オラトリオ
“あなたはだれ?”
少女は言った。
“私は君だよ”
何かは言った。
“それじゃあ、よくわからないよ”
“そんなことない、君は最初から知っているはずだよ”
“どういうこと? ”
幼き少女は近づいてくる何に警戒色を強めた。
“アルビノ”
“えっ?”
“つまり、そういうことさ。賢い君なら理解できるよね? ”
表情のない不透明な器が不気味に笑っているように感じた。
嫌悪感に満たされる自分が気持ち悪い。
“今日は君にお願いがあってきたのさ”
“いやっていったらどうするの?”
“拒否できるならすればいい。すべては君の良心にかかっているのだから”
――――
――――――――
――――――――――――この瞬間、少女は一つの決断を下すことになった。
紅月が地上を照らす。どこまでも続く大地はこれから起こる戦いの激しさを連想させた。
気がつけば、同じギルドの仲間を殺していた。
紅光と同調し、染まる大地を見つめる。血だけではなく、魔術によって貫かれた体から内臓が見え隠れしていた。
どうしてこうなったのか? 考えている余裕はなかった。
殺意。刹那のタイミングを避けることで最大の致命傷を回避する。
「ふ~ん……流石、私の弟ね」
空の彼方、魔力強化した視力でやっと認識できる位置からの声に地面から目を離した。鼻を衝く血と肉の焦げた臭いは不快でしかなかった。
目線を上げ、今の状況を確認する。燃え上がる建物はこの国のシンボルだった。様々な建物が建ち並んでいた城下町に人の気配はない。こうしている間にも頭上からの雷や雷によって生じた炎がこの場所に牙を向いていた。
頭上には血を分けた姉がいる。自分とは対照的に傷や汚れすらない銀と金の刺繍の入ったマントが風で揺らめいている。
「さすが俺の姉だ……ここまでやるとは思わなかった」
呟きながら、言葉を繰り返しながら、燃え上がろうとしている仲間を見る。彼らはギルドでもトップクラスの実力者だった。そして、姉と依頼をこなす仲だった。何回か同行を共にし、話をしたこともあったが自分の心には響くことはなかった。自分に襲い掛かってくることにも躊躇なく魔術を放った。動揺もない。
ただ、どこか腑に落ちない気持ちが意識の中に沈んでいくのを感じた。耳にそっと手を当てると両手に銀色のトンファーが握られた。
「お前の思想は危険すぎる……ここで殺す」
「貴方程度に出来るかしら」
空中を漂う姉はゆっくりと地面に降りてくる。自分とは違い肉弾戦闘を意識していない服装。移動しやすさを考えていないブーツは安全のためのものだった。この姉に死角はない。鏡を見るように正面に立つもう一人の自分がそこにいる。違いといったら、髪の長さだけだった。目の色も顔の形も声色まで全てが瓜二つだ。
「音の使者がいない状況で月の使者は大丈夫かしら?」
銀の髪を揺らし、緋の瞳で嘲笑う。その視線に一瞬、呑まれた自分がいた。
「それでも……俺がお前を殺すことに変わりはない」
脳裏に浮かび上がった映像を消し去り、クロノスは姉の様子を窺う。これがもしかしたら最後の対面となるからだ。長い銀色の髪に覆われた大人びた顔、血のように紅く見たものを畏怖させる緋色の瞳、吸い込まれそうな唇。細い線の体。自分が女だったらこんな姿でいるだろう姉の姿は妖艶な美しさがある。
目を閉じ、呼吸を一つ。いまその姿を見ることに意味はない。
「今日が最後だ」
自分の言葉を楽しんでいる嫌味な姉に再度告げる。
「柄じゃないが、全力でいく」
「来なさい」
魔力を全開で解放すると、姉も呼応した。
「どこまでやれるのか本当に楽しみ……」
「戯言を……」
瞬間移動。至近距離からの一撃を顔面に向かって放ったが止められた。指二本で止められたトンファーを二人で見つめる。空いた左手を握り締め、魔力を込めたそれを爆発させ一撃を同じように顔面に放った。しかし、一撃は姉を避けた。笑う表情の背後で魔術は爆発する。姉の自分を見る瞳から、背後に映るかつて栄えた王国の残骸の姿を見て、激しい思いを具象化させた。
決別のサインはわかっていたはずなのに、このような事態になるまで想定していた自分の読みが最悪の結果を招いたことに憤りを感じていた。
「最後の別れだ。自己紹介しようぜ。俺は月の使者、クロノス・ルナリア」
「天空の使者、クロノア・ルナリアよ」
「いくぞ」
衝撃が爆発する。すでに両者の実力は既知とされていた。周囲の空気を巻き込み、燃え上がる炎が姿を変えていく。クロノアの両手に鎧爪が現れ、突き出してきた。
