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月からの使者 創世編  作者: 朝太郎
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星降る家

五年の歳月は少年を大きく変えた。

黒を基調とした衣服に黒いマント。目元以外露出しない姿は不気味以外の何者でもない。大怪我をしているわけではなく、ポリシーのようなものだ。

しかし、真夏のこの時期にもかかわらず、見ていて暑苦しい服装を選ぶのかは理解できない。新素材を用いた衣服ならば話は別になる。

そんな少年が、ノックもせずに扉を開けた。

関係者にしては異彩を放っている。

室内で書類整理をしていた女の視線が少年に向けられる。その後、時計を見て時刻を確認すると始めた頃から大分時間が掛かっていたのに驚いた。

室内にはもう一人、少女がいた。

座り心地の悪いソファーに座っていても顔色を変えない少女。白い肌にオレンジの髪、緑かかった茶色の瞳。整った顔立ちの少女がいた。

少年と少女の視線が交わったところで、少年の纏う空気が変わった。事前に聞かされていた情報を少年は思い出していた。だが、どうにもおかしい……単独任務と言われていたのに、客か? 

しかし、少女の纏う雰囲気は客というには相応しくない。

「事情が変わったのなら、俺は帰る。新しい団員か? 随分若いのな」

少年が言い、冷たい視線を女に放った。

手にしていた羊皮紙の束が机の上で散らばった。

ここは、ダースレーブ王国の西都エイボンにあるギルド『星降る家』だ。五年前まで小規模だったギルドの頃の面影はほとんど残っていない。血の気の多い連中がギルドの門を叩いては、品性を疑う輩が増えていく一方だ。

それを承知している女も女だが、国王の書面には逆らえない。

それもこれも、全てはたった一人の魔術師の影響なのだが、彼の存在は無に等しかった。

そんな彼がここにいる。

「そうね、ごめんなさい。連絡直後に書面で届いたのよ。だから、帰らないで依頼をやってもらえると嬉しいな」

女が言った。朝方とはまるで違う態度も言葉遣いも互いに決めたルールに従っているだけなのだが、五年経っても慣れなかった。歳が離れすぎていることもあるし、かつての女が夢見ていた世界を変えてしまった自分にはこういう態度しかとれない。

「それと、そこにいる彼女だけど今回の依頼の監察官として同行の許可をあなたに取りたいのだけれど……」

弱々しい声が響いた。それが少年の中でどういう変化をもたらしたかといえば、火に油を注いだようなものだった。

少年のことはこの五年でよくわかっているし、その前のことだって知っている。

全身から発せられる怒りが怖気となって背中を震わせた。少年にパートナーは不要である。

それは女にだってわかっている。

「ルナ……お願い」

「マリア、訊いているのは俺のほうだ」

威圧的な態度はルナのもう一つの姿。演技ではなく、本当の姿なのかもしれない。

言葉を濁すマリアに、ルナがソファーに腰掛けている少女に殺気を放った。

監察官の知識を記憶の中から引き出すと目の前の少女に重ね合わせた。ルナの脳内にある監察官は経験豊富な実力のある魔術師が多くいた気がする。

監察官の仕事は、同行者の依頼遂行能力の評価と所属ギルドの依頼達成率の評価。定期的に行われる評価はギルドの評判を左右する重要な指標だ。派遣された魔術師の素行が悪ければ監察官が代行して依頼を遂行し、それなりの評価を下す。

実力がなければなれないのが監察官の仕事であり、少女の役職。

「監察官ね……こんな生娘に何ができるのか教えてくれよ」

「ルナ!口が悪いわよ」

マリアの怒声にもルナは動じない。自分は悪くないとばかりに言いたい放題のルナにそれ以上の言葉をマリアも言うことはなかった。

「文句があるなら具体的に、定量的にお願いします。あと、人を見かけで判断するのは感心しません」

そんな時に、黙っていた少女の声はよく聴こえた。

ソファーに座っていたはずの少女は、ルナの背後に立っていた。少女は凛とした表情から一転、さきほどのマリアのような表情で続けた。

「それと、あなたはもう少し口の訊き方を覚えなさい。ギルドマスターにそのような口の訊きかたなんて間違っています」

ルナに指をさしながら、話しかける。

マリアが少女に言った。

「……いいのよ。ルナにはそれだけのことをしてもらっているし、実力だってあるのよ」

「そういう人に限って実力が口先だけです。ギルドに所属しているのなら、国のためにギルドのために献身的に尽くしなさい」

常識的な言葉は監察官らしいものだった。少女の言葉にルナは振り返った。

「じゃあ、俺には実力がないといいたいのか?」

「当たり前です」

ため息とともにルナは動いた。

一瞬で少女の背後に移動するも、視界にベルの姿はない。どこにいった? 視線を背後から感じた。次の瞬間にはルナの前に少女が現れ、肩をすくめていた。

この一瞬の動きで互いの実力は把握した。少女は自身の実力を基にルナの実力を測った。それがどの程度のレベルかは定かではない。

「ふっ……二人とも落ち着いてね」

マリアが間に割って入った。

「はいよ……大体の事情は呑み込めた。とりあえず自己紹介でも願おうか」

落ち着いた声で、ルナは言う。自己紹介と聞いて、雰囲気を変えると少女は告げた。

「中央支部より参りました、『太陽の使者』です。ベルとお呼び下さい」

静かな室内にその名はよく響いた。衣服の中から、手のひらに収まる一枚のカードを取り出すと魔力を走らせた。白色のカードに金色の文字が浮かび上がった。ギルドカードにはその名が刻まれていた。

「太陽の使者だと……」

ルナが再度マリアに怒りの視線を放った。感情に呼応してガタガタと微弱な振動が室内に伝わりつつあった。

「そんな眼で私を睨まないでね。優秀な魔術師であるルナの実力査定のようなものよ。今回だけだから、ね」

気迫に呑まれないように落ち着いた表情でマリアは両手を合わせた。

「何か裏がありそうだな……言っておくが俺はこの国を敵に回したって構わないぜ」

ベルを指しながら答えた。

「あなた、まだわかってないの!」

ベルの態度にルナは太陽の使者の噂を思い出していた。元東都アイシンに存在するギルド『夢導く光』の魔術師で、100%の依頼遂行率を誇り中央支部から声がかかった。

若く才能があり、頭脳明晰で人当たりも良いことから隠れファンが多い。

幼少の頃より人のために尽くしてきたことで、ルナのような態度の悪い者に厳しく当たってしまう。

「俺が悪役かよ……わかった。今回だけ同伴でいい」

激高するベルに、悪態をつきながらルナは手で応えた。軽々しい態度が癇に障ったのかベルの髪の毛に魔力が走り逆立ち始めていた。

「ただし、お前は俺の影としているだけだ。邪魔をしたら、その場で消す」

「なっ……あなた」

「依頼内容の確認だ。マリア頼む」

一方的に会話を閉じたルナは、視線を依頼書に向けた。

ギルドマスターの背中がビクッと震え上がった。会話の流れから当然の結末にもかかわらず、室内に漂うこの空気が重い。無言の時間が続いた。短い時間だったと思う。しかし、体感した時間はとても長く感じた。

「あなた一体何者なのよ。それより何て呼べばいいの」

ベルはルナの態度に拳を震わせていた。声色から若い男の態度はいままで見てきた団員のものではない。西都エイボンの最大級のギルド星降る家に所属している者として恥ずかしくないのだろうか。

「異名はない。ルナでいい」

ルナはそれだけ言うと、出口に向かって歩き出した。

「早くしろ」

ルナとベルの奇妙な組み合わせはギルド内を歩けば視線を集めた。

早足で歩いていくルナの背を見ているベルは周囲の視線に怯えが混じっているのを感じた。顔を見ればそれなりの実力者だとわかる。しかし、彼らが発する視線もルナに対して怯えているものだった。ギルドマスターであるマリアもどちらかと言えば怯えていた様子だった。底がみえない魔術師ほど、監察官は慎重に行動が必要だ。

ギルドを出ても無言が続いていたので言った。

「それで、ルナは何者」

まともな返事を要求したつもりはないが、会話が出来るのかどうかを確かめるための言葉は静かに掻き消された。足を速め隣に移動しベルは尋ねた。

「訊いているの?」

「何でしょうか?」

答えたのはルナだ。口調の変化に戸惑ったが、言葉を続けた。

「何でしょうか? ではないです。マスターになんて態度ですか。仮にもここの団員でしょ」

「私は『とある条件付き』でここに所属している身なのでそういった敬意の概念はありません。それに中央支部の監察官……太陽の使者ともあろう人は見る目がないのですね」

丁寧な口調で淡々とルナが喋った。

ルナはベルを見ようとせず、正面も見ようとせず、空に浮かぶ満月を見上げていた。

両目が緋色という以外わからない。全身を覆い隠す黒衣が情報の漏洩を防いでいる。なぜそのようなことをするのかわからないが、マリアが運営する星降る家は元々戦争孤児や一般療養者の請負施設としての役割のほうが大きかったと資料には載っていたのでそれが理由の一つだと思う。それがいつの間にか逆転し、依頼遂行の件数が増加する一方、入団者の人数も比例し最大ギルドに生まれ変わったため、今回の視察対象に選ばれた。その原因がルナの影響だとは思えないが、ギルド内の雰囲気から推測するとそうなのだろう。

