な願いほど、十一の神々の加護がエイジアスへの力となってくれる。
世界を守る。
危機感を高めるエイジアスの怒りにクロノスは動揺することも狂気に惑わされることもない。
人類の存在力を奪われていてもクロノスにはなんの価値もない。
戦うことだけがいまの自分を保ってくれる。
姉は弟を生み出し、自らを犠牲として弟を生かす道を選んだ。
ずっと守るために彼女は戦い続けた。
だから、今度は自分が戦う番なのだ。クロノスの心を介して神々に意志が伝わる。空を覆い尽くすほどの、大きく拡散した膨大な魔力の輝きが周囲に変化を与える。輝きの中から彼らは飛び出す。
各々の力を最大限に発揮するための下準備は環境制御から、神々は自分の周囲の魔力を変異させ、それを凝縮させ己に付加し、解き放つ。
十一の閃光が疾走し、それが四方八方からエイジアスを潰しにかかる。だが、それだけでは彼の力を圧倒することは出来ない。
エイジアスは神々が創造した世界中の存在力を手中に収め、使役している。つまり、いまのエイジアスは十一神が世界に与えた存在力を能力の一部に変換しているのだ。
だから、どんなに強大な能力をもってしても一つでは彼に届かない。障壁に拒絶される神の槍はさらに威力を増して襲い掛かり、追撃を図る。
生命の危機を察したか、エイジアスが周囲の空間の破壊にかかる。だが、クロノスが先に動き、結界ごとエイジアスを大地に打ち落とす。
地上に爆発が起こり、クレーターが生まれた。土砂が飛散して、美しい森を汚していく。標的から一人離れているクロノスは別の場所に向かった。
気になって仕方がないというのが、本音だ。四方から迫るエイジアスとの戦いの被害に遭わないように彼女が眠る場所へ向かった。戦いの最中だと、誰もクロノスを責めることはしないだろう。
全ての神はクロノスの心を知っている。
それがなくては戦うことが出来ないこと、なくしてしまえばエイジアスに対するただの復讐劇になってしまう。
神々はそれがわかっているから、クロノスの気持ちに応えようと全力で持ってしてエイジアスを抑えこもうとしていた。蕾だけの花畑に着地するとすぐに彼女を見つけた。
局所的に開いている穴に視線を向けず、その顔にそっと手を触れた。
クロノアが死ぬということが、長い付き合いと彼女を見てきただけにどう受け止めていいかわからない。
だが、彼女が目覚めないという事実に初めて彼は自分の中の衝動に気付かされることになった。鋭い痛みのあとに、どうすればいいのか考える暇もなく、それは来た。
そこにエイジアスの魔の手が襲いかかってきた。
だが、クロノスの周囲に近寄る前に見えないなにかに消滅させられた。自分がいては危なかったか。クロノスにとっての不安は彼女を失うこと。
だが、エイジアスはクロノスを恐れ、彼女を操り、殺した事実を消すことは出来ない。こうして、この先も目覚めないことに怒りは消せない。
予測できない感情の起伏を力に変えていいものなのか。少なくともその力を神々は許容してくれるとは思えない。それはエイジアスの罠の可能性がある。エイジアスは決して手を抜くことなく常に策を講じていたから。だが、それも悪意からでない。エイジアスも最初から悪であった訳ではない。
闇魂の影響、干渉、支配。人類に復讐するだけの理由をもってしまったからこそ、最後までこんな馬鹿げたことを続けているのだ。
クロノスは跳ぶ。
エイジアスの姿を視線が捉える。
四方からの攻撃に苦戦している顔だ。己を守るために存在力を消費しているのだろう。周囲の自然が色褪せていく。
再生せずに枯れる。
エイジアスの力を支える力が次第に強まる神々に押されている。走りながら、クロノスは叫び散らす。乱打。圧縮され撃ち出された大気は足を撃ち、腕を撃ち、衝撃が胸を撃ち抜いた。
反撃の姿勢を見える前に、顔面にトンファーを打ち込むと同時に、逆手で魔力吸収を開始する。