クロノスの実力を試すような分かりきった一撃。クロノスと同じように眉間に突き進んでくる先端をトンファーの腹で受け止めた。
共に生まれ、言葉を交わし、時間を共有した姉弟に迷いはない。
ここにいる理由も、ここで武器を交える理由も、ここで殺し合う理由も、生まれたときから決まっていたのかもしれない。
だからこそ、自分は刃を向けている。
「ちっ」
ここにいる理由は姉を止めるためだ。ここで武器を交えるのは姉を倒すことだ。ここで殺し合うのは母国であり、滅亡した故郷だからだ。全てを今日失ったクロノスは、自分を止められない。
そんな想いを目の前の存在にぶつけるように武器に乗せて、クロノスは腕を振るう。攻防に適した武器に決定打はない。しかし、クロノアの実力を考えると不釣合いなトンファーをクロノスは破棄した。
「……これならどうだ」
目の前のクロノアに隙を与えないようにそう呟くと、クロノスの両手からトンファーが消失した。
直後、クロノアが血相を変えてその場から飛び退いた。無音の殺意に遠くの建物が斜めにずれた。そこからさらに残骸が細切れに裁断されるのを見た。視力強化で見ると、微かに光る細い線を捉えた。
天空の使者。今回の惨劇を引き起こした張本人。世界三大王国の一つを“たった一人で壊滅させた”張本人であるクロノスの実の姉は、国内でも屈指の実力者で当代のギルド・そして世界最強の魔術師として名を馳せていた。
そのクロノアの目的の一つが母国の破壊。狂った歪みの一撃は一瞬で大地を焦がし、天を支配した。逃げることも、抗うことも許されず、クロノアは容赦のない破壊活動を続けた。クロノスがたどり着いたときには紅蓮の炎で全てが終わっていた。
クロノア以外の生命は燃え尽いていた。
「よく避けたな」
「そこまでの変幻自在を可能にするなんて嬉しいわ」
乾いた拍手にクロノスは両手を動かした。無数の死線が構えないクロノアに襲い掛かる。全方位からの鋭い無慈悲の攻撃はクロノスの怒りに反映して一気に速度を上げる。
纏わりつく。指を動かす。一瞬にして摩擦による切断が開始された。
しかし、手ごたえはなかった。瞬時に死線を解き、結末を瞳に映す。
笑顔がクロノスの意識を支配した。
不変の笑みがクロノアを物語る。
(……やり難い)
次いで周囲の残骸を利用した高速攻撃を繰り返す。クロノアでも完全に捉えきれていないはずの死線はクロノスの予想を反した動きになる。視認だけでは回避不可能、反射神経でも避けられないそれ以上の攻撃をする。しかし、クロノアは生身で避け続ける。
肉体から無意識に漏れている魔力が彼女を危険から守っているからだ。
(本当に化け物だな……クソ野郎)
自分の攻撃手段が通じないことに皮肉な笑みを浮かべ、クロノスは前に出る。動揺している暇はない。クロノスは接近戦用に視線を短剣に変化させると特攻した。クロノアは待ちくたびれた様子で鎧爪を構え直した。燃焼で酸素濃度が薄い環境に目がかすむ。それでも正確なクロノスの速度にクロノアは片手だけで対応して見せた。
体術を駆使した動きも全て防がれた。頚動脈を狙った一撃は首を傾けることで避けられ、強化した足刀で追撃を狙ったが軽く身を捻るだけで逃れた。
(このままじゃ埒が明かない……)
姉弟でありながらここまでの実力差がある。動き一つで先読みされる。その上で反撃してこないのはいつでも殺せることを意味していのだろうる。攻撃を受け止めても握り潰すことをしない。完全に遊ばれているのがよく解る。実力の違いに心が折れそうになる。
「面倒だ」
焦りに表情が引きつる。クロノスはクロノアに向かって、叫んだ。
「月魔術――月と光の輪刃」
魔力性質を変化させ高速で回転する輪刃がクロノスから放たれた。金色の軌跡を描く輪刃は変則的な動きでクロノアに向かう。
全ての魔術師は自分の魔力を先天的に扱える属性に変換することで攻撃や守備を行う。属性は個人によって扱えるものが異なる。
属性には各々特性があり、クロノスが使用した月魔術の特性は『影響』。
『他者の深層意識の操作』、『周囲の魔力性質の変換』を自由自在に可能とする。
臨機応変に対応できる使い勝手のいい属性であり、クロノス自身『月』が好きなので好んで使用するところから『月の使者』の二つ名を得たのは記憶に新しい。
「クロノスは何を遠慮しているのかしら……」
クロノアの声にクロノスは応えるように飛来する輪刃を無数に分裂させた。対するクロノアの手には高密度の魔力が収束されていた。