ルナから感じる魔力質がギルドを出てから変化し続けている。

(何なの……コイツ)

ありえない状況にベルは思考を切り替えた。

「とりあえず、わかった。手始めに顔を拝見してもいいかしら?」

「お断りします。素顔を曝す理由がない」

「私は監察官、監察対象の素性を報告するのが私の役目。ルナと言う名も偽名でしょうね、マスターに対する態度はどうであれ、場合によっては法によって裁かれるわ」

「余所者がハッキリと言いますね。あなた達中央支部のメンバーは民衆の声をまるで聴いていない。都合の悪い事態にのみ、対応するだけの愚者の集団。私からすればあなた達のほうが裁かれるべきですよ」

ダースレーブ王国は四つの都と交差する中央に都市を構える都市国家。その中央都に存在する中央支部は四つの都のギルドの治安を維持するために優秀な魔術師を集めた王族御用達のギルド。現実的ではない依頼には見向きもしない集団は民衆よりも王族依頼をこなすばかりで民衆からは不満が多い。

「いくら私でも怒ることがありますよ」

「先程から怒ってばかりでしょう。まあ、いいですよ。仕事放棄なさっても、私には一切関係ありませんから……しかし、手を下すなら覚悟はしてくださいね」

「くっ……」

「マリアから手を出さないように言われていますから、殺しはしませんよ。まあ、邪魔した場合は独断で消しますが、ね」

これまでの会話からルナという魔術師の分析は終えた。しかし、ルナという人間の本質は見抜けない。口調や素振りや態度だけではなく、人間の無意識による本能的なものがこの男には見えない。

不思議よりも不気味な男だ。だが、間違ったことは一切言っていないのも確かだ。

中央支部の団員は優秀な魔術師を国内や国外から集め、国を繁栄させるための依頼を多く遂行させることに躍起になり、民衆に対する施策を行うことをしない。現国王はその動きに反対を示すのだが、大臣や先代からの顔役たちに何も出来ないのが現状だ。

ルナの言葉にはベルも納得してしまうものがある。自分の立場は民衆を助けるものなのに、不満を募らせている民衆は日々増えていく一方だ。信頼が欠如していくことで暴動が起きる可能性もあるのに欲深い者たちは考えていない。

中央支部に仕えて二年弱、自分の実力が認められたことが嬉しくて入った世界で見た現実は酷く残酷なものだった。それでもこうしているのはプライドがそうさせているのかもしれない。

「ところでどこに向かうのかしら」

「海洋都市ミュルアークですよ。今夜の月は綺麗なので水面に映る姿は素晴らしいでしょう」

その光景を思い浮かべた様子でルナは続けた。

「依頼の内容はたいしたことではないので物足りないかもしれませんが、報告するならしっかりとお願いしますね、ベル」

「……わかったわ」

実力を試されているような物言いは相変わらず、ベルは頷き返した。

「それでは行きましょうか」

呟くとルナはその場から消え去った。先を見ると勢いよく地面を蹴る姿が見えた。追いつくためにベルも走った。着いた先は駅だった。

「夜行列車? 転移魔法陣で行かないの?」

「すぐに行く必要はないでしょう。ミュルアークまでいまの時間を考えればそんなにかかりません。それに夜はまだまだ長いですから」

ルナに言われ、ベルは困った顔でこめかみを掻いた。その瞬間だけ、ベルはルナという魔術師の一部を見抜けたような気がした。

「それで他に確認事項はありますか?」

「え、えと……」

「そうですね。ないならそれでも構いませんが、依頼終了後に質問攻めにあうのだけは嫌なので先に訊いてもらえると助かります」

「すぐにでてこないわよ」

「そんなものでしょう。では、行きますよ」

「待ちなさいよ」

列車に乗り込むと車両には自分たち以外誰もいなかった。窓際のボックス席に向かい合う形で座ると汽笛の音が星夜に響いた。





目的地である海洋都市ミュルアークまで急行列車で四時間。着くのは日付が変わる頃だろう。あれから客は誰も乗り込んではこなかった。

定期的に車掌が車内を規則的に往復するのと、車窓から見える景色だけが退屈な時間を忘れさせる。時間が動いていると実感させてくれる。

依頼をこなし、褒賞金を得る。簡単なルーチンワークもこの退屈な時間さえなければもっと楽だろう。移動手段をこんなものにしなければ、なおさらだ。

「それで依頼内容を教えてくれるかしら?」

目の前で読書に勤しむ監察対象に視線を送りながら、向かいのベルは自前の髪を弄りながら尋ねた。監察者として同行するのは三度目だ。過去二回の同行では監察対象がろくでもなかったのか、自分が代行するはめになった。その結果、そのギルドは消えた。

治安を守るべきギルドの怠慢は地域の不安を活性化させる。それが大きなギルドほど人々が抱く思いは膨れ上がる。

今回は急成長中の広域ギルド、結果によっては…………

「『都市を荒らす魔物を何とかする』ことらしいですよ」

漠然とした未来を予想しているベルに、ルナは告げた。

「らしいですよ、じゃなくて真面目に答えなさいよ」

「そう言われましても依頼内容はギルドマスターであるマリアとミュルアークの上層部が話し合って決めたものですのでわたしの一存でどうこうできません。依頼書にも記されています」

「嘘ではないようね……信じられない」

「あなたたちの尺度でわたしたちを測るのは間違いですよ」

誰もいない場所にルナの声はとても響いた。ルナはベルを見ることなく、本に視線を動かしている。この列車も動き出してから大分時間が経った。目的地まではもう少しというところか、窓の外の景色に海が見える。

「ところでギルドマスターとルナってどういう関係?」

「おや、気になりますか? ベルの年齢ならあり得そうな話ですが、残念ながら恋仲ではないですよ。命の恩人です。大怪我したところを救っていただきました」

それは弱いという意味だろうか。

星降る家。それを束ねるギルドマスター、マリア・フロラリア・ルーチェが強大な医療魔術師として有名なのは知っている。戦争孤児や重病患者を併設している保養施設で治療しているのも一部の話で有名だ。そんな彼女は戦いを何よりも嫌う。命に対しての重みを知っているからだ。監察者のことを知らないわけがない。場合によっては業務停止。保養施設も失うことになる。そんな彼女がルナを選んだ理由がわからない。

「大怪我ってどういう……」

「来ましたね」

ベルの解決しない疑問は、その言葉で掻き消された。

「ミュルアークまでもう少しなのに……せっかちなのですね」

ルナが本を閉じて首を捻り窓の外を見た。ベルも異常に気が付いた。夜のこの時間帯、高速で走る列車に追いつく存在は人間ではない。小さな影が複数、レールの横を並走していた。

「車掌さん、ミュルアークまであとどれくらいで到着しますか?」

「ええ……このスピードを維持して二十分ほどかと」

「情報では都市内部だけを縄張りとしているはずなのに……まあ、いいでしょう」

「どうするのよ」

ルナを見ていたベルは、ルナがそれをどうやって取り出したのかわからなかった。

ただ、ルナの手に突然現れた二本の棒を握り締めていた。動作を確認するようにトンファーを華麗に動かす。

銀色の意匠を凝らしたトンファー。剣や銃が主流となっているこのご時世に接近戦を好む者は珍しい。相当腕に自信があるのだろう。

大振りな武器でなく、打撃武器はこの場所にもっとも適している。

「とりあえず、被害を最小限に抑えるために迎撃します」

「だから、どうやって」

瞬間、列車の屋根の上を何かが走る音がした。屋根が凹むのをお構いなしに襲撃者は飛び移ってくる。

「素早いことで、ベルは手を出さないようにお願いします」

「ルナの実力見せてもらうわ」

列車は速度を落とすことなく走り続ける。

車外はトンネルに突入したのか、暗闇が続いていた。

「結界を施しますので車掌さん方は運転席で待機していてください」

「え、ええ……」

ルナの淡々とした声に従いながら、避難を開始する。目的地までの距離はそう遠くない。だとすると、襲撃者はそこから来たのだろう。

「状況把握から始めましょうか」

高速で走る列車は海洋都市ミュルアークへ向かって走っている。車内には五名の人間で、窓の外には人気はない。海に映る金色の満月が遠くに見える街灯を淡くみせた。

何度目かの飛び移りで一部の窓が割れ、車内にガラスが飛び散った。

頭上に集まりだす気配にベルが一瞬、不安の色を見せた。

その瞬間に窓から一つの影が車掌たちのいる場所に突っ込んでいった。だが、結界によって阻まれたそれは体から煙を上げつつ俊敏な動きで窓の外へと逃げていった。その次には火の玉や水の玉、風の玉、雷の玉が続けて結界にぶつかっていった。その光景は日常でも見る魔術そのものだ。