同位の存在となってしても負のエネルギーのことを考えた時、この方法は危険だと思った。だが、クロノスにはこれ以上失うものがなかった。
それならば、この体がどうなったところで、誰も咎めたりはしない。
だからといって無理強いをしてエイジアスに侵蝕される可能性が消えたわけじゃない。クロノスが呑まれたら本末転倒だ。
だから、余裕はない。
いまのクロノスの頭の中にはクロノアのことだけだ。身を削ることになったとしても、それをやることで彼女が助かるなら出し惜しみはしない。
いままでの自分の姿を思い出す。なにも選ばなかったからこうなったのか、戦うことを拒み続けたからどうなったと言い訳したところで、それはなにも変化を生まない。なら、いまの自分はどうだろうか。流れに逆らい続けた魚は、自らの意思を持って流れに乗った。激流を制するように彼は運命に身を投じることで様々な可能性を掴むことに成功した。そこで選ばなくてはいけない二つの道は、天国と地獄を意味している。
誰だって天国に辿り着きたいに決まっているが、本当にそこは望む世界なのだろうか。
クロノスは力を込め、拳を放ち、そして神々を呼び寄せ、空に昇り、そして重力に従う体に向かって一撃を打ち込む。
確実に力が減っている。
どれだけ力を持っていても打ち殺されるたびに存在力は消費される。再生を駆使することで、一撃には耐えられても、連撃で存在を削り取られるという荒技には対応しきれていないと見える。
物質世界に存在している以上、無限のエネルギーは存在しない。
いつかは必ず、ゼロになる。
太陽と月が近づく。
地上との距離が遠ざかっていく。
エイジアスの抵抗はことごとく潰される。
そして、決着の瞬間は来た。
意識が霞むエイジアスの前で、クロノスの片手が上げられる。周囲の神が光と化して先端に集約されると、七色の光が天空に広がった。
そして、振り下ろす。轟音が天を貫いた。
神の槍を内包した一撃、波動が体内を通り抜け、地上から返ってくる衝撃に腕が投げ出される。
撃ち出された神々が並び立つ姿がまるで弔いのように映る中で、それは音に変わり、落ちる。
クロノスが空中に生み出した仮初の大地に打ち付けられた。全身を震わせながらも、立つことのできない姿をクロノスは見下ろす。
力のほとんどを消費した切れのない動きに反撃の意思は感じられない。エイジアスを囲むように降り立つ存在に、破壊の波動を放とうとするも、表面を覆っているだけに終わってしまう。
それはエイジアスにとって、あってほしくない未来を告げていた。
そして、終わりを告げていた。
静寂な空間に、月を背後にして彼は降り立つ。青い瞳が見つめてくる。
神々に囲まれながら黄昏に身を委ねる神の前に、最後の使者は現れる。
『クロノス・ルナリア……』
エイジアスがそれに気付き、名を呟く。
放出されていた破力が同時に収まった。
クロノスの前でだんだんと息づかいが荒くなり、本性が現れる。絶望に支配された顔だ。神としての風格は失われ、光の抜け、濁りきった青い瞳が見上げてくる。
この姿にエイジアスという神であったのか疑いたくなる。クロノスは拳を構え、言葉を待った。
『どうして……お前は心を入れ替えるようなことができた』
「心を入れ替える? まさか、冗談をいうな。俺は心を入れ替えた覚えはないね。もしも、そう思うなら物事の本質を見抜くはずの鑑定眼が錆びついたんだろ。気付いただけだ。俺に必要なもの、俺が持たなければいけなかったものを、な」
『ふざけるな……』
苦言を漏らすエイジアスに、クロノスは拳を構える。
『クロノス・ルナリア、この世を知り尽くしているお前ならわかるはずだ。この世界も小細工に埋め尽くされていずれは崩壊するだろう。そう、いずれ壊れると知っているなら、再起の可能性を与えてもいい、違うか? 』