「ただの準備運動だ」
強がりだと見抜かれているとしても口に出さなければ心が折れてしまう。死線よりも早く、光速の動きの輪刃を操作する中でクロノアは舞っていた。
「解放」
輪刃が発光し凝縮された魔力が爆発した。死線とは違う大量の魔力を込めた輪刃は簡単に防ぐことはできない。
クロノアはゆっくりと輪刃を観察すると小さく呟いた。すると刃が徐々に薄れていった。
そして薄くなる刃が消えた。完全消滅し魔力の痕跡も残っていない。
「天空魔術――天空の使者の祈り(アミュレット)」
天空の使者オリジナルの世界で唯一使用できる属性。それが『天空魔術』。その特性はクロノスですら全てを理解できていない。わかっていることは常軌を逸しているということだった。
クロノアの周囲から完全に輪刃が消え去るとゆっくりとクロノスに歩いていった。だが、クロノスも簡単に接近を許さないように迎撃を試みる。
だが、石が砕ける音が耳に響いた。
前方から迫る強大な能力者の姿がクロノスの前で巨大化していった。
「残念だけど、お遊びは終わり。私の弟としては良くやったと思うわ……もう少し楽しませてくれるかと思ったけど、“現実から逃げるあなたには無理な話だったわね”」
クロノスは叫んだ。叫びには何が込められていただろうか。迷いの時は去った。決断の時は終わった。決別の挨拶は済んだ。理由ある行動の時にクロノアの言葉はクロノスを動揺させた。自らの現実を振り返らせる言葉が記憶の中の深い部分を掘り起こした。
眼前の姉に無防備な状態を曝してしまった。
「俺は……」
空に向かって手を掲げるクロノアが言葉を紡ぐとクロノスの頭上で雲が渦を巻き始めた。
膨大な魔力が作用し、空全域を武器化させるまで時間はかからなかった。そして、振り下ろした手につられて空が大地に落とされた。
†
立ち昇る粉塵の先には大穴が出来ていた。
「最強の魔術師の姿とは思えないな」
「こんな目に合わせた張本人が吐くセリフとは思えないわね……」
淡々とした青年の問いかけにクロノアは荒く息を吐きながら答えた。
十字架に磔にされているような姿で宙に浮かされていた。その下には完全に死んだ大地が広がり、荒々しく姿を変えた王国の末路があった。静寂と死念を発する墓場のように思えた。
「流石に間に合わないと思ったが月の使者……クロノスのおかげだ」
王国が滅亡してから二カ月が過ぎていた。青年がこの地に到着したのは空が地上に落ちる寸前だった。膨大な魔力で変質した巨大な塊に魔術を放つと落下は止まり、塊は霧散した
そして、クロノスの代わりにクロノアに立ち向かった。天空の使者と呼ばれた存在でも予想外の登場人物に笑みを消した。
青年は自分の背後で転がっているクロノスに近づくとそっと手を置いた。弱々しい生命力の鼓動が腕を伝って流れてきた。死ぬことはないだろうがこれ以上の戦闘は不可能と判断した。素直にいえば足手まといだった。
全身に禍々しい呪印が現れたのがクロノアを青年があの姿にした直後だった。それは何の前触れもなくクロノスの全身に現れた。
いや、前触れならあの時にあった。クロノアに特攻した時に片手で攻撃を捌かれていた時だ。そのときにきっと仕掛けを施された可能性がある。身体能力に異常は感じなかったし魔術を扱うにしても魔力操作に異常はなく魔術を発動させることができた。
自分の知識にない呪印は死を連想させた。クロノアの扱う魔術の幅は広くそこから発展させ進化させた呪印術に対抗する手段は皆無。気がつく暇もなく、いつの間にか体内に仕掛けられる時限爆弾は本人の意識がなくなろうとも『制定した意思』を打ち破らない限り消滅することはない。
耐え切れないほどの激痛が全身を襲いクロノスは倒れた。体を動かそうとすれば力が入った部位から体内を喰い荒らそうと獣が牙をむく。
それでもこうして意識を保っていられるのは、青年のおかげだった。
「すまない。もう少し早く来ることができればこうならずに済んだのに」
「……だ…いじょ……うぶだ。たすかった」
死ぬことを覚悟し死ぬと思った瞬間を生き延びることが出来た。少年がこうしてこの地に来てくれたことが嬉しかった。澄んだ空を思わせる装飾されたマントはここにくるまでの激戦を感じさせない。汚れ一つないマントは青年の実力を表していた。サラサラの黒髪に整った顔立ち、美しいメロディーを思わせる優しい声色は聴き続ければ心を奪われそうになる。
血生臭い戦場に不釣り合いな青年は周囲を見渡していた。