「うわあっ!」

魔術によって結界が揺れ動き、悲鳴が上がった。

「何なのあの生き物は……魔物なの!?」

目の前に現れた生物……あれは猫だった。いや、猫のように見えただけで子供だったかも知れない。とにかく、二足歩行で杖を持っていた。服も着ていた。膝ほどの体格の生き物なんて限られている。だけど、ナイフのような鋭い目つきは人間のものではない。

魔物だとしても、行動がおかしい。

魔物にも好戦的な魔物が多いことは知られているが、それは大柄で人間よりも大きな魔物で小さな魔物は人に近づくことすらしない。

しかし、目の前に現れた魔物は明らかに敵意を持って襲い掛かってきた。ひっそりと暮らすことで知られるはずなのにおかしい。

窓枠から入ってきたのは猫だった。

全身から魔力を垂れ流しにする猫は小さな体躯でこちらを見上げていた。虚ろな瞳に生気は感じられない。口元からは牙が見え隠れし、獣であることを顕にした。手に持つ杖に炎が渦巻いき、ベルは小さな襲撃者に恐れを感じた。

『お前たちコロス』

二足歩行する猫が喋った。

「……魔力汚染って知っていますか?」

ベルの感じているものは車掌以外には伝わっていなかった。ルナはじっとその光景を見つめながらトンファーを脇に挟んで首から何かを外した。

どこにでもある懐中時計だった。

蓋を開け、時刻を確認するとポケットにしまった。

「亡国……クリスタル王国滅亡の瞬間に膨大な魔力が世界中に撒き散らされた。強大な魔力は結晶体となって地上に降立つと同時に周囲に悪影響を及ぼし始めた。各地に起きている現象の根源です」

「強大な魔力に当てられた人間や魔物が暴走状態に陥るって、あの噂になっている……?」

「ご存知でしたか」

「当たり前です。でも、噂だけだと思っていたので本当かどうか……魔力汚染っていっても『他者を侵蝕してしまうほどの強大な魔力の持ち主』っていってもそんな人物いまはいないわ」

魔力による他者の侵蝕は、魔術で表せば幻魔術が一般的だ。五感に働きかけ、相手を困惑させるのに適している。

だが、ルナの言っていることは命に作用している。

猛毒を体内に入れられ、蝕まれ、神経や細胞が破壊しつくされ、障害が起こり死ぬ。そういった意味合いだ。

それに、人の命を奪う魔力なんて聞いたことがない。

「『今はいない……でも、昔ならいた』まあ、正解ですが不正解です。もしも、強大な魔力を持っていた魔術師の持ち物が残っていたら? 

結晶体の影響を受けて目覚めたとしたらどうですか?」

「え?」

ルナに言われて、ベルは口ごもった。

一体何のことを言っているのかわからなかった。強大な魔力の持ち主? 持ち物? 結晶体? 

自分の知らないことが目の前で展開されていくのが気持ち悪かった。ベルの知る強大な魔力の持ち主は魔導騎士のメンバーでそれ以上と考えると伝説化している三人の魔術師しかいない。

だけど、三人は現在行方不明。魔導騎士が総力で探しても見つからないのは理由があるのだろうか? 

この現状を引き起こしたのが三人なら問題として取り上げる必要がある。治安のために必要なことだ。

「当人はいなくても、持ち主を探すために持ち物は動き出すでしょうね。病原菌の感染源のように動き回って範囲を広めます」

「そんなこと、言われても……」

「全てを理解しろとは言いませんが、目に見えるものだけを真実とは思わないことです」

瞬時に移動して猫の腹を蹴り上げると追撃といわんばかりに、掌を打ち込んだ。

「さてと、お仕置きでもしますか」

「魔術を使用しないの?」

「必要ありませんから」

頷いたルナは猫をベルに放り投げると、割れた窓枠に足をかけた。窓の外は陸橋の上で、大曲カーブを走っていた。突風が車内で荒れ狂う。ルナは動じることもなく、トンファーで残りのガラスを削り落とすと半身を車外へ移した。

「ああ、そうでした」

ベルに向かって何かが投げられた。

「時間計測をお願いします。大体四分ほど経ったら教えてください。その前に片付けますが、時間になりそうだったら声をかけてください」

「なんなのよ」

「自分ルールという奴ですよ。手の内は曝したくないので」

懐中時計を確認するとルナは屋根に移った。

「……まったくわからないわ」

何もかもについていけないベルは、そう呟くしかできなかった。




列車の屋根の上に立ち、ルナは顔を覆っていたフードを脱いだ。暑苦しいこの装いも五年目になるが熱気が抜けるこの瞬間はいつも新鮮だった。

「さて……」

トンファーを掴みなおし、緋色の眼で闇を見通す。眼では見えなくても気配はそこにある。都市から離れていたこの列車を襲い掛かってくるのは、汚染濃度が高い可能性がある。理性はほとんど残っていないだろう。

「マリアの懸念が当たったようだな」

マリアの下に届けられる依頼から選ばれたものは、大概このような事態に直面することになる。女の直感かもしれないし、経験がそういっているのかもしれない。

目の前にいる猫の数は全部で九匹。ベルが抱えているものを入れれば十匹。纏っている魔力波どれも同じだが、杖に灯る光は異なった。敵意と殺意の視線をルナに向けた。

「少しの間眠っていていろ」

告げると、ルナは両腕のトンファーを持ち上げ走る。

腕を引き、突き出す。突風に類似する衝撃が夜に木霊した。轟音の後には結果が現れる。

目の前にいた四匹が身を震わせて蹲っていた。衝撃で屋根の上をバウンドして転がる猫たちは突起している部分に身を打ちつけ意識を飛ばした。

体勢を低くして残党に走った。撃ち出される衝撃が放たれる度に、屋根に穴が開いた。残った猫たちは持ち前の運動能力で避けた。

七匹が再起不能になったところで反撃が始まった。

一匹の猫が杖に水の玉を集めると水針のように分解し、一斉に放った。微細な矢がルナに、迫った。

残りは背後からルナに。

「遅い」

停止状態から後ろ足を突き出し、意識を奪う。

同時にトンファーを矢に放り、奥にいる猫に命中させる。空いた手で宙に浮く猫を掴むと屋根に叩きつけた。

あまりの衝撃に屋根が抜けた。

室内からベルがこちらを見ていたので掴んでいた猫を放る。直後、背中に何かが刺さった感触がしたがすぐにそれもなくなった。

奥にいる一匹が起き上がるのを見て、近づきトンファーの先端で杖を払う。杖がなければ猫たちは、魔術を使用できない。開いた穴に猫を放り込むと気絶させた猫たちがぐったりした状態で起き上がる姿を見た。

その猫たちよりも早く動き、杖を奪い、先ほどよりも強く叩く。

「遠隔操作か……本体は別にいるのか」

個人の意思で動いているとは思えない。こちらも手を抜いているわけではない

「手間かけさせやがる」

外傷はない。内部にダメージを与える方法をとっているから休んでいれば回復する。

「なら、ここから……」

トンファーを拾い、立ち去ろうとした瞬間……

背後から魔力を感じた。

「ちっ」

トンファーで打ち返していくも雨のように降り注ぐ魔術は止まない。都市に近づいたことでこうまで攻撃を受けるなんて思ってもみなかった。

見れば都市にいた猫たちが出迎えと言いたげに魔術を放っていた。

都市の明かりが列車を映した。足場が不安定なこの場所で戦いを続けるのは難しい。列車は速度を落としつつ都市に入っていった。

「ルナそろそろ時間よ」

開いた穴からベルの声が届いた。

「わかっています。ここで戦っていても埒が明かないので防御に徹しましょう」

野生の猫のように群がる。都市に近づくことでその傾向は強い。

「幻魔術――幻と闇の悪魔(ヴィーゴ)

トンファーを消して、ルナは呟いた。

黒い靄が猫たちを包み込んだ。

ルナの目の前、ベルの間の前にいる猫たちから絶叫が響いた。

瞳には生気がある。意識があるのだろう。

爪をさらけ出し、苦しいのか車内の床に一閃を放つ。ベルの抱えた猫も頭を押さえ、苦しそうに叫んでいる。まるで、何かが乗り移ったように行動は次第にエスカレートし、突然、糸が切れたように静かになった。