「壊す手があれば、直す手も必要なのは確かだ。世界というのは、見事な調和の中で成立している。それだけに、人間が出来ることは限られているのも本当だと思う。お前たち神の手が必要なことも予想できる」
『だとしたら、何故……』
「それはお前がやるべきことじゃないからだ」
『わたしを除いて誰ができるというのだ。人間が当たり前にアルビノを殺し続けた以上、人類には一握りの希望すら見出すことはできない。自らを最上の種と勘違いしている愚かな生命に代わる存在がいるなら教えてもらおうか』
「残念な話だが、俺にもわからない。だが、少なくともお前や俺が手を加えていい代物じゃないのは確かだ」
『甘い考えだ。お前とわたしでは見てきた世界の流れが違いすぎる。醜い争い、権力の血、欲望の渦、人間たちが興味を持ったのは他人の庭と自らを脅かす存在を消すことだ。生命の自由を否定するつもりはないが、浅はかな感情に突き動かされるというのは人間の特性なのかもしれない。それをわたしは知ってしまった。闇魂の干渉を受けたのもその頃からだったかもしれない。正確な日こそ、覚えていないがわたしという個は失われたような気がする。その結果、世界を再創造する意思に至ったわけだ。これは必然、偶然ではないのだよ。不完全な人間こそ消滅しなければならない。完全な人間こそ世界に必要なのだよ』
「甘い考えだな」
断言するエイジアスに、クロノスも断ち切るように言った。
「そんなことどうだっていいだろ。理屈で推し量れない。考えられないものもあることをお前は見てこなかったのか? 激情に愚かな行為に走る人間の中に、正しさを持った奴は一人もいなかったのか? 不完全な人間を下等な種族と見るのも構わない。そんなことよりも完全な人間のほうに拘るお前の頭を疑わなければいけないな。それに、お前が求めていた完璧な人間に裏切られた気分はどうだ? 」
『それは……』
二人の間にあるのは戦いの終わりを告げる音だった。静かな音色の残響に打たれたように静まり返るエイジアスの姿にクロノスは最後の姿を想像した。
『…………わからない』
「二度と出会わないことを祈ってやる」
それは、合図であり同時に別れの始まりだった。
エイジアスを中心に取り囲むようにクロノスを含む十一の神々が配置につく。クロノスの視界には始まりの神々が存在している。
そこでなにが起きるのかはクロノスにはわからない。
だが、始まりは光の神から。白色の線がエイジアスを通過して対角線上の神に手渡されると、繰り返すように織り成させたそれは、魔法陣だった。
神の創り上げた存在しない異世界への扉。
クロノスを残してゆっくりと高く浮かび上がるのを最後に上天の光に呑み込まれた。十一の神たちに包まれながら裏切りの神はこの世から消滅した。ここからは後日談といったところだろうか。
「クロノス・ルナリア」
ネリスが呼びかける。その背後には無数の闇に取り込まれた剣姫たちが元の姿で捕らわれていた。
「終わったから、警戒する必要はない」
「エイジアスは? 」
「神々の結界に完全に封殺されている状態だ。その上で闇魂を消滅させ、本来いるべき領域に還した。どうしているのか俺にもわからないが、悪いようなことにはならないだろう」
「そう」
「それよりもちょっといいか? 行きたい場所がある」
「別に構わないわよ」
空から見つけ出した花畑で横になっている人影を見つけると、クロノスたちはそこに降りると、ネリスは同じ顔を持つ彼女に体が反射的に硬直した。
「エイジアスとの契約によってクロノアに元来の能力は一滴も残っちゃいない。マリアの青海魔術によって無理矢理剥がしただけに、人間としての純粋な器があるだけさ。それでも、こうなってしまっては自分の不甲斐なさを呪うものでしかないけどな……」
「悲しいわけ? 」
「そう……かもな……」
途切れ、途切れになるクロノスの言葉に含まれている雰囲気からは戦争の終わりに対する気持ちは微塵も感じられなかった。
