第二罪 BOY&GIRL MEETS FATE
第二罪 BOY&GIRL MEETS FATE
アーリは走っていた。
「ハッハ……!」
暗い路地裏を息つく間もなく、追いかけてくる【常世の楽死】の劇団員から全力で逃げていた。この街ではたまに見かける光景。道化に追い回される一般人の図。
黒のシルクハットに黒のスーツを着る明らかな紳士が二人、人気のない路地裏を転がるように逃げ回るアーリを、さも楽しそうに笑みを浮かべながら追いかけ回していた。
アーリの劇が音もなく開演する日のことだった。
「いつまで、追って来る気だよ!」
世界に残された最後の司法機関『晩刻の鉄槌』は狂ったように増え、手に負えなくなった犯罪者全てを永遠に踊り続ける道化に譬え、その道化が犯す罪を劇とした。
星の上に溢れた道化たちは、『晩刻の鉄槌』が行った一般人と差別化するための嘲笑の名を誉れと受け取り、各地に現れるようになった犯罪組織――劇団は世界各地に支部を置く『晩刻の鉄槌』を自分たちが演じる劇の壇上から消すことを統一の目的としていた。
『晩刻の鉄槌』が最後の司法機関と呼ばれる理由は先の説明にある。各国家にはそれぞれ独自の司法であったり、警察であったりがあったのだが、一言で片付くほど簡単にあっさりと壊滅した。ただ単に壊滅した。 簡単すぎる気もするが、それ以外の言い方がないのだから仕方がない。自分たちの劇を演じるために邪魔になる役者は、排除するのが一番。
[革命の島]において『晩刻の鉄槌』は縮小化の一途を辿っていた。だからアーリがいくら頑張って逃げても、司法が崩壊したこの国において最後の綱である『晩刻の鉄槌』の管理区域まで逃げ伸びるのは不可能に近い。というか不可能。
なぜなら今アーリを追っている【常世の楽死】。この国でも五本の指に入る有数の劇団で、人身売買と強盗を主として活動しているため、組織図がクモの巣のように広範囲に浅く広くねちっこく展開されているため、一度ブローカーである叔父夫妻と売買が成立したアーリをたかだか脱走程度で逃がす訳がないのだ。
ゴミ溜めの先の暗闇へ飛び込んだアーリ。
そこが彼の終わりの始まりだった。
「うあっ!」
昼間の路地に生まれた暗闇に視界を失ったアーリは、角を曲がったところで何かとぶつかった。
「きゃあっ!」
その何かは甲高く短い悲鳴とともにアーリと、額と額をぶつけ合い、一緒にその場に倒れた。
倒れる瞬間、見事なまでにアーリの右手は何かの胸部に、左手は臀部に向かったがその何かは、宙を舞う花びらのごとくヒラリとかわした。
「痛った!」
「痛ーい!」
迷惑そうに互いに互いを睨みながら、激しくぶつけた額をさする。
「誰だよ、ちゃんと前見て走れよな!」
「あなたこそどこ見て走ってんのよ!」
顔はよく見えないが、どうやらアーリとぶつかったのは声から察するに少女のようだ。
そんなアーリの詮索も束の間、二人は同時に何かを思い出したようにそそくさと立ち上がり、同時に自分たちが走って来た後方を振り返る。幸いにも黒の紳士たちはまだ追い付いていなかった。
路地の暗闇に目が慣れ、ぶつかった少女の姿がアーリの目に入る。左右を小さく結ったセミロングの黒髪、端正な顔立ちにクリクリの瞳は暗闇でも輝きを放ち、東洋系の肌に艶っぽく浮いた汗が一筋首に。これだけ可憐なのにどこか言葉づかいはガサツ。でもワイシャツに浮かぶ起伏の少ない胸から、プリーツスカートへの腰のラインは興奮を抑えられない。
休憩ついでにニヤニヤ眼福といきたいところだったが、はたと気づき、一息つく間もなく、鏡合わせのように二人の行動は重なった。
「今すぐ逃げよう! 【常世の楽死】に追われてるんだ!」
「今すぐ逃げましょ! 【常世の楽死】に追われてるの!」
「は――?」
「え――?」
一瞬の沈黙――。
疑問符が頭をめぐり、次にもう一度相手の言ったことを思い出す。
今すぐ逃げる? 追われてる? はてさて、自分も同じことを言ったような気が……。
「なんだって! 追われてる? 君もなのか?」
「うそ、なんであなたも追われてるのよ! いいえ、そんなことよりも早く逃げましょ」
「ああ、そうだね。僕の来た方はもうダメだ。一本道が偶然ここで開けただけだから」
「あらそう。でも私もここまで一本道を走ってきただけだから」
再びの沈黙――。
聳える中級ビル群の足元で、左右を鉄筋コンクリートに阻まれ、高すぎる空に二人は、自分たちの運命を呪った。
びぃ・かーす・ごっど!