そんな猫たちの姿を、ルナは冷静に見ていた。

「本気を扱えないのはやはり辛いですね……ベル」

「そろそろミュルアークよ。係員を先に誘導します」

「了解しました」

ベルの返答を聞いて、ルナは次の行動に出る。

倒れている猫の体に手を置くと魔力を流し込む。

すると、感電したように体が痙攣し、光に包まれていった。

光が止むと変わらずに猫がその場で倒れていた。それでもルナは他の猫にも同じようなことを繰り返した。

唯一の変化として、猫たちの顔は穏やかなものになっていた。

フードを被り、開いた穴から車内に戻るとルナはベルに言った。

「わたしは猫たちを運ぶので先に誘導をお願いします」

「わかったわ」

屋根の上に転がっていた猫たちを車内に落とすと、その後ろから車掌たちがゆっくり出てきた。

魔術師でない彼らが魔物を間近で見ることはない。ルナやベルがいても不安なのか刺激しないようにぎこちない動きだった。

「いきましょうか、わたしが誘導しますので皆さんついてきてください」

ベルの声に車掌たちは車外に出て行った。ルナは気配が遠ざかることを確認すると、猫たちを抱えて夜の都市に消えた。

都市の列車とは反対側の茂みに転がすと、ベルの気配を確かめ今度は中心部に向かった。都市に入ってわかったことだが、異質な気配が漂っている。

たどり着いたのは、時計塔。その秒針の上だ。無風状態の今ならバランスを崩すこともない。懐から通信機を取り出す。

『マリア、都市についたぞ』

夜景を眺めながら、ルナの声が摩天楼に響き渡った。

『聞こえているわ』

待っていましたといわんばかりの声がした。

現場での慣わしというよりも、ルナは現場に付いた時に必ず連絡をした。ことの詳細や被害状況を確認するためのことだ。目的地に向かうまでに新たな情報がギルドに寄せられていることがある。それによる緊急の事故を防ぐためにマリアはこの処置を取っている。

ルナもこの案には賛成だった。現場には自分ひとりで行くが、情報はあって不便なものではない。

例えば受諾された依頼内容の難易度が突然上がることもある。それは事件発生からギルドが対応するまでのタイムラグで環境に変化が起きた場合だ。魔物一匹が十匹に増えたなど、よくある話だ。

『ベルはどうしたの? 』

『少しトラブルがあって、一般人の保護に回ってもらった』

『そう、なら大丈夫ね。それでどんな感じ? 』

列車での出来事を詳細にマリアに告げると新しい情報と照らし合わせた。新しいといっても数が増えただけらしい。

『どうもこうもない。そこら中に奴の魔力が満ちている。影響を受けている可能性も考慮すれば大当たりだ』

意識を呑み込まれそうなこの魔力波長をずっと探していた。

『それであいつの情報は得られたのか? 』

『本名セリュサ・ルーヴェン・ベルリカ。あなたの二つ上ね。太陽魔術のエキスパートで両親は一般人。それも十歳の頃に魔獣によって亡くなっているわ』

『なるほど、道理で真面目一本馬鹿な訳だ』

監察官になったのもそういうことならわかる。権力や地位が好きな馬鹿か自分と同じ境遇の人間に同情するか。

こういった思いはルナの偏見によるものだが、あながち間違ったことではない。中央支部を仕切る人間にはそういう輩が多いからだ。

『それで本体は見つかったの? 』

本体とは遠隔操作をしていた黒幕。大方の予想はついているが、隠れるのが得意らしく、居場所を掴ませてくれない。

『まだだ、的が小さいと探し難い』

自らの魔力を微弱な波動として飛ばし、相手の反応を見ているが、狙った獲物はかからない。

『特殊な魔物だからそうかもしれないわね』

『それで羽根(ハーピー)の動向は探れたのか? 』

クリスタル王国滅亡から数ヶ月で三大王国のパワーバランスが崩れた。さらに有能な三名の魔術師の消失で怯えていた賊たちが一斉に事を起こした。

その中心核として暴れているのが羽根(ハーピー)と呼ばれる魔術集団だ。羽根の目的に決まったことはなく、各々が自分の好きなことをしているに過ぎない。ただし、羽根の結成理由は、いまはいない三名の魔術師を殺すことにある。特に天空の使者を最も憎んでおり、天空の使者に関わった人物や場所はことごとく灰に変えられた。現在、羽根は活動を行っていないが、隠密に動き回っている情報がギルド内で噂になっている。

ダースレーブ王国では羽根に対する殲滅を掲げており、マリアの下にもその通達が連日送られてくる。しかし、どのギルドも羽根は近づこうとはしない。近づくことが無謀だと知っているからの偽善とした行動。

羽根の実力はギルドマスターと同等かそれよりも低い程度の猛者たち。決定的な事を言えば、彼らは天空の使者が選んだエリートになる。ただし、全世界から彼女が選んだ魔術師たちでも羽根は落ちこぼれの部類に当てられる。

『水面下での動きはなし、上手く隠れて行動しているみたい。でも、実を結ばないことばかりみたいよ』

『そうか……所詮、烏合の衆だ。初めから期待はしていない――また連絡する』

直線的にこちらに向かう気配を感じ通信切ると、近くの屋根に人影が現れた。

「遅かったですね、ベル」

「道に迷ったのよ。ミュルアークって夜は街灯がないのね。それで本体は見つかったの?」

「いま探していますよ。でも、大体どこにいるのかわかりました」

「ところで誰かいたの?」

「ギルドマスターに通達ですよ。今回の相手はマジキャットなので事後処理をお願いしました。残留魔力が一般人に悪影響を与える可能性もありますので」

「マジキャットは初めて見たけど、可愛いだけで嫌な魔物なのね」

「可愛いと思えるなら上々ですよ」

ルナは肩を竦めた。

列車を襲った魔物はマジキャットと呼ばれる小型の魔物だった。特殊な魔物として認知されており、人語を話すこと、持っている杖から下位の魔術を放つなど、魔術師に酷似していることからそういわれている。

しかし、魔物は全て駆逐されるというわけではない。珍しい魔物は、コレクションという形で貴族の道楽に利用されることが裏社会では多い。魔術師に似たマジキャットもその対象で乱獲されていき、数を激減させた。

仲間の姿に知恵のある彼らは人前に姿を見せることを止め、人が寄り付かない魔境に逃げ込んだ。

彼らは賢い魔物だ。それがこうして現れたのは異常行動の一つである。

「待って。その前にどうやって解決するのか教えて」

「言葉の意味がわかりません」

「これも仕事の内よ。上層部に報告する書類に記載する文を増やしたいの。『いつの間にか片付けていました』って上は納得しないわよ」

「……はあ、単純に話し合いです」

野蛮な考えだと手で払ってくるルナに対し、ベルは眉を吊り上げた。

何か間違ったことを言っただろうか? 

ギルドに所属している魔術師が魔物と対立する上での解決策は『戦闘』。それなのに、ルナが提示したのは『対話』。間違っているのはルナだと誰が聞いても思う。

「それこそ意味がわからないわよ」

「命在るモノ、無駄に殺す必要はないじゃないですか」

その言葉が妙に引っかかった。

「魔物でも?」

幼い頃に両親を手にかけられたベルにしたらとんでもない話だ。

「魔物でも、人間でも命在るモノは平等に扱うべきです。人とは違う身なりでも彼らにも心がある。理解しあえる心がある。それを一方的に悪と決め付けることは、いいとは思いません」

緋色の瞳がベルを射抜いた。諭すように言葉を内部に浸透させていった。無停滞に風が流れ込み、髪が乱れた。

「なら、理解し合えなかったら?」

「永遠に眠ってもらいますよ」

クスクスと笑っている姿に煮え滾るものをベルは感じた。

「勘違いしないでください。命は奪いませんから」

「……そう」

「ところでベルは中央支部ではどの程度のレベルですか?」

「急になによ」

思い出したかのように手を叩くルナに、ベルは思考を中断された。

「もしかしたら、別行動になる恐れがありまして、いざというときは自分で身を守っていただくことになるかもしれないので確認です」

「ご心配なく、中央支部でも『魔導騎士(ナイツオブラウンド)』に所属する腕前です」

イライラしているベルにルナは驚きの声を上げた。

「それはすごいですね。それでは№持ちということですか……いくつですか?」

「……Ⅸよ」

個人情報以外はマリアでも収集できなかった。有益な情報は嫌いではない。

「中央支部の構成員五〇〇名中の序列九位なら心配無用ですね」

「不服そうな顔ね」

「『魔導騎士(ナイツオブラウンド)』のⅨの慧眼がこの程度なら上位者はどの程度か気になっただけです」

相手の実力を知るだけなら目を見るだけで分かるのがルナの持論なのだが、ベルには通用しないようだ。

「大した実力もなしに口だけは達者ね」

「口だけかはその眼で見てください」

「……そうね」

都市内に気配が満ちた。

獣の鳴き声が都市中で反響している。

「都市内での戦闘は建造物に被害が出てしまうので、戦うなら海上に飛ばしてください」

ベルの扱う太陽魔術は威力も大きいが、規模も比例して広い。こんな狭い場所で魔術を扱えばそれだけで大惨事に繋がってしまう。

「月の満ち欠けによって、潮が引いて陸地になる。本日は拝めませんが神秘的な光景です」

マントの内側から一匹のマジキャットを取り出すと、ベルは嫌な顔をしたが渋々受け取った。

「どうしてこの子が出てくるわけ?」

「彼らには少し聞きたいことがありましたので捕まえときました。危害を加えなければ優しい魔物なのであなたが攻撃しなきゃ問題ないです。都市中央の塔でこの子と一緒に眺めていてください。マジキャットの総数はそこまで多くないのですぐに終らせますよ」