心に開いた穴から流れ出すのは彼が手にした戦うための理由。全てを終わらしたことでクロノアは帰ってこない。その事実だけが重くのしかかっているようだ。
戦いとはいつだって代償を伴うものであることを理解していたはずなのに、いまのこの時までそういった精神的心傷と縁がなかったことも相まってこの胸に刻まれるものは深い痛みとなる。
その痛みの耐性がないだけに、全身を駆け抜ける思いを忘却の彼方に葬り去りたい。
満たされる悲しみに、クロノスはそっと腕の中に抱き込んだ。
「わたしが生き返らせてあげる」
そよ風とともに届けられる彼女の言葉に耳を疑った。
その時、見上げる彼女の翼が天使のように純白に見えた。
瞬きをすれば、漆黒に順ずる闇が漂っていた。
「クロノアの能力でも、わたしの能力でもない。というよりも再生術式でもないから、確証はない」
「できるのか? 」
「クロノスが許容するのかわからないけど、生命力の全てを彼女の器に流し込む。元々、わたしは彼女から生まれた分離体、彼女の思考ならありえないと馬鹿にするかもしれないけど、試してみる価値はあると思うわ」
「もしかして、お前……」
「別に罪悪感とか、勝ち目がないとかからの感情じゃないわよ。本来の姿に戻るだけであって悪いことじゃないでしょ」
ネリスの言葉に嘘は見られない。いや、そんなことはもうどうでもいい。
「クロノアは助かるんだな? 」
「絶対に助けるのよ。気弱な姿勢を見せるな」
まるでクロノアを相手にしているような流れに、ネリスは一拍置いて告げた。
「いまのあなたにならわたしの全てを託せることができる」
闇の女王は微笑を返した。自然なものに、彼女を重ねてしまった。腕の中にいるというのを、つい忘れてしまう。
「しっかりしなさい、クロノス」
「悪かったな、ネリス」
「減らず口だけは変わらないのね」
「俺のこの口調はクロノアだけに有効だからな。偽者だとはいっても、俺とお前は血筋だけで言ったら姉弟といってもあながち間違いじゃない。細胞単位で同じ身体構造をしている訳だしな。違うとしたら性別だけか」
「わたしはあなたの姉であって姉じゃないけどね」
しかし、ネリスはクロノスの言葉を軽く受け流す。
「あなたの姉はクロノア・ルナリアただ一人だということを忘れてはいけない。そして、わたしたちの存在はイレギュラーであったことを忘れなさい。いままでの不釣合いな世界は終ったの。自然界に矛盾は不必要でしょう。あなたが調整した世界にいてはせっかくの舞台が台無しになる」
「すまない」
頬を叩かれた。
「いまのはクロノアだったら殴っていた。せっかく、逃げ腰が治ったのにがっかりさせるようなことは言わないでもらいたいのよね。最後に見るあなたの姿が見っともないのは嫌ってことを忘れないこと。覚えたなら、さようなら。ありがとう、クロノス・ルナリア……」
使命に生きたネリスにとって、最初で最後の命令違反だった。
存在力を生命力にして彼女の器に流れ込む。二つの存在が入れ替わるというだけで、クロノスが受ける影響力に違いはないはずだった。
あの声を聞いた時、クロノスの中で弾けた思いは、強まり続けた。
そしてその時、心の中で感謝していた。
この世界と引き換えても遜色ない宝物。クロノスが望んで再び出会いたいと思えたのは彼女だけだ。
だから、ネリスがクロノスのために作ってくれた小さな可能性を不意にする訳にはいかない。
未来に残されることになった問題を前にしても、現在を生きる彼にとってそれだけはどうしようもない、考えないようにすることしかできなかった。
「……くろの……す」
聞こえる声に、クロノスの考えは一つしかない。嬉しい。未来は繋がった。アルルと出会った異世界での未来の延長戦。
そこには確かに絶望に沈んでいた。
エイジアスの望んでいたクロノスの心が具現化していたのかもしれない。