「俺も初めて見る呪印だがこのパターンなら相殺出来る」
感覚が麻痺しつつある肉体に青年が背中を指でなぞると全身を襲っていた激痛が嘘のように消え去った。
手足に力を込めても痛みはない。青年が背中に施した術式が呪印の効果の一部を消し去ったおかげで体を動かすことが出来るようになった。魔力を走らせば失った力が蘇ってくる。満ち溢れる感覚から魔術も使用出来る状態に戻ったらしい。
「助かったありがとう、レン」
クロノスの正面に立つ青年、レン・リッジモンドが差し出す手を取った。呪印の痛みの影響か上手く力が入らなかった。震える足を手で押さえるとゆっくり立ち上がった。
クロノアの視線を空から感じた。
簡単に自分の呪印の一部を相殺したレン、死なずに生き延びたクロノス。
天空の使者にとっての邪魔な存在がこうしてこの場に揃ってしまった。特にレン・リッジモンドは月の使者よりも厄介だ。
「音の使者がこの場に来るなんて予想外だわ」
音の使者。天空の使者と肩を並べる当代において最強の称号を持つ魔術師で、クロノスのよき理解者でもある。
「予想外か……お前が用意した羽根に結構てこずったけどな。その結果がこのありさまだと俺は自分の実力を過信していたのかもしれないな」
「それはそうかもね」
クロノアは視線を下ろして、レンを見た。
「あなたは世界を知らなさすぎる」
当たり前のようにクロノアが笑ってみせた。
「クロノスに掛けた呪印……『停止』の術式を消したところで動けるようになっただけ。あなたは何も理解していない」
「クロノア……まさか」
レンは地上を見下ろすクロノアを見上げながら自分の記憶、さらに幼少時代に二人と出会ったときのことを思い出した。
いつの時代にも争いは絶えない。食糧や資源が不足し人を生かし殺すことが顕著になり始めたのはいつのことだったか……覚えることが馬鹿らしくなるほど人間は争いしていた。
ただ、勘違いをしてほしくない。人間でも先立って表舞台を荒らし回っていたのは魔術師だということ、魔術を操り人外の能力を発揮する魔術師であること、ただの人間は裏舞台で震えていたこと、多くの人間が住処を失い、飢餓によって死んだ。
侵略戦争。血筋のみで選ばれた者たちの欲望が世界の均衡を破壊した。領地を奪い、食糧や資源を奪うとともに不要な人間を始末する残酷な日々。血で赤く染まる大地に生まれた大河に飛び込んでいく人間。この戦争に勝利者はいない。虚無感だけが最後に残った。
そんな戦争に終止符を打ったのが後に世界三大王国と呼ばれることになる三つの系譜だった。激減した戦力に対する対応は早く的確な指示により戦争を終わらせ被害の進行を防ぐと共に恒久の平和を約束した。
その一つが滅亡した。
クリスタル王国。世界最大の国有地を持ち、数多くの名高い魔術師の血筋を年々増やしていく魔術大国。難攻不落の城塞王国とも呼ばれていた。名高い魔術師たちが生み出した防御壁を破るには骨が折れる上、即座に迎撃されてしまう陣形が強力だといわれている。何より国王の血筋を持つ魔術師は王国内最強の座に常にいる。
歴代の魔術師を紐解いても必ず歴史に名が記されている偉大な魔術師たちは国外でもその名を広めている。侵略戦争がなくなっても争い事が完全になくなったわけではないからだ。
恒久の平和を掲げた三大王国は率先的に鎮静化に赴いた。国王も例外なく国外に出た。民の苦言を聴き入れ、解決することが平和への一歩だと確信していたからだ。
そんな国王の姿に感化され、人々は組織を立ち上げた。小さな組織は時代とともに肥大化し王国から独立した。世界中に散っていた魔術師を集め、管理することにより争いを減らす試みを行った。
何十年か経ち、平和への苦労が実った。争いは完全ではないがなくなりつつあった。貧困と富裕の差は薄れていった。欲望に駆られ、自らの欲に支配される人間は一握りだけの存在となっていった。
そんな時代に生まれた双子がクロノアとクロノスだった。
クリスタル王国の歴史上、双子の血筋は生まれていなかった。王家の魔術師は最強。それが双子なら強大な能力を秘めている可能性がある。事実、クロノアとクロノスの潜在能力は幼年時代に開花された。大人でも扱いきれない大魔術を幼い子供が無邪気に操る姿にいままで安堵していた人々の気持ちは逆転した。
国内で混乱が起こった。禁忌の子。悪魔の子。呼び方は様々あったがクロノアとクロノスに対する態度は最悪なものだった。善にも悪にも転じる可能性。大人になった時、二人を止められる者はいるだろうか?