直後、背後に人の立つ気配がした。
軽く振り返ると黒の紳士たちが、二人を完全包囲していた。
溜息一つ、アーリは普通にこの状況を受け止めた。
「僕は宗教に多少の興味があったけど、もう神様なんて信じないよ」
この絶望的状況下でもアーリは、なぜかすこぶる冷静だった。
「あら偶然。私も神サマなんて一生信じないって誓ったところよ」
元気ハツラツ。何の迷いもなく、少女はそう言った。
目の前に現れて、逃げ道を奪った少女。それはアーリも同じだが、二人は互いに自分たちなら捕まっても何とかなるんじゃないだろうかと、何の根拠もない安心感を共有していた。
この状況で出会ったのには、意味がある。
絶望しかなかったはず。そんな中で出会えた目の前の存在は、きっと自分の運命を変えてくれるのではないだろうか。
黒い紳士たちが自分たちをひっ捕らえるまでいくらかの猶予があると、二人はなぜか確信していた。この時の感覚をアーリは一生忘れる気がしなかった。
だから、いや、そうするべきだと思ったから、渇き切った口からは自然と言葉が出た。
「僕の名前はアーリ=カウンス。よろしく」
「私の名前はアミ=スズライ。よろしくね」
これが二人の最悪と呼ぶにふさわしい出会いであり、そして、一生忘れることのできない最高の出会いでもあった。
小一時間ほど、体は痛みに耐えていただろう。
不意の自己紹介から数秒も置かないうちに、視界は完全なる黒へと移った。物音一つ立てずに黒の紳士たちがどこから取り出したのか、それとも最初からあの場所に置いてあったのかはわからないが、人一人がすっぽりと入れる麻袋をアーリとアミに被せ、しばし担いだ後、多分トラックだろう荷台に放り込んだ。それからずっとガタガタと揺られながら、狭い麻袋の中でじっとしている。
ここのところまともに寝ていなかったアーリは、不快ながらも睡魔に襲われ眠りそうになった。だが、自分の置かれた状況に今更ながらの恐怖と不安を感じたため、断念した。
よく考えればこれは誘拐。よく考えなくてもこれは誘拐。
助けを呼ぼうにもトラックの中。しかもこの揺れは路面の悪さを現している。つまりは山中。
普通に考えて、差し伸べてくれる手のなかったアーリを助けられるのは『晩刻の鉄槌』だけだが、万に一つもそれは無理だろう。
「アミ……」
急に心細くなりあの少女の名を呼んでみる。
唸る粗悪なエンジンの駆動音。十秒に一回は大きく揺れる雑悪な路面。アーリの声が届くのは何年先になるかわからない。
それでもまだ声をかけようと思ったのは、近くにアミがいる確かな感覚があったからだ。
麻袋の中で大きく体を反ってみる。すると後頭部が袋越しに温かで柔らかな感触に触れた。この時の感覚もアーリは忘れる気がしなかった。
「アミ!」
「ひっこめ!」
「ぐはッ!」
アミの声に安堵を感じ、そしてその直後、腰に鈍い痛みが走ったのはアーリの苦悶の声で明快である。
兎にも角にもアーリは、アミの存在を確かめることができ一件落着――とはいかない。
すぐにもこんな誘拐という物騒な事件の当事者から解放されたいアーリは、
「早く逃げよう」
「……」
「……?」
アミからの返答がない。一体何があったのか。安堵感が次第に焦りへと変わり、原因を突き止めた。
「ごめん」
「もういいわよ」