もしかしたら、あれこそが乗り越えるべきクロノスの試練だったのかもしれない。しかし、こうしてクロノスの手によって繋がった未来にはもう一つの光を残してくれていた。
目覚める彼女に、第一声をかける。
「おはよう。寝すぎだぜ、クロノア」
クロノスはクロノアの額を小突く。だが、それが痛かったのか彼女は表情を歪めた。
「お前が寝込んじまっている間にやるべきことは終わった。お前の視界に広がる世界が、待ち望んでいた未来かどうか確かめてくれよ。それでわかるものがある。それにお前のために用意した未来だ。十分に味わってくれよ」
「綺麗な景色ね」
「褒めるのは景色だけか? 厳しい評価は堪えるね」
「本音を隠すことはやめなさい。魔術師でなくなってもあなたの瞳を見ればわたしにはわかる。あなた自身の心がこうして伝わってくるのは複雑な気分な上に最悪よ。これって陰険な苛めの類よ? 」
「お前にはいままで嫌な目に合わされたからそのお礼だと思え」
「お礼参りをするならどうしてあのまま花の中で眠らせてくれなかったのかしら? わたしはもう二度と目覚めたくはなかった。この未来に興味があったのは本当の話だけどさ、あなたを見たくなかった。あなたのそんな顔を見たくなかった。そして、わたしの前からあなたの存在を失うという未来を生きたくなかった。それは、自分が死ぬことよりも恐ろしいこと」
「面白い、冗談だ」
乾いた笑いだけしか出てこない。
「冗談じゃないと、説明しても無駄でしょうね」
「俺に使命を与えたのはクロノア、お前自身だ。宿命を与えたのはアルビノの因子だが、それでもこの命を与えたお前が決めたことだ」
「ええ。そうよね。わかっていた、わかっていたけど、その瞬間が来てしまうと心の弱い人間には心労が強すぎる。あなた抜きの世界なんて考えたことがないから、どうしても気持ちが弱くなっちゃうのよ」
「そりゃあ、最高だ」
「いい表情ね。最後に最高の時間を残してくれたことに感謝しなくちゃいけなかったはずなのに、出てくる言葉は全部悪態だなんて印象最悪じゃない。素直になれないってこういうときに不便な思いするのね」
「不便でも俺はよかった」
意思は伝えた。いや、そんなものはずっと前から決まっていた。
覚悟としての強さを改めて彼女に知ってもらいたかっただけなのかもしれない。
彼女が守りたかったものに全力を賭した。それだけに、心は満たされていた。
「最後にお前の隣にいることができて欲しかったものが手に入った」
「この姉不幸者……」
「いまに始まったことじゃないだろ」
クロノスが呟いた時には、もうクロノスの姿は眼前にはなかった。それは人間の彼女には視認できない存在となった訳ではなく、文字通りの消滅だ。
突然、放り出されたクロノアが受けた喪失感に理解が追いつかない。
その感情がどのような悪影響を及ぼすのか。
一瞬にして自身を崩壊させる鋭い凶器となるか、周囲を巻き込むほどの大爆発を引き起こす爆弾となるか想像できない。ただ、考えたくなかっただけかもしれない。
「さようなら、姉さん」
聞こえもしない声を呟いた後に、彼は浮かび上がる。
体の奥底でなにかが膨張するような感覚が広がっていった。クロノスの内部で、アルビノの因子が働いているのだろう。
体の中から強制的に変化する感覚は二度目なのでそれほど違和感はない。クロノアの守りたかったこの世界を守り続けるためにクロノスは想像する。
そうすることで因子が能力を開花させる。それは、クロノスの存在力を新たな存在力に変換しているということ。
神々はクロノスが覚醒したときに自身と共に行き続けると言った。大いなる変化を重ねるクロノスを受け入れたということだ。 力を貸してくれる見返りに、覚悟を見せる。
それを確かめる機会は多く与えられたにも関わらず、彼が見せたのは最後だけだ。
クロノスの行動は早かった。