大人の態度に子供は敏感なもので二人は自分たちが他とは違う存在だと認識することになった。
クロノアは絶対的な勝者として。
クロノスは絶対的な敗者として。
「私がこの世からいなくなったとしてもクロノスは違う。"あの子はただ逃げるだけよ"」
レンに向かって言った。
姉として身近にいたクロノアだからこそ分かる心の闇。
「黙れ」
「この世界を見て誰も疑問に思わないのも愚かな話。恒久の平和なんて過去の話よ。この時代に必要なのは変革。改革。革命。新世界を創造し再生することこそ最も必要なこと。それがわからないなんてとても悲しいことだわ」
「クロノア……お前の思想は歪んでいる」
「歪んでいても構わない。私は私の道を歩くだけ……」
レンの横にいる同じ目をしたクロノスを見ると最後の言葉を告げた。
「だから、最後に悪足掻きをさせてもらうわ。私の望みは『世界の再生』。それに相応しい舞台を用意させてもらう。その一つはこうして達することができた。三大王国の一角が滅亡すれば争いは巻き起こる」
破滅こそ人類再生の鍵。
宙に浮かぶクロノアから間欠泉のような勢いで魔力が放たれた。それが周囲に変化を起こす。空間に亀裂が生じ、異次元空間が顔を出したことで空模様が七色に変化する。その影響は地面を隆起させ、陥没させた。そう、天変地異を引き起こした。
魔術ではなく単純に魔力を解放しただけの力任せの荒業。
「これは不味いことになったな……クロノアの奴、空間を歪めて異次元空間に俺たちを引き込むつもりだ」
隣にいるクロノスも現状に思考を高速回転させていた。天空の使者の魔力全開放。その影響がこれだけで済むはずがない。
「レン……?」
苦言に表情を歪めるレンの姿にクロノスは嫌な予感がした。この現状を解決するのにどうすればいいのかその答えを聞きたくないと思った。
「最悪の事態だ。仕方がないし方法がこれしかない。クリスタル王国がこうなったのも俺の責任みたいなものだしな」
笑顔で自分を見るレンに不自然さを覚えたのは初めてだった。そしてなぜか走馬灯のようにレンとの記憶が溢れかえった。
「おい……一体何を」
「クロノス、あとの事は頼んだぞ」
レンの声が耳に響いた。その瞬間レンの姿が消失した。
「……馬鹿野郎」
一瞬の出来事だった。全身に魔力を走らせたレンは魔力全開放をしたままクロノアの魔力を包み込むと異次元空間に押し込んだ。自らを贄にした封印術の人柱となって――――
空は澄んだ色でそこにあった。それが引き金となったのかクロノスは意識を失った。
†
姉の夢を見た。
どこまでも続く闇の中からクロノアの声が聞こえてくる夢。その闇に無数の緋の虫が点々と出現しクロノスを囲う。自分が知っている姉の視線も感じた。その虫が徐々に自分に迫ってくる。逃れようにも体は石のように動かない。無情にも首だけが左右に動いた。吸いつくように触れると体の中に吸い込まれていった。
頬を伝う不安が的中した。
無数の眼がクロノスの全身を覆い尽くした。全身の体表から喰い破るように緋の虫が顔を出した。弟を対する姉からの餞別はクロノスの精神を蝕む虫だった。
「やめろ!」
クロノスは叫んだ。だが、虫は食べることを止めない。虫はクロノスを食い続ける。一心不乱に機械のように命令を着実にこなしていく。痛みがないことが事実だとしても、夢だとわかっていても自分の体内を荒らされクロノス・ルナリアという存在が消えかかっているという事実に本能が恐怖を感じとって叫んでいる。
「やめてくれ!」
視界の先に姉の顔が現れた。
ほほ笑む姿には憎悪の念しかない。
「助けてくれっ!」
右足が完全に食われた。次に左足が食い尽くされた。虫は下半身から少しずつクロノスの体を侵略していった。
右手の先端が消えていくのが視界に入った。下半身は完全に失われた。
左の視界も見えなくなった。顔にまで被害は広がっていたらしい。姉の横にレンの姿が映った。全身を鎖で縛られた姿。意識のないグッタリした姿にすでにない口でクロノスは叫んだ。声にならない声が闇の中に溶けていった。
「!!!!!!!!!!!」
クロノアは叫ぶ。
「!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
「目は覚めた?」
落ち着く声に尋ねられクロノスは自分が夢から覚めたことに安堵した。白を基調にした衣服。全身にびっしりと汗が浮かんでいた。
ここはどこだ?