純粋真っ当普通が取り柄のアーリは素直に謝る。先の一件は純粋ゆえの流れかな。
「じゃあ、逃げよう」
「ならまず、私たちの状況を言ってみなさい」
まずは腕を伸ばそう。ん? 後ろ手に組まれた腕はロープで巻かれて動かない。なら足は? おや、九の字になったまま、まるでロープでも撒かれているかのように動かない。全身に力を入れてみよう。あらら? ぎゅうぎゅうにロープが巻かれて思うように動かない。
ようするに、全身がロープでマンガのようにぐるぐる巻きで全く動かないわけである。
首から上以外。首から上は大丈夫。
首から上がなぜ何も施されていないのだろう? なぜアミはこんな動きづらい状態で自分の腰を鋭蹴できたのだろう? まあ、そんな疑問はさておいて。
「僕たち、これからどうなるのかな?」
「さあ? でも連中の扱いからなんとなく想像できるわね」
抑揚に富んだアミの声は、アーリの不安をかき消すように二人の間だけに響いた。
「どうなるんだい?」
質問の直後、今までより一層大きな揺れと共に水が跳ねる音がした。前ブレとはそんなものだろう。
「そうね。私は手と足しか縛られてないし、あなたはさっきの様子だと全身ぐるぐるでしょ? そうなると私は玩具、あなたはバラバラってとこかしら」
大きな揺れ一つ。あ――。
純粋の中の純粋、さらに純真無垢でジャスミンのような心のアーリはアミの言ったことが、家を失った時よりも、家族を失った時よりも、叔父夫妻に売られた時よりも、バッグを盗られた時よりも、誘拐された時よりもショックだった。
「大丈夫、アーリ?」
「あ、うん。だ、大丈夫」
しどろもどろな舌の回り。動揺は隠せない。
私は玩具――それはきっと最悪の意味だろう。アーリはいろんな意味で脳内信号が散り散りになるのがわかった。ハイスクールに入ってできた最初の友人は言ったものだ。「この本見ろよ。かの有名なポルノ劇団【悟りの悟り】の最新号、玩具にされる少女たちだぜ!」と。あの時だけは彼の一番の友人として小一時間説教をしたものだ。それがまさかこんな身近に発生してしまうとは……。
あなたはバラバラ――離れ離れになるってこと? 僕とアミが? いやいや、中身と外壁。臓物とその他。まあ、察しはつく。人身売買からより高度な、元気な悪人の私腹のために臓器提供。アーリは思う。ドナーカードは家と一緒に燃えたよ、と。
「ずいぶん動揺してるのね」
茶化すように言うアミは、言葉の端に笑みを含んでいた。
この非常事態で馬鹿にされたようなアーリは、言葉の端に角がついていた。
「そう言う君は、まるで慣れてるかのような言い方だね。誘拐されるのが趣味なのかい?」
地雷、といえば地雷だったかもしれない。後悔先に立たず。先人はいいことを言う。
揺れ、揺れ、揺れ。
アミが沈黙だったのか、何かを言ったのかは定かではない。
ただハッキリ聞こえたのは、
「もう何度目か忘れたわ」
「え、なに?」
「誘拐なんて野蛮なこと、もう何度目かなんて忘れたわ!」
ドーンッ。
荒げられるアミの声と、飛び跳ねるアーリの心臓。
「あ、アミ?」
「私の生まれは[陽昇の地]。ここから遥か極東にある小さな島国。両親は外交官でバリバリの犯罪撲滅派。私はその二人の娘。小さいころから誘拐、拉致、監禁、大抵の人質としての役柄を演じてきたわ。今回も同じよ」