自身の感情が身動きを取れなくなる前に動いたことは自画自賛してもよかった。痛みによる侵蝕速度はクロノスの心を壊すには十分過ぎた。
遥か彼方に見える地上からこちらを見上げている彼女の視線を見続けては、クロノスの気持ちが力を失いかねない。
体内の奥底で爆発する感覚は続いている。
それはクロノスの肉体そのものが物質としての存在力をなくしているからだろう。それを思わせるだけの巨大なエネルギーがクロノスの体から流れ出している。
発生するエネルギーの放出を高速循環させて無限のエネルギーをクロノスの内部に作り出す。それが世界の流れを、クロノア・ルナリアを、そしてクロノス自身の動きを止めさせた。
世界と一体となる新たなる存在に視線が集まっていた。
全てが彼の掌の上に収まっていた。普段ならば広い世界がこれほどまでに縮小しているものだと感じなかっただろう。
だが、いまはこの世界を小さく感じることができる。自分にできる最後の魔術に全力を注ぐことが出来る。
「この世界の全ての人々に捧げよう。未来永劫に続く幸福の時間。絶えることのない笑顔と慈愛に満ちた光の世界を約束する。いまここに月の使者の最後の祝福を与える」
全身から放出される魔力が、足下に広がる世界を覆う。全身から放出される魔力がさらに増えた。
気分の悪い変化までも、感覚として捉え難くなっていた。
もはや別次元の生命体になった感覚だ。いや、肉体を失い、不安定な魔力体になったのはある意味よかったかもしれない。
クロノスは世界になろうとしていた。彼女を守るための柱になろうとしていた、大切な者を守るための器に。最後の言葉を言った。
星界魔術――月の使者の願い(インフィニティ)。
光の粒子となって爆発して、拡散する。
それは彼の生命を世界に渡らせるための手段であり、クロノスの肉体そのものだ。視界が世界を映す。瞳だったものに映りこむ景色が瞬時に入れ替わり、混沌の闇を払い除ける。
優しい光だった。
先の見えない不安な道筋を照らしてくれる。時の流れを感じられるように肉体が変異していた。これをなんと表現したらいいのかわからない。というか、このところわからないことだらけだった。
不安定な未来を強固なものにするための行動を疑ったりはしていないが、幻に終わってしまうのは格好がつかない。あの場所で告げた言葉が空振りに終わってしまう。
一応、別れ際の言葉として意味のあるものでありたかった。
極限まで決めかねた現実の幸せ。
それを手放した以上、後味が悪いのは未練になりかねない。
それは、クロノスにだけ見える時間だけの未来に影響を与える。これからの世界の景色が見える。
三大王国の一国の王子がいる。世界統一を果たし、平和の世界を実現させるために日々、書類と格闘している。
怒声を放つ少女がいる。与えられた命令を順当にこなし、不真面目な輩を導くために教鞭をとったりしている。
人々に笑顔を与える女性がいる。優美な仕草とは裏腹に治療することに一切の妥協は示さない。小さな建物の一室で家族と幸せな毎日を送っている。
その背後に見慣れたボードがかけられていたが、それを確認する前に消えた。
大切な彼女が泣いている。誰にも悟られないように悲しみを内に溜め込み、ひっそりと泣いていた。
生まれ変わった大地の上、それぞれの生きる場所での姿を見た。
自分の存在しない守られた世界で、彼女たちが生きる姿が見える。だが、そこで泣いている彼女の姿がある。
自分がいないことを嘆き悲しむ彼女の姿が。
助けたい、だが、彼女を助けることができない。
自分は彼女の世界に存在しない、だから、なにもすることができない。
どうすればいい。
自分はどうすればいいのか。
激情にクロノスは自らの行いに迷いが生じてくるのを感じてしまった。
脳裏に流れ込みイメージの奔流に抗うようにして答えを見つけなければならない。迷いは意思を弱め、強固な未来に隙を生んでしまう。
あのような思いは二度とさせたくなかった。