「今度は本気かしら?」

懐から依頼書を取り出すと、手渡した。

「まさか、冗談でしょ」

「ふざけているの?」

返ってきた声に、低い怒声で応えた。緊張感のないこの男に何を言っても無駄だとわかっていても染み付いた癖は止められない。

「嘘ですよ。小物には本気を出しませんが大物には出し惜しみはなしです」

「大物ね。魔物にてこずるようならそれまでってことにしておくわ」

吐き捨てる言い方にルナは反応してこなかった。少し意外だったが、声には出さなかった。

「では、お気をつけて」

ベルが冷たい瞳で見ている。ルナは天上に浮かぶ満月を見上げると、全身に魔力を走らせた。

「時間潰しにもなりませんが、派手にやりましょう」夜の都市に消えていったルナをベルと一匹は黙って見送る。

変化はすぐに届いた。微弱な魔力波長が断片的に都市の全体に大気に乗じて伝わっていった。

「……始まったのね」

大きな力の流れは感じ取れないことから魔術は使用していないと思われる。

トンファーによる接近戦で各個撃破といったところだ。

ルナの戦いを観測するためにルナが先ほどまでいた秒針に腰掛けていた。

マジキャットは膝の上。

気を失っているのか、眠っているのかわからないが息だけはしている。念のために杖だけは取り上げた状態だ。杖がなければ魔術は使用できないらしい。

どうしてこんなことになっているのか、自然と難しい顔にもなってくる。

「……平均的すぎて話にならないわ」

それは自分の立場から思うのかもしれない。ルナは一般ギルドの魔術師で、ベルは中央支部の監察官だ。一般ギルドの魔術師と監察官では魔術師としての技量は質が違う。中には監察官レベルの魔術師もいるのだが、それは一握りで大概はギルドマスターとして世に出る。マリアが恐れるほどの技量を有していると言えば、やはり思わない。

仮に有していたとしたら、その名が広まっていなければおかしい。

(……それにしても変わった戦い方をするのね)

直接見ているわけではないが、高位の魔術師ともなれば魔力の流れから概ねの動きが読める。

都市内を高速で移動するルナの動き、小さな魔力体が倒れるのに多少の時間差があるところが気になった。

「どうしたニャ?」

「別に」

集中している間に目が覚めたらしく膝の上で体を伸ばしているマジキャットを言葉であしらうと小さく呟いた。

「西都エイボンのギルド星降る家所属の魔術師……ギルドのデータにも一切情報が記されていないほどの実力者ねえ……」

最初から騙されたと考えたほうが自然な流れだ。

「どういうつもりで、こんなことになったのかしら」

中央支部の依頼をこなした直後に、言い渡された指令だった。

監察官になって、魔導騎士に昇格してから三年が経っている。昇格したことでベルがこなす依頼の難易度も上がっていった。どんな依頼でもこなす自信があった。だが、今回はいつもと勝手が違うのかそういう気持ちになれない。

(いや、違う)

わかってはいるのだ。

周囲からいつも浴びる視線。浴びせられる言葉。分不相応な地位と実力だ。自分の生い立ちから人のために気持ちが結果を導いてくれていた。

逆にいえば、ベルは周囲に期待をしていなかった。

力があるから必要ではなかった。

力があるから不要だった。

謎めいたルナにどう対応していいかわからなかった。戸惑いはそのためだった。でも、難しく考えることでもないと理解した。

いまは仕事をしているのだ。

「私は自分の仕事をこなすだけ」

「いつまでこうしているニャ」

マジキャットが口を挟む。

「少し黙っていなさい」

頭を指で小突くと「ニャっ!?」と声の後、静かになった。

「この世界を正しい方向へと導くために必要か……」

魔物だけではなく、不安定なこの世界を守るために実力者は大勢欲しい。力があれば世界を導くことが出来ると、とある魔術師は言っていた。

「わたしには分かりかねます」

力があることにこしたことはないが、欲しすぎれば破滅するのもまた一つの結末だ。

「あれ?」

あまりにも静かなので視線を下げると猫は消えていた。

「どこに行ったのかしら」

紅い月が都市を照らした。脚力を強化して都市を走る。動きに無駄はなく、物音もまた静けさに重なるような程度だ。

摩天楼から降りれば谷底に転落したような気分になる。月の光もここには届かないのか、暗い闇が広がっていた。

道の間隔は広かった。観光スポットであるミュルアークでは、昼間の時間帯は観光客相手に大通りは商店街に早変わりする。道端に転がるゴミがそう思わせた。

海に囲まれた都市。入るには海を渡るか、列車に乗るか、空を飛んでくるかの三択。結界が施されているので必然と選ぶのは一つに絞られる。それがなくても結果は一つだ。

自然の守りが都市を生かす。

海に入れば渦潮の流れが、水中で生命の糸を絶ち、結界を越えて中に入ろうとも規則正しい法則によって生み出された摩天楼の隙間から流れる風の牙に切り刻まれる。それが海洋都市の性質であり、姿だ。

それを知っているからこそ、人々はこの地に足を運ぶ。世界にはこういった場所は少なくない。

だから、今回の騒動は異例中の異例となっている。いまだ被害は出ていないが魔物が都市内を徘徊することは人々にとっていい気はしない。

そういう訳でルナの下に依頼がきたのだった。

「……さてと」

左右に視線を飛ばし、様子を見る。魔力知覚による微弱な変化は相変わらず、都市全体からあるのだが、探している気配が見つからない。

おかしいことは、他にもあるが狙い以外に労力を割いたところでこの依頼の未来が変わることはないので考えるのを止めた。

「まあ、十分でしょう」

角を曲がると、ルナはすぐそばにあったゴミ捨て場に向かって魔力を解き放った。

衝撃がゴミ捨て場を散らかすと小さな影がルナ目掛けて飛び掛ってきた。

「幻魔術――スピネル」

言葉が言い終わることにはマジキャットがルナの体を引き裂いていた。そこに火玉が放たれた。腹に風穴が開いた上に、全身を炎が包み込んだ。

だが、ルナは声一つ上げることなくマジキャットに向き直った。皮膚の焼ける焦げ臭い、燃え落ちる髪、流れ出る血が蒸発し鉄の臭いが辺りに充満した。

なまじ鼻がいいので、この臭いに表情が怪しくなっていく。手で押さえても一度覚えた臭いは忘れたくても忘れられない。

燃え上がる体がマジキャットの体に触れると当然のように燃え移った。必死に体を地面に擦りつけるも虚しく、頭上から黒塊に押しつぶされてしまった。

「出てきてください」

地面で痙攣しているマジキャットを一瞥し、反響する仕組みを利用して語りかけてみた。気配を隠すことが苦手らしい。また向こう側でも準備が行われているようだった。

「出てこないなら、それでも構いませんが五体満足で生き残ることは無理でしょうね」

待っているのはもったいない。昔ならいざしらず、いまの自分には自分は金を払って買いたいほど貴重なのだ。トンファーを回して飛び掛る。配管の上にいたマジキャットは小さな体を利用して隙間に潜り込み、逃げた。

いままでのマジキャットとは違い頭の回転がいいらしい。

もともと、魔物は頭がいい生き物だとルナは思っている。人が低俗に扱うだけで、人とは違う生活圏を築いている彼らは独自の理論を持っている。

いままでの出会いからルナはそう思っている。

対話という形式を選んだのもそのためだ。

人の言葉を理解出来る魔物は多い。人の言葉を話してもらえる魔物は少ないが、彼らの理念は非戦闘にある。一部を除いて戦うことを拒否している。一方的に悪と人間に決められても彼らは住処を捨て逃げ、生きることを選ぶ。本当は生かされているのだと人間が知らなければいけないのに誰もわかろうとしないのが現実だ。

橋の上を影が走る。

マジキャットは逃げ続ける。戦うことをせずにただひたすら走る。目の前のマジキャットの他に気配は感じられなかった。ならば――

「逃がしません」

ルナは素早く足を動かし…………踏みつけた。

『ニャ!』

尻尾を踏んでいるにも関わらず、必死に爪を立てて暴れている。

このままでは切れてしまうと思い、もう片方の足で胴体を踏みつけてから、尻尾を解放した。ただ、単純に痛かっただけのようでそれから暴れることはなくなった。しかし、爪は伸びきったままだ。