怒りや悲しみ、というよりは後悔や焦燥といった意味の方が、今のアミには強かった。
「趣味と言えば、趣味かもね!」
麻袋越しに聞こえているはずなのにアーリの耳には真正面で言われているように感じられた。朝起きたら知らない人たちに囲まれている恐怖。それはきっと想像もできない恐怖だろう。
アミはそれを小さいころからずっと感じてきた。
もしかしたら地雷よりも危険なものを踏んだかもしれないアーリは、
「アミはすごく遠くから来たんだね」
「はあ? フツーはつっこむべきところはそこじゃないでしょ! もっとこう『そんな辛い過去があったんだ。失礼なこと言ってごめん』とか『元気だしなよ。僕も似たようなものだから』とか、いろいろ言うべきことがあるでしょ!」
怒鳴られながらゲシゲシと腰を蹴られまくるアーリ。ビキッと音がした、気がした。
「ご、ごめんよ。あ、ちょ、そろそろ止めてくれよ。なんだか腰が、変な感じに痛いんだけど」
「うるさい! なんであなたはそこまで普通なのよ。言うこともやることも」
「それしかないからだよ」
「え、どういうことよ?」
アミの不意を突かれた呟きと同時に、猛烈な足連撃がぴたりと止む。
アーリは普通に、今までのことを話した。
「僕はいたって普通だってことさ。普通に街に暮らしていて、普通に強盗に家も家族も奪われて、普通に引き取られた叔父さん夫婦に売られて、普通に誘拐された。アミと似たようなものだよって言ったらまた怒るかな。ごめん。失礼だったよね」
どこまでもいたって普通に言うアーリに、アミは少なからず考えさせられた。
純粋真っ当普通なただの偶然誘拐されそうになって自分と会って、その後普通に誘拐されてここまで来たと思っていた普通の少年に、まさかそのような過去が隠されていようとは。
本当は不安で不安でたまらないはずの二人。
初めて会った時感じた、二人なら何とかなるかもしれないという根拠のない安心感。
似た境遇であると言えば、似た境遇。違うと言えば全く違う。月とすっぽん。これは違うな。
軽くコツンと、何かを伝えたいよ、と言いたげにアミはアーリの腰を蹴った。
「なに?」
「ごめんなさい」
へそ曲がりがいやいや謝るように、小学生同士のけんかの後のように、アミはそう言った。
物に例えるなら風船。もしくは台所に落ちて崩れた豆腐。感情に例えるなら――フクザツ。
「僕も、ごめん」
そっと体を反らせてアミに接触。直後の鈍い痛み、以下同文。
嫌なことは水に流して、明るく振る舞おう。
「あ――、悔しいな。女の子に先に謝られちゃったよ。こういう時は男から謝るべきだと僕は思うんだけどね」
「なによそれ。あなたなりのテツ学ってやつ?」
「かもね。少なくとも僕はそう思ってる――うッ!」
真横への強烈な重力加速。見えない力に吹き飛ばされる、少しの浮遊感。
二人を乗せたトラックは急ブレーキを伴って停車した。
重厚な荷台の扉が開けられる。麻袋越しに光がうっすらと、柔らかく差し込んだ。
「これからどうなるんだろうね」
荷台から降ろされながら、アーリはどこか楽しげに聞いた。
「さあ、でも、なんとかなるんじゃない? 私たちなら」
「やっぱりそう思う? 僕もだよ」
二人はやはり、根拠のない安心感の中で、形のない希望を感じていた。