そして、自分がするのも嫌だった。
だとしたら、どうする? この世界を見守ることが新たに課せられた使命だとすれば、迷いなんて不要の産物だ。
見上げればそこにあった。
この世界を見下ろすことができる唯一の場所。
この異名の由来となるものに。
そして、そこならば彼女に自分の存在を教えることができるのだから。
†
クロノアは空を見上げた。
時が流れた空の色は深い色味を濃くしていた。
風の流れが世界を揺れ動かしているようだ。
花の匂いを強く感じる。
クロノスが救った未来は優しさに溢れていた。
世界の中心には生命の樹に人類の花となる蕾を実らせていた。
一定の期間を経過すれば崩壊する以前と同様の文明水準にまで活動してくれるだろう。
それでも、その時になるまでどうなるかはまた無数の未来の内の一つだ。クロノアは月を見上げる。
いまは誰もいない無人の世界にクロノアは一人でいる。
クロノアのいる未来。
クロノスがいない未来。
自分のために命がけで作り上げられた未来。彼女だけに用意された未来。
だけど、そこにいるような気がする。
それは月だ。
夜の世界を照らし尽くす夜の太陽の光が地上にいる彼女を包んでいた。月は見上げる彼女に見える位置にある。雲に呑まれていてもその奥に確かに存在していることをアピールしている。彼を象徴する魅惑的な満月がある。
クロノスが自分のために用意してくれた欠片だろう。
あるいは彼女に対する単なる嫌がらせかもしれない。だけど、クロノアはその嫌がらせを受け入れるだけの器を手にしていた。黒から白に変わる空を眺める。だが、月は依然とそこにあり続けた。
時の変化が彼女から彼を奪いはしなかった。
朝を呼び、夜を誘う。
彼と出会える時を刻む。クロノアは、夜を求めた。時間の経過が世界を変えた。
三大王国が一国シェリフの式典には多くの来賓が参加し、近隣諸国を巻き込む大祭を始めていた。
この度、王位に就任したのはわずか二十歳の青年ということもあり、話題が大きく広まったのも理由も一つだ。彼は世界統一実現のために武力による戦闘をなくす平和的活動を行なうことを宣言した。
子供だからと馬鹿にする人間もいたが、彼は苦言一つ漏らさずに着々と問題を解決していった。戦争による被害者の救済から、悪賊の更生活動という慈善活動は難しい部類に属したが出来ないとはいえなかった。
やがてその活動が世界中の人々に知れ渡った頃には、彼の耳に待ち望んでいた朗報が飛び込んできた。
レン・リッジモンドは、全てを放り出しシェリフを飛び出した。
魔法機関と呼ばれるところで彼女は日夜、若い術者の育成に当たっていた。
意識レベルが問題だったこともあり、最初は混乱や反発があったものの彼女の実力の高さと、人当たりのよさが実を結ぶのに時間はかからなかった。
そんなある日、彼女の耳に待ち望んだ朗報が飛び込んできた。マリア・ルーチェは、全てを放り出し、家を抜け出した。
その頃、西方の大陸では大きな変化が起きていた。小さな村の小さな家で彼女は生まれた。セリュサ・ベルリカと名付けられた少女は、それと同時に三大王国が一国に移り住んだ。
その頃にはシェリフ国の王が行なった平和的活動が結果を出していたこともあり、戦争の数は激減していた。人々は他国と交流するために外の情報を積極的に取り込んでいった。近隣諸国や村や町にも王国の支援策は充実に富んでいた。
そんな中で、彼女は成長していった。
当然ではあるが、彼女の才能は周囲を驚かせるものとなった。彼女は国の教育機関で時間を過ごす一方、たまに出向く緑地公園で空を眺めていた。
公園は彼女にとって息抜きのために訪れる場所だった。彼女の目的は緑地公園の奥にひっそりと佇む一本の木。
どこにでもあるような木のはずなのに、昔から知っているような気がしてならない不思議な魅力を秘めている。