「無駄ですよ」

少し力を加えると足の下から苦しい声がした。

「多分、本体から影響の少ない場所に来ているのですから、少しはまともな思考能力であってほしいですね」

「なんのようニャ」

「状況を理解するのと、少し眼を覚ましましょうか」

「ニャ!痛いニャ」

軽く締め上げるように宙に持ち上げる。手足をバタつかせ、血走っている眼を無視して魔力を流し込んだ。一瞬、光に包まれると手を離した。

「ニャッ!? ここはどこニャ」

杖を抱えながら不安げに左右を見渡すと叫びながら、見知らぬ土地に涙を流した。

「やっと眼が覚めましたか。本当に奴の汚染はやっかいです」

「人間かニャ? どうして生きているニャ?」

頭上からの声に恐る恐る顔が上がった。目の前の壁が人間と知るや、自分の体を撫で回した。人間に出会ったら殺されてしまうというのが彼らの中で伝わっていたのだ。

「あなたの中の残留魔力を取り除きました。正確には上書きなのですが、この際どうでもいいでしょう。教えてほしいことがあるのですがいいですか?」

「なんニャ」

何を言われているのかわからないのでとりあえず聞き流すことにしたらしい。敵意も害意もないことに安心したのか逆に近寄ってきた。

「あなたたちの仲間で紅い宝石のついた腕輪を身に付けている者はいらっしゃいますか?」

「いるニャ」

「素直ですね」

「だってあいつが腕輪つけてから皆おかしくなったニャ」

「ミュルアークに来た理由などは教えてもらえますか?」

「わからないニャ」

「自らの意思で来たというよりも、つられてきてしまったということでしょう」

「それよりも人間は何者ニャ!? 他のやつは恐がって攻撃してくるのに、どうして攻撃してこないニャ」

「申し遅れました。私、月の使者と申します。今後ともよろしくお願いします」

「月の使者ニャ!有名ニャ」

「間違った素性が伝わっていないのはあなたたちだけですね」

「皆感謝しているニャ」

「人間視点だとそれは間違っているのでしょうね」

「でも、自分たちは感謝しているニャ。だから今回も助けて欲しいニャ」

「もちろんです。今回は身内のしでかしたことですから」

「助かったらすぐに出て行くニャ」

「そうしてください。それで宝石の方はどちらにいらっしゃいますか?」

「あっちニャ」

マジキャットが杖を向けると、正面から多属性の玉が飛んできていた。

うろたえるマジキャットの正面に立つと片手を突き出して簡易障壁で防いだ。

「……ニャ~、ごめんニャ」

耳を折って俯くマジキャットだが、攻撃の手が緩むことはなさそうだった。

障壁にぶつかっては爆発音が鳴り、震動が障壁越しに伝わってきた。爆煙の奥に襲撃者の姿を見つけた。濁った目は虚ろで焦点が定まっているようにはみえない。口から涎が溢れ出ている。本体に近い場所にいたのか汚染濃度が高いと見た。

「気にしないでください。気絶させますので、叩き起こして順次避難してください。監察官がいるので見つかったら命がないですよ」

防御から攻撃に転じる。障壁に魔力を送り込むと維持できなくなった障壁がガラスを割ったように外向きに砕け散った。

「月魔術――エナジードレイン」

一瞬の停止状態、死角から軽く突きを放った。

「あなたたちの体内に残留している侵蝕性のある魔力を取り除いています。魔力を抜かれた直後は、虚脱感や倦怠感がきますが、意識もハッキリするので心配しなくても大丈夫ですよ」

「すごいニャ!」

小型のマジキャットだから早めに成せる業に、ルナは苦笑した。大型の魔物だったら突きだけではいかない。

「本当は一瞬で終らしたいのですが、大物を前に制限時間を早めるのは得策ではないですからね」

探していた物は五年前にはあるべき場所に存在しなかった。それは意思を持って動き出したということにある。五年間探し続けて、ここにその物が在る。

と……最初にいた時計塔の方から魔力波長を受けた。

「ん?」

ベル? そう感じたのは一瞬。その直後に膨大な魔力に体が反応した。考えることも虚しくすぐに事実に辿り着いた。

見つけた。

体内で感情に感化され、濃密な魔力があふれ出してきた。

視認できるほど濃い魔力にマジキャットは口が塞がらなかった。

「困りましたね」

自分の姿に淡々と声を漏らすルナは空に手を掲げ、結界を張り直した。内からは脆く、外からの衝撃には強い。それから結界を何かが通過する感覚が伝わった。ベルは言葉通り優秀らしい。

夜空に獣とは違う、咆哮が木霊した。意識を刈り取るような恐ろしい叫びにマジキャットは頭を振った。

「何の声ニャ!?」

総毛立った姿でオロオロするのに、ルナは頭を撫でることで気分を紛らわせた。”いまの影響による被害はどうやらないらしい”。

それでも、落ち着く暇はない。ベルが対立しているのだ。

「海の方に何か飛んでいったニャ」

「ベルに残した彼が大当たりだったのですね」

どうしてあの時気がつかなかったのか? そんな自問はこの際意味がない。なぜなら、相手は意思があるのだから。

「これだから『意思のある道具』は嫌いです」

「行くのかニャ?」

月の使者のことを知ってはいても心配なことには変わりない。

先ほどの生き物は魔物である自分たちでも恐ろしいと感じてしまう。

仲間とも思えない。恩人を危険な場所に行かせていいのか迷ってしまう。

小さな手がマントの裾を掴んだ、がルナは優しく言った。

「ええ、あの方を助けたら連れてきますのでこの先にある森で落ち合いましょう」

足が地面から浮いていく。ルナは浮く。風が体を包み、小さな竜巻と化した。

「巻き込まれないように気をつけていってください」

「月の使者も気をつけて欲しいニャ。それと会えて嬉しいニャ」

涙ぐみながら手を振る姿は人のそれと変わらない。彼らもまた心があるのだ。

「……やれやれ」

彼らと分かち合える日がきたらどんなに幸せか考えてしまった。




それは形容し難いものだった。独特で特有とでも表現しようか。とにかく、ベルは立ち上がりその場から飛んだ。飛来するよりも早く、ベルが退避したことによって時計塔に穴が開いた。粉塵が紅い光で血飛沫のように舞った。

朧気に映える影に背筋がゾッとした。刹那、粉塵を黒み帯びた不透明な巨腕が突き破ってきた。

「……魔縛り!?」

判断を鈍らすには十分な時間だった。

「くっ……太陽魔術――太陽と光の熱線(フェスタ)

即座に腕を突き出すと腕から凝縮された魔力が放たれた。貫通性のある熱線は巨腕の中心部を通り、粉塵ごと消し飛ばした。

距離を保つために後ろに飛んだ。

『喰わせろ』

暗がりの室内から小さな影が飛び出した。

「……なっ」

強化した視力で動きは読み取れる。消えたマジキャットだ。だが、斑模様を基調とした毛色は黒色に染まっており、腕には不釣合いな紅い腕輪をはめていた。さらに小さな背から消し飛ばしたはずの不透明な巨腕が左右から生えていた。

「太陽魔術――太陽と風の障壁(アルビオン)

ベルの全身から噴出される暴風が予想外の速度で振り下ろされる腕を弾いた。

しかし、その威力まで殺すことは出来ず、風の繭は都市外に打ち出された。繭の中でベルは迫り来るマジキャットの変化に思考を切り替えた。個体としての能力が上がっているわけではない。変わっているならあの腕輪か――

『今回は人間か……力強い魔力だ。この寄り代よりは使えそうだ』

「お前は何者だ」

『そんなことお前に関係ない』

海に着水すると重圧感のある声が波紋を生み、爆発を引き起こした。水面から空に立ち昇る水柱に打ち付けられたベルは、痛みに顔を歪ませた。対するマジキャットは波紋を立てることなく、水面下に足を付けた。

『お前はその身体を私に渡せばいいだけだ』

「やってみろ」

血の塊を吐き出し、ベルは肉体活性を行使した。

衝撃で左腕を始め、肋骨が何本か折れているのか魔力を走らせると痛みを感じる。

視線の先にいるマジキャットは、不敵な笑みを浮かべていた。ボコボコと巨腕の間から不透明の泡が形を成していった。

次の瞬間、二角を頭に生やした怪物が海面を割った。大気を震わす咆哮に乗せられた衝撃波にベルは耐え切れず全身を転がした。

それはナイフで切り裂かれたような鋭い痛みだった。体内を駆ける衝撃が形を変えて暴れまわる。音のない刃にまたも血の塊を吐き出した。それでも、意識が途絶えないのはベルが魔術師として魔導騎士としての実力の姿。