恐る恐る手で顔に触れると当たり前のように顔はあった。呼吸をすることで肺に流れ込む空気がより現実を実感させてくれた。
目覚めに適さない光量に目が眩んだ。
部屋だ。窓から入る光の向こうには緑の山があった。
それにコトコト何かを煮込む音。
室内にはクロノスが寝ているベッド。右を見ればぎっしり詰められた本棚。足元には何冊か乱雑に置かれていた。左を見れば若い女が立っている。目の前にある鍋の中身を見ながらマグカップに移すと振り返りクロノスに寄ってきた。細く長い腕は見かけ以上に鍛えられているらしい。湯気の立ち上がるカップからはいい匂いがした。
女以外に気配は感じない。一人暮らしなのだろうか?
「あなたを連れてきて一週間よ。見つけた時は呼吸も弱かったからビックリしちゃった」
「俺は助かったのか?」
「あら? 少なくても私は幽霊と会話する趣味はないわよ」
そう言われてもこっちは生きている実感がわかないのだから仕方がない。
「助かったことには礼をいう。厄介者はすぐに消える」
「もう行っちゃうの? 折角起きたから話しましょう」
「いや……俺はやらなければならないことがある」
受け取ったカップの中身を飲み干す。受け取ったそれは野菜スープだった。一週間も寝ていた自分のために用意してくれたのか普段の食事がそうなのかわからないが女は隣に寄ってきて腰を下ろした。
ベッドの軋む音に女は一瞬顔色を変えた。あえて見なかったふりをしてやり過ごそうにも音が耳に残ってしまっている。
気まずい雰囲気の中でも見知らぬ人間と話すことなんて何もなかった。いや、訊きたいことはたくさんあるがこの雰囲気で訊いていいのか迷った。
「ところであなた何であんな所で倒れていたの?」
スープを飲みながら、女が不意に言った。
「あんな所ってどこのことだ?」
そう返し出方を窺うことにした。場合によっては忘れさせなければならない。
「亡国の跡地よ。ほら、三か月前に内乱で滅んだクリスタル王国」
女の言葉で心のどこかが激しく脈打った。眩暈に持っていたカップを落とし前のめりに倒れこんだ。
「大丈夫!?」
「すまない……まだ全快じゃないようだ。俺はちょっと用があってあの場にいた」
間違ったことは言っていない。命の恩人でも赤の他人。関係者でもない人間にあの光景を語ることはよしとしない。助けてもらったことは本当に感謝しているが深い理由まで語ることもない。本当に起ったことならあの二人はこの世にいない――――
「夢じゃなかったのか……」
「寝ぼけているの? もっと香辛料効かせればよかったかしら……」
腕を組んで真剣に考える女を尻目にため息を吐いた。
友の最後を黙ってみていることしかできなかった。悲しいと思う。自分がいたにもかかわらずあの手段を選んだレンに怒りがある。
耳を澄ませると声がする。自分を見下すクロノアの声。自分に全てを託したレンの声。自分自身の心の声。
「そうそう……」
と女がぐっと顔を近づけてきた。
「あなたって魔術師よね?」
一体何を言っているのか、理解できなかった。
「俺はまじゅ……!」
「気付いた? 別に疑っていたわけじゃないの。ただ、あなたから魔力を感じとれなかった」
立ち上がり一冊の本を手に取るとパラパラめくったのちクロノスに差し出した。滲んだインクで読み取れない中に、走り書きのような構築術式を見つけた。
それをクロノスが指でなぞった時、言葉の意味を理解した。
「魔力がない……」
「いまのあなたはただの人間よ」
愕然とするクロノスを無視して、言葉を続けた。
「俺が人間……だと」
「確かに驚くわよね。私だってそこに書いてある構築術式を理解して扱える人間がこの世に存在するなんて思わなかったもの。"超古代の魔術師が生み出した負の遺産"なんて雲の上のような存在よ」
「超古代……お前ギルドの人間か」
「あなたの体を治したのは私よ。治療系統は私の十八番よ。でも、呪印だけはどうにもできなかったわ」
「なんだって……?」
「青海魔術。私が創ったオリジナルの属性の能力は治療系統よりも解呪系統に向いていて理不尽な呪いに苦しむ人を助けるのが私の役目」
聞いたこともない属性……『青海』は、クロノアの『天空』と同様のものなのだろうか?