惹かれるというのだろうか。彼女が訪れるたびに、その木に触れるたびに脳裏に過ぎる見覚えのない記憶が鮮明になっていった。
だからこそ、彼女の前に見覚えのない二人が現れても驚きはしなかった。
仲良く手を繋ぐ二人は同じ衣装に身を包み、彼女の秘密の場所で木を見上げていた。一目見ただけで身分の違いを感じさせる雰囲気を漂わせていた。背中のマントに刺繍されたのは王家の紋章。髪の色素が銀色ということから関係者ではなく、王の一族であることがわかる。
彼女の姿に気付いた男の子がこちらに歩いてきた。
社交的な振る舞いは王族ならではの気品に溢れていた。何故か、手を差し出してくる彼に抱きついてしまったのはまた別の話。
それから二人と出会うことはなかった。毎日訪れる木の下で朝から晩まで待ち続けたが、気配すら感じない。
時が流れるにつれて公園に来る機会も減っていったが、季節の変わり目には必ず訪れていた。だが、それもいつからかやめてしまった。
彼女が成長するにつれて、勉学に忙しくなったのもそうだったが、もしかしたらあの時の出来事は夢だったのかもしれないと思い始めていたからだ。彼女の中に存在する幻と考えるようになった。
ちょっと不気味なことだが、完全に考えを否定するまでに至れなかったのは脳裏に焼きついている身に覚えのない記憶の影響だろう。なら、彼は何者だったのだろう。セリュサは考えていた。
だが、優秀といわれていた彼女でも答えを導き出すことはできなかった。
何故なら、その必要がなかったから。
答えは十八の時に訪れた。セリュサが魔法学園の教室から空を眺めていると、それは生徒の声の中を堂々と歩いていた。景色と調和している二人のその姿には見覚えがあった。いつの間にか教室を飛び出していた。
それは正確には未練だったのかもしれない。
月に帰ったはずの彼の気持ちが物質化を図った偽者という考え方もできただろう。
おそらくは間違っていないはずだ。誰も知らない世界での戦いから時をかけて創造された存在に違いない。本人も知らないところで、この世界には彼の願いが込められていた。それも、何者かの干渉を受けたことによって、人として生きるだけに必要な能力だけを与えられて生まれてきた。
だから、違うのは身分だけだ。
二人の存在はいままで秘匿とされていたこともあり、世界に認識されたのは今日が初めてだった。しかし、それは極一部の存在には意味がなかったのか。二人は近づいてくる気配に足を止めた。
風のように現れる三つの人影。身分から暗殺者の類ではと、城では懸念されていたが、目の前に現れたものは、決して悪いものではない。
二人の中にある記憶が、三人を見た瞬間に溢れ出していった。
それは向こう側も同じだったのか気付いた時には駆け出していた。
一人は王族の衣装に身を包む、有名な王。一人は魔法学園を傘下に置く機関に属する有名な術者にして、世界でも指折りの医者。一人はこの魔法学園で最も有名な生徒。
年代、職業、身分の違いがあるにも関わらず、三人の行動は素早かった。
あの二人の名を聞いた時、その姿を見た時、どうしてだか動かなければいけない気がしてならなかった。クロノアは空を見上げる。
太陽に照らされる光の世界を見上げる。そこにも月はある。目に見えないだけで、確かに存在している。そしてここにも月がいる。
不思議な話の一つとして、両親から生まれたときのことを思い出した。
立ち会った者全てが驚き、そして笑い合ったという。
満月の夜に二人は生まれた。双子の姉弟だった。だが、不思議だったのは二人の生まれた後。二人は互いを求めるように強く手を絡ませていた。
つたない力で握られた手を剥がすことは簡単だっただろう。
しかし、誰もがそれを引き離そうとしなかった。
どうしてだが、二人を離してはいけない気がしたのだ。
彼と彼女は三人に走りだした。
「ただいまっ!」
優しく握り締める二人の手に月の祝福を。
Fin。