瞳が静かに開かれた。その奥にあるのは自身が掲げた信念の炎だ。唇を噛み締めると水面を蹴った。全身から流れる魔力を自らの力の一端に変質させる。

明確な表現をするなら、それは太陽だ。膨大な魔力を熱量に変換し、自身に纏うベルのオリジナルの戦闘スタイル。怪物の視線がベルに向いた。

ベルの手には武器が握られていた。ルナとは違いベルは魔導具を所持しない。魔力で自分の武器を造りだす。

それは炎の剣。注がれる魔力に比例してその姿は大きくなる強者の証だ。

『破滅を導く……古の炎がこの程度か』

環境を狂わせるベルの魔力に動じることなく、怪物は姿勢を崩すことはなかった。

『私の主も太陽魔術を好んで使用していた。私を飼い慣らすほどの強大な力を内に秘めた人間にして人間ではない者だった。だが、お前のような弱き力を見せたことはなかった。このイリティスタを満足させる魔術師は主の他に存在しない』

「ルナが来ないなら私が排除します」

呼気を一つ、ベルは柄を引いて宙を蹴った。それに加えて背後で数度爆発を起こし、ベルの体を超速のものへ変えていった。

狙いは紅い腕輪。流れる動作から振り抜かれた一撃は、怪物の全身を綺麗に一刀両断した。

……はずだった。

『笑わせるな』

剣は確かに怪物の中心を捉えていた。捉えているだけだった。炎が脈打つ刃は頭の先で死んでいた。ベルの全身から無意識に放たれた炎の刃も不思議な流れに絡めとられたのか、怪物を避けた。

怪物は三つ眼でベルの持つ剣を掴むと対岸に向かって投げ飛ばした。

遠心力に引きずられ、体内を掻き乱されたベルは障壁を張る暇もなく地面に突っ込んだ。

とっさの判断で剣を逆手に持ち替え地面に突き刺すことで勢いを殺すことに成功した。

『お前の攻撃は私には届かない。力の使い方を知らない者がこのイリティスタを従えられると思ったのか』

いままで戦ってきた魔物を一撃で葬った一撃を何事のなかったかのように怪物……イリティスタは捌いた。

『この器に押し込められた瞬間から、私は器として主の所有物だ。本来ならこの器に収まることがない私の力を押し込めるのは主の力だ。その器を破壊できない限り、お前の攻撃は私に届くことは永遠にない』

「化け物」

本より手を抜く気はなかったが、只者ではなかった以上周囲のことなど気にしていられない。魔力解放を行った時点でここ一帯はベルの支配下にある。指一つでそれは起こる。

「太陽魔術――太陽と闇の破壊(サンブレイク)

『効かぬ』

収束される魔力が大爆発をする前にイリティスタの声が届いた。絶対的な破壊を生むはずの魔術は不発に終わった。

『合成魔術でも無意味だ』

自嘲するようにイリティスタは静かに言った。

『超古代の負の遺産である私に傷を付けられるのはこの世に二人しかいない』

「超古代の負の遺産ですって!? まさか……伝承の一説とされているものが」

『私の正体を知り、怖気づいたか? このような弱き器に収まっている私にも傷一つ付けられないことに絶望したか? 』

抗うこともできないベルを伝説の異形は見つめる。

『気にいらない顔だ』

正体を知ってもなお、立ち上がり切っ先を向けるベルに、イリティスタはどうしようもない愚か者に全身で歯を剥くことを告げた。

『お前たち人間の悪い癖は、“つまらぬ正義感だ”』

全身が蠢いた。巨腕の筋肉がより膨れ上がり、締まりきった体が巨大化していく。

魔力が解放された。

解放された魔力が両手に集まっていき、二本の腕に一つの武器を生み出した湾曲する刃は見るだけで戦意を喪失させる。分厚い刃のくすんだ銀色が目の前の現実から引き離す。

大鎌を握り締める悪魔。

しかし、それは怪物の戦闘スタイルからいえば適しているといわざるをえない。

武器の存在に体が魔縛りの状態に陥っている時に、奴は動いた。

『漆黒戦鬼と恐れられた私の一撃を受けてみろ』

バネのように体を捻るイリティスタに、突進にした。足下を爆発させてもう一度超速に達するまで時間はかからない。海を割って一矢となったベルは威力を上げるために全身を炎で覆った。そこに回転も加えれば貫通力も増す。

頭の隅では理解しているつもりだった。こんな暴挙に理由はベルにもわからない。イリティスタが言ったように『正義感』がそうさせたかもしれない。危害を加える悪を倒すために。

しかし、どんなに策を練ろうとも相手の太刀筋にベル自身が及ぶことはなかった。真横からゴミを払うように散った。

「がああああっ!」

ベルの叫びが波の音に重なった。

ベルの手にしていた炎の剣が消滅し、制御されなくなった統率を欠いた魔力が四方に弾けた。とっさに防御に回した腕が完全に粉砕された。

海面を揺らす震動がベルを衝撃から守った。イリティスタの攻撃はベルの中にあった魔術師としてのプライドを崩壊させ、その眼から涙を流させた。

「げほ……はあはあ」

抜けるように意識が薄れると、ベルが膝を突いた。




この視点での光景をベルはずっと昔に体験した。それは物心がついた頃に起きてしまった惨事、運命を残酷だと感じてしまった両親が目の前で死んだ。

魔物の手によって目の前で引き裂かれた。

持ち上げる上半身から滴る血がベルの顔に付いては流れていった。人という袋にしては、血溜は小さなものだった。

大人二人分の血溜に沈むベルが魔物に殺される瞬間に、ギルドの人間に助けられた。ベルのいた村は一夜にして人々の記憶から消え去った。そして、生き残ったのもセリュサ・ルーヴェン・ベルリカという少女だけだった。

魔物に対する憎悪はそこからきている。

イリティスタのような化け物を除いて、相対する魔物に容赦なくがむしゃらに生きた。ギルドでの保護生活の間にありとあらゆる知識を詰め込み、禁止されている剣を取っては訓練を積んだ。実を結ぶのに時間はかかったが、それからは流れるままに時が動いた。

心が折れた。十数余の年月、心に誓ったものが崩れ去った。一人で生きるセリュサにとってその言葉は何よりも口に出せなかった。

「助けて……」

ここにはいない……両親に向かって呟いた。

強くなりたい。誓った思いは叶ったと思った。それは結果として表れ、自信に繋がった。ただ、今回は相手が悪かった。

魔物とは闘える力を得たが、化け物と闘う力は得ることが出来なかった。

ベルが膝を突く前に立たれると、絶望に心が塗り固められた。

打つ手がないベルに、イリティスタが手を伸ばした。

『お前の身体を頂く……そして私は主を探す』

「その必要はないですよ、イリティスタ」

絶望が支配するこの場所を壊すように、その声は届いた。

『……お前は』

突然の声にイリティスタは狼狽した。声の主の姿が見つからず、気配も感じられなかったのだ。

だが、声は続き壁になる。

「五年振りと再会を分かち合いたいですが、生憎邪魔者がいるので手短に済ませましょう」

風が止んだ。

「イリティスタ……あなたを破壊します」

『アルビノの血統……『月に魅入られし者』、月の使者』

イリティスタの言葉にベルは意識を戻した。

そして、目の前にいるのがルナだと気付かされた。

「その名は好きではありません……月魔術――月と光の領域(サンクチュアリ)

海面一面が黄金色に染め上げられた。草原のように揺れ動く魔力にベルは体の痛みを忘れていた。

『……重力操作か。確かに肉体の稼動範囲を狭めれば、この器の私を追い込むことも可能だろう、月の使者』

「あなたのような例外的存在が一般人の行き来するこのような場所にいてもらっては困ります。戦乱をかき回すようなことは今日で終わりです」

『気配でわかる。力を封印されているお前に負ける訳がない』

「それはあなたも同じでしょう」

次の瞬間、イリティスタの体が海面を撥ねた。

そのスピードにイリティスタは驚愕した。

いや、真に驚愕するのは戦闘技術そのものだ。的確かつ重い一撃は確実なダメージをイリティスタに与えていた。

黄金の草原に白銀の閃光。

体を起こせないベルには聴覚から聞き取れる何かが撥ねる音しか聞き取れない。イリティスタがどういう状況になっているか想像できない。

だが、見えなくてもベルは理解した。この草原がルナの力になっていること、自分が馬鹿にしていたルナがとんでもない実力者だったということ。一方的な暴力が始まった。

戦闘において魔術はもっとも効果的なものだが、確実にダメージを与えられるといったらそうではない。強い魔術師は確実に仕留めるために己の武器に魔力を流し、接近戦で戦う。

一般的に教わる方法とは違うこのやり方を好む者はいない。だが、膨大な魔力を持った者なら限界まで肉体を強化し、その一撃で敵を葬るほうが手っ取り早い。大魔術級の魔力を込めた剣の一撃を受けきれる者などゼロに近い。