後天的に才能と経験が創りだすオリジナルの属性を持つということは相当な実力者だ。
「それでもこの手の"呪印"を見るのは初めて。悪戯でこうなったなら相当な不幸。誰かが相殺した術式から他の構築式に干渉できるようにしていてくれたおかげで厄介なモノ以外相殺できたわ」
「どんな呪いだ?」
女の口ぶりから呪印に複数の仕掛けがあったのは容易に想像できた。
仕掛けたのはクロノア、天空の使者だ。"自分以外の人間の破滅"を望んでいる魔術師が扱う魔術は未知のものが多い。攻撃魔術、防御魔術、結界魔術、封印魔術、合成魔術など、数ある魔術をその身に刻んだクロノアは『呪印術』を最も好んだ。複雑怪奇の超古代の代物。現代の名のある学術師が束になっても解くことが出来ないものをクロノアは独自の理論で解明しモノにした。『天空魔術』はその末に生み出された究極の属性だと思われる。
誰もがその才能を認め信頼した。心の奥底、裏の顔、真実を見極めることが出来なかった世界は特権階級を与えた。
それが、クロノア・ルナリア。
自分の半身の考えは分かる。
クロノスに刻まれた呪印が理解の範疇を超えた非人道的なものだとしても納得してしまう。
「この呪印の効果は簡単にいえば『制限』。最初に相殺されていた『痛み』の構築式を破壊した後、時限式に複数の術式の発動。記されている術式に制限が設けられていて時間を超えると書き換えられる。念入りなことに全てを解呪した場合の保険も用意されていた。それが一番厄介で最低な呪印よ」
「それは……」
「術式の名は『孤独』……あなたは夜の世界でしか魔術師でいられない体なの」
女の答えにクロノスは何も答えられなかった。女の名前はマリア・フロラリア・ルーチェ。
部屋から出ると長い廊下に出た。マリアは部屋から薄手の上着を手にクロノスがいることなど忘れているのではないかと思うぐらいに廊下を進んで行った。部屋でのクロノスを見かねたマリアは「人手不足なの」と部屋を出てこうして歩き続けている。
歩き続けているが廊下にはマリアとクロノスしかいない。マリアの話ではギルドの人間は十名ほどで弟と共同で運営しているらしい。歩きながら名を訊いても知らない者たちだった。
しかし、マリアのことは異名を聞いてわかった。『青海の癒し手』。攻撃方面の魔術系統を習得せず防御系統や回復系統に特化した有名な魔術師だ。
そのマリアが判断したのだから自分の体がどうなってしまったのか疑いはなくなった。
孤独とマリアが言った。呪印といっても、その全てが悪い方面に向かうものではない。組み合わせる構築式次第で無限の可能性を秘めている。自然法則や自然干渉といった風に人体に現れる効果は千差万別で呪印を体に宿しても何も効果を得ないものだっているらしい。
少なくともその話は超古代の書物に記されていたことであり現代の魔術師たちにそんな技術はない。一応クロノスも呪印はクロノアの影響で多少は理解できるが、分からないことが多いのは多い。
『夜の世界でしか魔術師いられない』
マリアにそう言われたショックから立ち直るのにそう時間は必要としなかった。
呪印が発動した一瞬にクロノアの顔を見た時からこれ以上の事態を想定していたからだ。驚くことではないのかもしれない。
しかし、クロノスの体に何が起こったのか? その有無が魔力制限だけなのかは考えさせられる。
明確な刻限がわからない。時期的なものに影響されるのだろうか? 夜と一言でいっても時間帯によって強弱が異なるなどあるのだろうか?
だが、変化は起きている。
廊下の壁に埋め込まれていた等身大の大鏡に映る自分の姿がいままでのものと異なっていた。髪の色が銀色から黒色に、緋色の眼が菫色に変色していた。大きな流れに身を任せたままだったし鏡を見る習慣がなかったため気が付かなかった。
呪印の影響と考えるのが妥当だろう。
変化のことをマリアに尋ねると首を傾げるようにして教えてくれた。
「あの場所で見つけたときからいまの姿だったわよ」
つまり意識が途絶えた直後からの変化。いまは体調のことを考えると体を動かし難いが呪印の影響がどの程度まで自分を蝕んでいるのか確かめる必要を感じた。クロノアの生み出した法則が肉体に干渉した結果、あるいは自分の中の法則と反発したことによる肉体の防衛本能がそうさせたのか?
確定された事実だけを鵜呑みには出来ない。もしも、この程度のことで済んでいるのなら中途半端なだけで問題はない。
どっちにしても自分は中途半端な存在だ
生きることにも戸惑いを感じている。死ぬことも間々ならず友の命を犠牲にして姉の呪いを宿したまま生き延びてしまった。
でも、今後のことを考えるなら逆に都合がいいのかもしれない。
(レンとの約束……)
異次元空間に飛び込む前に言われたことを守らなくてはいけない。
そのためにこの体のことを理解する必要がある。呪術系統の知識はクロノアのように全方面に特化していたわけではないのでかなりの時間がかかると考えたほうがいいだろう。少なくとも魔術師としての自分を取り返せればいい。
(それにしても何てことだ……)
帰る場所がなくなってしまったことで生活面に支障がでてしまった。新しい生活をするにも資金源は国と一緒にこの世から消えてしまった。
そういえばクロノスの存在はどうなったのだろう?
一応名の知れた魔術師であったこともあり所属していたギルドがなくなってしまったことと重なって問題になっていないだろうか?
素直に世間に顔を出すのも面倒事のように思えて厄介だ。どうにかして隠密に隠れ住む方法を考えねばならない。
「それであなたには帰る場所はあるの?」
ブツブツ言葉を発しているとマリアが話しかけてきた。
「もしも帰る場所がないなら住む場所を決めなきゃいけないでしょ?」
「ああ……そうだったな」
まさにそのことを考えていたクロノスは頷いた。
「あなたがよかったらここに住めばいい。設立したばかりでそんな人はいないから事務雑務をこなしてもらうのと夜になったら簡単な依頼もこなしてもらいたいけど」
事務雑務とは何のことだろう? 戦闘以外で仕事をしたことのないクロノスは首を傾げた。
「血の気の多い輩は私の下にいないし、“訳あり”が多いからすぐに馴染むと思うわ」
外に出たマリアはすぐに角を曲がると小さなカフェのような建物の中に案内された。
「いいのか?」
「あなた次第よ」
マリアがハッキリ言った。建物は木造建築でログハウスのような仕様になっていた。入り口から奥を見ると外の風景が見えた。
首を横に振ると案内図が壁に掛けてあった。この場所は待合室のようなものらしい。
その横に所属者の名前の入ったプレートがあった。
「いい場所だな」
「療養施設みたいなものよ、ここには一般人も多く来るからね」
「そうか」
「それよりもこっち」
マリアが一室に案内するとその机の上を指差した。
装飾されたマントに反射的に言葉が出た。
「悪いが処分してくれ」
「それは無理。装飾された刺繍模様で構築式が形成されているし、逆に“今のあなたにはこれ以上ない護りになる”。嫌なら問題ない程度に加工してみるけど……」
マリアがこちらを見る。優しく穏やかにしかし時に静謐に瞳は語る。このマントの意味を知っているからこそクロノスがどんな人物か知っている。
それが理由なのだろう。
「それと王国滅亡に伴い各地で小さな争いが頻繁に起きている。三大王国のパワーバランスの均衡が崩れたのが原因よ。そして、それを起こしている中心核が『羽根』と呼ばれる“天空の使者”、“音の使者”、“月の使者”に怨みを持つ者たちの犯行。あの日からこの三名が行方不明で各国ではあらゆる情報網を行使して探しているみたいよ」
自分たちの魔術師としての力量を考えれば味方につければ最高の戦力になるだろう。
「これがあいつの言っていた舞台か……」
「その一人がこうして見つかった。でも、訳ありじゃ仕方ないし私はそういう行為は好きじゃない。元より秘密主義で有名なあなたのことだからここでもそれでいなさい」
マリアの表情は変わらないまま世界の流れを簡単に説明する。その傍ら情報誌を何冊か取り上げると机の上に置いた。
「とりあえず傷を癒すこと。それから今後のことを話しましょう。夜まで時間もまだあることだしね」
マリアの言葉に従い傷を癒すために思考を切り替えた。夜になったら元の容姿に戻るのか本当に魔力は戻るのかだけを考えた。
「そうそう素顔はけっこう可愛いのね」
クロノアやレンを除いて素顔を見られるのは初めての事だった。クロノスは悩むことを止め、机の上に散らばっていた情報誌に目を通す。自分にない知識を仕入れるのと世界の動きを頭に叩き込む。体に残された呪印の効果がクロノスの今後を不自由にしようが最早どうでもよかった。自分という人間は人であって人でないのだから――――
そしてこれがクロノス・ルナリアの物語の幕開けだった。