ルナの戦い方はまさにそれだ。そして、彼の姿をその眼に焼き付けたことのある者は、こう言う。

「夜を生きる悪魔だ」

「冷血にして冷徹非情な魔術師だ」

「化け物だ」

見たことない者は首を傾げても仕方がない。想像を絶するということを知らない人間は幸せだといわれた。

そして、最後に続く言葉は決まっていた。

「アイツには関わりたくない。アイツに関わるくらいなら死んだほうがずっといい

関わることが悪いわけじゃない。ルナの持つ血統が彼らを追いつめた。

アルビノ。

それが全ての原因だ。

この世界は多くの神々の力によって築き上げられた世界だと伝わっている。その中で生きる人間を含む生命体はその力の欠片から新たに創造されたものとしての見方がある。また、一般論としての生物からの進化説も唱えられているが生命の起源はわかっていない。

ルナの考えではどちらもあたっていると思っている。

魔術師という存在が産まれたことでその価値観は変化していった。生命力とは違う不思議な力は世界の影響を受けた選ばれた者と認識されていった。

新人類として魔術師が誕生した。

そして、魔物が生まれた。

それから世界では争うが起こった。戦いの世界だ。

だが、そうしていく中で極稀に魔術師とは違う別の力をその身に宿している人間が生まれてきた。世界各地で増えていくそれは異端の力として恐れられた。

魔術師を軽々しく超える存在は『神の力』そのものとして世に放たれた。

そうして産まれたのがアルビノだ。

この世界に生まれたことで戦いは戦いを終結へと導いた。だが、隔てられた人としての性質は、気がついたときにはすでに破綻していた。

人にして、人にあらず、魔術師にして魔術師にあらす。

別次元の生命体、それがアルビノだ。

「世界には二つの顔があります。光と闇。表と裏。朝と夜。太陽と月。同じ世界に創造された彼らは対極の位置にしか存在を許されない。この理を取り除くことは永遠に無理でしょうね。一部の例外を除けば……」

何事にも例外は生じる。それを人間は生きる上での障害として共通の認識としている。例外とは意識の外れた場所にあり、予想出来ない事柄を指す。

魔術師を超えるアルビノは有り余る力を制御することができない。

彼らが一度力を使えば広域破壊は当たり前。戦争期だった時代からかけ離れたこの時代には不釣合いなものだ。

それによってアルビノは反感を恐れた。人前で能力を使用することをしなかった。しかし、例外を除いて。アルビノとしての能力を解放し、なお制御できる者は――

『アルビノ……神の力を内包した仔』

「超越した存在は現実世界の法則を無視した存在に生まれ変わる。その者の力がどのぐらいのものか、イリティスタは十年前に理解しているでしょう」

『真正の化け物はお前たちだ……』

イリティスタの体が徐々に薄れていく。マジキャットが身に付けていた腕輪の宝石から輝きが失われていた。ルナによる攻撃が効いている証拠だ。

あと一撃で破壊できる。

苦悶の表情のイリティスタ……ベルと戦っていた時のような、威勢はない。戦鬼としての名もこの姿には相応しくない。だが、戦い抜く意志まで捨ててはいなかった。

『次は殺す』

突然、両手を振り上げ、大鎌を残った力の限り、振り下ろした。

刃が突き刺さった場所を中心に爆発する。爆発は円を描くように広がり、破壊の限りを尽くした。ルナがミュルアークに張った結界の効果で都市に被害はないが、一部の線路が壊れてしまった。

爆発に消えるイリティスタに黄金の牙が襲い掛かった。

優しくベルを撫でていた草原が鋭利な剣として爆発を突き刺した。

だが、手応えのなさにルナは地を蹴った。

「……何なの一体」

体中のあちこちを血で滲ませながら、ベルは痛みのない体を起こし、目の前の現実を確かめた。

イリティスタの姿はなく、見知った声の主がいた。

「イリティスタの攻撃を受けて意識があるのは素晴らしいですね。『魔導騎士(ナイツオブラウンド)』というのも納得です」

「あなたが……月の使者って」

黄金色の草原が光の粒子となって消えていく。

その中でルナは金色の満月を見上げていた。

戦闘によって生まれ変わってしまった環境は草原が消えた頃には元通りに戻っていた。壊れたものは最後まで壊れていた。

「急に態度を変えるなんて気分が悪いです。失礼ですよ、ベル」

ルナは、見飽きるほど経験したこの光景にため息を吐いた。これは序章でこのあとがいつも面倒なのが嫌なのだ。

旧知の知り合いと出会うことがルナにとっての不運だ。

「知ってしまわれたなら、今一度名乗りましょう。私の名前はクロノス・ルナリア。ダースレーブ王国、西都エイボン『星降る家』所属、異名は月の使者です」

フードを外すと、整端な顔立ちにベルは驚いた。あれだけ拒んでいた素顔をこのタイミングで見ても複雑な気分だが、美形だったのでさらに驚いた。

指を鳴らすとベルの体が光に包まれた。一瞬苦しかったが、最後には別の意味でまた驚愕した。

粉砕された腕が動いた。体の痛みもなく、魔力も普通に走る。

「死者を見るような目つきですね」

呆然と見てくるベルが口を開いた。

「だって……あなたは五年前に行方不明に」

「行方不明になっただけで勝手に殺すなんて酷い世の中になったものですね。私はこの世に存在します。言葉を話すし、手を振るうことも、歩く事だって出来ます。立派に生きていますよ。セリュサ・ルーヴェン・ベルリカさん」

そこまで言われて信じないわけにはいかない。

「あの……化け物は」

小さな声でセリュサがクロノスを見て言った。

「逃げましたよ」

距離があっても聞こえたらしい。ゆっくりとこちらに近づきながら、あくびをしていた。

「超古代の負の遺産をあの程度の力で封じ込めるなんて不可能ですから」

あのレベルの戦いでも仕留められないと聞いてセリュサは目の前が暗くなった。

「そうじゃなくて!あいつは一体何なのよ。あんな化け物がこの世に存在するのよ」

抱えていた気持ちが爆発したことに恥はない。誰だってそうなるに決まっている。あんな化け物と対峙すること事態あってはいけない。

「急に態度を変えないほうがいいといったのに……話を聞かないのもよくないですね。イリティスタ本人が言っていたじゃないですか。『主を探す』って」

「だから、何なのよ」

クロノスの返答にさらに言葉で返した。納得できないことは納得できない。

セリュサの視線に、クロノスは頭を抱えた。

「一から十まで説明されないと嫌なタイプですか? 私はそういうタイプの人は苦手以上に嫌いなのですが」

クロノスの言葉をセリュサは耳を向けた。

「イリティスタは私の姉弟の持ち物ですよ」

頭の中が真っ白になった。自分でも理解の範疇を超えているとわかる。クロノスもそう思ったのか、巻き込まれたからなのか言葉を続けた。

「五年前にこの世に残されたイリティスタが動き出した。確信を得られた結果、被害は増える一方ですね。仮にも超古代の負の遺産。持ち主が所持しない限り、魔力に惹かれて人は喰われるでしょう」

マジキャットのように体を奪われるということだろう。

力の弱い魔物であの力を発揮するなら、魔術師に乗り移られたらたまったものじゃない。

消えたイリティスタの行方はクロノスにも掴めない。だが、今回の騒動でイリティスタの動きが分かり易くなったのも事実だ。

「あなたの姉って……」

思い出したくもない相手の事を訊かれても答える言葉を持ち合わせていない。

五年前の最後の瞬間に交わされた言葉のやり取りはいまも耳に木霊している。

あの瞳が自分を見ていると思うと、心が障ついた。

「そこまで話す義理はないですよ。ここまで話したのも同情したまでです」

そこで空気が変わった。

クロノスの腕にはマジキャットが抱きかかえられていた。

「結局、今回の依頼は無事達成できましたので報告書になんなりと記載してください」

「こんな異常事態に遭遇しておいて報告書なんて書けないわよ。それよりもあなたの生存を国に報告するわ。どうして正体隠していたのか知らないけど、国はあなたを必要としている」

「それは余計なお世話です。政府に所属しているあなたには理解できない話ですが、あんな場所に仕える気も、飼われる気も、行く気も私にはありません。国を相手取っても構わないと最初に申したはずです」

「なっ……」

マリアの部屋での言葉がここで真実味を帯びさせた。月の使者の実力に底はない。恐怖にベルは言葉を詰まらせた。

「私の目的はイリティスタの破壊。逃げられたのでもう一度探さなければなりませんね。まあ、近々遇えるでしょう」

「逃げようとしても私が――!」

「粋がるのもいい加減にしろ」

「!」

「お前のような中途半端がでしゃばるな」

威圧するように魔力を全身から放出して迫ってくるルナの影響で、ベルは重圧に叩きのめされていた。

魔力だけでここまでの実力差があることに驚愕した。自分の意思で体が動かせないことは生まれて初めてのことだった。目の前で見下ろすクロノスは、地面に縛られているセリュサを見た。意識を失わずにいることに素直に驚いたが、その思いもすぐに消えた。

「俺の記憶を消させてもらう」

クロノスの手が顔に触れると眠気が全身を包み込んだ。


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